第101話 09月18日【4】
「わたし、事務長となら……結婚したいです」
交差点で一時停止する車中、お嬢ちゃんが唐突と私に告げた。
「ど……どうしたのさ急に。そんな冗談、お嬢ちゃんらしく――」
「本気です」
私の言葉を断ち切るように、お嬢ちゃんが鋭く言い放った。
「冗談なんかじゃ、ないです」
お嬢ちゃんの大きな眼が、私を真っ直ぐに捉えて離してくれない。
不安を孕んだ光彩。けれどその中に仄見える決意の光。膝上で握られた拳は、小刻みに震えて。
『似合わない』
そう思った。彼女には握り拳など不釣り合いだ。
けれど、だからこそ。その言葉が偽りではないと分かる。
元より、人を貶めるような冗談を言ったり、無意味な嘘を吐く人間ではない。
それは私自身が、よく知っている。
「わたし、事務長のこと本当に尊敬してます。色んなこと知ってるし、優しいし、一緒に居ると楽しいし………困った時はいつも助けてくれて――」
そこまで言いかけて、お嬢ちゃんは視線を前方に向けた。
信号が、いつの間にか青に変わっていた。
私は震える足でアクセルペダルを踏んだ。
けれど数十メートルも進めば車を減速させる。
そのまま路肩に寄せると、サイドブレーキを引いて、ハザードランプを点けた。
「……事務長?」
「ごめん。ちょっと今、運転する自信無い…」
自信どころか足に力が入らない。小刻みに震えてじんわりと痺れる。
笑いにならない不気味な笑みを浮かべる私に、お嬢ちゃんは黙って頷いてくれた。
街灯もまばらな車道の傍ら。
紫色の闇に包まれる車内で、私とお嬢ちゃんは目も合わせず沈黙に身を任せる。
静寂に響く心音。
迅る脈動が鼓膜に響いて痛い。
血流が速すぎて身体に熱を生む。
体内の熱が私の脳みそを溶かして、ブレたカメラのように思考がぼやける。
あたかも夢の中にいるような感覚。
夢と現が揺蕩う狭間で、私の脳内では、この半年間のが走馬灯のように再生された。
お嬢ちゃんがウチに応募してきたこと。
最初は雇う気が無かったこと。
その見た目と装いに驚いたこと。
初出勤の日にあげた紅茶を喜んでくれたこと。
面倒な仕事を手伝ってくれたこと。
私が困っていた時に声をかけてくれたこと。
一緒に出掛けたこと。
ウエディングドレスを着たイベントのこと。
「こんな女性と結婚したい」と、何度も心の中で願ったこと。
その想いが今、成就されようとしている。
光希さんの時みたく、出会って間もないゼロからのスタートではない。
薬局王にの時みたく、長い間友達のような関係で居たわけでもない。
私は最初からずっと、彼女のことを…。
だが私は、それを言葉には出さず胸の奥に潜めていた。
怖くて、堪らないから。
そんな卑怯者の私とは反対に、
「……最初に事務長と会った時から、『優しそうな人だな』って思いました。そしたら思った通りの人で、仕事に行くのが少しずつ楽しくなっていきました」
お嬢ちゃんは尚も勇敢に言葉を紡いでくれた。
その小さな肩を、震わせながら。
「真っすぐで、周りのことをいつも考えて、優しくて真面目で……そんな事務長のこと、わたしずっと見てました。だからわたしのことも、見てほしかったんです」
私もだ。君をもっと見ていたかった。
「わたしの教える子ども達イベントに来てもらったのも、事務長にはもっと、わたしのこと知ってもらいたかったからなんです」
私もだ。君の知らない一面が見れて嬉しかった。
「一緒にツバメの巣を見守ってた時は、なんだかお父さんとお母さんみたいな気分になってました」
私もだ。心の奥がくすぐったくて、君と同じ時間を共有できたことで特別な繋がりを得た気がした。
「気付いたらわたし、結婚するなら事務長みたいな人が良いって、思うようになってました。
だから今日も、事務長にお願いしたんです。もし本当にお父さんがその気になっても、後悔しないように、って…」
私も……いや――
「――僕もだよ」
「……え」
ようやくと声を出した私に、お嬢ちゃんが驚いた様子で一声を漏らした。
「僕も、結婚するならお嬢ちゃんみたいな子が良いって、ずっと思ってた…」
「………嬉しいです」
俯き加減に、お嬢ちゃんは柔和に微笑んだ。
夜の薄闇でも、彼女の頬は桜色に染められているのが分かる。
「お嬢ちゃん…」
「……はい」
お嬢ちゃんの答えとほぼ同時、私はその小さな肩に両手を乗せた。
瞬間はビクリと震えるも、すぐに彼女は身を委ねるように、そっと目を閉じた。
降ろしたその瞼の意味を、私は知っている。
だから何も言わずに、私は顔を寄せた。
彼女の艶やかな唇へ、吸い込まれるかのように。
夜風の如く、ただ静かに…。