大聖女の孫 〜聖女の尊厳のために愛のない結婚を〜
「死ぬ前にもう一度、お父さんとお母さんに会いたかったなぁ」
そう言って、祖母は故郷を二度と見ることなく死んだらしい。
聖女であった祖母は、この聖ルーティエ国を瘴気の汚染から守るために異界から召喚された。その力は絶大で、死ぬ間際までこの国全てを覆う結界を張っていたほど。
その功績を称えられ、亡き祖母に大聖女の称号を贈られたのが、十五年前。
そして時代の聖女として、その血を継ぐ母が期待されたけれど……母の力は祖母には遠く及ばず。国の五割を守るのがせいぜいだった。
それでも、一人で国の半分を守ることができた母はとても偉大だと思う。普通の神官では町一つどころか、建物一棟を覆えるかどうかの結界しか張れないのだから。
だけど人々は望んだ。
大聖女の偉業を知ってしまった強欲な人々は、母にその血を多く残すことを強要した。
「優秀な血を、一人でも多く産むのが、貴女の役割だ」
力を継承させるために、母は愛する人と別かたれて、娼婦のごとく扱われ、望まぬ妊娠を強いられた。
結果、母は廃人となり、私には多くの弟妹たちができた。
弟妹の中には母並みの力を持つ子もいたんだとか。全員で力を使えば、祖母にも匹敵するほどの力だと言われている。だから弟妹たちは各地の教会へと分散させられ、聖女としての役目を果たすように赤子の頃から教育されているのだとか。
そんな彼女たちは、世間一般的にこう呼ばれている。
『大聖女の孫たち』と。
◇ ◇ ◇
……もう、見てられなかった。
「いゃあああああ! ああああああ!!」
また母が妹を産んだ。十一人目の、妹だ。
母が泣き叫びながら子供を生む。ここに尊さなんてない。ただ、ただ、畜生のように子を孕まされて、壊れていくだけの女がいる。
もう、見てられなかった。
私は手早く生まれてきた命を産湯につけて清める。
声を上げるのにも疲れたのか、ただ滔々と涙を流す母がいる。
母を助けるために助産師になった。でも母は、もう十年も顔を合わせていない私のことなんて分からないらしい。近づく人間全てに怯え、喚き、泣いて、腹の子を呪う。
もう、見てられなかった。
生まれた赤子を産湯から引き上げ、柔らかな布でくるむ。
その柔らかな布をもう一枚、手に取った。
「ごめんね、母様。でも安心して。父さんも、私も、弟妹たちも。すぐに追いかけるから」
柔らかな布を母の首に巻く。暴れる母の身体を抑えつけるのは簡単だった。それほどに母の身体は細くなっていたから。
私は息を吸って、吐いて。心を落ち着かせる。母のためと、手に力を込める。
その時だった。
「何をしているんです」
「……神官長様」
「いつもの産婆ではないからと見張らせていれば……どういう了見ですか」
産屋としていた部屋の扉が開く。
肩で切りそろえられた黒髪をさらさらと揺らしながら歩いてくるのは、神官長シーナカイト。
私は彼をまっすぐと見返した。
「こっちにこないで」
見えない線を引く。
彼と私の間に見えない壁が生まれる。
神官長はソレに気がついた。
「……これは、聖女の結界? どうして聖女の力を、君が持っているんだ」
「申し遅れました。わたくし、サーヤ・アメノ・ダンディーニと申します」
父方の姓を名乗りながら、カーテシーをする。
名前が指すものに気がついたらしいシーナカイトが、目を見開いた。
「聖女アリーナの……」
「母が大変お世話になりました。祖母の代から続き、神聖教会の方々には返しきれない御恩がございますので。……仇で返しに参りました」
アリーナは母の名前だ。
シーナカイトは二十七歳だと聞いている。それならたぶん、十年前に母の身に起きたことを知っているはずだ。神官長ならなおのこと。
シーナカイトは苦々しげに表情を歪ませる。
そんなに私たちのことが憎い? それとも邪魔だと思っている? まぁ、どちらでも私には関係のないことだけど。
「仇で返すと言ったけれど、どうするつもりなんだい」
「母を殺して、弟妹も殺して、この国から聖女の血を絶やす。それがダンディーニの悲願」
「正気かい? そんなことをすれば、国が瘴気に包まれる」
私は笑ってあげた。
だから仇だと言ったのよ、と。
「私たちには関係ない。むしろ、聖女をモノのように扱う国なんて滅べばいいと思わない?」
