夜明けは長い影を落として
「……進学はどうだろうか…」
担任の田畑先生が優しく問いかけた。
40人が学ぶ教室は
僕らにはあまりに広すぎる。
子の将来を案ずる人がいなければ
それは尚の事感じられた。
「君の成績なら奨学金で進学する方が
良いと思うのだけれども…」
両手を組みつつ、
願いを込めた目を向けながら
そう諭した。
だが、この場にいる2人には
そんな余裕がこの若者に無いことも
よくわかっていた。
「……そうですね…」
僕はただそう答えるしかできなかった。
肉親であれ、恩師であれ、
先に人生の轍を踏んだ者の期待に応える。
それが若者に課せられた義務であり、
責任だと信じていたからこそ
そう答えるしか無かったのだ。
だが、ある種の苦悶と諦めが
初老の男性教師にも痛く伝わっていた。
「もちろん、就職という手もある…
何かしたい事があるならそれで仕事を探そう
と思うのだけれど…」
馬鹿げた事を言って申し訳ない、
そんな雰囲気を帯びた口調で他の道を示す。
戸惑いが絡めた指をしきりに動かす。
「……こういうのもおかしいんですが…
もう少しだけ待ってもらっても良いですか…」
やや俯きながら答えた。
進路指導の懇談で高校3年の春という時期に
そもそも間違いかもしれないこの答えに
先生はただ一言、
「…わかった、何か決まったら言ってほしい」
と言うしかなかった。
また、日が暮れようとしている…
身に不幸が降りかかる時は決まっていつも、
地平の向こうに太陽が消えようとしていた。
今日もそうなのかもしれない…
そんな杞憂とも言い切れない不安が
今日も頭をもたげ、足取りが重くなる。
「お〜い‼︎ショ〜‼︎」
変わりきってしまった家路
を1人寂しく歩いていると
遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
幸治郎の声だった。
「コウ!」
手を振り、先ほどまでの鬱屈を
必死に払いのける。
自然かどうかわからないけど、
自分と親友のために笑顔で手を振った。
それを見て安心したのか、
肩掛け鞄を激しく揺らして、
彼は僕の方へと駆け寄ってきてくれた。
「懇談どうだった?」
「どうだったって?」
「ほら進路だよ、大学に行くんか?
それとも就職か?」
「うーん…」
「決めてないのか…」
「うん…」
「コウは?」
「オレ?」
「……城聖に行こうかと思ってる」
「へぇぇ、アッタマ良いじゃん」
「そんなこと言ったら、
ショウなら城聖ぐらい余裕だろ?」
「そんなことないよ」
「いいんや!間違いなくいけるって‼︎」
「…つってもなぁ……
これ以上厄介になることも無いからなぁ」
「……真地さんか?」
「あぁ…」
真地さん、妹の殺人事件の犯人を
逮捕してくれただけでなく、
母親すら失った僕の面倒を
見てくれている刑事さんだ。
妹や田畑先生、そして幸治郎以外に
僕の事を気にかけてくれる
数少ない人の1人だ。
生まれて肉親という奴が母さんしかいなかったから
わからないけれども父親という奴がいたなら
こういう人なのかもと思わせてくれる様な
大人だった。
「……ってなると就職になんの?」
「うーん、どうなんだろう…」
「まぁ、やりたい事とかって言われても
全然わかんないもんなぁ……」
「そうなんだよなぁ……」
コウは確かに困ったなぁという様子で
頭を掻きながら俯いた。
「……まぁ、適当に決めていいもんじゃ
無いんだし、悩むのが普通だって」
「………」
「もし、何もわからなくなったら
一緒に城聖目指そうや!」
「……」
「まっ!オレが落ちなければの話だけどな‼︎」
「…ブッ、ハハ」
「ハハハ‼︎」
親友と2人で語り、笑いあう帰り道、
由紀が死に、母すら失った僕だけど
これだけは変わらなかった…
「翔くんはどうしたい?」
真地さんが真っ直ぐな目を向け、静かに問いかけた。
「………進学でも就職でも、
応援するよ…心配しなくていい…」
マグカップを口元に運び、コーヒーを飲んだ。
「…そうですねぇ……」
両手で掴んだマグカップを
見つめながら
吐く息混じりに答える。
「あぁ、ごめんごめん…
無理に答える事は無いんだ……」
おっとしまったという様子で
後頭部を掻きながら謝った。
どうも自分が詰め寄ったせいで
答えに窮しているのではと察したらしい。
「あぁ、いえ…そんな…」
「実は…目星はつけてるんです…」
「そうか!何処に行きたいんだい?」
「警察学校です」
「……そうか…」
優しい笑みを浮かべ、
若者の選択を静かに受け止めた。
だが、ほんの一瞬
その顔が戸惑いに歪んだことを
見逃す事はなかった。
それを裏付ける様に
真地さんは自分のコーヒーを
グイッと一気に飲み干してしまった。
「こういう事を聞くのも変かもしれないけど…
なんで警察官になりたいんだい?」
戸惑いを隠すことに努めつつ、
柔らかな表情と声色で尋ねる。
「…真地さんのお陰です。」
「私の?」
思いもよらない回答に真地さんが
ややギョッとしたような声を上げた。
「今の今まで特に何をしようとかなかったんです、
毎日毎日、家とか学校のことで
そんな余裕なかったんですよ…」
若者は静かに口を開いた。
「その上あんな事があって、
将来の事とかどうでもいいとか思ったり…」
マグカップを揉んでいる両手を
見つめながら言葉を繋いだ。
「でも、真地さんは僕のために頑張ってくれて、
おまけにこうやって僕を
引き取ってくれたじゃないですか。」
そう言うと顔を上げて、
まっすぐとした視線を真地さんに向けた。
「…その恩返しっていうか、
そんな姿に憧れたっていうか…」
やや恥ずかしそうにはにかんだ。
「だから、警察官になろうかなって…」
「……そっか…」
真地さんは薄らと笑みを浮かべて
青い心に応えた。
「…辛い事もあるかもしれないけど、
それなら大丈夫そうだね…」
真地さんがゆっくりと腕を伸ばし、
マグカップを握る若者の両手を
優しく包み込んだ。
「一緒に頑張ろう…一緒に……」
ニッと微笑む真地さんに微笑み返す。
「…はい」
本心を吐露し、真地さんが認めてくれた事で
僕は晴れやかな気持ちと燃える様な情熱を
確かにその時感じた。
だが、同時に心のほんの片隅にそれとは違う
本心のはずなのになんだか嘘をついている様な
妙な違和感、モヤモヤとした感情が
渦巻いている事にも気付いていた。
その正体は全てが終わってしまった今になっても
はっきりとはわからないままだ…