20、彼女の変化
朝登校してきた俺は、自分の席を間違えたかと思った。
前の席の子がいつも見慣れたポニーテールではなかったからだ。
髪の上半分だけ後ろで一つにくくり、結び目に真珠のような白い球がいくつも連なった飾りが付いている。
あれ? と一瞬疑問に思って確認するも、間違いなく自分の席。後ろからそっと覗き見ると、その真珠女子は浅利さんだったのでぎょっとした。
「……お、はよー」
「おはよ」
挨拶すれば、わずかに視線を向けて小さな声で返事が返ってきた。でもがっつりこちらを振り向いてはくれない。まあこれは最近はずっとそうだ。
そっと席に着き、目の前の頭をまじまじと見る。
いつも通りまっすぐつやつやの黒髪。でもポニーテールじゃないのでうなじは見えない。
どうしたどうした、昨年から一度も変えなかった髪型を急に変えるなんて、一体なにがあった?
普段はただの黒いゴムで結んでいるだけなのに、今日は飾りまで。だが、それはそれで可愛い。後ろ姿しか見れないのは残念だが。
その日一日、俺は後ろから彼女の珍しい髪型を愛でていた。
髪型を変えたのは、放課後どこかに遊びに行く用事でもあったからなのかなと思っていたのだが、その日だけではなかった。
その日以降も、浅利さんはちょこちょこと髪型を変えて登校してきた。
ハーフアップ(なぜハーフアップという言葉を知ったかというと、調べたからである)をバレッタで留めていたり、リボンがくっついたり。ただ普通に結ぶだけじゃなく、一部が編まれていることも。
後ろで一つに三つ編みになっていたり、頭の高い位置でお団子にしたり、なにも結ばず、毛先がわずかに巻かれていることもあった。
校則では禁止されていないので、どんな髪型をしようと自由だ。各々、好きな髪型、好きな髪色をしている。
だが、これまで規則通りお手本のようだった委員長気質の彼女に、一体どんな心境の変化が?
俺は動揺した。
実際、周りの人間も気付き始めた。
女子は早い。浅利さんが変化を見せ始めてからすぐに、可愛いねーとか似合うーとか、きゃっきゃと声をかけ合っている。
ずるい。俺だって声をかけたい。しかしながら、もはやそんな軽い話が出来る立ち位置にいないのが無念である。
「なんかさ、浅利さん急に変わったよな」
「ゴホッ」
昼食の席でパック牛乳を飲んでいた俺は、裕也の一言に咽込んだ。
ごほごほと咳込んでいる俺を尻目に、一緒に昼飯をとっている他のやつらがうんうんと頷く。
「分かる分かる。急にお洒落に目覚めたっていうか」
「髪も服装も変わったよな。紫苑、席近いけどなんか聞いてないの?」
今日はフットサル仲間と学食で食べているのだが、食堂に浅利さんの姿はない。教室で弁当を食べているだろう。ちなみに今日の髪型はシニヨン(調べた)だった。
話を振られた俺は、もう一度パック牛乳をすすった。
「俺は知らない」
「ふーん、仲良さそうだったのに」
「別に体育委員が一緒なだけで……」
「この間なんてネイルしてるの気付いてびっくりしたよなー」
「な。眼鏡はそのまんまだけど」
「化粧してるかどうか分からんけど、なんか急に女っぽくなったよな」
先日、桜色のつやつやの爪にプリントを回された時、俺は驚いて二度見した。それまではさらりとなにもない爪だったのに。「マジで、何があった?」と問いただしたくなってしまう。
これまで綺麗に短く整えられていただけの指先に彩が乗り、指定じゃないパステルカラーのカーディガンを羽織る彼女を見ると、なんだかひどくもやもやする。
そして、そのことに周りが気付き始めていることも。
「浅利さんってさー、地味だけど多分ちゃんとすれば映えるタイプだよな」
「そうそう。よく見ると可愛い」
彼女に対する論評に、俺はギリギリとストローを噛んだ。可愛いなんてことはとっくに俺は知っていた。俺だけ知っていればよかったのに。
「単純に彼氏出来たとかじゃね?」
「えっ!?」
裕也の発言に驚いて、ぱっとストローから口を離す。
「えー、この受験前に?」
「俺は彼女いる方が捗るもんね!」
「まー、裕也はなー」
その後の他のやつらの会話が頭の中を通り抜ける。
そうか、その可能性をまるで考えていなかった。先日振られたことで頭の中がいっぱいになっており、浅利さんの次の恋のことまで思考が回らなかった。
しかし、彼女も少し前まで真柴センセに恋していたのである。そんなすぐ、次の好きなやつが出来るような器用な女子だろうか?
