1、視線の先
恋の視線を送る彼女に気付いたのは、いつだっただろう。
窓側の俺とは反対の、廊下側の一番前。
そこが委員長――浅利志保の席。
初めに目が行くようになったのは、きっと彼女が出入口に一番近いから。
教師が入ってきたとき、皆の視線がそこに向く。俺も同様。それから皆の目は教壇へ。あるいは手元の教科書に。
しかしいつからか、ある教師の時だけ、俺は委員長から目が離せなくなってしまった。
国語教師の真柴、通称モブ柴。
委員長は、国語教師に熱烈な視線を向けているのだ。
♢
──なにがそんなにいいのかねえ。
本日最後の授業であった現代文を終え、教室を出ていくモブ柴を俺は頬杖をついて見送った。
ちらりと目をやると、委員長は今日も熱い視線を冴えない国語教師に向けている。眼力強すぎてビーム出そう。
彼女はモブ柴が教室を出るその瞬間まで瞬きもせず見つめていたのだ。
そう。モブ柴は冴えない。
多分、三十代。多分、独身。
いっつも同じ、ワイシャツにVネックセーターという決まった格好だ。ひょろりとして筋肉はなさそうだし、季節の変わり目になると咳をしていることが多い。もやし男なのである。
そしてついたあだ名がモブ柴。理由は分かるだろう。
モブ柴が出て行くと、委員長は満足そうに口元を緩めて荷物を片付け始めた。
俺は恋の雰囲気に聡い方ではあるけれど、それにしたってあんなにあからさまだとそのうち本人にも恋心がバレるんじゃなかろうか。
そのくらい、モブ柴を見つめる彼女は普段とは違う。
しばらく委員長を眺めていると、恐る恐る近付いていったクラスメイトの小西裕也からなにかを渡されていた。あれは昼に委員長がまとめて担任に提出していたプリントだろう。
裕也は苦笑いで小さく頭を下げている。さっさと出せと言われていたのを遅れていたらしい。
彼女は、にこりともせず受け取った。愛想ゼロ。哀れ、裕也。
やれやれ、みたいな表情で、裕也は俺の後ろの席に戻ってきた。
「あー、怖っ。ちょっと遅れたくらいで」
「早く出さねーから……」
「昼は売店行ってたんだよ。紫苑、帰らねえの?」
「もうすぐ帰る」
机の上のノートや筆箱やらを適当に鞄に突っ込んだ裕也は、後輩の彼女と待ち合わせをしていると言って教室を出て行った。
それから、委員長も廊下から女子生徒(名前は知らない)に声をかけられ、荷物を鞄に入れつつ談笑し始めた。
彼女は男には愛想が良くないのに、女子には普通に笑顔を向ける。
まあ、他にもそういう女子はいる。女の子の方が精神年齢が高いというし、実際そうだ。彼女らからは俺らなんて脳みそスカスカに見えるのだろう。否定できない。
とはいえ、彼女は真面目優等生だ。
誰もやる人がいないからという後ろ向きな理由で面倒な役職に選抜された割に、その仕事をきっちりこなしている。
癖のない黒髪をひっつめにし、黒い眼鏡。きっちりとネクタイを締め、制服は着崩さない。
俺は髪は茶色いし、ネクタイはきっちり締めていない(着けていない日だってある)し、ジャケットじゃなくて私服のパーカーを羽織っていることも。裕也なんてシャツすら指定のものじゃないことだってある。
校則がゆるいし誰も注意しないのだから、皆好き勝手制服を着崩している。そんな中、委員長だけはお手本通りだ。
はっきり言って、地味。
そんな彼女が、モブ柴にはキラキラ乙女の顔を向けるのである。不思議だ。
やはり自分に近い人間に惹かれるものなのだろうか。
少なくとも俺に委員長タイプの子はまず寄ってこない。俺の身近な友人が委員長タイプを好きになったという話も聞かない。
同じ部屋にいるものの、クラス内には見えない境界が存在する。仲の良い連中が集まったいくつかの輪が、それぞれわずかに重なって、クラスという集合体を作っているのだ。
だから俺と委員長にはほぼ接点はない。クラスメイトであるだけで、プリント提出や課題グループが一緒になったりという用事以上の会話はない。
それなのに目で追ってしまうのは、彼女が出入り口に近くて、時折見せる恋の表情が気になってしまうだけだ。
委員長はしばらく談笑していたが、友人女子と連れ立って教室を出て行った。
俺は机から教科書とノートを引っ張り出した。
すると、すぐ後ろから甘い匂いがした。柔らかい手が肩に置かれる。
「紫苑、一緒帰ろー」
「今日バイトだからまた今度ー」
明るい茶髪に見覚えのある整った顔。しかしやばい、名前を思い出せない。わずかな期間付き合ったことのある、隣のクラスの女子。確か軽音部。
