第68話 08月01日〜08月02日
「こ、婚約者って……どういうこと!?」
唐突な薬局王の台詞に、降ろしかけのシャッターもそのままに私は尋ね返した。
慌てふためく私を見て、逆に薬局王は落ち着きを取り戻す。
「別に本当に婚約者になるわけじゃないわ。婚約者の《《フリ》》をしてくれれば良いのよ」
薬局王は明るい笑みを浮かべて答えたが、私は状況も意図も理解できず首を傾げた。
「なんでまた、そんなことを?」
「アナタも知っていると思うけれど、最近この近くに整形外科が出来たのよ」
「ああ、そういえば前に小澤さんが言ってたね」
宙ぶらりんのシャッターを漸くと降ろして、私は医薬品卸会社の営業さんを思い出した。
「その病院、今までは院内処方だったのよ。でも来年には院外処方に切り替えるらしくて」
「ほお」
「同じビルの1階に空きテナントがあるから、そこへ薬局の誘致を考えているらしいの。でもどの薬局にするかは面談で決めるらしくて、そのコンペティションが今度の日曜日に行われるのよ」
「要するに、新しい整形外科の門前薬局になる権利を勝ち取りたいってこと?」
「そんなところね」
「事情は分かったけど、僕が婚約者のフリをすることと何の関係があるのさ」
当然の疑念を投げかければ、薬局王は「そうなのよね」と溜め息混じりに額へ手を当てた。
「そちらの病院の院長先生、かなり医者贔屓の方らしいのよ。だから私が一人で行くより、クリニックの関係者であるアナタを縁者に仕立てた方がスムーズに話が進むはずだから……という、お父様の提案よ」
肩をすかし大きな溜息を吐きつつ、薬局王はニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「というわけで、一日だけ私の婚約者になりなさい」
言うと薬局王は、犯人を突き止めた探偵みたく、ビシッと私を指差す。
「うーん、でもなぁ…」
「なによ、そんな不満そうな顔して。もしかして嫌だとでも言うのかしら? 私の……婚約者になるのが」
「嫌とかそういうことじゃなくて、意味がわからないっていうか、気が乗らないっていうか」
「あら。アナタにそんな事を言える権利があるのかしら」
「へ?」
「綾部さんを尾行するために、シーサイドホテルへ一緒に行ってあげたこと、もう忘れたの?」
不敵に微笑み浮かべる薬局王。ハッとした私はすぐさま姿勢を糺す。
「喜んで協力させて頂きます」
最敬礼にお辞儀すれば、薬局長は「よろしくてよ」と得意気に胸を張った。
「けどさ、仮にそれで誘致が成功したとして、後から追及されたらどうするの? 噓がばれたらマズくない?」
「店舗さえ構えればこっちのものよ。そもそも薬局の誘致自体グレーなんだから、向こうも強く言うことは出来ないはずよ。まあ一番良いのは実際に私とアナタが結――」
と、そこまで言いかけて薬局王は自分の口を抑えた。
「『けっ』……なに?」
「な、なんでもないわ! とにかく、ドクターと面談するのは今度の日曜日よ! ちゃんとスーツを着てきなさい! いいわね!」
置き捨てるように言うと、薬局王は踵返して颯爽と自分の薬局に戻った。
その時の彼女の足取りがやけに軽そうだったのは、私の見間違えだろうか…。
※※※
翌日の休診時間中、私は近所のクリーニング屋を尋ねた。
日曜日のこともありカッターシャツも何枚かクリーニングをお願いすると、ハンカチの料金はサービスしてくれた。
出来上がりは明日の夕方以降になるそうだ。
私は彼女に貰った連絡先をスマートフォンへ打ち込んだ。
―― こんにちは。津上翔介です。先日はお忙しい中、ありがとうございました。お借りしたハンカチをお返ししたいのですが、お忙しいと思いますので郵送の方が宜しいでしょうか? ――
何度も添削を重ねたショートメールを送信した。
すると10分後、スマートフォンが強く鳴動する。私は画面の通話ボタンをタップした。
「はい、津上です」
『こんにちは、津上さん。神永です。今、大丈夫ですか?』
「はい、大丈夫です」
『ありがとうございます。メッセージありがとうございました。私も先日は、とても楽しかったです』
社交辞令とは理解している。だが、とてもそうは思えないほど明るく透き通るような声だ。
「こちらこそです。ところでメッセージにも書かせて頂いたように郵送で――」
『いえ。直接返して下さい』
私が言い終えるより早く、光希嬢が拒否を示した。
『そのハンカチは思い出のある、大切な品なんです。なので、必ず手渡しで返してください。津上さんの都合が良い日で構いませんので』
「わ、分かりました…」
強い意志を感じさせる声に、私は他の選択肢を見出せなかった。
『ありがとうございます。いつ頃お会いして頂けますか?』
「そう、ですね……直近だと木曜日か土曜日の夕方なら」
『では土曜日でお願いします。待ち合わせは津上さんのクリニック最寄りの駅で如何でしょう?』
「良いんですか?」
『はい。丁度そちらの方に用事がありましたので』
「じゃあ、御言葉に甘えて」
『はい。では今度の土曜日、18時に駅の改札前でお願いします』
「分かりました。失礼します」
液晶画面の赤い終話ボタンをタップして、私は「ふぅ」と大きく息を吐いた。
仮にも見合いでフラれた相手だ。一体どんな顔をして会えば良いのか。
土曜日のことを考えると、少しだけ億劫になった。