偵察魂
若い女性の体から偵察魂がふわっと浮き出て、空中に遊離した。
それはマンションの一室の天井近くにとどまって、あらゆるものを見下ろした。
突然、ぶるっと震えた。
体内にいる卵子に報告する準備が整ったのだ。
しかし、偵察魂は自らの言語を持っていなかった。
だから、状況を言語にして的確に説明することはできなかった。
そのため、捉えた映像と音声をそのまま送り届けることしかできなかった。
ただ、それは単なる映像と音声ではなかった。
偵察魂が見た人物の心を写し取り、心の声を読み取ることができるものだった。
だから、映像と音声を受け取った卵子はその人の言動だけでなく、何を見て、何を思い、何を考えているのかまで把握することができた。
更に、その背景や過去の出来事まで掴むことができた。
あらゆる情報が送り届けられることになるのだ。
偵察魂がゆっくりと降下し始め、2人の人物に近づいた。
それは将来のママとパパになる人物だった。
またぶるっと震えた。
その瞬間、卵子への送信が始まった。
*
「うまくいったかしら?」
主考子が夫の顔を覗き込んだ。
「どうかな? でも、いい予感がする」
主新が自信ありげに頷いた。
2日間の愛の契りを終えた2人はベッドで微睡んでいた。
「どっちがいい?」
「どっちって……、気が早いな。それより今は君の分身に僕の分身が巡り合っていることを祈るだけだよ」
「そうね。多分というか、絶対大丈夫だと思うわよ。だって、びっくりするくらいあなた元気だったから。うふ♡」
考子は思い出し笑いをしながら新の胸に顔を埋めた。
そして彼の乳首をいじくりながら、「ねえ、巡り合ったら挨拶とかすると思う?」と意味ありげに彼を見上げた。
「挨拶か~。そうだね、初対面だから『初めまして』って言ったりして」
すると、ふふっ、と考子が笑ったが、すぐに心配そうな表情に変わった。
「私の分身はちゃんと返事ができているかしら」
「大丈夫だよ。『お待ちしておりました』って三つ指ついているよ」
「まあ、結構古風なのね」
考子がクスクス笑って抱きついてきた仕草があまりに可愛くて、新はギュッと考子を抱きしめた。
そして、唇を重ねたまま誘いの言葉を発した。
「もう1回する?」
考子は思わず目を見開いたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて、唇を合わせたまま魅惑的な声を発した。
「2回でもいいわよ♡」
*
「昔はね」
腕枕に頭を乗せて気持ち良さそうにしている考子に話しかけた途端、新が突然笑い出した。
「何? なんなの?」
気持ち良い余韻から現実に引き戻されて頬を膨らませた考子が彼の鼻をつまんで左右に揺すった。
「ごめん、ごめん。いや、学生の頃に習ったことを急に思い出して可笑しくなってさ」
蘇った記憶にまた腹を抱えた。
「もう、勝手に思い出して、勝手に笑って」
考子が彼の上唇を抓るふりをした。
「ははは。ごめん、ごめん。ちゃんと話すよ。実はね、ほんの少し前までは〈せいき〉というものが妊娠に関係していると思われていたんだよ」
すると考子は〈なに言ってるの?〉というように目を見開いた。
「思われていたって、なんで過去形になるわけ? 男性器と女性器が結合して、その結果精子と卵子が出会って妊娠するわけだから性器が関係しているのは当然のことじゃないの?」
「あっ。ごめん。そっちの〈せいき〉じゃないんだ。僕が言っているのは、〈精気〉のこと」
「えっ?」
「二百数十年前までは、セックスという行為を通じて男性が女性に精気を注入することで妊娠が成り立つと思われていたんだよ」
「それって……」
「うん。精子と卵子の役割がきちんと認識されていなかったんだ」
「へ~」
「それを証明したのがイタリア人の牧師なんだけど、1780年に犬を用いた人工授精を成功させたんだよ。つまり、セックスをしなくても、男が精気を注入しなくても、妊娠が成立することを証明したんだ。精子と卵子が結びつけば、それだけで妊娠が可能であることを証明したんだよ」
「そうなんだ~」
「科学の進歩によってそれまでのいわゆる常識が覆されて真実が明らかになるわけだけど、現代においても迷信のようなことが信じられていることは多いよね。実際、外来に来る妊婦の中にはネットで調べた非科学的な情報を信じている人も多いんだよ」
「確かに。ネット上ではありとあらゆる情報が溢れていて、どれが本当のことかわからなくなることがあるわ」
「そうなんだよ。まことしやかなウソも結構多いからね。気をつけなければね」
「ところで、話は戻るけど、私は精気って重要なんじゃないかと思うの。だって、万物を生成する天地の気のことでしょう? 絶対必要だと思うわ。男性は単に精子を送り出せばいいのではなくて、精子と共に万物を生成する天地の気を一緒に送り出すべきなのよ。違う?」
違わないわよね、というふうに人差し指で新の鼻を突いた。
「ちゃんと答えてね。あの時、私にしっかり精気を注入してくれた?」
「えっ?」
「あなたの精子が私の卵子に届くように、気合を込めて精気を注入したのかって聞いているの」
どうなの? というように考子が顔を近づけると、新はニヤッと笑ったあと、耳に口づけるようにして囁いた。
「もちろんだよ。〈光り輝く未来〉という名の精気を送り込んだよ」




