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作者: 有栖川 幽蘭

七月に入り、梅雨の名残である湿気と、夏の兆しである熱気が、部屋の空気の中で不愉快に混じり合っていた。私は、そんな粘りつくような空気の中で、ただ、書けないという事実だけを、飽きもせず反芻していた。言葉は、湿気を吸った綿のように重く、思考の井戸は、とうに涸れ果てている。


そんな私の、停滞した時間のなかに、ふと、一匹の獣が入り込んできた。


どこから迷い込んだのか、一匹の痩せた猫が、私の家の縁側に住み着くようになったのだ。それは、巷で可愛がられるような、ふくふくとした愛玩動物ではなかった。毛並みは所々ごわつき、片方の耳の先は、喧嘩の痕だろうか、小さく裂けている。その体躯は、無駄な肉を一切削ぎ落とした、生きるためだけの機能美を持っていた。


私は、書斎の硝子戸一枚を隔てて、その猫を眺めるのが日課となった。


猫は、私に何も求めなかった。餌をねだるでもなく、甘えた声を出すでもない。ただ、そこに「在る」だけだった。日当たりの良い場所を見つけては、泥のついた体を器用に丸め、眠る。その眠りは、深く、安らかで、何の憂いもないように見えた。私が、ここ数ヶ月、一度として得たことのない種類の眠りだ。


時折、猫は私の方を向くことがあった。陽光の下で、その瞳は金色に輝き、瞳孔は一本の黒い線にまで収縮する。その視線は、私の内側を見透かすようでありながら、その実、私という存在など全く意に介していない、絶対的な無関心に満ちていた。その目が見ているのは、私ではなく、私の背後にある空間か、あるいは、人間には見ることのできない、時の流れそのものなのかもしれない。その計り知れない「他者性」の前に、私はいつも、言葉を失うのだった。


ある日の午後、事件は起きた。


猫が縁側で微睡んでいた時、一匹の大きな油蝉が、けたたましい羽音を立てて、すぐ側の柱に止まった。じじじ、と鳴り響くその声は、私の腐りかけた神経を苛んだ。


その瞬間、眠っていたはずの猫の体が、まるで鋼のばねのように、ぴんと張り詰めた。耳が音のする方へとぴたりと向き、金色の瞳が、ゆっくりと見開かれる。それはもはや、午睡を楽しむ閑人の目ではなかった。獲物だけを映す、冷徹な狩人の目だ。


次の瞬間、猫の体は、音もなく宙を舞った。それは、私が目で追うのがやっとの、しなやかで、一切の無駄がない、完璧な運動だった。前足が、蝉の体を正確に押さえつける。蝉は、最後の力を振り絞り、悲鳴のような羽音を立てた。


猫は、その蝉を、すぐには殺さなかった。前足で弄び、弱らせ、その生命が尽きかけてゆく様を、まるで検分でもするかのように、静かに見つめている。それは、残酷という言葉では片付けられない、生命が生命を弄ぶ、荘厳で、そして恐ろしい儀式のように見えた。


やがて、蝉が完全に動かなくなると、猫は、その亡骸に興味を失ったかのように、ふいと顔を背けた。そして、何事もなかったかのように、血もついていないであろう前足を、丁寧に、執拗なまでに舐め始めたのだ。殺戮の後の、静謐な身繕い。その、あまりにも自然な移行のなめらかさに、私は激しい眩暈を覚えた。


この獣には、葛藤がない。後悔も、憂鬱もない。ただ、生き、狩り、眠る。その単純で絶対的な生の肯定の前に、言葉を捏ね回し、意味を問い続け、何も生み出せずにいる私という存在は、なんと滑稽で、不自然なことか。


猫は、やがて身繕いを終えると、私の方をちらりと見た。いつもの、何も語らない、空っぽの視線。そして、すっくと立ち上がると、塀の向こうへと、しなやかな足取りで消えていった。


後には、夏の強い日差しと、蝉の小さな亡骸と、そして、圧倒的な沈黙だけが残された。私は、縁側に転がったその黒い亡骸を、硝子戸のこちら側から、ただ、いつまでも見つめていた。

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