第71話 08月07日【1】
「翔介さん…?」
「か、神永さん…」
私は驚きに目を丸めた。偶然入った喫茶店で光希さんと出会したのだから。
店内入り口に一番近いテーブル席で、彼女は珈琲を片手に分厚い本を開いていた。
私の登場に光希さんも驚いたようだが、すぐに平静を取り戻し、優しく微笑み返してくれた。
「ねえ、どちら様?」
唖然と言葉を失っていた私に、薬局長がスーツの袖を引いて尋ねた。
「あ、うん。あちらは知り合いのドクターで――」
「あら、そういうこと!」
私が言い終わるより早く、薬局長は名刺ケースを取り出した。そして遠慮なく光希さんの前に立てば、
「初めまして。私、〈株式会社ヴェール・ファルマ〉の取締役をしております、薬剤師の佐江木と申します」
社会人らしい挨拶ともに、腰低く名刺を差し出した。
光希さんも迎えるように起立し、慣れた様子で名刺を受け取った。
「彼女は、病院の隣の調剤薬局で薬局長をされているんです」
名刺の受領と同時に私が補足すれば、光希さんは「なるほど」といった様子で両手を合わせ叩いた。
「申し遅れました。私、K大付属病院で小児科医を務めております、神永です。〈ヴェール〉さんには当院もいつもお世話になっております。どうぞ宜しくお願い致します」
「御丁寧にありがとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します、神永先生」
どちらが上ともなく二人は深々と頭を下げ合った。
その光景に、私はほっと胸を撫で下ろす。
なんとなく、この二人を引き合わせてはならない気がしていた。けれど今の様子を見るに、どうやら杞憂で終わりそうだ。
緊張が解けた私は「ふう」と風船みたく息を吐き出した。
「ところで、翔介さん?」
「はい?」
「ダメですよ。昨日約束したばかりじゃないですか。『私のことも名前で呼ぶ』って。もう忘れたんですか?」
「ああ、すみません光希さん。ついうっかり」
ぷくっと頬を膨らませて怒ったフリする光希さんに、私は「ははは」と愛想笑いで返した。傍から見れば他愛のない遣り取りだろう……が、しかし。
「どういうことかしら?」
抑揚のない声が私の背中を刺した。咄嗟に振り返れば、薬局長が笑顔に青筋立てている。
「どうして知り合いでしかない御二人が互いを名前で呼び合わなければいけないのかしら? 『昨日約束した』ということは昨日も会ってたのね? そういえばこの店に入った時から気になっていたけれど御二人はどういった御関係なのかしら?」
ヒクヒクと頬を引き攣らせ、薬局長は敢えて言葉に波を付けた。
まるで氷河みたく色の無い声に、鳥肌が立つほどの寒気が私の全身を襲った。
「そちらこそ、どのような御関係ですか? とても診療所と薬局の関係には見えませんが?」
そして呼応するかのように、光希さんも笑顔のまま威圧的なオーラを発する。
二人の間に見えない火花が散るようで、私の背中には冷たい汗の滝が出来た。
「……そ、そうだ! 神……み、光希さんはどうしてこちらに?」
どうにか話題を晒そうと尋ねれば、薬局長を正面に据えていた光希さんが、私に視線を切り替えた。
「今日は、研修医時代にお世話になったドクターと食事の約束をしているんです」
「あ、お食事! ということは昨日仰っていた用事も…」
「はい。その先生とお会いするために」
「な、な~るほど! だから昨日、こっちへ居らしたんですね!」
「はい」
わざとらしい程に大きな声で私は答えた。薬局長に説明する意図を込めてのこと。そうしてチラリと反応を伺えば、彼女は腕組みして「フンッ」と気強く鼻を鳴らした。
私は肩落とし溜息を吐いた。が、次の瞬間。
「つい最近こちらの方に整形外科を開院されたので、少々お手伝いに」
その言葉にドキッ! と、殴られたみたく心臓が波打った。嫌な予感が、脳内で明瞭にイメージされる。
「……ちなみに、その院はどちらに?」
「あそこの3階です。ほら、1階部分が空きテナントになっているあのビル。今度、そこに調剤薬局さんを誘致したいそうで」
光希嬢は窓の外に見える小さなビルを指差した。見るまでも無い結果に、殺気立っていた薬局長の表情も戸惑いに変わる。
「それで、御二人は日曜日に何を?」
まるで全てを理解しているかのような光希さんの笑顔と質問に、私と薬局長は額に汗を浮かべて互いを見やった。