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偵察魂(1)

 

「もうそろそろ胎児ちゃんになった頃かな?」


「なんのこと?」


「胎芽の状態から胎児の状態になったということだよ。つまり、人間らしくなってきたっていうこと」


「ふ~ん」


 首を傾げた考子は、自分の子供のことを胎芽とか胎児と呼ぶ新のことが不思議でならなかった。

 産婦人科医だから仕方ないのかも知れないけど、家に居る時くらいは赤ちゃんって呼べばいいのに、といつも思っていた。


「ところで、続きを聞かせてよ」


「えっ、続きって?」


 新はそれに答えず、膝の上の本を指差した。

『EvolutionaryBiology(進化生物学)』という本だった。

 考子の蔵書を本棚から引き抜いてきていた。


「人間の体には色々な先祖の名残があちこちに残っているって書いてあるからさ。わかりやすく教えてよ。この本はちょっと専門的というか学術的過ぎてとっつきにくいんだよね。それに英語だから専門用語が出てきたらお手上げでさ。辞書を引いてもよくわからないし」


 頭をボリボリかいてねだるような視線を考子に向けた。

 子供ができるまでは考子の専門分野に余り興味を示さなかった新だったが、妊娠してからは暇を見つけては考子の蔵書をパラパラめくるようになった。

 それだけでなく、関心のある個所に(しおり)を挟んで夕食後の話題にするのが日課になっていた。


 考子は新の変わりようが嬉しかった。

 考古学や進化生物学を共通の話題にしようと努力してくれる彼の気持ちに深い愛情を感じた。

 絆が更に深まったように感じて嬉しかった。

 だからウキウキしてすぐに話したくなったが、それでは面白くないと思い直した。


「何から話そうかな~」


 わざともったいぶった言い方をして新の反応を見たが、その手には乗らないよ~というような顔をして彼はニコニコしていた。


「どっしようかな~」


 今度は歌うような言い方をしてもう一度焦らした。


 すると、新が突然カウントダウンを始めた。


 10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0、GO!


 考子はその声に反応するように、喉の奥で止めていた言葉を速射した。


「耳の中にサメの顎が発生するって知ってた?」


 新は思わず耳に手を当てて何か考えているようだったが、小さく(かぶり)を振った。


「生物に初めて顎ができたのは4億年くらい前で、それがサメの先祖だったの。その後、爬虫類や哺乳類という系統になっていくとメッケル軟骨という顎の骨がどんどん後方に追いやられていって縮小退化していくんだけど、その名残が妊娠4週目頃に現れるの」


「へえ~、サメの顎がね~。ところで4週目の胎芽のどの部分にその名残が出るんだい」


「だから耳なのよ。中耳にあるツチ骨とキヌタ骨とアブミ骨がその名残なの」


 新はこれ以上は開けないというほど目をまん丸くした。


「サメの顎が、人間の中耳に……」


 自分の顎を触って、それから耳に手を当てた。


「耳に関してはもうひとつ面白いことがあるわよ。耳の穴はエラの穴の名残なのよ」


「は~?」


 今度は、これ以上は無理というほど大きく口を開けた。


「水の中で生活している間はエラが必要だったけど、上陸したら必要なくなるわよね。だからエラは消失したんだけど、その跡に切れ込みができて、そこに鼓膜が張るようになったの。そして酸素を含んだ新鮮な水を取り入れていた呼吸孔が耳の穴になったのよ」


「つまり、魚のエラや呼吸孔が長い進化を遂げて人間の耳の構造になったってわけだね。凄いな~」


 新はゆらゆらと首を横に振った。


「そうなの。ついでに言うと、魚類にあった内耳の一部が拡大して中耳が加わったのが両生類で、爬虫類の段階になると外耳道ができて、哺乳類になって初めて耳介ができたの。だから〈いわゆる耳〉を持っているのは哺乳類だけなのよ。哺乳類の前に1億6000万年ものあいだ君臨していた恐竜はあんなに体が大きいのに耳はなかったのよ。だって彼らは爬虫類だからね」


 新はティラノサウルスやトリケラトプスの姿を思い浮かべたが、確かに耳を見たという記憶がなかった。


「恐竜の耳というのはどうなっていたの?」


「単に穴が開いていただけよ」


「穴だけ?」


「そう。目の後ろ側に小さな穴が開いていて、そこから音を拾っていたの」


「そんなんでよく聞こえたのかな?」


「どうかしら? でも、私たち人間とは聞こえ方が違っていたことは確かね。集音の役割をする耳介がないから聞こえる範囲がとても狭かったみたいなの。だから限られた音域と音質しか聞こえなかったんじゃないかと言われているわ」


