第99話 09月18日【2】
「恐れ入りますが、お父様は歯科医師様との御縁談を望まれていたのでは、ありませんか?」
眉尻吊り上げる私に対し、御父上は変わらず均整な笑みを浮かべると――
「それは嘘です」
――さも平静と、答えを示した。
あまりに自然と放たれたその言葉に、呆気に取られた私は瞼を何度も開閉させた。
「えっ、ウソだったの!?」
お嬢ちゃんも驚きの様相で声を荒らげる。
「噓と言うと語弊があるな……『どちらでも良かった』という方がニュアンスとして正しいか」
「ど、どういうこと?」
私の頭にも浮かんだ疑問。
御父上は、尋ねたお嬢ちゃんではなく、私に視線を向ける。
「事務長様……いえ、津上さん。私は別に娘の夢や将来を潰そうと思って、このような席を用意したわけではありません。むしろ彼女を全力で応援するつもりなのです。しかし……世の中は決して自分の想い通りに進むわけではありません。理想の前には辛く厳しい現実が待ち構えています。
娘が子供好きというのは知っています。本気でなりたいのなら幼稚園教諭でも保育士でも好きに目指せば良い。
ですが御恥ずかしながら、この子は箱入りで世間を知りません。
いくら保育士や教員であっても、職場には理不尽なルールも煩わしい上下関係もあるでしょう。預けた親から誹謗中傷を受けるかもしれません。そんな現場で、この娘がやっていけるとは、どうしても思えません。
だからこそ私は、進路を定める間にも医療職のアルバイトをするよう説いたのです。厳しい医療の現場で続けることが出来れば、養育の仕事でもやっていけるとの考えからです。
万が一すぐにアルバイトを辞めようとも、医療職を経験しておけば、私の会社に入った時にも多少は役立つでしょうから。
ですが……いえ、やはりと言うべきか。最初の耳鼻科はすぐに辞めてしまった。
本当はそこで区切りを付けさせても良かったのですが、幸いにも事務長様に拾って頂いたというわけです」
御父上は私からお嬢ちゃんに目線を移した。彼女は物憂げに顔を逸らす。
私はといえば、相槌も打たずに聞き入っていた。
正直に言えば、少々強引だと思った。結局は自分の会社へ入社してほしいのではないのか、とも。
だがそれを言葉に出させないのには、御父上の言葉にそれだけの凄みと説得力を感じたからだ。
御父上はペリエを一口含むと、「ふう」と息を吐いて、再びその厚い口を開いた。
「モデルの件もそうです。潔く辞めたかと思えばアルバイトなのかも分からない、インストラクターを続けている。
趣味やボランティアで、そういったイベントに参加することは構いません。しかし本業は別に持つべきです。それさえ難しいのであれば、残る手段は一つしか無い」
「………それが、結婚なの?」
おずおずと尋ね答えるお嬢ちゃんに、御父上は大きな頷きで返した。
「結婚して家庭に入れば、家事の合間にモデルでも講師でも、やりたいことをすれば良い。まだ若いのだから子供もすぐに作る必要もない。
夢を追うのなら、それが最も現実的な選択肢だ。万が一挫折しても、結婚さえしていれば生活に困ることも世間体を気にする必要も無い。
とはいえ、専業主婦になるのであれば、相手にもそれなりの経済力が必要になる。だからこそ私は、歯科医師を見合い相手に立てんだ」
御父上は肩を竦ませ呆れたように言うと、無造作に皿の上の肉を口へ運んだ。
真芯に響くような御父上の声。そこに恐らく偽りは無い。決して逸らそうとしない瞳にも、真摯な思いが伺えた。
だからこそ、私には不思議でならない。
「御父様のお気持ちは分かりました。でも、それなら約束を反故にされる必要な無かったのではないですか? 確かに耳鼻科さんは短期で辞めたかもしれませんが、彼女は現にこうしてウチで頑張ってくれているんですから」
「……私もそう思っていました。というか、ほんのつい先日までは私も、約束通り娘が25歳になるまで待つつもりでいました」
「それじゃあ、どうして急に?」
お嬢ちゃんが怪訝に小首を傾げて、私もほんの少しだけ前のめりになった。すると、御父上はポリポリと側頭部を掻いて、
「……心配なんです」
厚顔赤らめ、恥ずかしそうに《《くしゃっ》》と笑った。
私は再び、瞼を高速開閉させる。
「私とて、娘の意に反した結婚など望みません。出来ることなら、娘が自身で選んだ男性と結婚してほしい。
なのにこの子は、いつまで経っても浮いた話ひとつ出ません。父親としては嬉しい反面、心配でもあるのです。このまま歳をとってイザという時、悪い男に騙されないかと」
私は適切なリアクションが分からず、ポカンと口を開けた。毒気を抜かれた、といった所か。
御父上は「ははは」と気丈に笑うも、すぐに大きな溜息へ変えた。
「そんな折、先日のイベントで貴方とお会いしたのです。そこで考えが変わりました」
「どうしてですか?」
「それは……私の口からは申し上げられません」
御父上は穏やかに笑って言うと、切り分けた肉を美味そうに頬張った。




