表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「君を愛することはない」ってラブラブハッピーエンドへの常套句じゃなかったんですか!?

作者: 春瀬湖子

 ――愛に違いはないけれど。

 

“割合的には絶対私の方が圧倒的に大きいわよね?”


 なんてつい考えてしまう私ことアリーチェ・ラヴェニーニが見つめる先は、愛しい愛しい婚約者であるコルン・ギズランディが所属している第四騎士団の演習場である。


「きゃー! 格好いいわ! 素敵よコルン! 好き!」


 訓練の迷惑にならないようにと休憩になるまで見つめるだけで我慢していた私は、彼らが休憩に入ったのを確認してそう叫ぶ。


 予定のない日は毎日通っているせいで他の騎士たちも慣れたものなのか、私の叫び声に反応したのはコルンただ一人で、汗を大判の布で拭いながら軽く右手を上げて応えてくれた。


“やだ素敵っ”


 寡黙な彼が、彼なりに応えてくれるその姿に痛いほど胸の奥がきゅんきゅんする。


「ほんっとにコルンってば格好いいわ!」


 黒髪を清潔な長さに整え、切れ長で緑色の瞳はまるでエメラルドのように輝いている。

 何時間でも、いや、何日でも見続けられると私は思わず感嘆の声をあげた。

 

「そろそろ飽きてくれないかしら、毎日毎日付き合わされる身にもなってほしいんだけど」

「いいじゃない、エリー。本ならどこででも読めるんだから」

「わざわざ演習場で読むものではないってことが言いたいのよ」


 はしゃぐ私の後ろではぁ、と大きなため息を吐くのはエウジェニア・フィオリ伯爵令嬢。

 塩対応がデフォの私の友人だ。


「婚約までかなり大変だったのよ? やっと婚約者の地位を手に入れたんだから堪能しなきゃ損でしょ!」

「かなり大変って……、第一騎士団団長の娘であるアンタの家にコルン卿もよく来てたんじゃないの?」


“それはそうだけど”


 この国には第一から第六まで騎士団があり、その数字が小さくなれば小さくなるほど地位が高い。

 そして最もエリートである第一騎士団の団長こそがラヴェニーニ侯爵、つまりは父だった。


 面倒見のいい父は私が幼い時からやる気のある騎士たちを集めラヴェニーニ侯爵家で個人的に訓練をつけており、そして今から六年前……私が十二歳、コルンが十五歳の時に私たちは初めて出会った。

 騎士見習いになったばかりの真面目なコルンは誰よりも熱心に通っており、どんな訓練にも真っすぐ取り組む姿に私が恋に落ちるのはある意味当然の流れだったのである。


 ――とは言っても、そんな子供の片想いが簡単に実るほど世間は甘くなく、また彼の実家が子爵家ということで身分差もあった。


 だが政略結婚より恋愛結婚という流れが出来始めていたお陰もあり、三ヶ月前にコルンと婚約するという悲願が叶ったのだが……。


「ねぇエリー。どうやったらもっとコルンとラブラブになれると思う?」


 趣味の読書に没頭しようとしていたエリーへと話しかけると、かなり呆れた視線が返ってくる。


“でも、そんなこと気にしてられないのよ……!”


 やっと婚約者になれたのだ。

 出来れば手を繋いでデートに行ってみたいし、スイーツの食べさせあいっこや口付けだってしたい。

 いつかはその先だって望んでいる。


 だがコルンはと言えば出掛けてもまるで私を護衛するかのように歩き、なんとか手を繋ごうとしても「いざという時困るから」と許可してくれない。


 いつかのその先どころか手すら繋いだことがないのだ。


「少しくらいラブラブになりたいのに」

「だったらほら、私の本を貸してあげるから参考にすれば?」


 はい、と渡してくれたのは三冊の恋愛小説。

 読みかけの本はエリーが相変わらず持っているので、彼女はいったい何冊の小説を持ち歩いているのだと少々呆れたが、藁にもすがりたい今はありがたく受け取った。


「ありがとう、読んでみる」

「ま、創作物は創作物よ。それでも気休めにはなるでしょ」


 さらりとそう告げる彼女に私も頷く。


“それでも何か突破口が見つかればいいな”


 なんて思いながら、私は借りた本へと視線を落としたのだった。


 ◇◇◇


 その晩、早速小説を開く。

 

 エリーが貸してくれた三冊のうち一冊は大人の三角関係を描いたドロドロとしたもので最初の十ページで却下。後で読むけど。

 二冊目は逆によくある平民出身のヒロインがお忍びで来ていた王子様と出会うという物語で、天真爛漫なヒロインに好感を持ち身分差に悩む彼女に感情移入しながら読んだものの――


「そもそもの前提条件が違いすぎるわね」


 確かに侯爵家と子爵家ということで身分差はあるが、互いに貴族同士でもある上に彼は騎士。

 これから武勲を立てれば更に上の爵位の授与なんかもありえるし、それにそもそもコルンは父の弟子でもあるのだ。


 人柄も知っていて、かつこの縁談を整えた人こそ父である侯爵ともなればこの身分差なんてないも同然。

 彼は三男なので、婿入りしてくれれば父も私もウルトラハッピーの大団円である。


「あまり参考にならなさそうね。それで最後の一冊は……」


 小説としては面白かったが、参考文献としてはあまり参考にならなそうな内容にガッカリしつつ手に取った三冊目。

 その三冊目も最近ではもう定番すぎる設定のもので、政略結婚で出会った初対面の夫に「君を愛するつもりはない」と宣言されるところから始まる溺愛ものだった。


“流行っていたのは知ってるけど”


 実際手に取ったのは初めてで、パラリとページを捲ってみる。

 

 仕方なく結婚したふたり。

 そして初対面で告げられるその言葉に嫌な気持ちになったものの、そこから始まる溺愛の日々。

 大事にされることへ戸惑いながらも少しずつ距離を縮めた二人が結ばれるところでは思わずうるっとしてしまった。


「最初はあんなこと言ってたくせにって思ったけど……」


 つまりこれは振り幅の問題なのだろう。

 元々の好感度を下げておくことで上り幅を急激にし、そのギャップでヒロインの中の好意を促す。


 ゼロの好感度を百まで増やすより、マイナスの好感度を百にした方が「好きかも」から「すっごく好きかも!」と思わせる高度なテクニックだ。


 しかも恋愛テクニックとしては高度なのに、やることといえば最初に相手へ好意がないと思わせてからのひたすら好き好きアピールをするだけというお手軽さ。

 これならば私にも出来るのではとテンションがどんどんあがる。


「これでコルンとのラブラブハッピーエンドが手に入るってことね……!」


 やることは簡単。ただコルンに、実は愛していないと告げてから猛アピールするだけである。

 嘘でもそんなことを告げるのは心が痛いが、だがこれは私たちのラブラブ作戦の為だから。


「待っていなさいコルン! でろっでろに溺愛してあげるんだからね!!」


 私はベッドの上で仁王立ちになり、まだ見ぬ明日へと指さしながらそんな宣言をしたのだった。


 ◇◇◇


 コルンの休みに合わせ呼び出したのは町一番の可愛いカフェだ。

 ここを選んだ理由はひとつ。決めゼリフをコルンに告げた後の溺愛実感ターンで念願のデザート一口食べさせあいっこを実行する為である。


“心にもないことを言うけど許してねコルン! 今まで以上に私の想いをぶつけるから!”