──いや、ありうるかもしれない。
真柴センセへの失恋の後、落ち込んでいたのは一瞬で、すぐに元気になっていた。センセへの気持ちは憧れだったのだと言っていたのだから。
浅利さんに好きな人が出来た可能性を考え始めると、胸がじくじくと痛んだ。
振られたんだから俺にもう可能性はないと分かっているとはいえ、めちゃくちゃショックだ。今まであんなに決まった格好しかしていなかった彼女が、毎日違う髪型をしてくるくらいの好意を持った相手。
誰だろう。浅利さんの新たな好きな人。すごく気になる……。
鬱々と考え事をしていたら、裕也を始め、周りのやつらににやにやと見られていることに気付いた。
顔を上げると、好奇の視線が刺さる。
「……な、なに……」
「紫苑は意外と分かりやすいな」
「なー。クールに見えて顔に出てる」
「当分彼女作らないって言ってたのはこれが理由だったのか」
「ちょっと待て、そうじゃない」
「元気出せよ、紫苑。別に彼氏が出来たわけじゃないかもしれないじゃん」
慰めるようにぽん、と肩を叩かれて生温かい目を向けられる。
「違うって!」という俺の言葉は無視された。
♢
夏休みが近付いてきて、俺はシフト表を出しにバイト先に行っていた。
さすがに夏休みは勉強せねばならず、これまでのようにフルで入るわけにはいかない。しかし辞めるのも惜しいので、時間を短縮して細々と続けさせてもらえるよう店長にお願いしていた。
シフトだけ出して店を出て、俺は駅前の本屋に向かった。欲しいなと思っている参考書がないか探そうと思ったのだ。
バイト先のある私鉄駅は大きくはないものの、この本屋だけは売り場面積も広く、充実している。以前、浅利さんがタウン誌を予約購入した店でもある。
目的の棚で目当ての参考書を見つけ、レジで会計を済ませたところで、見覚えのあるキャメルの鞄が目に入った。
何かを探しているのか、店の外側に面した雑誌コーナーで、指で表紙を追っている。学校帰りらしく、定期ケースが鞄からぶらぶらしていた。
俺は驚かさないようにそっと声をかけた。
「おーい、浅利果歩」
すると浅利妹は飛び上がって、怯えた目をこちらに向けた。
右手は鞄の肩部分にぶら下がった卵型のキーホルダーを掴んでいる。やばいやばい、もしかしてそれ――。
「待て待て待て! 俺! 前に会ったろ、姉ちゃんのクラスメイト!」
慌てる俺を認識して、果歩はほっと力を抜いてキーホルダーから手を放した。
危なかった。あれを引っ張られたら俺が社会的に終わるところだった。
「なんだあ、紫苑か。びっくりした。誰かから声かけられることなんてないから」
「驚かせてごめん。今帰り? なにか探してるの?」
「雑誌探してたんだけど……、なんかいいのがないからいいや」
言いながらも目は女性向け雑誌の表紙を追っている。表紙は十代後半の女性モデルがこちらに顔を向けているものばかり。しかし年齢的に少しミスマッチじゃないだろうか。
「なんつーか、ファッション誌読み始めるのが早いね。最近の小学生は皆、こういうの読んでるの」
「違うよ。お姉ちゃんの髪用」
驚いて聞き返せば、浅利姉の髪をセットしているのはこの妹だという。毎朝、ファッション誌やらヘアセット動画やらを見ながら、姉の髪を結っているというのだ。
「ねえねえ、今日の髪型どうだった? 頑張ったの」
「上手だったよ。果歩、手先器用だね」
「そういうことを聞いているんじゃないんだけど」
慌てて「可愛かった可愛かった」と言うと、果歩は満足気に微笑んだ。
そうだ、突然の姉の変化について妹は理由を知っているかもしれない。
「あのさ、姉ちゃん最近急に変わったけどなんかあったの?」
「え」
若干引いたような目を向けられ、俺は少し身構えた。やっぱりその目、非常に姉に似ている。といっても最近は視線を向けられることもないのだけれども。
「紫苑、知らないの?」
「知らないよ。てことは、なにか理由があるんだ。……彼氏が出来たとか?」
「それは違うけど……、紫苑って意外と鈍いね」
「え?」
混乱する。
彼氏が出来たわけではない。でも俺が鈍い?
その言葉を額面通りに受け取れば、ひょっとしてひょっとすると、浅利さんの変化は俺のため??
「あっ、テレビ始まっちゃう! 紫苑、じゃあね!」
「えっ、あ……」
詳しく聞く間も与えられず、果歩はさっさと帰ってしまった。俺も混乱した頭のまま、自転車置き場に向かった。
果歩との会話を反芻する。
浅利さんが急にお洒落してくるようになったのが俺のせいだなんて、そんなことあるだろうか。
時期的には近い。俺がぽろりと告白してしまい、それから少し経って急に変わった。
あれ以来、意識されているのは分かる。でもそれは今まで恋愛対象じゃなかった男から急に告白されて、どう対応していいか分からず困っているのではないかと思っていたのだ。
――もし、俺の告白を好意的に受け止めてくれているとしたら。
いや、思い上がりはよくない。
これまで色々期待して、散々肩透かしを食らってきたのだ。というか、もし全然違ったときの俺のダメージがでかい。
俺は今の考えを振り切るように、自転車で風を切って帰った。




