偵察魂(3)
「なんだこれ?」
4月21日の夕刊を読んでいた新が素っ頓狂な声を上げた。
考子がそれを覗き込むと、原油価格に関する記事が目に入った。
ニューヨークの原油先物市場で史上初めて価格がマイナスになったと書いてあった。
『5月物に投げ売り殺到!』の強調文字が踊っていた。
「マイナスってどういうこと?」
考子は書いていることが理解できなかった。
「僕にもよくわからないけど、1バレルがマイナス37.63ドルになったということは……、原油を1バレル買ったら37.63ドル貰えるということになるのかな?」
「えっ、それって、お金を付けて原油を売るってこと?」
考子はガソリンスタンドで灯油を買う場面を思い浮かべた。
1円も払わずに灯油を受け取って、その上更に店員から千円札を貰っている場面だった。
考子の頭はこんがらがってしまった。
「ありえない話だけど、そうなんだろうね」
新は狐につままれたような顔をしたが、それでもなんとか理解しようと新聞の記事を読み上げ始めた。
「新型コロナウイルスの影響で世界中の経済活動が停滞した結果、原油需要の激減を招き、その影響で在庫が急増した。それにより保管スペースが枯渇して買い手が付かなくなった。それを見たファンドが投げ売りを始めた。すると、1分で10ドル以上下落する場面もあり、午後2時過ぎには0ドルを割った。そして2時30分には一気にマイナス37.63ドルまで崩れた」
読み終わって状況が把握できた新が何度も頭を振った。
「大変なことが起こるかもしれない……」
頭の中には世界恐慌という文字がグルグル回っていた。
世界恐慌、それは、1929年10月24日の株価大暴落に端を発した異常な事態であり、瞬時に世界を恐怖に陥れたモンスターだった。
それが始まった場所は同じニューヨークだった。
株価は七分の一にまで急落し、銀行だけで6千軒が倒産し、失業者は1千万人を超えた。
人々は路頭に迷い、全財産を失った者は自らの命を絶つ道を選んだ。
いや、それしか選択肢がなかった。
絶望が支配する中で正常な判断ができるものはほとんどいなかったのだ。
新はそれを本で読んだことがあった。
『アメリカの死んだ日』というドキュメントだった。
書店で目にした瞬間、なんという恐ろしいタイトルだろうと思った。
それでも、買わずにはいられなかった。
家に帰ってすぐに読み始めたが、ページをめくるたびに恐怖を感じた。
それがまた蘇ってきて、震えのようなものを感じた。
同じことが起こるのだろうか?
ニューヨーク発の大恐慌が起こるのだろうか?
そうなったらどうなるのだろうか?
新の気持ちがどんどん沈んでいった。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
考子が心配そうに顔を覗き込んだ。
「なんでもない。大丈夫」
新は無理矢理笑みを浮かべて新聞から目を離した。
そして立ち上がって台所へ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターの2ℓボトルを出してコップに注いで、ゴクゴクと飲んだ。
でも、気分は晴れなかった。
未知のウイルスに翻弄される危機的な状況が頭から離れることはなかった。
経済への影響も心配だったが、それ以上に感染拡大に対する危惧が強かった。
今はワクチンも治療薬もないのだ。
自分の免疫だけで戦うしかないのだ。
しかし、抗体を持つ人はほとんどいない。
感染リスクは極めて高いのだ。
それを考えると、これから生まれようとしている我が子のことが心配でならなかった。
妊娠中の感染を免れたとしても、生まれた時の世界は今とはまったく違っているかもしれない。
それはどんな世界なのだろう?
どれほどの困難が待ち受けているのだろう?
考えても何も思い浮かばなかったが、どんな世界になったとしても一人で生き抜く力をつけさせなければならないことだけは明白だった。
だから、我が子の人生の道筋を明確に示してやることが親としての務めかもしれないと思った。
すると突然、専門性という言葉が頭に浮かんだ。
しかし、すぐに気がついた。
それは突然ではなく前々から心の奥底で考え続けていたことなのだと。
ミネラルウォーターをコップに注ぎ足して、それを一気に飲み干した。
コップをテーブルに置くと、新の表情が変わった。
そこには、暴風雨のさ中であっても敢然と進むことができる一本の道を見つけた救いのようなものが表れていた。




