第67話 08月01日
父に連れられた見合いを無事に終えた私は、一息つく間も無く月初の保険請求作業に追われていた。
最近は綾部さんと二人で行っていたこの業務だが、今回はまたお嬢ちゃんに手伝ってもらった。
もうすぐ当院もお盆休みに入り、時間的に余裕が無いからだ。連休前は普段より患者様が多く来院されるからな。
それに、綾部さんと2人きりになるのが、まだ少し恥ずかしいのだ…。
「あの、事務長」
と、受話器を手に綾部さんが私を呼んだ。彼女を見つめていた私は、思わずビクリと肩を震わせる。
「な、なに?」
「院長がお呼びです。事務所に来てほしいと」
「あ、うん。分かった。ありがとう」
薄ら冷たい汗をかきつつ、私は足早に2階の事務所へ上がった。
「呼んだ、父さん?」
執務室に入るや、デスクに座る父が難しい顔で私を見た。
「翔介か。さっき先方から電話があってな」
「先方?」
「昨日の見合いの件だ」
「あ、そっか」
「残念ながら、今回は見送られた」
そう言って、父は溜め息と共に大きく肩を落とした。
やはり光希嬢も言っていたように、今回の見合いは診療所を継続するために目論んでいたのか。
だが結果など目に見えていたではないか。彼女のように美人で聡明な女性医師が、私などを選ぶはずも無いというのに。
「気を落とすなよ、翔介。また次がある」
気を落としているのは父だろう。だがそんな野暮なことは言わず、私は「大丈夫だよ」とだけ答えて診療所へ戻った。
光希嬢と言えば、お借りしたハンカチを洗濯して返すよう言われていたな。だがウチにアイロンなんて無いし……クリーニングにでも出すか。
「ただいまー」
「あ、お帰りなさい」
院に戻った私を、請求作業中のお嬢ちゃんが笑顔で迎えてくれた。「ただいま」「お帰り」なんて遣り取りは、いつ以来だろう。少なくとも一人暮らしを始めてからは記憶に無い。
まるで夫婦か恋人のような言葉の掛け合いに、私は照れ臭くて、はにかんだ。
だがその瞬間、ゾクリと背筋に寒気を感じる。
振り向けば綾部さんが熱のない表情で私を見つめて……いや、あれは睨んでいるのか。
私はそそくさと請求業務に戻った。
※※※
午後の診察が始まると同時に私は2階の事務所へ上がって、領収証の整理や会計士さんへ送る書類の作成をしていた。
少し喉が渇いて休憩室に珈琲を淹れに行くと、綾部さんと鉢合わせた。もう彼女が退勤する時間なのか。
「……お疲れ様、綾部さん」
「……お疲れ様です」
お互い、まだちゃんと目を合わせられない。せっかく出迎えたのに何も喋らないというのもおかしな話だ。なにか話題は無いか。
「あ、そうだ! ねえ綾部さん。ハンカチってクリーニングに出せるのかな?」
唐突に切り出した私に、綾部さんはキョトンとした顔で廊下に上がった。
「ハンカチですか? 素材や品にも依ると思いますが、どうしてクリーニングに?」
「知り合いからの借り物でね。ちゃんと洗って返したいんだけど、僕の家にはアイロンが無いから」
「そういうことでしたか」
綾部さんは目線伏せると少しばかり考えて、
「もし宜しければ、私が洗濯してきましょうか?」
ほんのり桜色に頬を染め、柔らかに微笑んだ。
「え、いいの?」
「はい。ハンカチ程度なら」
「ありがとう、助かるよ! ちょっと待っててね。いま持ってくるから!」
踵返して執務室に戻り、光希嬢のハンカチを取って来れば「これなんだけど」と綾部さんに差し出した。
途端、彼女の表情が一変して冷たくなる。
「これはまた素敵なハンカチですね。どちらの女性から御預かりされたのですか?」
「え? いや、まあ知り合いに…」
「そうですか。それでは事務長が心を込めて洗濯をされる方が、お相手の方も喜ぶことでしょう。これはお返しさせて頂きます」
押し付けるように私へハンカチを返した綾部さんは、「フンッ」と鼻を鳴らして更衣室に入っていった。
せっかく綾部さんとまた普通に話せると思ったのに、どうしてこうなるのか…。
私は溜め息を吐きながら、すごすごと執務室へ戻った。
※※※
「――翔介!」
午後診を終えて間もなく。綾部さんのことで落ち込みながら一人でシャッターを降ろしている私の元へ、薬局から飛び出すように薬局王が勢いよく現れた。
「お疲れ、薬局王。なんか久しぶりだね」
「それほど久しぶりでもないでしょう!」
「そうだっけ?」
「そんなことより翔介! 今度の日曜日は空けておきなさい!」
随分と慌てた様子で、薬局王は真っ直ぐに熱い視線を私に向けている。
「何かあったの?」
私が尋ね返すと、薬局王はゴクリと喉を鳴らした。
「アナタが……私の婚約者になるからよ!」




