第100話 09月18日【3】
「津上さん、本日はお忙しい所を、有難う御座いました。とても有意義な時間でした」
「事務長、ありがとうございました」
レストランでの食事を終えてホテルのロビーに着くや否や、御父上とお嬢ちゃんに揃って礼を受けた。二人の折り目正しい振る舞いを見ると、改めて親子なのだと実感させられる。
そんな二人に倣うよう、私も腰低く頭を下げた。
「こちらこそ、有難うございました。御馳走になってしまい、申し訳ありません」
「とんでもない。我々の我儘にお付き合い頂いた、せめてものお詫びです」
「ワガママ、とは?」
「娘に頼まれて、恋人のフリをしてくださったのでしょう」
御父上はいともアッサリ言い放つと、呆気に取られる私を他所に「ははは」と軽快に笑った。
「御存じだったんですか」
「これでも一応、親ですから」
「………申し訳ございません」
私は再び頭を下げた。先程より、少しだけ深く。
「御父様を騙すような真似をしたこと、深くお詫びいたします。ですがお嬢さんは、それほど当院にとって大切な職員で、私個人としても――」
「頭を上げて下さい。私はなにも非難しているわけではありません。むしろ、その逆です」
言いながら御父上は私の腕に触れ、面を上げるよう促した。
そうしてそのまま、私の手を両手で固く握り込む。まるで政治家がするようなインパクトのある握手だ。
「津上さん。どうか、娘のことを宜しくお願いします」
「えっ…」
「貴方になら、娘をお任せしたい」
握られた手と同じく力強い声。
お嬢ちゃんは「お父さんっ!」と顔を赤くし、慌てた様子で御父上のスーツを引っ張った。
気持ちは分かる。私も学生の時、父が担任の先生に「息子を宜しくお願いします」と頭を下げた時には、妙な恥ずかしさを覚えた。
私は握られた手と同じだけの力を指先に込め、
「もちろんです。お嬢さんは私が責任を持って、お預かりさせて頂きます」
胸を張って答えた。
私と御父上が微笑み合う傍では、お嬢ちゃんはますます顔を赤く染め上げ、終には俯いてしまった。
※※※
「津上さん。実を言うと私は、これから会社の方に顔を出さなければなりません。恐れ入りますが、娘を送っては頂けませんか」
「こんな時間からですか?」
「恥ずかしながら人手不足でして。御迷惑でしたでしょうか?」
「とんでもありません。承知しました」
「ありがとうございます。では、お願い致します」
御父上はそう言うと最後に会釈して、地下の駐車場へと向かった。
私はお嬢ちゃんと一緒に御父上の背中を見送り、近くにあるコインパーキングへと向かった。
「地下の駐車場に停めなかったんですか?」
「うん。なんか、僕の車だと場違いな気がして」
「そんなことないです。素敵な車です」
お嬢ちゃんは「ふふふ」と優しく笑って、助手席に座った。
「臭くない?」と冗談交じりに尋ねれば、「好きな匂いです」と答えてくれた。やはりお嬢ちゃんには、向日葵のような笑顔がよく似合う。新しく買ったオレンジの芳香剤が功を奏したか。
お嬢ちゃんのシートベルトを確認し、私は車を発進させた。
そしてほどなく、ネクタイを不格好に緩める。
「いやー、それにしても緊張したー」
「お疲れ様でした事務長。本当に、ありがとうございました」
「なんのなんの」
繁華街から少し離れた場所にあるホテルの御蔭で、車通りは少ない。疲れた体で車通りの多い夜道を走るのは堪えるから、幸いだった。
「それにしても、お父さんの印象が想像してたのと違ったな。もっと厳格な人だと思ってた」
「わたしもビックリしました」
お嬢ちゃんが、いつになく大袈裟に驚いてみせた。だがその表情には明るい笑みが浮かんでいる。
「お父さん、家では全然あんな風に話してくれなくて。いつも不機嫌な顔して、わたしの言うことは全部否定してたんですよ?」
「面と向かって話すのが照れ臭かったんじゃないかな、お互い。親子だからさ、『分かってくれるだろう』っていう安心感もあったんだよ」
「そうかもですけど……ちょっとショックです」
お嬢ちゃんは『プクッ』と頬を膨らませ不貞腐れた。
「そう怒らないであげてよ。男同士じゃないと、本音を話せなかったりするんだよ。男ってのは」
「そうなんですか? じゃあもしかして事務長も、お母さんより院長先生の方が話しやすかったりするんですか?」
「それは……どうだろ」
「はは…」と苦い笑みを浮かべるだけで、私はそれ以上は何も答えなかった。
「とにかく、今日でお父さんのお気持ちは分かったわけだし、見合いをさせられる心配も無くなったじゃない。あとはお嬢ちゃんが『まだ結婚はしたくない』って、正直に――」
「あ……っ! あの、事務長…」
私の言葉を、お嬢ちゃんの声が遮った。心なしか、その声は妙に重く感じられた。
すぐ前の信号が赤に変わった。
私は静かにブレーキを踏んだ。
そして、直後。
「わたし……事務長となら、結婚したいです」
お嬢ちゃんの震える声が、私の体を石に変えた。