 これから待っているラブラブな未来に口角が緩みそうになるのを堪えつつ待っていると、少し遅れてコルンが店内へと入ってくる。


「申し訳ありません、お待たせしましたか」

「全然いいのよ、コルン。それでその、今日私は貴方に、その、つたっ、伝えたいことがあって、えっと、来たの!」


 緊張で若干しどろもどろになりつつ話し出すと、余りにも私が噛むからか彼の表情が怪訝なものへと変わる。


“でもそんな表情も格好いいわ!”


「体調が悪いなら今日は――」


 この難関を乗り越えればまだ見ぬラブラブハッピーエンド。

 その想いに背中を押されるように、私を心配してくれるコルンの声をぶったぎって私は大きく息を吸い口を開いた。


「私ッ、貴方を愛するつもりはないの!!」

「……はい?」

「だっ、だからその、実はコルンのことをそのっ、愛してなかったというか、これからも愛するつもりはないのよ!」


“言ったわ!!”


 これで第一関門はクリアだ。

 後は呆然としているだろうコルンに全力で好き好きアピールをかまし溺愛するだけ――……!


「あぁ、どうりで話しにくそうだと思いました」


 私の計画では呆然と固まっているはずのコルンが、ふっと息を吐きながらそう口にする。


「この婚約は仕方なかったということですか?」

“いえ、私の熱望です”

「他に愛される方がいらっしゃるのですか?」

“貴方以外カボチャに見えます”


 心の中では全力でそう答えつつ、だが実際に口にするのはまだ早いと必死に口をつぐむ。

 何故ならこれは落として上げるという恋愛テクニックなのだ。


 冷静に見えるよう目の前のカップを手に取りゆっくりと口をつける。

 余りにも彼に愛を叫ぶことに慣れすぎて、そうやって物理的に口を塞がなければ彼への愛が溢れそうだったからである。

 

「そうですか、わかりました。いつも心にもない言葉を言わせてしまい申し訳ありません」

「へ?」


 そうやって黙っていた私に何か思うところがあったのか、コルンから謝罪の言葉を言われ私はぽかんとした。


「ご安心ください。いつでも対応出来るようちゃんと準備はしておりましたので」

「え、……え?」


 呆然とさせるはずが私の方が呆然としてしまう。

 そんな私の前に差し出された一枚の書類。


 その書類の一番上には大きく『婚約破棄合意書』と表記されていた。


「こ、婚約破棄……っ!?」


 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に目を白黒させながらそう叫ぶと、コルンがゆっくりと頷く。


「いつかこうなると思っていました。俺の方はもうサインが済んでおりますので、あとはアリーチェ様のサインをいただければ婚約破棄出来ますよ」

「あ、えっ、えっ、お、お父様のサインまであるのだけれど……」

「はい。事前に頂いておいて良かったです」


“どういうことなの……!?”


 理解が出来ない。

 婚約破棄?

 私が? コルンと?


「そ、そんなっ」

「出来れば侯爵家まで護衛したいところですが、きっと婚約破棄した元婚約者に送られたくはないでしょう。侯爵家へは連絡を入れておきますので、迎えが来るまではごゆっくりなさっていてください」

「あ……、え」


“違うの! そうじゃないの!”


 動揺で上手く声が出ない。

 今引き留めなければかなりまずいということはわかるのに、喉がカラカラに乾き張り付いてしまっている。


「では失礼いたします」

「待っ」


 ペコリと頭を下げたコルンを呆然として見つめる。

 背筋を伸ばしたままカフェを出るその姿は彼の指先までもを格好良く見せ、何一つ現実感はなかった。


 ――ただわかるのは、私の目の前に残された婚約破棄合意書が本物であり、紛れもない現実として私の目の前に残されていることだけである。


 ◇◇◇


「は、はぁっ!? 婚約破棄された!?」

「ちがっ、まだ、まだ書類に印は押してないもの! 不成立よっ」

「それもう最終勧告受けてるじゃない」


 動揺した私が婚約破棄合意書と共に駆け込んだのは、もちろん友人であるエリーの家、フィオリ伯爵家である。


 いつもは塩対応で私の話をほとんど全部聞き流しているエリーだが、流石に予想外だったのか珍しくお気に入りの読書を止めて私の方へと向き直ってくれた。

 

「で、なんでそんなことになったのよ?」

「エリーに借りた小説の真似をしたら……」

「創作物は創作物って言ったでしょう!? で、なにやらかしたの」

「き、君を愛するつもりはないって言いました」

「バカ決定」


 はぁ、と思い切りため息を吐きながら頬杖をつき呆れた顔を向けられた私は思わず俯いてしまう。

 

「大体私は、三角関係の本で大人の余裕を、平民からの逆転劇で健気に思い続ける大切さを学んでほしかったのよ」

「君を愛することはない、は?」

「そんなバカなことをしないようにの釘さし」

「うぐっ」


 まさかあの一瞬でそんな意図を込めて本をピックアップしてくれていたとは。

 そしてその一冊を選んでしまうとは。


 自分の浅はかさに思わず頭を抱えてしまう。


「そもそも、『君を愛することはない』は最終的に溺愛する側が言うセリフなの」

「はい」

「コルン卿に愛されたかったならアリーチェが言うセリフではないわ」

「はい」

「むしろ好感度を下げるだけよ」

「……はい」


 辛辣な、だが事実であることを指摘されて項垂れた私だったが、ここであっさりとコルンを諦めたくはない。


“だってこんなに好きなんだもの”


 もう嫌われてしまったかもしれないし、最初から私のことなんて少しも好きじゃなかったからこんな書類を用意していたのかもしれないが……それでも、まだ私は自分の力では何も頑張っていないのだ。


「婚約はお父様頼みだったし、それに毎日ただただ彼へとつきまとうことしかしてなかったわ」

「あら、それはいい気付きね」

 


