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偵察魂(2)

 

 その日の夜、考子はルンルン気分で新の帰りを待っていたが、彼は不機嫌そのものの顔をして帰ってきた。

 こんな表情をして帰ってくるのは初めてだった。


「どうしたの?」


「いや、なんでもない……」


 彼は手洗いとうがいをするために洗面所へ行った。


 ゴロゴロゴロー、ブクブクぺーという音が聞こえてきた。

 そして、バシャバシャと顔を洗う音がした。


 いつもはうがいだけで顔は洗わないのに……、

 本当にどうしたのかしら……、


 心配する考子の横を通り抜けて、「着替えてくる」と言ってベッドルームに向かった。

 まだ不機嫌そうな表情が続いていた。



 リビングに入ってきた新はドスンとソファに腰かけた。


「どうしたの?」


 眉間に皺を寄せている彼の横に考子が座った。


「どうもこうもないよ。人が親身になって言ってあげているのに……」


 珍しく彼が舌打ちをした。


 考子はもう何も聞かなかった。

 職場で嫌なことがあったに違いないが、話したくなければ話さなくてもいいと思った。

 そして、落ち着くまで黙って横に居てあげようと思った。



 新がふ~と息を吐いた。

 気持ちを整理しているようだった。

 考子は新の左手の上に右手を重ねた。


 少しして、その上に新の右手が重なった。

 そして、病院でのことを話し始めた。 


        *


 今日最後の外来患者を診察した時のことだった。

 30代前半の初診患者だった。

 妊娠という結果を伝えて喜んでくれたまでは良かったが、そのあとに話したことをまともに聞かなかった。


 その話とは、妊娠中の注意事項としてアルコールや煙草を控えるようにという内容だったが、その女性は「アルコールとタバコを止めるくらいなら死んだほうがましです」と言ったのだ。


 新はびっくりしてあんぐりと口を開け、10秒くらいはその状態のままでいたが、ふと我に返って、呟くように問うた。


「死んだほうがましって……」


「だから、アルコールとタバコは止められません!」


 キッという目で睨まれたが、睨まれたことによって新は医師の顔に戻った。


「アルコールとタバコが胎児にどんな影響を及ぼすか、よく考えてください」


 新は胎盤の機能を詳しく説明した。


「胎盤はお腹の中の赤ちゃんに酸素や栄養を届けるという大事な役目を果たしています。

 免疫も伝えています。

 しかし、赤ちゃんに有益なものだけを通すわけではありません。

 有害なものも通してしまうのです。

 その代表的なものがアルコールとニコチンです。

 あなたが酒を飲んで酔っ払うと赤ちゃんも酔っぱらってしまいます。

 あなたが煙草を吸うと赤ちゃんもタバコを吸ったことになります。

 その時赤ちゃんは喜んでいると思いますか? 

 喜んではいません。

 嫌がっているのです。

 赤ちゃんの顔は歪んでいます。

 ひきつっています。

『ママ、アルコールとニコチンは嫌いだよ』って訴えているのです。

 そんな赤ちゃんの訴えを無視するのですか? 

 無視して赤ちゃんが大嫌いなものを与え続けるのですか!」


 そして医学書を開いて、『胎児性アルコール症候群』の説明をした。

 妊娠中の母親の飲酒が胎児や乳児の低体重、顔面奇形、脳障害などを引き起こす可能性があることを伝えた。


 それから、喫煙によって子宮内発育遅延が起こる可能性があること、流産や早産、前置胎盤(ぜんちたいばん)胎盤早期剥離(たいばんそうきはくり)などの異常が増加することを伝えた。

 早産率が喫煙本数と明らかな相関関係があることも伝えた。

 それだけでなく、妊娠早期に禁煙すれば胎児の体重は正常に近くなり、早産率も減少するので一日も早く禁煙した方がいいことも伝えた。


 しかし、納得するどころか、「アルコールとタバコは夫婦共通の趣味だからやめることはできないの!」と頬を膨らませた。


 新はムカッとしたが、それでもなんとか気を静めて、「ご本人が禁煙されることを強くお勧めします。その上で、ご主人も一緒に禁煙していただくことを併せてお勧めします。もしそれができないとしても、せめて妊婦さんの前では吸わないようにしていただきたいのです。お腹にいる赤ちゃんのためにも今日から禁煙に取り組んでいただけないでしょうか」と伝えた。


 でも、態度は変わらなかった。

 もう聞きたくないという顔で、「何を飲もうと何を吸おうと私たちの勝手なんだからほっといてよ」と吐き捨てた。


 その言い方にまたムカッとしたが、今度も気を静めて説得を続けた。

 但し、訴え方を変えるために、いま吸っている煙草を見せて欲しいと頼んだ。


 彼女は「なんで見せなきゃいけないの?」と嫌がったが、何度も求めると渋々バッグから取り出して差し出した。


 それを受け取った新は、箱に書かれている文字を指差しながら大きな声で読み上げた。


「たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう」


 それでも、反応はなかった。

 それが? というような顔をしただけだった。


 なんの変化もない彼女の反応にガッカリしたが、新は諦めなかった。

 箱を裏返して記載されている箇所を指差し、同じように大きな声で読み上げた。


「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります。疫学的な推計によると、たばこを吸う妊婦は吸わない妊婦に比べて低出生体重の危険性が約2倍、早産の危険性が約3倍高くなります」


 そして、いくらなんでも今度はわかってくれただろうと期待して彼女の顔を見たが、「もういいでしょう。早く返してよ」と煙草を奪い返してバッグにしまい、「もう帰っていい?」と嫌そうな声を発した。


 努力は無に帰した。

 もう何を言っても無駄だと諦めるしかなかった。

 新は虚無感に包まれて診察を終えた。


        *


「自分の快楽を優先して胎児のことを後回しにする妊婦は出産後に育児放棄をする危険性があるし、そんな女性に育てられた子供は社会性全般の発達が未熟になる可能性もあるからなんとかわかってもらおうと必死になって説得したけどダメだった。

 唯我独尊(ゆいがどくそん)というか独りよがりな性格の患者には何を言っても無駄なんだよ」


 新の大きなため息がリビングルームに悲しい響きを残した。



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