10、自覚
いやいや、確定するにはまだ早い。
委員長を送った後、俺は深呼吸して、新しい空気を肺に入れた。
先ほど彼女が言っていた「人を好きになるのってどんなの」という問いへの答えは彼女基準のもので、それは人それぞれ違うはずだ。
たまたま、彼女の基準に俺の過去の行動がマッチしてしまっただけで、俺が委員長を好きであるという証明ではない。
だが、考えれば考えるほど、その思い付きは間違いではないように思えた。だって、センセを見つめる委員長を俺がずっと見ていたのは事実だ。
「いやいやいやいや、待て待て待て待て」
自転車にまたがり、勢いよく漕ぎ出した。びゅうと抜ける風が頭を冷やす。
上り坂を駆け上がれば、一気に息が上がった。
鼓動も速まる。
そもそも、俺が付き合ってきた女の子はもっとおしゃれで、可愛くて、ふわふわしていて、優しい子たちばかりだったんだぞ。
委員長の方は、制服きっちり、私服はダサい。
男には愛想ないし、俺に「デリカシーないナルシスト」とまで言ってくるやつだ。
――まあ、可愛くないわけではないが。
距離が近付けば、意外と素直でフランクなやつで。
委員長の仕事も部活もきちんとやって真面目だし、急に振られた横断幕の仕事や苦手な持久走だって頑張ってた。
けして悪いやつじゃない。
赤信号で止まって息を整える。
鼓動が速いのは、自転車で疾走したせいだ。
その時、ジャケットの中のスマホが振動した。ポケットから覗かせてみると『送ってくれてありがとう』の文字。
誤魔化せないほど、胸がどきりと音を立てた。
腹立たしい。
俺が、委員長なんかに動揺させられている。
返信せずにスマホをポケットに突っ込んで、強くペダルを踏んだ。
♢
次の日から、俺は委員長を極力見ないように努めることにした。
もともとは真柴センセに眼力送る委員長が気になって見ていたわけだが、もう彼女はセンセを見ることはなくなったのだ。俺が委員長を見る理由もなくなった。
しかし。
どうしても気になってしまうのだ。
目が追ってしまう。委員長の姿を。というか、気配を。
あの廊下側入口付近を見るのが完全に癖になってしまっていた。
見ないようにすればするほど気になり、頭の中から追い出そうとすればするほど脳の端からちりちりと思考を奪っていく。
これはあれだ。鶴の恩返しのように、見たらだめだと言われたら見てしまいたくなるという心理と同じに違いない。
そう思い、それすら気にしないよう、平常心を心掛ける。
疑念を抱いて数日後。
朝、少し早く登校してくると、教室の前で委員長が立っていた。周りには人がいない。
見ると、顔を覆って立ち尽くしている。それから、すん、と鼻をすする音。
衝撃を受けた。
委員長が泣いている。
俺は駆け寄った。
なお、委員長を見ないようにするという努力方針は、衝撃のあまり頭からすっぽ抜けていた。
「いいい委員長、どうした!?」
顔を覗き込むようにかがむと、彼女は手をわずかに離した。それを見て、さらに衝撃。
――眼鏡をかけていない。
痛みを耐えるように眉を寄せ、潤んだ瞳と至近距離で目が合い、俺の心臓は荒ぶった。
普段は眼鏡という障害物があったけど、ガラス一枚ないだけで全然違う。委員長の瞳は真っ黒で、真ん丸で、つやつやしていた。
なぜか分からないが、このまま見ていたらヤバい、と思った。
「コンタクト痛くて……」
「……え??」
「水道……」
白い手が何かを探すように空中を彷徨う。
どうやら、コンタクトがずれたか何かで目が痛く、水道に行きたいようである。
「なんだ……」
全然違い、俺は脱力した。
手を取るのはためらわれたので、ふらふらしている腕を支える。ぎゅうと握れば折れそう。そのまま女子トイレ前まで連れて行く。
しばらく待っているとハンカチを顔に当てながら出てきた。
「幸村くん、ありがとう……」
「大丈夫?」
「うん」
痛みは引いたようだ。目をしぱしぱさせて、中身を確かめている。
眼鏡のない素顔の委員長は正直言うととても可愛い。
俺はそれを認めたくないような気がしてそっぽを向いて口を開いた。
「珍しいね、なんでコンタクトなの?」
「今日、友達とラーメン食べに行くから」
「え?」
「ラーメン」
「なんでラーメン食べに行くのにコンタクトなんだよ」
「曇るから。眼鏡が」
引いた。
別に、ラーメン食べるときだけ眼鏡外せばいいじゃないか。そう言うと「分かってないなあ」と鼻で笑われた。
「てか、なんで普段はコンタクトじゃないの」
「私、逆まつげなのね。だからコンタクト連続使用すると痛くなるの。見て、これ」