 努力をしよう。私はそう思った。


 貴族の子女が通う学園でも、トップクラスの成績常連のエリーに比べ私は中。

 それも限りなく下のカテゴリーに近い中という学力。


“まずはわかりやすくそういった数字が出るものから頑張ろう”


 不器用だからと避けていた刺繍もやってみよう。


「もう受け取ってはくれないかもだけど……」


 それでも、今までの私から変わりたい。


“コルンが私を好きだったなら、こんな書類を用意しているはずはない。それに私の言葉にだってもっと他の言葉をくれたはずだわ”


 愛することはない、なんてセリフにあっさりと納得して受諾してしまったのだ。

 きっとそういうことなのだろう。


「だからせめて、好かれる努力をしたいわ」


 自分磨きならコルンへ迷惑はかけないし、騎士として努力している彼に釣り合うようになりたい。

 そうして少しでも成長したら、もう一度だけ彼に告白しよう。


“振られてしまったらちゃんと諦めてこの書類も提出するわ”


 だからもう少しだけ、彼の婚約者でいさせてください。

 自分勝手だとはわかっているけれど、私はそっと婚約破棄合意書を仕舞ったのだった。



 

 それからの私は頑張った。

 なんだかんだで面倒見のいいエリーに勉強を見て貰い、先生へも積極的に質問をしに行った。


 エリーには迷惑をかけているが、「人に教えられるということはそれだけ私の身になっているということよ。復習にもなるし構わないわ」なんて素直じゃない言い方で私を応援してくれている。


“今度エリーの読んだことのない本を取り寄せなくちゃ”


 私はとても友人に恵まれている。

 そして彼女のお陰もあって私の成績はかなり上がった。

 中の上……いや、上の下と言ってもいいくらいには上がった。


「この調子で頑張ればもう少し上を目指せそうだわ」


 コルンに会いたくなる気持ちを必死に堪え、演習場に通っていた時間を勉強へと費やした甲斐がある。



 それに刺繍も始めた。

 母に習い名前を刺繍するところから始めたが、出来は酷いものだった。


“でもいつか、家紋とか入れられるようになれば”


 名前ですら手こずっているのに文字と絵柄が複雑に絡み合っている家紋を刺繍出来る日が来るかは正直怪しいが、いつか彼が第四騎士団から第一騎士団まで出世する頃までには習得したい。


「その頃はもうコルンと婚約者同士ではないかもしれないけれど」


 それでもきっとコルンは優しいから、受け取ってはくれるだろう。


 

 

「アリーチェってどうしてそこまでコルン卿に執着してるのよ」


 放課後自主勉をするために訪れた学園図書館で、エリーにそう聞かれ思わず苦笑する。


「一目惚れ!」

「はぁ? 顔が好みってだけで今こんなに頑張ってるの? まぁ勉強することは悪いことじゃないけど」


 呆れたようなエリーの声色につい私は吹き出した。


“でも本当に一目惚れだったのよ”


 六年前の狩猟大会。

 危ないとわかっていたのに可愛いウサギを追いかけて入った狩場。


 そんな場所に子供が入れば獲物と見間違えられるなんて事故が起きるのも必然だった。


 弓や剣、クロスボウと各々の武器で狩猟大会に臨んでいた参加者のうちのひとりが、小鹿かキツネなどの中型の獲物と見間違えたのだろう。

 

 突然茂みの中に潜り込んでいた私の近くへ刺さった弓矢。

 その弓矢に驚き、絶句してしまったのもよくなかった。


“あの時は本当に死ぬかと思ったわ”


 その場で声を出せば私が人間だと気付いて貰えただろうし、イチかバチかなところもあるがいっそ茂みから飛び出してしまえば子供だと気付いて貰えたかもしれない。


 だが驚き硬直してしまった私は、茂みの中で震えるしかなかったのだ。

 

 狩猟大会の伝統として、自身の狩った獲物を慕う相手へと捧げ告白する風潮がある。

 そのため相手も隠れる獲物を見逃すことはせず、いそうな場所へと何本もの弓を引いた。


 いつ当たってもおかしくない状況。

 その時だった。


「アリーチェお嬢様!」


 そう叫び茂みの中に飛び込んできた人物こそ、当時まだ騎士見習いのコルンだったのだ。


“結局コルンの背中には矢傷が残っているのよね”


 獲物を探していた相手の放った最後の弓矢。

 その弓矢から身を挺して守ってくれた彼の背中には今も当時の傷があるだろう。

 

 騎士として背中の傷は、いかなる理由であるとしても恥とされる。

 

「コルンだってそのことを知っているはずなのに」


 彼は笑ったのだ。

 貴女を守れたという勲章をいただきました、と。


 私は彼にしがみつき泣きじゃくっていた。

 その笑顔があまりにも温かく優しかったから安堵したのかもしれないし、彼に一生残る恥をつけてしまったことへの後悔かもしれない。


 きっとどちらもだったのだろう。

 

 

 父の補助として狩猟大会に参加していた彼は、私がいなくなったという知らせを聞いて一番に飛び出し探しに来てくれたのだと後から知った。


 そしてその日から、私は彼のことが忘れられなくなってしまったのだ。


“一目惚れよ。身を挺して助けに来てくれたその気高さと、私を気遣うその笑顔に”


 その日から彼がラヴェニーニ侯爵家へ来る日を心待ちにする日々が始まった。

 最初こそ、助けなければよかったと言われることを恐れていたが、逆に私にトラウマが残っていないかを心配してくれるコルンの優しさにもっともっと好きになった。


 いつしか彼が見習いを卒業し、正式に騎士団へと所属するようになってからは彼の後を追って騎士団演習場にまで通うようになった。


 父にそれとなく――では、鈍感な父には伝わらなかったので、何度も直球で彼と婚約したい旨を頼み込んだ。

 そうしてやっと彼の正式な婚約者になれたのに、私はもっと彼に構ってもらいたいという一心で取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。


“だから”


「エリー、ここがわからないんだけど」

「あぁ、それはさっきやった薬剤学の応用でね……」


“貴方の自慢の婚約者になれるよういい女になってもう一度告白するわ”


 私は気合を入れて、エリーの説明を必死にメモったのだった。



 始めたのはそれだけではない。

 貴族の娘として当然すべき社交。


「今まではあまり参加して来なかったけれど」


 コルンという婚約者がいる以上、出会いの場として使われることの多い夜会などに行く必要はなくサボっていたのだが、参加できるものはなるべく参加するようになった。


 もちろん新たな出会いを求めてではない。

 社交の場は情報収集の場でもあるからだ。


 今ある繋がりを強め、新たに自身の味方をつける。

 それらの行為は決して無駄にはならないし、いざということが起きたとしても対処しやすくなる。


 それに情報を事前に知っているだけで有利になる場面も多いだろう。


“コルンの家は子爵家。子爵家では爵位的に参加出来ないパーティーもあるけれど、侯爵家ならほとんど全部参加出来るわ”


