第75話 08月12日
「どうして此の間、薬局王にあんなことを言ったんですか?」
注文したオムライスが運ばれてくる前に、向かい合って座る光希さんへ私は問いかけた。
楽しい時間に水を差している。
それは私も理解している。
けれど胸の奥にあるこの灰色の感情に目を背け楽しいフリをしているのは、それこそ彼女に失礼だと思った。
光希さんは変わらず口元に笑みを浮かべつつも、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「翔介さん。私は、貴方のことが好きです」
「え……」
予想外の回答。不意をつかれたように、私は両の眼パチパチと開閉する。
「私には恋愛経験はありません。でもこの想いこそ愛情なんだと、私は理解しています」
そう言うと、光希さんは穏やかな微笑と共に顔を上げた。
「私は貴方を愛しています。だから私は、貴方に幸福であってほしい。たとえそれが私でない、他の誰から与えられた幸福であっても。
貴方が幸せだと感じるのなら、あの薬局長さんと交際されることも、結婚することも私は受け入れ祝福します。
だから私は、あんな真似をしてまで、あの方の愛を測りました。
もしあそこで誘致の話を取るような人なら、貴方を幸せになんて出来ないと思いました。
でも彼女は貴方を選んだ。自分の大切なものをかなぐり捨てても貴方を選んだ彼女なら、きっと…」
まるで絵本を読み聞かせるような淀みない声に、私は当事者であることも忘れて聞き入った。
こうも真正面から自分のことを好きだと表明されては、まるで他人事のように感じてしまう。
だが薬局王と私が交際や結婚を……という点は流石に突飛している。
確かに彼女は誘致の話を断ってまで私との関係性を優先してくれた。だがそれは愛情というより友情や恩情の類ではなかろうか。
私は「うーん」と腕組みして考えた。
「あ、勘違いしないで下さいね。あくまでも貴方を幸福にできるのは私だと思っていますから。愛する貴方のために、私はこの身を捧げる覚悟です」
自信たっぷりと言い切る光希さんに、私は赤面して眼を逸らした。
その後すぐにオムライスが運ばれてくると、光希さんは何事も無かったように「美味しそうですね」と手を合わせた。
「子供の頃は、月に3度はオムライスだったんです」
「そうなんですか?」
「はい」
笑顔で応えた光希さんは、嬉しそうにオムライスを一口だけ含んだ。
「私の家は決して裕福では無かったので、生活が苦しいこともありました。そんな時は余り物で出来るオムライスが活躍してくれたんです」
「オムライスが? 僕には御馳走に思いますけど」
「確かに見た目にも綺麗ですからね。でも何を具材にしても美味しくなるから、母はよく冷蔵庫の残り物を手当たり次第に入れていました。竹輪や納豆が入っている時もありましたよ」
「それはまた、随分和風なオムライスですね」
などと先程のことは無かったかのように、取るに足らない話題で盛り上がりつつ、私達はオムライスに舌鼓を打った。
それから私達は時間も忘れて話し込んだ。
光希さんは子供の頃に猫を飼っていたらしい。保護猫や捨て猫を見かけては拾って、そのたび彼女が世話をしていたのだとか。
小学生の頃は勝気な女の子で、男の子を泣かせることも多かった。今のお淑やかな彼女からは想像もできない。
中学時代はバスケ部に所属していたようだ。本当はテニスやバドミントンをやりたかったそうだが、ラケットやボールが高価だからと親に気を遣っていたとか。
高校に入るとアルバイトを始めて、勉強の傍ら懸命に働いていた。おかげで当時の店長からは「高校を卒業したらウチの社員にならないか」と声を掛けられ、それが自慢だったという。
何度か男子生徒に「付き合ってくれ」と言われたようだが、その頃から恋愛感情というものが分からなかったそうだ。「なんとなく」で交際を始めない辺り、とても彼女らしい。
大学時代は苦しかったと言う。
国公立大学とはいえ、周りは医者を目指す人間の集まり。当然と家はある程度裕福で、中にはベンツを乗り回す同級生も居たとか。
そんな中、バイト代で教材を買い、奨学金で学費を賄っていた彼女は周囲に馴染めなかったらしい。部活やサークルも結局は代道具や飲み会でお金が掛かるからと、どこにも所属しなかった。
おかげで友人は少なく、チーム医療の講義や実習の時は困ることも多かったと、笑いながらに話してくれた。
追加で珈琲とケーキを頼み、長居してしまった店を後にした私達は、光希さんの希望で近くの緑地公園にある観覧車に乗った。希望すれば2周目も可能らしいが、周辺は単なる住宅地だ。その必要があるのだろうか。
ゆっくりと上昇する観覧車。ぼんやりと夕暮れの景色を眺めていれば、唐突と光希さんが隣へ座り直した。
そしてそのまま何を言うでもなく、私の肩に頬を寄せる。
甘く心地よい香りが私の鼻を擽った。
高まる体温。速まる心臓。震える肩で緊張を悟られないか不安を覚えつつ、私も彼女の温もりを肩に感じていた。
「もう一周だけ……このままで良いですか?」
「は………はい」
震える声で応えた私は、恐る恐ると『もう一周』の看板を表に向けた。