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偵察魂(3)

 

 2月3日、イギリス船籍のクルーズ船『ダイヤモンドプリンセス号』が横浜に帰港した。

 1月20日に出港してから、鹿児島、香港、ベトナム、台湾、沖縄に立ち寄って、2週間ぶりに戻ってきたのだ。


 しかし、ただ戻ってきただけではなかった。

 大変なものを連れてきたのだ。

 それが未知のウイルス、新型コロナウイルスだった。

 乗船していた80歳の男性がこのウイルスに感染していたことが判明したのだ。

 その男性は既に香港で下船していたが、乗船中に咳などの症状を呈していたことから乗客への感染が強く危惧された。

 そのため、発熱などの症状を有している人や濃厚接触の可能性がある人を対象に船内で検査が行われた。

 そして、乗客の下船を見合わせる旨の発表が為された。


 2月5日、検査結果が公表された。

 10名が感染していた。

 集団感染が起こっていた。

 至急対応が協議され、彼らは全員、神奈川県内の指定医療機関へ搬送されることになった。


 大変なことが起こりそうだった。

 なにしろこの船には3,700人を超える乗客乗員が乗っているのだ。

 それも船内という限られた空間の中で飲食や娯楽、運動を共にしているのだ。

 感染者が10名で終わるわけがなかった。


 それに、乗客乗員は日本人だけではなかった。

 アメリカ人が88人、フィリピン人が54人、カナダ人が51人、オーストラリア人が49人など、28の国と地域の人が乗っているのだ。

 感染がどこまで広がっているのかということが最も深刻な問題だったが、この人たちをどうするのかということもそれに劣らず大問題だった。


「大変なことになりそうね」


 テレビに釘づけになっていた考子が表情を曇らせた。


「ここで食い止められるかどうか、それが感染拡大防止の瀬戸際だな」


 新は眉間に皺を寄せた。


「大丈夫かしら?」


「さあ、わからない」


「私が妊娠した時にこんなことが起こるなんて……」


 考子は泣きそうになった。

 すると、心配した新が優しく抱き寄せて、耳元に口を寄せた。


「大丈夫だよ。心配しなくていいからね。僕が全力で守るからね」


 皇太子さまが雅子さんにプロポーズした時のような言葉が新の口から発せられた。


「ありがとう」


 胸が詰まった考子はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。

 新の顎の下に顔を埋めて彼の拍動に抱かれ続けた。


        *


 2月7日、ネットでニュースを見ていた考子が右手で口を押えて悲痛な声を漏らした。


 そんな……、


 中国の医師が死亡したニュースだった。

 あの眼科医だった。

 SNSで警告を発した武漢市の眼科医だった。

 未知のウイルスによる肺炎で死亡したと報じられていた。


 それだけでもショックなことだったが、そのあとに書かれていた内容が考子の心を凍らせた。

 それは奥さんのことだった。

 2人目の子を身籠っていたのだ。妊娠5か月と書かれていた。


 ということは、あと半年も待たずに可愛い我が子を抱けるはずだったのだ。

 新たな家族を迎えての幸せな家庭生活が始まるはずだったのだ。

 しかし、その夢はもろくも崩れ去ってしまった。

 幸せの絶頂から不幸のどん底に落とされてしまったのだ。


「なんでこんなことが……」


 呟きと共に流れ落ちる涙を止めることができなかった。

 本来なら彼はヒーローになるはずだった。

 彼の警告をまともに聞いて感染拡大を初期段階で止めることができていたとしたら、人類を未知のウイルスから救った救世主ともなり得たかもしれないのだ。


 それなのに彼はなんの評価もされず、その上、隔離されて一人寂しく死んでいった。

 妻にも子にも会えず、親族にも会えず、孤独な最期を迎えさせられたのだ。


 なんと言うことだろう、


 考子は彼の無念に心を寄せた。

 34歳の前途は洋々だったはずだ。

 生きていれば数多くの患者の病気を治せたはずだ。

 そして、多くの患者や家族から感謝されたはずだ。

 しかし、それはもう敵わない。

 この世に存在することさえ許されなかったのだ。


 奥さんの無念にも心を寄せた。

 夫が病魔に襲われるまでは幸せな毎日を送っていたはずだ。

「いってらっしゃい」「お帰りなさい」と笑顔であいさつを交わし、抱擁し、キスを交わしていたのかもしれない。

 夫の大好物のサーモンの刺身を食卓に出していたかもしれない。

 いつか家族で行きたいと願っていた万里の長城への旅行を夢見ていたかもしれない。


 しかし、その最愛の夫は目の前から突然姿を消してしまった。

 もうこの世にいないのだ。

 あとに残ったのはまだ5歳の幼い子供と、父親の顔を見ることができないお腹の赤ちゃんだけなのだ。


 自分だったら耐えられない……、


 考子の顔が苦悩で歪んだ。

 同じように医師を夫に持ち、同じように身籠っているのだ。

 心痛が手に取るようにわかって心が破壊されそうになった。


 もうこれ以上そのニュースを見ることはできなかった。

 画面を消してテーブルにスマホを置き、新の顔を思い浮かべた。


「死なないでね」


 彼が勤務する病院の方角へ向けて祈りを捧げた。



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