そう言って、ずい、と背伸びして近付いてきた。あっかんべをするようにまつげを見せつけてくる。
突然の接近戦に、俺はどきりとして唇を噛んだ。顔が近くて直視できず、慌てて体を離す。
うろたえてしまい、彼女の下まつげの方向など全く分からなかった。
「……そ、それで普段は眼鏡なわけですか……」
「そう。でも今日はラーメンだからね! しっかり見ながら食べたいじゃん」
どきどきと鳴る心臓を叱咤しながら、「はあ」と返す。
持久走大会の時だって眼鏡だったくせに、大好きなラーメンを食べに行くときはそのアイデンティティを崩してもいいらしい。熱意が謎だ。
「まぶたを引っ張って逆まつげを治す方法もあるみたいなんだけどね、でも想像するとちょっと怖いよね」
「はあ……」
「あ、今日行くの、ラーメン王国っていう新しく出来た施設なんだけどね。同じフロア内に有名ラーメン店がいっぱい集まってて、少量ずつ食べ比べできるんだって。この間買った雑誌に書いてあったの。幸村くん、知ってる?」
「出来たのは知ってるけど、行ったことはない……」
教室へ歩いている途中でいよいよ立ち止まり、委員長はラーメンについて熱弁。
どうでもいい話をしている彼女は今日のラーメンがよほど楽しみなのか、ずいぶんと明るい表情である。つい先日失恋したとは思えないほど。
嬉々として『ラーメン王国』の話。
ラーメン、らーめん、拉麺、ラーメン、らーめん、拉麺……。
俺の中で拉麺がゲシュタルト崩壊しかけてきたところで、ふと、「それ誰と行くんだ?」という疑問が湧いた。
普通、女子高生が連れ立ってラーメン店に行くことなどあるのだろうか?
「私はシンプルな醤油が好きなんだけど、でも結構オリジナリティ出してるお店が多くて」
「それ、誰と行くの?」
「え?」
「今日の。ラーメン屋行くほど親しい男がいるって知らなかった」
俺の言葉に委員長はきょとんと目を丸くしてから、「書道部の女友達だよ」と笑った。
そのまま止めていた足を動かし、教室へと向かう。
「親しい男子なんて、ほとんどいないなあ」
さらりとした発言に、ごくりと喉が鳴った。
確かめたい。
出来るだけ軽い口調に聞こえるよう、声を出す。
「……俺は親しくないんだ? 残念」
「いやいや、幸村くんは数少ない親しい人だよ。だって、幸村くんは私の秘密を知っていた唯一の人だからね」
予鈴が鳴り、「急がなきゃ」と彼女は小走りに教室に入って行った。
対する俺は、先に進めなくなった。
じんわりと胸が熱い。
「唯一の人」と言われて、嬉しく思う自分がいる。
その姿を目で追い、急に近付いた距離にときめき。
架空の男友達を勝手に想像してもやもやしたこの感情を、嫉妬と呼ばずして何と呼ぶ?
――だめだ。もう誤魔化せない。
俺は、彼女を好きになってしまったのだ。
♢
席に着き、頭を抱える。
そおっと目をやると、委員長はもうコンタクトを気にしている様子はなかった。先ほど俺と話していた内容など、もう覚えてもいないだろう。
そうなのだ。
委員長は俺のことなど全然気にしていない。
彼女の恋を知っていたということもあり、心を開いてもらってはいるようではあるが、全く意識されていない。
意識していたら、急な至近距離に少しくらいどきりとしてくれてもいいはずだ。しかしそんな素振りまるでなかった。
他の男子生徒に比べたら、委員長との距離は近い方である。
そもそも、委員長が他の男子生徒と雑談しているのをあまり見かけたことがない。書道部の男子くらいだろう。
クラスの男子と話しているとしても、愛想ゼロ。彼女の秘密を知っていたという俺のリーチはでかい。
――それにしてもな……。
これまで、女の子の方から声をかけられるのだけで、自分から距離を詰めようとしたことがなかった。自分で言うのもあれだが、モテる方なので。
恋愛関係に発展しない間柄だとしても、近付けば女の子が俺のことを意識してくれているのが分かる。
しかし、だ。
委員長はそういうのがまるでない。きっと俺のことを異性として認識していない。哀れ、俺。
むむむむ、と唸っていると、後ろの席の裕也がつんつんと背を突いてきた。
「紫苑、紫苑」
「……なに」
「プリント回せよ」
「あ……」
前から回ってきたプリントに気付かずそのままだった。自分の分を一枚取り、残りを後ろに回す。
ため息をついてプリントを見る。『進路調査票』。
「はああぁぁ……」
追加でもう一つため息。
気付けばもう年度末。
委員長への気持ちに気付いた途端、春休みになってしまった。