 騎士である彼の力になれるかもしれない情報を、私ならば手に入れられる可能性があるのだ。

 ならば参加しない手はない。


「苦手だったダンスレッスンも、新たに家庭教師をつけて貰ったお陰でそれなりに見えるようにはなってきたし」


 ただ一方的に彼を追いかける私ではなく、いつか彼に選んで貰えるような私へ。

 そうなれるよう、先生に何度も注意された歩き方から改善し私は背筋をまっすぐ伸ばして前に進むのだ。


 ◇◇◇


「……その努力の結果が、これだとは」


 今日の勉強を終えた私は、私室へと帰り机に置かれていた何通もの手紙を見てげんなりとする。


“まさか私にこんなに沢山の婚約申込が届くなんて”


 完全に想定外である。


「まだ! 私は! コルンの! 婚約者よ!!」


 苛立ちのまま置かれた手紙に文句を言うが、当然手紙が返事をしてくれるはずもなく、私の虚しい叫びだけが部屋へと響いた。



「どうなされますか?」

「お断りの返事を書くわ」


 何度も同じことがありもうわかっていたからか、私の返答を聞いてすぐに侍女がレターセットを差し出してくれる。


“前ならふざけないでって破り捨ててたんだけどね”


 今の私に婚約者がいるのかは怪しいラインだ。

 書類上はまだ婚約中だが、彼から渡された婚約破棄同意書はこの机の引き出しに入っている。


 もちろん婚約申込をしてきた相手はそんな事情は知らないだろう。

 ただ単に、噂を聞いて送ってきただけ。


 その噂というのが――



「私が男漁りをしているだなんて!!」

「言い方変えなさい、この馬鹿」

「だってエリー、私まだ婚約中なのにぃ」

「最終勧告受けてるけどね」


 毎日毎日懲りずに送られてくる申込書に辟易とした私の避難先は当然友人の家である。


“なんだかんだで迎えてくれるし、やっぱりエリーって優しいわよね”


 口は限りなく塩ではあるが。



 こんなあり得ない噂という弊害が出るとは思わなかった私は、お行儀悪いとわかりつつテーブルに突っ伏した。


「ま、突然社交を始めたらねぇ」

「そうよね」


 あんなに毎日コルンの元へと通っていた私が通うのをやめ、突然社交を始めたことで私たちの婚約が破談になったという噂が流れたのだ。


「しかもアンタ、男とばっかり踊るし」

「コルンの情報が欲しくて……」


 完全に失敗した。

 会えない代わりにどうしているのかを知りたすぎた私は、騎士団に兄弟のいる参加者を中心に声をかけて踊りまくったのだ。


「も、もちろん令嬢たちを優先してたわよ? 情報が一番大事だしね。それに私と踊った人たちからは申込書、一通も来てないわ」

「そりゃダンスが始まった途端『コルンは~』『コルンが~』『コルンに~』を連呼したからでしょ」

「なんでわかったの!?」

「何故わからないと思ったのよ」


 エリーの指摘通りで、ダンスを踊った令息たちは私がコルンの話しかしないことで婚約破棄の噂はただの噂だと思ってくれたのか、単純にコルンの話しかしない私を面倒な奴だと切り捨てたかで婚約の申込どころか二度目のダンスの誘いすらない。


 だが、外から色んな令息と踊りまくる私を見た他の貴族たちはそうは思ってくれなかったようで、現状のモテモテ状態になってしまったという訳だ。

 

「侯爵家ってやっぱり魅力的なのよねぇ」

「あー、まぁそれでなくてもアリーチェは最近頑張ってるし……」

「え?」

「いいえ、気付いてないなら別に気付かなくてもいいの」


 フンッと顔を背けたエリーがすぐに手元の本へと目を落とす。

 私からのお礼という賄賂なのだが、気に入ってくれたようで満足だ。


「でも、このままじゃまずいわ」


 男漁りをしているなんて噂がコルンにも届いてしまったら、再び告白どころか会ってすら貰えないかもしれない。


“もう時間がない……”


 本当なら完璧に出来た刺繍入りハンカチと共に、夜景の綺麗な場所で夕陽が沈むのを眺めながらロマンチックにプロポーズしたかったのだが、こうなってしまっては仕方がないだろう。


「私、コルンに告白する」

「……そうね。まぁ、少しはマシになったんじゃない?」


 相変わらず本に目を落としたままのエリー。だがしっかり者の友人にそう言ってもらえたことで安堵する。

 まだ目標のいい女には程遠いかもしれないが、それでもあの私が愚かなことを口にした日からすればきっと良くなっているはずだから。


「次の狩猟大会で何か獲物を狩って、それを手土産にプロポーズするわ!」

「し、狩猟大会で!?」

「えぇ! 見ててねエリー、私やるから!!」

「あ、うぅん、んん、……が、頑張りなさい……」


 狩猟大会まであと一か月。


“騎士団長の娘の力を見せてあげるわ!”


 私はその日から、新たにクロスボウの訓練も始めたのだった。


 ◇◇◇


 狩猟大会の日はあっという間に来た。


「今日が決戦の日ね」

「そんなに気合を入れるなんて、最近のアリーチェは頑張っているんだなぁ」


 あっはっはっと豪快に笑うのは父である。


“そりゃそうよ、告白という決戦の場なんだから”


 おそらく父の思う決戦とは違う決戦だが、そんなことわざわざ説明する必要もないので省略した私は、自身の身を守るクロスボウの手入れを念入りに行いながら開始の合図をラヴェニーニ侯爵家のテントで待っていた。


 狩る側ではなく貰う側で参加する令嬢たちは、今頃は大テントでドレスを着て絶賛ティータイムだろう。


「でも、どうして出場する側になってしまったの……。やっとアリーチェと刺繍出来てとても楽しかったのに」

「お母様ごめんなさい、今日は決戦の日なんです。それに女性でも参加している人は他にもいますよ」

「騎士の方ばかりじゃない!」

「あ、はは……」


 確かに母の指摘通り、女性の身で参加している人のほとんどが騎士爵を持っている女騎士ばかりではあるのだが、少数ではあるが私以外にも狩る側で参加している令嬢だっている。


“まぁ、貰う側になりたいからって狩る側に回る令嬢がほとんどいないのも確かなんだけどね”

 

