第35話 04月27日
翌日私は、お嬢ちゃんの顔をまともに見れなかった。
言いようの無い後ろめたい気持ちが、私の胸を掻き抉るのだ。
せめて、行けなくなった事情くらい私から話したい。
だが、どうしても彼女と向き合えない。
自分の弱さが、心底イヤになる。
そうして懊悩している間にも午前診が終わり、いつの間にかお嬢ちゃんは帰宅していた。
午前診の片付けも綾部さんに任せきりで、私は事務所に逃げ込んでいた。
「何をやってんだ、僕は…」
自責の念にかられ時計を見れば、もうすぐ予防接種が始まる時間ではないか。
流石に、ずっとこうしているわけにもいかない。重い腰を持ち上げ事務所を出ると、あろうことか。
エントランスを出た瞬間、薬局王に出くわした。
相変わらずの吊り上がった双眸。私は思わず視線を逸らした。
「……ちょうど良かったわ。綾部さんに事務所だと聞いたから、伺おうと思っていたのよ」
「……そう」
覇気のない私に、薬局王は辟易する様を隠そうともしない。
「実はね、私も医薬品卸会社の小澤さんにペアチケットを頂いていたの」
「………」
私は何も答えなかった。彼女も同じチケットを貰っていたからではない。
このタイミングで言い出す、彼女の意図を測り兼ねたからだ。
すると薬局王は、そんな私の心を見透かしたかのように憫笑を浮かべる。
「安心して。ちゃんとお嬢さんを映画に誘ったわ。ついでに綾部さんもね」
「えっ…?」
「二人とも「行く」と言っていたわ」
穏やかな口調で、薬局長は柔和に微笑んでみせた。
その声と表情に、私は胸の中に温かい何かを感じた。
目に見えない優しいその熱は、凍り付いていた私の心を融かして、声に溶かす。
「あ……ありがとう薬局王。でも、どうして綾部さんまで?」
「だって、それだと公平じゃないもの」
「フェア?」
首傾げて尋ね返すと、なぜか薬局王は片頬膨らませプイッと顔を逸らした。まったく、表情筋の忙しいことだ。
「とにかく助かったよ、薬局王。今度なにか御礼を――」
「その必要は無いわ」
言いながら薬局王は、白衣のポケットから《《それ》》を取り出した。彼女らが行く、映画のチケットだ。
「それは…」
「言ったでしょう。私もペアチケットを貰ったのよ。お嬢さんはもうチケットを持っているし、綾部さんにあげても一枚余るじゃない」
「あ、そうか」
「そうよ。だから――」
チケットを片手にもじもじと、視線泳がせ薬局王は落ち着かない。
けれど「コホン」とひとつの咳払いで、切れ長の大きな眼が私を真っ直ぐに捉える。
「私と、一緒に映画へ行きなさい」
まるで陽光のように熱い薬局王の視線に、私は肌も紅潮を覚えた。
「な……なに言ってるんだよ薬局王。経営者と従業員が遊びに行くのは御法度みたいに言ってたのは、薬局王だろ」
「そうね。でも問題ないわ。私とアナタが映画を観る約束をしていた所に、偶然そちらの従業員が加わったことにすれば」
「そんなの詭弁じゃないか。嘘だよウソ」
苦笑いにそう言うと、薬局王はムッと眉尻を上げた。
「アナタって、本当に頭が固いわね。愚直よ愚直。嘘と誠実さを使い分けてこそ一流の経営者じゃない。清濁併せ吞むくらいじゃなきゃ、事業運営なんてやってられないわよ」
理路整然と誹謗並べる薬局王に対して、私はまた真一文字に口を結んだ。
「お嬢さんとの約束は果たしたい。でもお父上から従業員と遊びに行かないよう釘を刺されている。なら私と行くことにすれば良いじゃない。クリニックと薬局の責任者が会食するくらい、どこでもやっていることだわ」
「そうなの?!」
「ええ。ウチのグループでも薬局長と門前医院の院長や事務長が食事に行く話をよく聞くわ。だからアナタのお父様も………私となら、許してくださるはずよ」
妙な自信と説得力を伺わせる薬局王の言葉が、私の胸に蠢く不安を徐々に消していく。
「それに、院長先生は『お嬢さんと二人で行くな』と仰られたのでしょう? なら綾部さんも含めて大勢で行けば、その言葉も反故にしたことにはならないわ」
「いや、流石にそれは屁理屈じゃない?」
「あら、そうかしら」
わざとらしく、だが得意満面といった薬局王の振る舞いに、私たちはどちらからともなく笑顔を見せた。
それは厳寒な冬を越えて、春の日差しに溶け出した小川のように。
私は、彼女のチケットを受け取った。
「ごめんね、薬局王。だいぶ迷惑かけたね。今度一緒に御飯でも行こうよ。僕がご馳走する」
「あら。薬局とクリニックが《《そういう関係》》にあるのは、NGなのではなくて?」
「経営者なら、清濁併せ呑むものなんだろ?」
得意な風味で切り返すと、薬局王は吹き出して笑った。
明るい彼女の笑みに心が擽られて、堪らず私も「クスクス」と笑みを溢した。
温く穏やかな浮遊感が、私達を包み込む。
叶うなら、この優しい時間がずっと続けばいいのに。
少なくとも私は、そう願っていた。