さっくり断ったのにも関わらず、軽音部は傷付いた様子もなく、空いていた隣の席に勝手に座った。
「バイトなのに帰らないの? なにしてんの?」
「バイトだから課題を今のうちに済ませとくの」
「真面目かっ!」
軽音部はけらけらと笑って、ノートを覗き込んでくる。先ほどの匂いは香水らしい。甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。嫌いじゃない。
しかし、じいっと見られながら課題をするのはさすがに集中できない。
「……見てても楽しくなくない?」
「楽しいよ、紫苑のこと見てるの」
おおっと。わずかに好意の匂いを感じる。復縁の要請はお断り。
俺は軽音部の方を見ないようにして課題に取り組み始めると、彼女はあっさり「頑張ってね」と言って席を離れた。面倒なことにならず、ほっとした。
軽音部は俺のことを真面目だとからかったけれども、別に真面目というわけではない。面倒くさがりなだけだ。
家に帰ればバイトで疲れているし、ノートなんて開きたくない。それに学校という非プライベートな空間の方が捗る。家にいるとスマホ触ってばかりで何もしなくなるものだ。
明日提出の課題は三十分ほどで済んだ。
その頃には教室に残っていたのは数人だけで、俺はさっさとノートと教科書を机の中に放り込み、教室を出た。
一段飛ばしで階段を降りていると、踊り場で女子生徒が一人でワタワタしていた。
「おっ?」と目を見張る。
委員長だ。
床には十冊ほどの冊子が散らばり、踊り場の隅には通学カバンとでかい筒状のポスターっぽいもの。どうやらここで荷物をぶちまけたらしい。
「委員長、大丈夫?」
冊子を拾った俺を見て一瞬驚いたような顔をしたものの、「ありがとう」と委員長は言った。
それらを集めながら見ると、書道の雑誌のようだった。
「委員長って書道部なの?」
「うん」
「これ、書道部に持ってくの?」
「ううん、顧問の真柴先生のところ」
うわ、委員長。モブ柴と部活まで一緒だとは。
女の子の行動力はすごい。好きな人のいる部活に入っちゃうなんて熱烈。ああ、でも部活がきっかけで好きになったのかもしれないのか。
彼女の恋に想いを馳せながら、よいしょと立ち上がる。あまりにも荷物が多いので手伝うことにした。
俺が雑誌とポスター、委員長が荷物を持って並んで階段を上がる。
しかし、歩きながら無言。共通の話題はなにもない。
なので俺は今考えてたことを訊いてみることにした。
──ほんの、軽い気持ちで。
「委員長ってさ、モブ柴のこと好きだよね」
その瞬間、委員長は驚いたように目を見張った。まんまるの瞳が俺を見上げる。
「な、んで」
「だって、そんな目で追ってたら分かっちゃうよ」
委員長は立ち止まり、うつむいた。
その反応に、ほんの少しの優越感。分かってたけど、やっぱそうなんじゃん。バレバレだぞ、委員長。
「委員長はああいうの好きなんだね。モブ柴ってひょろいし声小さいし、地味だし、どのへんがいいの?」
からかうように訊ねるが、委員長はうつむいたまま動かない。
恋心を指摘したから恥ずかしがっちゃっただろうかと思い、かがんで顔を覗き込む。
するとそこにあったのは恥じらいではなく、怒りだった。
メラメラと燃えるような視線と眼鏡越しにばちりと目が合い、その鋭さに思わず一歩退く。
え、俺、なんかやばいこと言った??
委員長は眉を吊り上げ、怒気と侮蔑のこもった目で俺を見た。
「そういうデリカシーないのってどうなの」
「えっ」
「言っとくけど幸村くんこそ、その格好、いいと思ってる? ピアスキラキラさせるなんて、ナルシスト見え見えだけど?」
指摘され、思わず耳に手をやる。指先にひんやりした金属が触れた。
言われたことがすんなり頭に入ってこず、混乱する。
「お、俺はそんな……」
「幸村くんが言ったのはそういうことでしょ。人が素敵だなと思ってることを貶すのって、そういうことよ」
想像もしていなかった言葉にうまく返せず、フリーズ。
そういうことってどういうこと?
俺の言ったことに猛烈に反撃されていることは分かる。ええとつまり、俺が委員長の恋を指摘したから怒ってる?
いや違うな。今の言葉だと、モブ柴のことを俺が悪く言ったからキレてるっぽい。
え、でも少しからかっただけのつもりなんだけど。
言葉を失った俺にため息をついた委員長は、「もういい、ありがと」と言って俺の手から雑誌を奪い取り、足早に立ち去った。
俺はしばらく、呆然とその場に突っ立っていた。