第97話 09月15日~09月18日
「こ、恋人って…!」
予想だにしないお嬢ちゃんからの嘆願に、私は椅子から立ち上がって驚いた。
お嬢ちゃんは、ただでさえ赤い顔を更に赤く染め上げ、オタオタと両手を振った。
「あっ、あの! 恋人って言っても、フリだけですから! お見合いを断るために、恋人のフリをして父に会ってもらえれば…」
「あ、ああ……そうか。《《フリ》》ね…」
微苦笑と同時に浮かんだ汗を拭って、私は平静を装ってみせた。というか、そんなに必死になって否定されると傷つく。
「でも、わざわざ恋人のフリなんかしなくても、お父さんに『この人が恋人です』って、写真でも見せれば良いんじゃないの?」
「それが、父は『直接会わせなさい』って。たぶん私の言葉を怪しんだんだと思います」
「そうか…」
「おまけに、連れてくる日にちも決められて、その日に連れて来られなかったら『問答無用で見合いさせる』って…」
お嬢ちゃんは湿度の高い溜め息を吐いた。
人様の家庭に口を挟むのは失礼かもしれないが、確かに御父上のやり方は横暴に思える。
なにより、このままお嬢ちゃんに辞められるのは私としても心苦しい。
「その指定された日って、いつ?」
「明々後日です。9月18日の、日曜日」
「………っ!!」
その瞬間、私は声も出せずに凍り付いた。
次の日曜日といえば、綾部さんと約束をしていた日ではないか。
私は眉間に皺を寄せ、腕組みしながら黙考する。
「事務長?」
突然と口噤んだ私に、お嬢ちゃんは不安そうな顔で声を掛けた。
「あ、いや……うん、分かったよ。ちょっとスケジュールを確認してみるね。
お嬢ちゃん、明日は夕方からの出勤だったよね。また連絡するから、今日はもう上がろうか」
「わ、分かりましたっ! すみません事務長。ありがとうございますっ。よろしくお願いしますっ」
何を察してか、お嬢ちゃんは慌てた様子で診察室を出ると、何度もお辞儀をして、裏口から事務所へと向かった。
ドアを潜る直前まで頭を下げる彼女を見送り、私は薄暗い診察室で、ひとり天井を見上げた。
だが何も変わらない。
呆然と天井を眺めていた所で、事態はなにひとつ好転しない。
鉛のように重たい腰を上げ、私は受付に続くドアを開いた。
※※※
「――というわけなんだ」
「なるほど…」
私は綾部さんに、お嬢ちゃんの御父上と会う話をした。当然、『見合い』や『恋人のフリ』などの言葉は伏せた。
『お父上が経営されている会社に不本意な入社を迫られているから、説得のため彼女の勤怠状況を御説明にあがる』という言い方に収めて。
「それは、一大事ですね」
綾部さんは真剣な表情で私の話に耳を傾けてくれた。少しだけ、胸が痛んだ。
「ゴメン、綾部さん。そういうわけだから、約束の日にちを延期して貰えないかな?」
両手を合わせて、私は祈るように頭を下げた。
恐る恐ると私は上目遣いに彼女を見上げる。
すると綾部さんは、柔和な笑みを浮かべていた。
「構いません。職務に関わることですし、小篠さんが退職されるのは私も不本意ですから。私の方は、いつでも結構です」
「ありがとう。本当にゴメン」
「とんでもありません。ですが…」
綾部さんは徐に私の手を取ると、その白い両手で静かに包み込んだ。
「……必ず、帰ってきて下さい」
まるで私が長い旅にでも出るかのように、私の手の感触を覚え込むように、彼女は静かに握りしめた。
「なにさ、それ。ちゃんと帰ってくるよ。当たり前じゃない」
笑いながら答えて、私は彼女の細い手を、そっと握り返した。
私は《《そこ》》に居ると、伝えるかのように。
※※※
そうして面会の当日、私は指定されたホテルまでやって来た。
あろうことか、そこは以前に光希さんと見合いをしたホテルであり、綾部さんが詐欺師の男と来たホテルだ。
この地域の人間は『見合い』と言うとこのホテルしか候補に上がらないのだろうか。
奇妙な縁を感じつつ、クリーニング済のスーツに身を包んで、私はロビーを闊歩する。
エレベーターでレストランのあるフロアまで上がれば、清楚感の漂う上品なワンピースに身を包んだお嬢ちゃんが、入口まで迎えてくれた。
「事務長、今日はありがとうございます」
「いいよ。お嬢ちゃんの頼みだからね。出来る限り協力するよ」
ニカッと歯を見せ笑ってみせれば、お嬢ちゃんは照れ臭そうに頭を下げた。
「あの、それで父には…」
「うん、分かってる。『お互い好意的に思ってるけど、上司と部下の関係だから周りには秘密にしている。ゆくゆくは結婚も考えている』っていう設定で良いんだよね?」
「はい、お願いします」
お嬢ちゃんは、頬を染めながら笑顔で応えた。
設定とはいえ、お嬢ちゃんと恋人同士だなんて、少々照れ臭い。
そして私たちは、二人並んで席に向かった。
「お久しぶりです、津上さん。娘がいつもお世話になっております」
高価そうなスーツに身を包んだ中年の伊達男が、整った笑顔で私を迎えた。