第01話 02月14日【1】
「事務長。わたし、仕事辞めます」
「え…?」
バレンタインの日。午前診が終わってからの僅かな休診時間中、事務所で昼食を摂っていた私は、明らかに義理なチョコを渡されながら言われた。
彼女――鈴鹿さんは、私の父が院長を務める当院で、若い頃から働いてくれている事務員さんだ。古参ゆえに父や看護師さんからの信頼も厚い。
申し遅れました。はじめまして。津上翔介と申します。この〈つがみ小児科クリニック〉で医療事務長をしております。
いや、私のことよりも今は鈴鹿さんだ。
「と、唐突ですね……なんでですか?」
私は動揺を隠せなかった。不安と驚愕を混濁させた私はどれほど頓狂な顔をしていたことか。
そんな私に反して鈴鹿さんは――
「妊娠です」
――と、あっけらかんに答えた。
私はホッと胸を撫で下ろした。『仕事が嫌だ』とか、『パワハラ』や『セクハラ』が理由で辞めるのではないことに安堵したのだ。
新しい生命の誕生。医療に従事する者として(有資格者じゃないけど)も喜ばしいことだ。
一緒に働いてきたスタッフさんが辞めてしまうのは寂しいし、今後の業務も不安だけれど、オメデタや結婚など喜ばしい出来事での退職なら、私も皆も笑顔で見送れる。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
さっきまで無表情だった鈴鹿さんは、少しだけ照れ臭そうに笑ってくれたた。
「仕事中は、あまり無理はなさらないでくださいね。薬局さんへ行く時や発注の受け取りは、僕や他の事務員さんに任せてください。ああ、しんどい時は遠慮なく言ってくださいね」
「有難うございます。すいません」
「とんでもないです。ところで、退職時期などはいつ頃を目安にされますか?」
「そうですね。2か月後くらいがいいです。3月末か、4月の締め日くらいで」
「分かりました。じゃあ、その辺はおいおい決めていきましょう」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げて、鈴鹿さんは早々と事務所を後にする。
彼女を見送った直後、私は食べかけの昼飯も放り出し、慌てて1階の診療所へと戻った。
「綾部さん‼」
「……なんですか?」
受付でレジ金の清算をしていた若い女性が、叫ぶ私を冷えた視線で睨めつけた。
彼女の名は綾部さん。
端正な顔立ちにスレンダーなスタイル。一見して聡明を感じさせる雰囲気。少々冷えた態度ではあるが、その冷静さは医療職にとってはありがたい。
といっても彼女が冷めた目を向けるのは私だけだが………いや、今はそれどころではない。
「大変だよ! 鈴鹿さんが辞めるって!」
「そうですか」
「なんでそんな冷静なの⁉」
「慌ててどうなることでもありませんので。ところで事務長。午前の集計が終わりました。医療用PCの集計とレジ金が千円合いませんが、お会計の貰い忘れでしょうか」
「そこはもうちょっと慌ててくれませんか!?」