「そんなことをしても、また聖女召喚が行われるだけだ」
「大丈夫。召喚の知識を持つ者も一緒に殺す手はずになっているの。……今頃、各地の教会をダンディーニ領の軍が制圧している頃よ」
シーナカイトが黙ってしまった。
私はにっこりと微笑む。
「聖女の血はここで絶やす。私たち家族は来世で幸せになるの」
歌うようにささやいて、私はシーナカイトへと背を向けた。
結界を張ったから、彼はもうこれ以上、近づいてこれない。
母を眠らせよう。
母と同じように家畜とされる前に、弟妹たちも眠らせよう。
本当は父様がここに来たかっただろうけど、父は母と離婚させられた時に教会に目をつけられてしまったから。
だから私が来た。
会いに来たんだよ、母様。
もう一度、母の首へと巻いた布へと手を伸ばす。
触れる寸前に、背後から声が。
「やめろ……! アリーナ様を傷つけるな!」
「どの口で言うの!?」
聞き捨てならない言葉に、私の視界が真っ赤に染まる。
「母様を傷つけたのはお前たちだ! お前たち神官どもだ! 私たちという家族を奪って! 尊厳を傷つけ! 家畜に落としたのはお前たちだ!」
「知っている……! そんなことは、僕が一番知っている……!」
バチッと電光を散らして、結界が震える。
結界に拳を叩きつけたシーナカイトが、唇を血が出るほど噛み締めて私を見ていた。
「だからここまできた……! アリーナ様をそんな風に使った神官たちを引きずり下ろして、ここまできた……! ようやくだったんだ、ようやくアリーナ様を解放できる算段がついたのに、それを君たちダンディーニが台無しにするつもりか!」
シーナカイトの言葉に、一瞬思考が止まった。
まるで母の味方かのような言葉に、思考が空転する。
「……なにを、言っているの……?」
「ダンディーニ伯爵を止めてくれ。今ならまだ間に合うはずだ。君たちにアリーナ様を、正規の手順で返してやれる。その、つもりだったんだ」
私は首を振る。
こんな甘い言葉にはもう騙されない。
そう言って寄付だとかいって、父から金を搾り取った教会神官のなんと多かったことか。
「私を唆しても無駄よ」
「本当にこれでいいのか、君は」
「それで思いとどまれるなら、ここまで来ないわ……!」
話すだけ無駄だ。
見切りをつけて、私は母と向き合う。
向き合おうと、したのに。
「それがたとえ、アリーナ様の願いでもか」
「……どういうこと?」
耳を傾けてはいけないと思うのに。
母の名につられて、シーナカイトを振り返ってしまう。
シーナカイトは私を見つめて、囁くように言葉を紡ぐ。
「アリーナ様の願いを、僕には叶える義務がある」
「母様の願い? そんなもの、今更よ」
「十年前、まだ正気を保っておられた頃に、僕はアリーナ様と約束をした。君たち家族を守ると」
「私たちを……?」
そうだ、とシーナカイトは頷く。
「大聖女はダンディーニにいると言っていた。だから守れと。私がつなぐから、未来の子供たちのために、異界から寂しい運命を持つ人を喚ばないようにと」
「……聖女召喚のことを言うのなら、それはさっきも言ったように、根絶やしにするから」
「そうじゃない。アリーナ様は、君たちの幸せを願っていた。それは君が一番よく、知っているんじゃないか。……ダンディーニの大聖女」
私は鼻で笑う。
私が、ダンディーニの大聖女?
「当てずっぽうで言っているの?」
「違う。僕は大聖女の秘密を知っている」
初めて。
私は窮地に立たされていることに気がついた。
結界を張って、誰にも侵されない神域を作ったのに。
言葉ひとつで私の動揺を引き出す。
罠だ、はったりだ、耳を傾けるな。
そう思うのに、シーナカイトの言葉はますます私を追い詰める。
「大聖女の日記を読んだんだ。この神殿に置かれている日記を。他の誰にも読めなかった日記を読んだんだ」
「お祖母様の日記……?」
どういうことだろうか。
お祖母様の日記があったのか。たとえあったとしても、そんな大切なものを置いて死ぬなんて。
「日本語で書かれていたんだ。誰にも読めるわけがない。……僕だから読めたんだ」
ニホンゴは祖母の母国語だ。
私も、簡単な単語なら書けるし、読める。それをシーナカイトは読めた……?
