第18話 03月31日【1】
――木曜日。
本日は午前診だけで終診となるため、いつものメンバーに加えてお嬢ちゃんも受付に出てもらった。
研修の意味もあるが、鈴鹿さんが今日で最後の出勤日になるからだ。
ようやくと午前診が終わって、先に休憩へ出ていた綾部さんが、同時に戻ってきた。
クリニックの扉に〈休診中〉の看板を提げて自動ドアをロックし、院内の片付けをする。
鈴鹿さんは最後まで、お嬢ちゃんに付きっきりで指導をしてくれた。
業務後、皆に別れを告げる鈴鹿さんに私は花を贈った。
他の事務員さんや看護師さん達も、思い想いのプレゼントを贈っている。
父も「ご苦労様でした」と珍しく労いの言葉をかけて、一枚の封筒を渡した。金一封でも包んだのだろう。
看護師さんらが帰宅した後、私は鈴鹿さんと一緒に2階の事務所へ上がった。
「それじゃあ事務長。これ、事務所の鍵です」
「うん…」
着替えを終えた鈴鹿さんから、預けていた鍵を受け取る。
「こんな御時世じゃなければ、送別会をしたかったんだけど」
「いいですよ別に。それに私、妊婦だから。お酒とかも飲めないですし」
「そっか。くれぐれも体には気を付けてね」
「はい、ありがとうございます」
静かに頭を下げ、鈴鹿さんは「皆さんで召し上がってください」と紙袋を私に寄越した。皆への選別だろう。
「ありがとう」
「新しく入った小篠さん、優秀そうで良かったです。私も安心して医院を辞められます」
「……寂しいこと言わないでよ。落ち着いたら、また戻ってきてほしいな」
「その時は、宜しくお願いします」
私が右手を差し伸ばすと、鈴鹿さんはそれに応えてくれた。
”ありがとう”
その言葉を、私は握り交わした右手に込めた。
「もし私が戻ってきたら、その時までに事務長も結婚しといて下さいね?」
「はは…」
乾いた愛想笑いを浮かべて離した手が、イヤに冷たく感じた。
※※※
月末なので、私たちは閉院後にレセプト(診療報酬の請求作業)の準備をしていた。診療した内容とカルテを照査したり、発行した処方箋に誤りがないかを精査する作業だ。
看護師さんらは既に帰宅して、父も事務所で別の業務に就いている。
私はお嬢ちゃんにも帰宅を促した。
「あの……な、何かお手伝いできること、ありますか?」
だが、予想外の返事に私と綾部さんは驚いて顔を見合わせた。
「あ、すみません。邪魔だったら帰ります…」
「邪魔だなんて、そんなこと全然ないよ。むしろ嬉しいし、助かるよ。けど、疲れてるでしょ?」
「大丈夫です。なにかあれば、やりま――」
――きゅるるる〜…。
気の抜けた音が、お嬢ちゃんの腹から聞こえた。
まるでリンゴのように、お嬢ちゃんは顔を真っ赤に染め上げ自分の腹を抑えた。
子供のようなその仕草に、私は思わず吹き出してしまった。
「じゃあ、先にお昼ご飯を食べて来てもらおうかな。そのあと手伝ってくれる?」
「は、はい!」
大袈裟に頭を下げると、お嬢ちゃんは駆け足で裏口から2階の事務所へ向かった。
「聞きました今の!? 優しいよねー、今時あんな子いませんわよ奥さん!」
「誰が奥さんですか」
無表情な綾部さんのツッコミが鋭利に刺さる。
「それより、事務長もお昼まだなのでは?」
「いいよ僕は」
「小篠さんと一緒に召し上がればいいじゃないですか。……彼女と仲良くなるチャンスですよ」
「嫌だよ」
「どうしてですか? あんな可愛い子と一緒に食事出来る機会なんて、事務長にはそうありませんよ」
「だって、それじゃあ綾部さんだけ仲間外れみたいじゃん。そういうの僕は好きじゃない。一緒に食べるなら、綾部さんも一緒じゃなきゃ嫌だ」
「……そういうところですよ」
「ん、なにか言った?」
「いえ、何も」
「てゆーか”事務長には”って、どーゆー意味!?」
――コンコン、コンコンッ!
私が声高のツッコミを入れた瞬間、開かない自動ドアがノックされた。
「患者さんかな?」
「どうでしょう」
表には〈休診中〉の看板を提げているはずだが、急患かもしれない。
私は施錠を解除し自動ドアを無理やり手動で開いた。
すると、表には……白衣を羽織る若い女性が、仁王立ちでこちらを睨んでいた。