第65話 07月31日【3】
「痛て…」
「大丈夫ですか?」
酔っ払いの男性に張られた頬がジンジンと痛む。
光希嬢は自分のハンカチを水で濡らし、赤みがかる私の頬に当ててくれた。柔らかな感触と適度な冷たさが心地よい。
「それにしても災難でしたね」
「でも、骨や歯が折れてなくて良かったです」
痛みを堪え笑ってみせると、光希嬢は呆れたように肩をすくめた。
「本当に被害届は出さないのですか?」
「ええ。大した怪我でもないですし。あんな風に言ってたけど、お嬢さんの結婚が決まったオメデタイ日に、水を差したくないですから」
私はチラと男性を見た。ロビー奥の長椅子に腰かけながら、両脇を二人のホテルマンに抑えられている。
「お優しいんですね」
「あはは。それほどでも」
「というか、お人好しです」
「ハハ……って、そんなことより神永さんこそ大丈夫ですか? なんだか具合が悪そうでしたけど」
「………」
黙する光希嬢は、先ほどのホテルマンらを一瞥した。
「少し、外で話しませんか?」
意味深い表情呈す彼女を前に、私は頷く以外の選択肢を持ち合わせなかった。
※※※
光希嬢の嘆願通り、私達はホテルの傍にある公園に到着した。
レストランに残した父達二人と食事が気になりつつ、私と光希嬢は真新しいベンチに腰を下ろす。
「珈琲と紅茶、どっちがお好きですか?」
途中の自販機で買ったそれらを差し出した。彼女は「ありがとうございます」と右手の珈琲を選んだ。
「すみません、無理を聞いて頂いて」
「いえ。僕もちょうど外の空気を吸いたいと思ってた所なんです。どうも、ああいう堅苦しい雰囲気の食事は苦手で」
「本当ですか?」
「はい」
冷たい紅茶で腫れた頬を冷やしながら答えれば、光希嬢の表情が少しだけ柔らかくなった。
「実は、私もああいった場所は苦手なんです。緊張のせいか、すぐに気分が悪くなってしまうんです」
「なるほど…」
それで外に出たのか。確かにレストランでの彼女は顔色が良くなかったな…。
「でもお医者さんなら、こういう場所での食事会とかも多いんじゃないですか?」
「ええ。会合とかパーティーとか。でも本当に苦手で、いつも適当な理由をつけてサボっていました」
そう言って光希嬢はイタズラっぽく舌先を出した。淫靡さと愛らしさを兼ね備えたその仕草に、体が揺れるほど私の心臓は大きく波打った。
加速した血流に眩暈を覚えるも、なんとか咳払い一つで取り繕う。
「い、意外ですね。」
「そうですか?」
「はい。とても真面目そうだし、言葉遣いとか振舞いにも品があって。本当に良いトコのお嬢様って感じでした」
私は彼女に受けた第一印象を、そのまま言葉に声に変えて届けた。
けれど光希嬢は消沈したように顔を伏せ、首を横に振る。
「私の家は小さな和菓子屋を営んでいました。ですが、決して繁盛しているとは言えず、小さい頃は本も満足に買ってもらないほどでした。そのせいか、こういう高級なホテルやレストランには、来るだけで緊張して…」
「……食事も、喉を通らない?」
言葉を補うようそう言うと、光希嬢は寂しげに頷いた。
こんな時、慣れた男やモテる男なら気の利いた台詞の一つでも口にするのだろうが、私にはそんな器用な真似など出来ない。だから――
「あー、良かった!」
――だから私は、自分の心を声に変えた。
他に、自分を伝える方法を知らないから。
「よ、良かった…?」
光希嬢は私の言葉を飲み込めず、反芻して小首を傾げた。私は笑顔のまま頷いてみせる。
「いやー、お医者さんって少し怖いイメージあったんですよ! 頭良いし、お金持ちだし。僕には分からない話ばっかりするし。だから、今の神永さんの話を聞いて、なんだかほっとしました!」
「ああ、そういうことですか。たしかに医師同士の集まりなら、自然と専門的な話が多くなりますね」
「でしょう?」
「じゃあ、今から仕事の話はNGで御話をしましょう」
「お願いします。でも、もし仕事関係のことを喋ったら?」
「もちろん、罰ゲームです。さあ、何か話題を振ってください」
「僕がですか?」
「ええ。津上さんがキッカケですから」
「うーん……それじゃあ、ご趣味は?」
真面目に考えた質問を投げれば、光希嬢は驚いたように目を開いて、すぐに「くすくす」と忍び笑った。
「な、なんですか?」
「いえ。なんだか、お見合いみたいだなって」
「いやいや。実際僕達、お見合いに来たんじゃないですか」
「あ、そういえば」
わざとらしく驚いてみせる光希嬢。
私は思わず吹き出して、それに呼応するよう彼女も明るい笑顔を浮かべた。
夜の公園に、私と彼女の明るい声だけが木霊した。