私は一つの可能性に気がついて、全身の血の気が引いていく。
「まさか、あなた」
「君の想像する通りだよ。僕の本当の名前は椎名海斗。十年前に、この国に召還された。……聖女の力はなくて、奴隷同然に扱われそうになったのを、アリーナ様が助けてくれたんだ」
「そんな……っ」
私たちは遅かった。母への仕打ちを知って、時間をかけて入念に準備をしているよりもずっと早く、祖母と同じように召還された人間がいた。
なんてこと。なんてこと。なんてこと!
「だから僕は知っている。大聖女の秘密も、聖女召喚の秘密も。……大聖女の力は継承する力だ。血筋としてアリーナ様は力の一部を継承したけど、それは十全じゃない。本当の力は、君が大聖女様から直接、継承しているんじゃないか? 君に継承されていないなら、召喚された時に僕にその力があったはずだ」
私たちしか知らないはずの、大聖女の力のこと。
私たちでも知らない、大聖女の力のこと。
私は、この男を殺すべきだと思った。
口を封じないと、封じないといけないのに。
揺れる黒髪が、私の動きを鈍らせる。
「――君に提案するよ。教会へ、国へ、一緒に復讐をしよう」
目を見開く。
何を言われているの? この人は何を言っているの?
「この国は聖女を軽んじる。教会が聖女を家畜のように潰していく。僕もようやくここまできた。きたけど、まだ足りない。僕が死んでもなお、聖女の権威を維持しないといけない。僕のように召喚される人間を生んではいけない」
ようやく気がついた。
シーナカイトの瞳に映っているのは、狂気だ。憎悪だ。復讐心だ。
私たちダンディーニが持つ感情よりも、ずっと冷たくて熱い感情が、シーナカイトのどろりとした黒い瞳に渦巻いている。
「いったい、何を考えているの」
「聖女を血統主義にする」
「けっとうしゅぎ……?」
「聖女の血に、僕の血を混ぜる。異界人の血だ。その子に君の大聖女の力を継がせるんだ」
眦が吊り上がる。
結局はこの男も、他の教会の奴らと同じだ!
「断る! 私は母様と同じ轍を踏まないわ!」
「違うよ。全然違う。ここから始めるんだ。聖女の血統主義。それを僕らで作っていく。……無差別に聖女が孕まされないように、君の継承した力を、正しい血に流れる者へ継承する」
それが復讐だとシーナカイトは言う。
でも私には分からない。
これのどこが復讐なのか。
聖女の力があるから、教会は国は、助長した。聖女の力を継ぐよりも、抹消したほうがはるかに復讐になるのに。
そう思っていたら、それが顔に出ていたのか。
シーナカイトが私をまっすぐに見て。
「大聖女の孫たちは、教会の洗脳がかかっている。普通の言葉は通じない。この意味がわかるかい」
「たとえ弟妹でも、私たちの敵ってことでしょう」
「そうだとも。君は彼らを殺すことでこの世界から解放しようとしているけれど……僕は生かして自我を取り戻させてやりたい」
「……どうして、わざわざ」
「言っただろう、アリーナ様と約束をしたと。その家族には……彼女が生んだ弟妹たちも含まれている」
そう言った瞬間、ずっと私の結界に触れていたシーナカイトの指に力がこもる。ささいな力だ。見逃してしまうほどの。でもそれは、歴然とした力関係を私に見せつけて。
結界が、崩壊する。
国ひとつを丸ごと包めるような力を圧縮して張った結界が、崩壊させられる。
シーナカイトの掌で。
崩壊した結界の破片が宙に散る。
声もなく、ただただその光景を見ていたら、シーナカイトはゆっくりと歩きだして。
「僕と結婚しよう、大聖女サーヤ・アメノ・ダンディーニ」
……何が、聖女の力を持っていない、だ。
この男は、聖女の力を相殺する力を持っている。
この男なら、すぐにでもこの国に、教会に、反旗を翻せるはずなのに。
「……なぜ、その力を使って、この国を滅ぼさないの」
あなたならできるでしょう、と言えば、シーナカイトは綺麗に微笑んで。
「だってアリーナ様が望まないから」
それはまるで、憧れの人の願いを叶えるためにひたむきに突き進む、恋する少年のようで。
私、は。
「……分かった。母様が、そう望むというのなら」
正気を失い、瞳の焦点も合わない母。
出産前から根気強く話しかけても、うわ言しか言わなかった母。
私の顔も認識しない母。
その母が、かつてそう望んだと言うのなら。
「あなたと結婚してあげる」
この血をつなぎ、何よりも尊いものとして、この国に根づかせてみるのもいいかもしれない。
失われた聖女の尊厳を、取り戻すために。