 去年の私ももちろんコルンから貰いたいとドレスを着てお茶会に参加していた。

 それに毎年ねだっていたというのもあるが、なんだかんだで私に甘いコルンはあの事件のあった翌年から何かしらの獲物を、婚約もしていなかったのに私へと捧げてくれた。


 だが、今年の私が貰うことはないだろう。


“まだ婚約していなかった頃、というのと婚約破棄後というのは意味合いが全然違うわ”

 

「これも私が招いた事態よ。いいの、今年は私がコルンにプレゼントするんだから」


 ふうっと大きく息を吐き、気合いを入れた時にカンカンと鋭い鐘の音が響く。

 それが狩猟大会の開始の合図だった。


“とは言っても、私は馬に乗れないのよね”


 馬で奥まで行く先頭組には当然勝てないどころか一緒に出発すると逆に私が危ないので少し遅れて出発するつもりである。

 ほとんどの人が馬に乗って行くので私はほぼ単独行動になる予定だ。

 


「流石に上級エリアは私じゃ手に負えないから、初級、いやせめて中級……!」


“ネズミは逆に小さくて捕まえ辛いし、ウサギ……は何だかんだでコルンとの思い出の動物だし”


 現実的に考えて私に捕まえられそうなのはキツネか、もしくはシカだろう。


「キツネって私より頭よさそうよね」


 シカまでいくと初心者の私には少し大物すぎるが、私の武器はクロスボウだ。

 遠距離攻撃が可能であり、かつ威力が私自身の腕力に左右されない。


 「それにプロポーズするために今日は参加したのよ」


 ならば多少厳しくとも狙っていかなければ。


“よし、今日の私の目標はシカ! シカを探すわ”


 それにシカならば他の動物より足跡も残りやすく探しやすい。

 ある意味私にピッタリの獲物とも言えた。


「そろそろ先頭組は遠くまで行ったわよね?」


 そろそろ先頭組の馬から逃げた動物たちが自分たちのテリトリーに戻って来ているはず。

 私は頃合いを見て、遅れてひとり狩猟エリアへと足を踏み入れたのだった。



「案外見つからないものね」


 足跡くらいならすぐに見つかるだろうと思っていたのだが、そんな私の願い虚しく地面が先頭組の馬の蹄の跡で荒されていて正直よくわからない。

 詳しい人が見れば見分けられるのかもしれないが、クロスボウの使い方を学ぶことを中心に訓練を重ねたせいで、残念ながら私にはあまり見分けがつかなかった。


“いくつかの足跡があることはわかるんだけどなぁ”


「この、明らかに小さいやつはシカじゃないわよね」


 まるでチューリップのような形の小さい足跡は、大きさ的にウサギだろう。

 可愛いウサギを、コルンに一目惚れしたあの時の思い出に浸りながら追いかけるというのもなんだか絵本のようでロマンチックな気はするが。


“それはコルンへのプロポーズが終わってからだわ”


 その時幼い頃の思い出話に花を咲かせながらコルンとふたりで歩いているのか、感傷に浸りながらひとりで歩いているのかはわからない。

 後者でないことを切に願う。


「こっちの足跡は……何かしら、この小人が両足で飛んでるみたいなの」


 馬の蹄を左右から圧迫したような足跡に首を傾げる。

 このよくわからない形の足跡は流石に違うだろう。

 なんの動物なのかさっぱり想像できないので、もしかしたら私の知らない獣の可能性もある。


「ただの可能性でも危険は避けるべきよね」


 私はその、まるで一対の蹄のような形をした足跡は目的のシカではないと判断して追いかける候補から外した。


 そんな私の目に、次に止まった足跡はまるで可愛い猫のような肉球の足跡である。


“この足跡は?”


 猫にしては大きく、だが私の手のひらよりかは少しだけ小さい。

 それに指のような跡も見える。


「肉球があるからキツネ……? でもキツネにしては大きいのよね」


 森に居て、肉球があって、この手のひらサイズの足跡の動物。

 肉厚もありそうだからそれなりに体重もあるのだろう。


 私は想像力を巡らし必死に考える。が。


「心当たり、ないわねぇ」


 猫は好きなんだけど。ちょっとコルンに似ているし。

 なんて全然違うことを考えながらそれらの足跡を眺め続ける。

 

 だが正直眺めたところでわからないので、私はその足跡の中から小さすぎずかつ大きすぎないひとつを選んで追いかけることにしたのだった。


 

「こっちの方、だと思うんだけど……」


 思ったより奥へと続く足跡に若干動揺しつつ追いかける。

 そもそも一番シカっぽい足跡を追いかけてみたつもりなのだが、馬の蹄で踏み荒らされていたせいで見誤ったのか違和感に少し不安になった。


「でも、私は獲物を狩ってコルンにプロポーズするんだから」


 必死でそう自分に言い聞かせ勇気を振り絞る。

 ここまで来たのだ。

 引き返す選択肢は私にはない。


 

 バクバクと激しく音を立てる心臓をうるさく感じながら一歩ずつ進む。


“おかしい、どうして何もいないんだろう”


 足跡はあるのに動物の姿を全く見ず、それがなんだか不気味だった。

 それに自分がどこまで奥に来たのかもわからない。

 まっすぐにしか歩いてないので戻れはするだろうが、夢中で進んでいたせいでここがどのエリアにいるのかがわからなかったのだ。


「まさか上級エリアにまで来ちゃった、なんてことはないわよね?」


 不安を誤魔化すようにわざと大きめにそう口にすると、私の声に反応したのかガサリと奥で何かが動いた気配を察する。

 私は落ち着くように息をゆっくり吐き、持っていたクロスボウを構えた。


“姿を確認するまでは引き金を引くのは危険よね”


 茂みにいた私が獲物と間違われたように、万が一ということもある。

 そう思って狙いを定めたままジッと様子を窺っていると、ゆっくりと木の後ろで何か動いた。


 ――来る!


 ごくりと唾を呑んだ私の目の前に現れたのは、シカ……では、なく。


「子グマ……?」


 思っていた獲物と違い一瞬きょとんとしてしまうが、小首を傾げたような子グマの表情に思わず口角が緩んでしまう。


“可愛いかも”


 いくら馬の蹄の跡で見えづらくなっていたからって、子グマの足跡とシカの足跡を間違えるなんて相当お馬鹿だったと自身に呆れつつ、このことを後からエリーに報告したらどんな反応をされるのかしら、なんて。



 他の獲物が見当たらなかった理由にも、そして子グマが一頭だけでこんな場所にいるはずがないなんてことにもその時は気付かず、私は呑気にクロスボウを下ろし子グマの前にしゃがみこんだ。


「こんにちは、こんなとこでどうしたのかな? お母さんとははぐれちゃった?」


 きゅるんとした真っ黒の瞳が、どこかコルンの黒髪を連想させて一瞬気が緩んでいた私は、自身の口にした言葉に全身から血の気が引いた。


“母グマ?”


