嵐の前の
広川はエレベーターで14階まで上がり、「SK総合ゴム商事株式会社」という表札の入り口にある指紋認証の機械に指をあてると、ドアが開いた。そして自分の席に向かう途中で、大柄の男性が広川に大きな声で挨拶をしてきた。
「広川さん。おはようございます!」
広川の後輩の北村信二だった。年齢はまだ27歳の若手の社員だが185cmと背が大きく175cmの広川が小さく見えるぐらいだった。また、学生時代にラグビー部だったこともありどっしりとした筋肉質の体形だったので、そこから繰り出される挨拶の声はフロアに響いて聞こえていた。
同じ部署になったころは、その声に慣れなかったが、3年もいるとこれが当たり前になってきていた。広川は慣れたように挨拶を返した。
「おはよう、北村君。今日も元気だね。」
「元気だけがとりえですから」北村が笑いながら話を続けた。
「ところで、さっき電話で本社の上海事務所の榎木所長から連絡があって、午前中に緊急ミーティングをするから広川さんも参加するようにとの伝言がありましたので宜しくお願いします」
「榎木所長から、緊急のミーティングの依頼か。なんだろな…」
「ええ、そうですね。でも、何か大事なミーティングだと強調されていました」
「そうか、わかったよ。」
広川は、そう言うと他の課員や上司の鈴木次長に挨拶をして、自分の席に座るとパソコンを立ち上げてメールソフトを開いた。さっき北村が言っていたメールを探していると、スケジュール表の更新ポップアップが出てきた。
”本日1/22 AM11:00 重要ミーティング”
広川は、そこをクリックすると、参加予定のメンバーが出てきた。本社から中国室長の袖松や広川の本社時代の先輩だった及川副部長、中国駐在時代の上司だった砂川も参加予定だった。他の参加メンバーもグループ会社の中国関係の専門家が揃っているようだった。
広川が現在所属しているSK総合ゴム商事株式会社からは、広川だけ参加になっていた。
少し不思議そうに、パソコンを眺めていると、少し白髪が見える次長の鈴木が話しかけてきた。
「なんで、俺だけっていう顔してるな」
「あ、ええ。鈴木次長ではなく、私が参加対象なのが気になって」
「悪いが、私が君を推薦したんだよ」
「そうでしたか。ありがとうございます。」
「ああ。今日8時からあった次長職ミーティング後に、直々に榎木所長から私にも参加するように連絡があったのだが、あいにくその時間帯は、社外で経済産業省の担当者と打ち合わせがあって参加できないと伝えたら、代わりの方を推薦してほしいと言われて君を推薦したんだ」
「そうでしたか…。でも、森下課長もいますし…。私で良いのでしょうか…」
「いや、彼は北京駐在経験があって、中国の東北地方は詳しいが、南方の方はあまり得意じゃないから、君の方が南の方については、経験あると思ってな」
「南の方…ですが…」
広川は、鈴木の言葉を軽く繰り返した。
「これは、私の想像だが…」と鈴木が前置きをすると、広川に寄って小さな声で話し始めた。
「武漢で蔓延している肺炎のことじゃないのかと思うんだ。テレビで見ていて、君も知っていると思うが、中国はまだ公にはしていないが、何か発表をするのではないかと俺は思ってる。現地にいる榎木所長は共産党幹部とは学生の頃から友達のように付き合ってきたから、何か重要情報を入手したのかもしれないな」
「え…、でもそんなことしたら、榎木所長の信頼がなくなるのではないですか」
「まあ、これは俺の妄想だ。それに榎木さんも、それぐらいは分かっているさ。」
「ええ、そうですね」
「それに、君にとってもいい機会じゃないのかな。その地域にある武漢大学に留学していた経験もあるから、発言もできるきっかけになるからな」
「ええ、でも、長い間武漢にも行ってないですし、たまに留学時代に知り合った人たちと連絡を取るぐらいですけど、かなり変わっていると思いますよ。私がいた頃と」
「それでもいいんだよ。もしそんな話題になったら、是非発言してくれ。グループ会社の全体ミーティングで、発言することは、SK総合としての存在意義を高めることなんだ。」
「分かりました。鈴木次長」
「ああ、宜しく頼むな。広川課長補佐」
鈴木は軽く広川の肩をポンと叩いて、自分の席に椅子を戻して、業務を始めた。広川も、自分の席で今日することを確認してから、ミーティングの準備を始めた。外は、雨脚がさっきより強くなり窓に打ち付けるようになっていた。