偵察魂
もしかして……、
考子は考え込むような表情を浮かべた。
生理が遅れているのだ。
今まではほぼ28日周期で規則正しくやってきたのに、それがないのだ。
なんだか熱っぽいし、とても眠たいし……、
間違いないと思った考子は買い置きしていた妊娠検査薬を箱から取り出して、トイレに入り、紙コップに尿を採った。
そして、その中へ検査薬を10秒つけた。
それを折り畳んだトイレットペーパーの上に置いて、3分待った。
終了という窓を見ると、縦に棒線が出ていた。
その横の判定の窓にも縦の棒線が出ていた。
授かった……、
そのサインを見た瞬間、嬉しいというよりもホッとしたような気持ちになった。
ガッツポーズが出るかと思ったが、ボーっとした状態で縦の棒線をただ見つめることしかできなかった。
しっかりしなきゃ!
考子は自らに喝を入れて、検査薬の説明書を詳しく読んだ。
そこには、『妊娠反応が認められましたので、できるだけ早く産婦人科の医師の診断を受けてください』と書かれてあった。
そうだった。
これはあくまでも補助的な検査薬なので、確定診断は産婦人科でしなければならないのだ。
すぐさま産婦人科へ電話を入れて予約を取った。
そこは出産経験のある親友が紹介してくれた病院で、ネット上での評判も良かったし、女性医師ということも安心材料だったので、妊娠がわかったら受診することに決めていたのだ。
実は、夫の新は産婦人科医なのだが、たとえ妊娠の診断であっても妻の診察はしたくないと断られていた。
平常心で診ることができないというのが理由だった。
多くの医師が同じだそうだ。
例え名医と呼ばれている医師であっても、身内の診察は緊張するということらしい。
「医者も人間だからね」と言った時の新の苦笑いを考子は思い出した。
*
考子が受診した産婦人科の院長は40代半ばくらいの女性医師だった。
夫以外の男性に下腹部や性器を見られるのは嫌だったので、安心して診察を受けることができた。
「初めてですか?」
考子の緊張をほぐすように笑顔で優しく声をかけてくれてから、問診が始まった。
最終の生理日や現在の症状、薬の服用履歴などを聞かれた。
「尿検査をしますね」
医療機関向けの妊娠検査薬で再度尿検査を行った。
「尿検査が陽性でしたので、超音波検査をしましょう」
それを聞いてちょっと身構えたが、それを察したのか、丁寧な説明が続いた。
「この経腟プローブを膣の中に挿入して赤ちゃんの様子を見ます。それに加えて、子宮と卵巣の具合も見ます。この検査は初めてということなので不安がおありだと思いますが、心配いりませんので力を抜いてリラックスしてください。ちなみにこの経腟プローブはきちんと消毒していますし、コンドームを装着していますので、ご安心ください。ただ、人によっては挿入時に痛みを感じることがあるかも知れませんので、その時には遠慮なく申し出てください」
考子は下着を脱いだあと、内診台に乗り、スカートをたくし上げ、足を広げた。
緊張と恥ずかしさでドキドキしてきたが、自分と医師の間にカーテンが降ろされていて、自分の下半身が見えないようになっているので、時間と共にその恥ずかしさは薄れていった。
検査が始まった。
プローブの先端が触れると、ひんやりと感じた。
中に入ってきた。
違和感があったが痛みはなかった。
首を傾けて画面を見ると、何かが映っていた。
とても小さな何かが。
「おめでとうございます。赤ちゃん元気ですよ。ほら心臓が動いているでしょう」
医師の説明を受けて目を凝らせた。
子宮の中に小さなものが映り、その中の小さな点のようなものが動いているようだった。
しかし、感動で目が潤み、次第にその姿がぼやけてきた。
考子は目を瞑った。
あぁ~、私の赤ちゃん。
私の中で芽生えた命。
かけがえのない宝物。
感動の波が幾度も押し寄せてきて、異次元の世界へ誘われた。
今までの人生とまったく違う景色が見えていた。
命を授かるとはこういうことなのだ。
もう自分一人の体ではないのだ。
子宮というゆりかごで赤ちゃんを大切に育てるという素晴らしい役割が与えられたのだ。
それはつまり人生が180度変わるということなのだ。
考子はしみじみとそう思った。
でも、感動に浸る時間は長くなかった。
検査はほんの数分で終わったのだ。
現実に戻った考子は下着を身につけ、内診台を降りた。
「記念にお持ちください」
