2月
空気がピンと張りつめる。
吐く息が白い。
2月は冬真っただ中だ。
『7時30分、7時30分。』
朝のニュース番組。
キャラクターがせわしく時間を告げる。
「やばっ。」
急いで朝ごはんをかけこむ。乱暴に食器を重ねる。オレにとってこの7時30分が分かれ目だ。少しでも遅れると大学行きのバスに乗れなくなる。
大学生になったらもっとゆっくりできると思ってたのに。高校の時よりも早く家を出るってなんだよ、ちくしょう。
「たかしー。帰りにおでんのもと買ってきてー。」
「わかった、わかった、間に合わないからもう行く。」
今日の夕飯はおでんか。いや、今はそれどころじゃないんだった。
くそ、眺めがよくて気に入っている7階のマンションもこの時ばかりは恨む。階段を一段飛ばしで下っていってようやくエントランス。
7時33分。よし、間に合うかもしれない。
ここからバスのターミナルまで全力疾走。定期を片手にひたすら走る。結構大きい街に住んでいるせいで、バスターミナル自体も入り組んでいる。
大学生になりたての頃はよく、停留所の位置を間違えたっけ。今はカンペキ。8番、8番。
朝の登校戦争に完全勝利を決めこんでいた。バスの発車まで後2分。
やった、やったよ、オレ。バスに間に合うじゃん。
「すみません。」
オレは自分の不運を呪った。このタイミングでオレに道聞いちゃうの?時間ないんだって。
あたりを見回してもどうもオレに話しかけたのは明白だった。ちくしょう、立ち止まるしかない。
「なんですか。」
一応笑顔で立ち止まる。こいつに心の中を見せてやりたいよ。ああ、ついてない。走り出したい…
でもよく見るとその子は青い顔をしていて今にも泣きそうだった。
「あの、――大学行きのバスはどれですか。」
お。それ、オレの大学ですけど。ラッキー。こうなったら付き合ってもらうしかない。
「わかった。一緒に来て。」
「え?」
オレは構わずその子の手を取ると、駈け出した。どうか神様、昨日妹のケーキを勝手に食べたこと謝りますからバスに乗らせて下さい。
バス停に着いた時、オレは安堵した。やっぱり勝ったのだ。本当にギリギリの戦いだったなんて今日の朝を振り返る。
バスに乗って一呼吸。
安心して周りが見えてくると、オレの横には肩で大きく息をする女の子がいた。しまった、すっかり忘れてた。オレが付き合わせてしまったのだ。
「ごめん、大丈夫だった?」
「いえ、ありがとうございます。初めてここに来たので迷ってしまって。」
確かに見慣れない制服を着た女の子だった。
「どうして今日ここに来たの?」
「今日は――大学の入試ですから。」
なるほど。道理でいつもは私服学生の目立つバスにたくさんの制服を着た学生がいるわけだ。
「もう一年たつんだ、オレの入試から。早いな。」
「あの、――大学の方ですか?」
「そうだよ、オレの時はすごい雪で入試が延期になると思ってたのにさ。むしろ延期になることを祈ってたぐらいだったよ。」
「私も色々考えてきたんですけど、このバスに乗っちゃったのでもう逃げられませんね。やるだけやってきます。」
その子は小さくガッツポーズをとった。
「うん、がんばってね。」
そうだ、たしかポケットにまだ入ってるはず。
「これ、オレが受かった時に持ってたお守り。貸してあげるよ。」
我ながら、自分のこういう行動力には感嘆する。初対面の、それも女の子にだ。
「そんな大切なもの。だってもう会えないかもしれないし。申し訳ないです。」
その子は本当に申し訳なさそうな顔をした。それでもオレは強引にその子の掌に包ませた。
「いいよ、全然。もうお古だから、汚れてるところもあるようなやつだし。」
「ありがとうございます。私絶対に合格して、これ返しに来ます。」
その子が笑った。あ、かわいい。ってオレ、何考えてんだ。
「よし、その意気だ。」
ちょっとだけ遠くを見ながら言う。きっと変に赤くなってるだろう顔を隠したかったから。
バスは大学前に到着した。勢いよく人をはき出していく。ここでお別れだ。
「じゃあ、がんばって。」
「はい。」
オレが校舎に向かって歩き出した時、少し後ろからもう一度声が掛った。
「あの、お名前は?」
「あ、オレ?たかしだよ。」
「たかしさん…お守りの約束、絶対に守ってみせますから。」
その子の堂々とした後姿をオレは忘れない。
あれから一ケ月。オレの横にはあの頃の変わらない笑顔とお古のお守りがある。