 地面に下ろしたクロスボウへと慌てて手を伸ばし、子グマから離れるように後ろへ下がる。


“こんな場所に子グマだけでいるはずがないわ!”


 ならば近くに母グマがいるはず。

 そして森の王者であるクマの縄張りに入ってしまったのなら、他の動物がいなくても不思議ではない。


「私上級エリアに入っちゃってたの……!?」


 すぐに元のエリアへと戻らなければ。

 気持ちだけが焦り心臓が痛いくらいに跳ね上がる。


 走ってここを離れたい衝動に駆られながら、私がエリアの脱出を試みたその時だった。


「ッ!」


 のし、という確かな重量感のある足音と感じたことのない威圧感。

 ゾッとする私の目の前には、私よりもずっと大きいクマがいた。


 刺激してはダメだと頭ではちゃんとわかっていたのに、この咄嗟の状況に思わずクロスボウの引き金を引いてしまう。

 だが狙いを定めていないその矢は、全然違う方向へと飛び木へと刺さった。


“しまった!”


 当たらなくとも私のこの行為のせいで母グマは攻撃されたと認識するだろう。

 そしてそうなれば、子グマがここにいる以上ただ見逃すなんてことはせず、私をどこまで追ってくるかはわからない。


 やるしかない。

 殺される前に撃たなければ。


 だが、女性でも高威力を出せるクロスボウという武器は、一回一回矢をセットする必要がある。


「だめ、こんなの、間に合わな――」

「アリーチェ様!」


 もうダメだと両目を瞑った時、私の名前を叫ぶ声が聞こえた。


 ガキン、と鈍い金属のぶつかる音がして閉じた目を慌てて開く。


“黒い、髪……”

 

 私を背後に庇うよう剣一本でクマと対峙しているのは、たったひとりの私のヒーロー。


「コルンッ!」

「立てますか? ここは俺がなんとか」

「殺さないで!」

「ッ!?」


“思わずクロスボウを撃った私が言うことじゃないけれど”

 

「子供がいるのっ」


 私の叫びに一瞬体を強張らせたコルンは、力いっぱい剣でクマの爪を弾いたと思ったら私の隣まで後ろに飛ぶようにして近付いた。


「俺を信じてください!」


 鋭くそう叫んだコルンが私をまるで枕でも抱えるかのように片腕で担ぎ、左側へと思い切り飛ぶ。

 全然気付かなかったがどうやらその先はちょっとした崖になっていたらしく、崖下へと飛んだコルンは器用に剣を崖へ刺し速度を殺しながら地面へと降り立った。


「子グマがいる状態で深追いはしないはずですが、少しでもここから離れますよ」

「え、えぇ!」


 崖の下はもう枯れてしまった川なのか、まるで道のようにまっすぐ伸びていた。


“追ってきてたらどうしよう”


 私の手を引き走るコルン。

 不安から後ろを振り向きたくなるが、彼が『信じて』と言ったから。


 私は振り返りたくなる気持ちをグッと堪えて必死に足を動かした。



 まっすぐ伸びていたその道を突然横に逸れ、緩い傾斜を登る。

 だがずっと走っていた私の足はとうとうもつれ、思い切り前のめりの躓いた。


「!」


 すぐに地面で擦り全身に痛みが走るのだと覚悟した私だったが、痛みが来ないことを怪訝に思いそっと片目を開いて確認する。

 まず視界に飛び込んで来たのは小さな白い花で出来た一面の花畑。

 そしてその花畑の中で私を庇うように下敷きになっているコルンだった。


「ご、ごめんなさ……っ」


 一気に顔が熱くなった私が慌てて彼の上から降りようとするが、コルンの両腕がぎゅっと私を抱きしめた。

 気付けば私は彼の上から降りるはずが、抱きしめられたまま彼の胸元に顔を埋めている。


“えっ、な、何が起こってるの!?”


 状況が掴めず目を白黒とさせていると、ふぅ、とコルンが息をいた。

 触れている彼の胸元を伝い、彼の鼓動が早鐘を打っていることに気付く。


「――本当に、無事でよかった」

「コ、ルン?」

「本当にアリーチェ様は昔から心配しかさせませんね」


 ふっと小さく笑ったコルンが、ゆっくりと私を抱きしめていた腕を解いた。

 上半身を起こし、花畑の中で向かい合って座ると、彼のエメラルドのような瞳がじっと私を射貫いている。


“コルンだわ、本物のコルン”

 

 婚約破棄合意書を渡されたあの日から、直接彼に会うのは初めてだった。

 

 彼に釣り合うようないい女になれたら。

 彼から選んで貰えるような、手放されない婚約者になれたら。


 そう思い今日まで自分を磨く努力をした結果、結局私はまた彼に助けられたのだ。


“情けない”


 でも。


「……会いたかった」

「アリーチェ様?」

「会いたかったの、好きなの、ごめんなさい。あの時言った言葉は全然本心じゃなくて」


 まるでタガが外れたように、私の口から言葉が溢れる。

 彼と会っていなかった時間、何度も彼のことを思い出した。

 忘れたことなんてない。


 どうしたって私は彼が好きだから。


 

“結局獲物はなにも狩れなかったけど”

 

 白い花を一輪摘む。

 白い花畑の花はノースポール。黄色い筒状花と呼ばれる中央部の周りに舌状花と呼ばれる真っ白な花弁が広がるこの花の花言葉は、『誠実』だ。


“これからは絶対誠実でいるって、貴方に対して本当のことしか言わないって誓うわ”


 

「私は、コルンのことが好き。ずっとずっと、今も昔もずっと貴方だけを愛しています」

 

 そう告げて花を彼へと渡す。


“ここで泣くのは卑怯よ、私”


 滲みそうになる視界。気付かれないよう少しだけ上を向いて涙を堪える。


 もしこの花を受け取って貰えなかったとしても泣いてしまいませんように。

 どうか今、私の指先が震えていませんように。


 そう願いながら彼からの反応を待っていると、少し戸惑ったように、だが差し出した花を受け取ってくれた。


「愛するつもりはない、のでは?」

「ッ、それは、その」


 一瞬口ごもる。だがこのまま誤解されているより、私がいかに愚かで浅はかだったかを知られる方がマシだと思った私はすぐに口を開いた。


「――本で、読んだの。流行っていたんだけど、知らないかしら? 『君を愛するつもりはない』というセリフから始まる溺愛ストーリーなんだけど」

「そんな辛辣なことを言ってからの逆転劇があり得るんですか?」

「うぐっ」


 もっともな指摘をされてダメージを食らうが問題ない。この程度想定済みだ。


「要はギャップ的なやつじゃないかなって思うの、印象最悪からのスタートだったら、あとは上がるだけじゃない? それに上がり幅もより大きくなるから溺愛感が増すって言うか」

「全然理解できませんが……とりあえずそういう物語が流行っているのだということは理解しました」


 けど、それを何故俺に? なんて真顔で聞かれ、私は一瞬眩暈がする。


「そんなの、私がコルンを好きだからよ」

「はぁ……」


“なるほど、そこからなのね!?”