「ふ~ん。それでもあれだけ長いあいだ君臨できたんだから凄いよね」


「まあね。その当時は敵になるような存在がいなかったから、多少聞こえが悪くても問題なかったのかもしれないわね。だって今でもワニは最強の王者の一つだけど、彼らにも耳介はないからね」


「そうか……。そうだな、確かに」


 ワニが狩りをしている姿を思い浮かべた新は考子の説明に納得したが、突然、耳介のあるワニを想像して笑ってしまった。


「なに笑っているの?」


「いいや、なんでもない」


 含み笑いをする新を不思議そうに見ていた考子だったが、話を戻すために咳払いを一つした。


「恐竜の話が出たついでに爬虫類に関することで言うと、トカゲの名残も私たちの体の中に残っているのよ」


 次はトカゲと来たか、とその姿を想像するような目になった新は、考え込むように腕組みをした。


「その名残はどこにあるの?」


「脳よ」


「脳?」


「そうなの。トカゲの目の名残が脳の中にあるのよ」


 新は自分の頭に手を当てて、何処だろうと探るように動かした。


「その名残は松果体(しょうかたい)なの」


「松果体って、メラトニンを分泌する、あの松果体?」


「そう。睡眠に大きく関与するホルモンであるメラトニンを分泌するところ。睡眠と覚醒のリズムの調整をしているところよね」


「そこがなんでトカゲの目の名残なの?」


「それに答える前に一つ質問です。トカゲに目はいくつあるでしょうか」


「2つ」


「ブー。3つです」


「えっ、3つ?」


「そうです。3つです。トカゲって地面に這いつくばって生きているわよね。だから左右の眼だけでは辺りを警戒することができないのよ。そこで頭のてっぺんにある神経節が発達して目の役割を果たすようになったと考えられているの。それが頭頂眼(とうちょうがん)よ」


「へ~、そうなんだ~」


 新はじっとしたまま両目をめいっぱい上に向けた。

 しかし、眉毛さえ見ることはできなかった。


「これでは上空から襲ってくる敵を察知することはできない……」


 ブツブツ言いながらも合点がいったようだった。


「でも、今のトカゲが持つ頭頂眼は先祖の痕跡でしかなく、その眼で何かを見ることはできなくなっているの」


「じゃあ、どんな役割があるの?」


「光よ」


「光?」


「そう。光に反応する器官になっているの。それは羅針盤(らしんばん)と言い換えてもいいわね。太陽の位置を測る羅針盤。それによって自分の正確な位置を確認していることがわかっているのよ。それと頭頂眼によって感知した光の情報が松果体に伝えられてメラトニンの分泌に繋がっているの。人類は二足歩行になって高い位置から辺りを見回せるようになったし、首を大きく上に動かせるようになったから、上空を警戒するための頭頂眼も光を察知するための機能もいらなくなって松果体だけが残ったのかもしれないわね」


「そうか~」


 そこで新は僅かに首を傾げたが、すぐに何かを思いついたような表情に変わった。


「でも、ドローンが空を埋め尽くすような時代になると、人間にも頭頂眼が現れるかもしれないね。頭頂眼だけでなく後頭部眼も必要になるかも知れない。そうだ、そうなる可能性がないとは言えないな。今から松果体に喝を入れて、そのための準備をするように命令しておこう」


 新は顎に力を入れて上下の歯を強く噛みしめ、松果体に波動を送った。


 それを見て考子は「バカね」と笑ったが、頭の中では次の話題を探っていた。


「あとはね、」


 考子が言いかけた時、新がフヮ~と大きなあくびをした。

 そして、両手を突き出して背伸びをした。

 時計を見ると11時を過ぎていた。


「おネムの時間みたいね。今日はこれまでにしましょ」


 そうだね、というように立ち上がった新は「あ~、面白かった」と言って洗面所へ行き、歯磨きを済ませた。

 そして、「おやすみ」と手を上げて、ベッドルームのドアを開けた。


 考子もあとを追うように歯磨きを済ませて、火の始末や戸締りを確認してベッドルームに入った。

 そして、パジャマに着替えて、おやすみのキスをねだろうと布団の中に潜り込んだが、新の鼻からはもう既に寝息が漏れていた。

 はぐらかされたような気になった考子は少し頬を膨らませて、声を出さずに「バカ」と唇を動かして、布団を頭から被った。



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