第55話 07月13日
父にお嬢ちゃんと出掛けたことを言及され、彼女を真正面から否定された。
憤る私の反論も意味をなさず、軽くあしらわれる始末。
結果、父と顔を合わせ辛くなった。
これで家まで一緒だったら、どれほどに気不味いことか。一人暮らしをしていて良かった。
とはいえ明日から、どんな顔をしてクリニックに出勤し、父と会話するべきなのか。
懊悩がまるで結界のように、その夜の眠りを妨げた。
だが翌日。悩む私に反して、父はまるで何事も無かったかのよう。相変わらずの仏頂面で口数も少なく、着々と診療業務をこなしていた。
他の従業員にはもちろん、私やお嬢ちゃんに対しても態度を変えることも無く。
そんな父の振る舞いと心中が、この時の私にはまだ分からなかった。
ともあれ、私が父に対して距離をとっては従業員さんらにも勘繰られてしまう。綾部さんなど特に鋭いからな。
などと考えながら診療室から受付に戻ると、その綾部さんに、一人の男性が話しかけていた。恐らく患者様のお父さんだろう。
歳の頃は30後半か40前後といった所。スタイルは良く顔立ちも精悍。おまけに高価そうなスーツを身を纏って。
男性は私に気付くと、愛想良く丁寧なお辞儀をして、早々と一人で院を出た。
「あちらの患者様、なにかお困りごとでも?」
「いえ、別に…」
何の気なしに尋ねた私とは真逆、綾部さんは歯切れ悪く視線を逸らした。
「なんだよ。気になるな。仕事なんだし、ちゃんと言ってよ」
そう言うと綾部さんは、少しだけ悩む素振りを見せて、重たげに口を開いた。
「実は……食事に誘われました」
「……えぇっ!?」
驚きのあまり、素っ頓狂な声が漏れ出た。
私は周りに目を向けた。残り数組の患者様が一様に私を見つめている。
「と、とりあえず後で話そうか」
小声でそう言うと、私は身を小さく奥へと引っ込んだ。
※※※
「――以前から時折、ご挨拶や世間話などさせて頂いていたのですが、どうにもその……わ、私に好意を寄せて下さっているらしく…」
午前診が終わって間もなく。早々と昼食を摂り終えた綾部さんと私は、休憩室でテーブルを挟んでいた。
「ちょ、ちょっと待って!」
張り上げた私の声に、綾部さんは驚いた様子で顔を上げた。
「ここは小児科だよ? 患者さまの殆どが子供かその親御さんじゃない。ていうことは、その男の人も結婚してるんじゃ…!?」
「いえ。どうやら父子家庭のようです。実際、お子様が来院される際は、お父様かお祖母様がお連れになられています」
「………!」
私は医院から持ち出したカルテに、じっくりと目を通した(本当はダメなのだが)。
保険証の番号から察するに、東京に本社がある大企業勤めのよう。
父子家庭であるなら市の医療助成が効くはずだが、それが登録されていないということは、所得が多いという証拠。
そういえば、着ているものも上等そうだった。
「むむむ…」
「じ、事務長?」
「綾部さんは、この人と食事に行くの?」
「え…」
カルテを睨みながら私が尋ねると、綾部さんは言葉を詰まらせた。
そして言葉を探るように、
「事務長は、どう思われますか…?」
少しばかりの上目遣いで問い返す。
「どう思うって、そんな…」
同じく私も言葉に迷った。
昨日の父の言葉が思い出された。
私と彼女は、あくまで雇用主と従業員の関係。ここで下手なことを言えば、また問題になるかもしれない。尊重すべきは、彼女の意思。
「僕は………綾部さんの好きにしたら良いと思うよ」
私は、答えた。
短い猶予の中で最大限に彼女と彼女の意思を尊重し立場を弁えた返答。もっとも波風の立たない答え。
そのはずだった。
「それは、私があの男性と食事に行くことを推奨しているのですか?」
けれど綾部さんは、明らかに怒りを表している。普段から冷静な彼女だけに、発する憤りもまた静かだ。
「そうは言ってないよ。ただ、僕の意見で綾部さんのプライベートや意思を侵害するのは――」
「……もう結構です」
私が話している途中だと言うのに、綾部さんは勢い付けて立ち上がり休憩室を出た。
彼女がクールなのは、いつものこと。
それなのに何故か、その言葉だけは……胸の奥にこびり付いて、離れなかった。