赤ちゃんが写ったエコーの写真を手渡された。
その写真を見る考子の目にはもう涙はなかった。
母性に満ちた明るい火が灯っていた。
*
「どうしたの? 何かあったの?」
ニコニコしている考子を見て、帰宅した新は不思議そうに顔を覗き込んだ。
「いいことあったんだ。何? 何?」
考子の両手を持って、左右にゆらゆらと揺らせた。
「教えてあげないよ~ダ」
考子は甘えた声でイヤイヤの振りをした。
「なんだよ~」
新がふくれっ面の真似をすると、考子は右手の人差し指で新の鼻をチョンと突いた。
「当ててみて」
考子はニコッと笑った。
「そう言われても……」
新は何も思いつかなかった。
「焦らすなよ」
自分の鼻を考子の鼻にくっつけて至近距離で目を覗き込んだ。
「あのね」
考子は新から体を離して自分のお腹に手を当てた。
「コウノトリさんがね」
その途端、新の目が大きくひん剥かれた。
「できたのか⁉」
考子が大きく頷くと、「ヤッター」と喜びを爆発させた。
そして、「でかした!」と叫んで考子を強く抱きしめた。
「ヤッタ、ヤッター」と叫んで考子の背中を叩こうとした。
しかし、すんでのところで止めた。
危なかった。
背中を叩くなんてとんでもないことだ。
彼女の中で芽生えた宝物に影響があってはならない。
新は考子の背中にそっと触れて、上下にゆっくりと撫でていった。
そして、今度は労わるように優しく抱きしめた。
「ありがとう……」
感極まった新の想いがひとしずく頬を伝わった。
*
しばらく経って冷静になった新が出産予定日を聞いた。
「9月10日だって」
「そうか、9月か~」
「乙女座よ」
「ふ~ん」
新は星座に関してはチンプンカンプンだった。
「誕生石はブルーサファイアで、誕生花はペチュニアやユリやスイセンなんだって」
「ふ~ん」
まったくイメージが湧いてこない新はスマホで検索を始めた。
「9月生まれの有名人は……、ミケランジェロに伊藤博文に二宮尊徳に正岡子規にアガサ・クリスティーに聖母マリアに吉田茂か~、結構すごい人がいるな」
芸術に良し、文学に良し、政治に良し、とブツブツ言いながらなおも検索結果を見続けた。
すると、「安室奈美恵もそうよ!」と考子は自分のスマホ画面を新に向けて「Can you cerebrate♪」と御機嫌な調子で口ずさんだ。
そして、いきなりくるっと回った。
*
東京都の23区内に住んでいる考子は、住居地の区の保健相談所のホームページを見ていた。
母子手帳の交付をしてもらうためだ。
何箇所かある中から最寄り駅に一番近いところを選んだ。
その翌日、9時前に保健相談所に着いた考子は、すぐに窓口に行って母子手帳の交付を依頼した。
「この妊娠届に記入してください」
丸顔で感じの良さそうな中年女性から用紙を渡された。
本人氏名や夫の氏名、住所や妊娠週数、出産経験、医師の診断、それに性病や結核に関する健康診断の有無まで書くようになっている。
一番下にはマイナンバーの記載箇所もあった。
間違いのないように慎重に記入していき、それが終わると下欄にあるアンケートの質問項目を確認した。
妊娠がわかった時の気持ちや分娩予定施設に加えて里帰りの予定などの項目もあった。
これは差しさわりのないところだけを記入して提出した。
担当者による記入内容の確認が終わると、いくつかの物を渡された。
母子健康手帳と出生通知表に加えて母と子の保健バッグというものがあり、色々な受診票が入っていた。
妊婦健診診査受診票、
妊婦超音波検査受診票、
妊婦子宮頸がん検診受診票、
新生児聴覚検査受診票。
そして各種案内も同封されていた。
母親学級・パパとママの準備教室のご案内、
妊産婦歯科検診のご案内、
里帰り出産等妊婦健康診査費助成のご案内、
子育て応援ハンドブック、
父親ハンドブック、
マタニティストラップ等々。
覚えなければいけないこと、勉強しなければいけないことがいっぱいあった。
そのせいか、「ふ~」と聞こえてしまうようにため息をついてしまった。
それを耳に留めたのだろう、担当者はくすっと笑って「一つずつ、少しずつ、ゆっくり確認していってください」と優しい眼差しを投げかけてくれた。
そうですね。出産までの長い旅が始まるのだから、今から気が急いていたんじゃ持たないですよね。わかりました。焦らずゆっくり一つずつ確認していきます。
心の中で呟いた考子は担当者に目礼をして保健相談所をあとにした。