 ついさっき、小さい花一輪とはいえ渡して盛大に告白したはずなのにこのよくわかっていないような反応に項垂れる。

 六年前からあんなに毎日好きアピールしていたのに何一つ伝わっていなかった現実に愕然としながら、私はもうヤケクソとばかりに声を張り上げた。


「君を愛することはないって、言わばラブラブハッピーエンドへの常套句なの! つまり私は、コルンともっとラブラブでハッピーなエンドを迎えたかったってことなのよッ!」


 自分で言うのもアレだがすごく馬鹿っぽい。

 いや、散々やらかし続けての今なのだ。

 

 エリーからは当然馬鹿という称号は既に貰っている。


 だが、それでもこの直球すぎる説明でやっとコルンにも伝わったのだろう、彼の頬がじわりと赤くなったことに気付き私は目を見開いた。


「そ、れは……本当、ですか?」

「本当!」


 思わず食い気味でそう答えると赤い顔を隠すようにコルンが少し俯く。


“でも赤い耳が見えてるわ”


 その可愛い反応に胸がときめき指摘したいというイタズラ心が沸いたがやめておいた。

 きっと私の方が真っ赤に染まっているだろうから。


「俺も、です」

「え……」

「俺も、アリーチェ様のことをずっとお慕いしておりました」


“コルンが私を?”


 彼の反応で若干期待していたが、直接告げられる破壊力ったら想像以上で、さっき必死に堪えた涙がまた溢れそうになる。


「で、でもコルンはそんな素振り全然なくて、あんな書類だって用意してるくらいだし」


 信じたい気持ちと僅かに残る不安な気持ちで感情がぐちゃぐちゃになりながらそう問うと、コルンの少しかさつく剣ダコいっぱいの大きい手のひらが、私の手へ重ねられた。


「俺はアリーチェ様を庇った時に出来た矢傷を恥だとは思っていません。ですが世間的には違う印象を持たれるということも知っています」


 私を庇って出来た背中の傷。

 騎士にとって背中の傷とは、敵に背中を見せたから出来る『逃げ』傷とされる。


 そのため背中にある傷は騎士にとっての恥とされていた。


「だからこそ責任感の強いアリーチェ様は、この傷の責任を取ろうとしてくださっているのかと思っていて」

「だからあんな書類を用意していたってことなの?」


 私の質問にコルンが小さく頷く。

 そして再び口を開いた。


「俺達には身分差があったから」

「そんなのっ!」


 関係ないと言おうとして、ぎりぎりのところで思いとどまる。


“私にとっては関係なくても、コルンにとってはそうじゃないんだわ”


 私に男漁りの噂が出た時、それだけで私の元にたくさんの婚約申込書が届いた。

 それはもちろん私に対しての想いがある訳ではなく、父が第一騎士団長という事実と侯爵家という家柄。


 そして私と結婚すれば次期侯爵になれるという理由からなのだ。


 

“もしかしたら私の知らないところで何か言われたりしていたのかもしれないわね”


 もし彼が影で心無い言葉を言われていたのなら。そう思うと私の心がツキリと痛む。

 そしてそれと同時に、私が愚かなことを口走ったあの瞬間まで彼が婚約破棄を言い出さなかったのは、さっき伝えてくれた気持ちからなのだと気付き胸の奥が熱くなった。


“大事に、したいわ”


 私がそう言った陰口を噂ですら一切聞かなかったのは、きっとコルンが全て引き受けてきてくれていたからだろうから。


 ――私はもう、間違えないから。

 


「愛しているわ、コルン。愛するつもりがないなんて嘘、最初からずっと愛してた」

「アリーチェ様?」

「私を助けてくれた貴方はとても格好良かったわ。私だけのヒーローが現れたのかと思って胸がとってもドキドキしたの」


 重ねてくれた手を握るように動かし、指と指を絡める。

 一瞬ビクッとコルンの手が反応したが、振りほどかれないことが嬉しかった。


「あの時だけじゃない。見習い騎士の時から誰よりも熱心に訓練に来ていたこと、新人ながらに第四騎士団に配属されたことだってコルンが努力してきたからだって知ってるわ」


 普通は第六騎士団から徐々に上を目指すが、努力が実り第四騎士団からの配属になったのだ。


「だから私、貴方に婚約破棄を突き付けられて後悔したの。私もコルンみたいに努力すべきだったって。流行りの物語に乗るんじゃなく、貴方みたいに自分を高める努力をすればよかったって」


 せめて貴方に釣り合うよう頑張りたいと思った私は、苦手だった社交に刺繍、勉強だって頑張ることにした。


“その結果男漁りしてるなんて噂が立ってしまったんだけど”


 今の私から貴方に釣り合う私へと変わりたいから。


「そんなこと」

「あるわ。だってそれくらい、私にはコルンが輝いて見えるんだもの」


 ノースポールの花畑の中で私たちは相変わらず向かい合っている。

 遠くでカンカンと鋭い鐘の音が響くのが聞こえた。


 狩猟大会が終わった合図だろう。


「私、この花に誓うわ。もう不誠実なことはしない。真っすぐにコルンだけを見つめて本当のことだけを伝えるわ」


 誠実という花言葉を持つこの花たちに囲まれて、私は改めて口を開く。


「貴方のことが好きです。私ともう一度、婚約していただけませんか」

「俺も、いつも明るく真っすぐな貴女に癒されていました。アリーチェ様に格好悪いところを見せたくなくて頑張れていた部分もあるんですよ」


 ふふ、と笑みを溢すコルンにドキリとする。

 そんなこと全然知らなかった。


“コルンも私のことを見てくれていたのね”


「アリーチェ様のことが好きです。また、俺と始めてください」

「はい、喜んで!」


 返事をした勢いで目の前のコルンに抱き着く。

 やはり基本の体幹が鍛えているコルンとは違うのだろう。

 私が抱き着いてもビクともせず、コルンが私を抱きとめてくれた。


 そのままぎゅうっと抱きしめられる。

 そしてどちらともなく私たちは唇を重ねた。


 彼の大きな手のひらと同じように少しだけかさついているその唇は、想像していたよりもずっと柔らかくて、なんだか私の胸の奥をきゅうっとくすぐられるように感じたのだった――……


 ◇◇◇


 ラヴェニーニ家のテントへと戻るべく花畑を後にして歩き出した私たち。

 もちろん辺りを警戒しながらではあるが、今までとは違い私たちの手は繋がれていた。


「嬉しい、こうやってコルンと手を繋いで歩きたかったの」

「それは……、その、俺も嬉しいです」

「っ!」


 少し気恥ずかしそうに、だがコルンからそんな甘い返しが来たことに心臓が握られているかと思うほどキュンと締め付けられて苦しくなる。


“好き! いつもの素っ気ない様子も格好良かったけれど、照れながら返事をくれるコルンの破壊力ってばとんでもないわ!!”


