偵察魂
「あっ」
考子は驚いてお腹を押さえた。
「どうしたの?」
心配そうに新が覗き込んだ。
「感じた」
「えっ、何が?」
「赤ちゃん」
「赤ちゃんって……」
考子がにっこりと笑った。
「私のお腹を蹴ったの」
「えっ、本当? どこ、どこ?」
新は考子が押さえている場所にそっと手を置いた。
しかし、何も感じなかった。
しばらく手を置き続けたが変化はなかった。
「疲れて寝ちゃったかな?」
新はそっと手を離したが、その手を考子の肩に置いて笑みを浮かべた。
「良かったね、感じられて」
「うん、すごく嬉しい。ここに赤ちゃんがいるんだって感じることができて、すっごく幸せ。そしてとっても愛しい。だから守ってあげたいって、本気で守りたいって、心の底からじわ~っと湧き出てきているの。わかる?」
新は何も言わず考子のお腹に服の上から口づけた。
そして、「ママを幸せにしてくれてありがとう」と囁いた。
*
赤ちゃんにお腹を蹴られた1週間後、考子はお腹を擦りながらハミングをしていた。
『クラシック子守歌メドレー』と題されたCDをかけながら、フンフンと口ずさんでいた。
それはショパンから始まり、モーツァルトになり、ブラームスへと続いた。
今日は新が当直の日なので、早めに夕食を済ませてソファにゴロンと横になって、このCDをかけ続けていたのだ。
「胎教は大事なのよね」
独り言ちてまたハミングをし始めたが、すべての演奏が終わると、別のCDにかけ替えた。
『クラシック名曲メドレー』というタイトルのCDだった。
バダジェフスカ作の『乙女の祈り』が始まった。
ソファに座って聴いていた考子は目を瞑り体をゆっくりと左右に揺らしながら、「女性が作曲しただけあって調べが優しいのよね」と頷いた。
ベートーベン作の『エリーゼのために』が始まった。
彼が40歳の頃に作曲したこの曲はとても愛らしいので、お気に入りリストの上位に入っている。
「力強いベートーベンもいいけど、この優しいベートーベンが一番好き」と微笑んだ。
曲が変わると、思わずウットリとした声が出た。
「なんて素敵な……」
シューマン作の『トロイメライ』だった。
優しいタッチで弾かれるピアノの音が考子を夢想の世界へ誘った。
そして、リスト作の『愛の夢:第3番』が始まると、本当の夢の世界に入っていった。
ふと気づくと1時間近くも眠っていた。
その間、赤ん坊の頃に戻った自分とお腹の中の赤ちゃんがお遊戯している夢を見ていた。
とても幸せな夢だった。
考子は大きく背伸びをしたあと、CDを入れ替えた。
音楽以外の胎教をするためだ。
スピーカーからは英会話が流れてきた。
「クラシック音楽だけじゃなくて、留学しても困らないように英会話もいっぱい聞かせてあげるね」
お腹に向かって優しく語りかけた。
英会話のCDが終わっても、お腹を擦りながら尚も語りかけ続けた。
新から「君の心音が聞こえているはずだから、ゆったりと穏やかな気持ちになることが大事だよ。君の心音が安定すると胎児も落ち着くからね。それに、君の声も聞こえているはずだから優しく話しかけてあげると喜ぶと思うよ。それから、素敵な音楽を聞かせてあげることもいいかもしれないね。外からの音はまだよく聞こえないし、音楽の素晴らしさはわからないかもしれないけど、君が好きな音楽を聴いて幸せな気持ちになれば胎児も幸せな気持ちになると思うんだ」と聞いていたので、赤ちゃんにお腹を蹴られた日からお腹に向かって一生懸命語りかけたり、クラシック音楽や英会話を聞くことが日常になっていた。
新から借りた専門書を読むと、『胎教とは、生前教育ではなく、ママがリラックスできる環境を作って、赤ちゃんを気持ちよくしてあげること』と書かれていたが、でもそれだけではないはずだと考子は思っていた。
妊娠期間中に色々な事を教えてあげることも可能だと思っていたのだ。
だから、教育という観点に重きを置いていた。
中でも、アメリカに留学するかもしれないことを考えて、英語を聞かせることに多くの時間を費やしていた。
そして、もう少しお腹が大きくなったら進化生物学のことを話してあげようと考えていた。
新に医学の話をしてもらうことも考えていた。
「母親なら誰でも赤ちゃんのためになんでもしてあげたいって思うわよね」
考子はまた独り言ちてお腹に手を当てた。