 もう好きすぎて苦しい。結婚して欲しい。

 というかしたい。今すぐコルンと結婚したい。


 私の中のコルン愛が溢れて駄々漏れになりそうだが、私たちはやっと始めたばかりなのだ。

 流石にそこまで飛ばすとコルンが重荷に感じてしまうかもしれないと必死に呑み込み、私の中のコルン愛を落ち着ける為に別の話題を探す。


「そ、そういえば私、クロスボウを落としてきてしまったわ」


 母グマと遭遇したあの場所に落としてしまったクロスボウ。

 結構性能がいいちゃんとしたものだっただけに少し惜しくはあるが、あの場所へと再び足を踏み込れるのは危険だろう。


 ラヴェニーニ侯爵家の私設騎士団を連れて行けば回収は可能かもしれないが、そんなことをしてあの親子を刺激したくもないので早々に諦めることにした。


 クロスボウは矢をセットしなければ使えないので、何もセットされていない本体だけならば子グマが遊び道具にしても怪我をすることはないと思う。


“……というか、どうしてコルンはあの場にいたのかしら”


 いや、あそこが上級エリアならば、国の騎士団に所属している彼がそこにいるのはおかしくない。

 の、だが。


「どうして武器が剣だけ、なの?」


 剣を持っていることが不思議なのではない。

 ただ狩猟大会に参加したのであれば遠距離で攻撃出来るものも一緒に持っているのが普通である。


 剣だとどうしても接近戦になってしまい、大会の趣旨に合わないからだ。


「必要、ないかと思ったから……です」

「必要ない?」


 どこかしどろもどろにそう言われ首を傾げてしまう。


“狩猟大会に、剣以外はいらない?”


 不思議に思い彼の顔を見上げると、そんな私の視線から逃げるようにコルンが顔を背けた。


「今日は獲物を狩るつもりはありませんでした」

「え」

「アリーチェ様が参加されると聞き、その、護衛をしようと思っていて」

「え、えっ! それってもしかして、私がまた危険に巻き込まれないように……?」


 狩り場に飛び込んで獲物と間違われたり、さっきのように私では太刀打ちできない猛獣と遭遇してしまった時の為に、彼はこっそりと私の周りを警戒して守ってくれていたのだろう。


“そんなこと全然気付かなかったわ”


 そして私に危険がなく気付かないままなら、そのまま姿を現すことも口にするつもりもなかったのかもしれない。


「コルン……!」


 彼のその優しさと気遣いに、私はまた惚れ直す。

 というかもう惚れっぱなしだ。


“ダメ、やっぱりコルンへの愛が溢れて止まらないわ!!”


「もう今すぐ私と――」

「そういえば、婚約破棄合意書の件ですが」

「……ひえっ」


 やっぱり今すぐ結婚してと口走りそうになった私を止めたのは、コルンからのそんな一言。

 そして私は告げられた単語にビクリと肩を跳ねさせる。


“そ、その話は無くなったんじゃ”

 

 なんて震えながら、私も口を開いた。


「ご、ごめんなさい、実はまだあれ出してなくて……」

「そうなのですか?」

「コルンと婚約破棄するのが嫌で、私の部屋の引き出しに仕舞ってあるの」


 少々、いや、かなりビビりながらその事実を告げる。

 一応今の私たちは誤解も解けて両想いというやつだが、恋人と婚約者の差は大きい。


 当然私は彼との結婚以外は考えられないが、もしコルンが婚約破棄が成立済みだと思っていたとしたら、私とはとりあえず恋人になっただけと思っている可能性もあるだろう。

 

 私は今どれくらいいい女になれたのだろう?

 結婚はしたくないが、恋人くらいにならしてやってもいい、というレベルにしかまだなれていないかもしれないと青ざめる。


“どうしよう、恋人までならいいけど婚約破棄はそのまましたい、なんて言われたら!”


 そんな不安が過り、さっきとは正反対の理由で心臓が潰れそうになりながら彼の言葉の続きを待つ。

 エリーの言葉を借りれば最終勧告待ちというやつだ。


 バクバクと激しく音を鳴らす心臓を服の上からぎゅっと抑えた、その時だった。


 

「では、そのまま破り捨てていただけますか?」

「……え? いいの?」


 思っていた内容ではなかったことに安堵しながらそう問いかける。


「はい。あれは俺からアリーチェ様をいつでも解放出来るようにと用意していたものですから」

「解放……」

「でも、もう必要はないですよね?」


 にこりと笑顔でそう言ったコルンに私は大きく頷いた。


「ない! ないです!!」

「ははっ、俺は思っていたよりもずっと好かれていたのですね」

「気付いてなかったとしたらコルンだけよ」


 ホッとしながらそう返事をすると、繋いでいた手を軽く引かれて彼の腕の中へと飛び込んでしまう。


“!?”


 驚いていると、そんな私の耳元に彼が口元を寄せた。


「アリーチェ様も、どうか俺からも凄く好かれているのだと実感してくださいね」

「は、はひ……」


 僅かに上擦ったように、吐息混じりにそんなことを口にされて私の全身から力が抜け、私は情けなくもその場にへたり込んでしまった。


 もちろん真っ赤な顔を隠すことも出来ずに、である。




 きっとこれからの私たちにはまだまだいろいろなことがあるのだろう。

 またすれ違うかもしれないし、誤解したり迷ったり不安になることもあるかもしれないけれど。


“私たちは今やっと始まったのだから”


 きっとそんな時間すらも、いつかの宝物になるようなそんな気がした。

 何度季節が巡っても。これからもずっと、彼と穏やかで優しい時間が過ごせますように――

 

 

 私が渡した一輪のノースポールの花が、彼のポケットからちょこんと顔を出し揺れている。

 その小さな花が堪らなく愛おしいとそう感じたのだった。


最後までお読みくださりありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