③ 決断のとき
石造りの回廊を必死で駆け上がる。いくら体力を鍛えていても、階段はさすがにキツイ。しかも、ユキがいるのは恐らく最上階――数時間前に魔力解放の儀式を行った、元老院に繋がる場所だ。一度は通った場所とは言え、行きも帰りもいろんな意味で夢見心地だったため、何段上れば辿り着けるのかも分からない。
駆け上がる途中にも、いくつかの遺体があった。確認もせずに「遺体」と呼ぶのは不適切かもしれないけれど、その出血量から想像するに息があったとしても助かる見込みがあるとは思えない。心の中でごめんなさいと謝りながら、飛び越えて走った。
ひたすら階段が続く魔楼塔内部には、螺旋の中央を利用するような構造で部屋が配されている。一つひとつ部屋を開けてまわることも考えたが、中に襲撃の犯人がいたら怖いので一旦無視。
とにかくまずは最上階まで行き、そこでユキに会えなかったら部屋を確認しながら降りてこようと決めた。
もはや息も絶え絶え……という頃にようやく、最上階の扉が見えてきた。
真っ白なつるりとした扉には、金色で古代語が刻まれている。そのままの勢いで扉を開けようとし、寸前で思いとどまった。息を整えながら、扉に耳を当てる。物音は聞こえない。そもそも、魔力解放という神聖な場所だ。音は遮断されているのかもしれない。
「ノックは……しなくていいよね?」
誰も居ない空間で呟く。もちろん返事はない。
そっと扉を押すと、想像以上にすんなりと動いた。鍵はかかっておらず、見た目ほど重くもない。細い隙間から中を窺ってみたが、魔物が暴れているような気配はない。数時間前に見たのと同じく、美しい調度品も、儀式に必要な何かしらも、そのまま置かれているように見えた。
そろそろ扉を開け、身体を滑り込ませる。
今朝見た景色と何も変わらないその部屋が世界で一番安全な場所に思えて、ほうっと小さく息を吐いた。
「ユキ……いるの?」
愚問だと分かってはいたが、聞かずにはいられなかった。一切乱れていない様子を見る限り、ここには魔物は進入していないようだ。回廊には多くの遺体があったのに、ここには達していないのだろうか。
「元老院へは、どうやって行くんだろう」
元老院とは、老師と呼ばれる賢者が集まる組織だ。その実体はさっぱり分からないが、とにかく世界のあらゆる決まりごとを決め、魔王との戦いにおける戦略を担っている――らしい。
「これ、借りてっていいかな」
壁に飾られた剣をひとつ、手に取る。丸腰は怖い。魔法を使えないからには、この先どんな敵に出会っても剣術で対応するしかない。勇者のための剣かと思ったが、飾り用のそれには刃がなかった。斬ることはできなくても、防御くらいにはなるだろう。
部屋の中央に描かれた魔法陣の上に立つ。数時間前にも立ったばかりの場所だ。
儀式を行った時のアークシュイド=セロウズの様子を思い起こす。確か、紫色の古書を手にしていた。部屋の隅にある小さな棚に置かれたそれらしきものを手に取る。
うかつに触るとページが破けてしまいそうなほど、それは古い書物だった。当たり前に、内容は読めない。おそらくこれも、古代語だ。ということとはつまり、アークシュイド=セロウズは古代語を読めたのだろうか。
「どのページを見れば……」
破かないように気をつけながら、そっとページをめくる。脇に剣を挟んでいるので持ちにくい。仕方なく床に剣と本を置き、座り込んでめくり始めた。いつ敵が現れても対応できるように、部屋の――魔法陣の真ん中で。
「あ、これ」
本の後半に、いくつもの魔法陣が描かれていた。そのうちの1つが、今自分の足元にある魔法陣に酷似している。だが、発動のさせ方が分からない。アークシュイド=セロウズは何かを呟いていた。どうすればいいのか。
ページを開いたまま、魔法陣の上に座りなおす。ちょうど、中心部に腰を下ろした、その時。
「ハル?」
一瞬過ぎて何も分からなかった。
ただ、気付いたら目の前に着飾ったユキがいた。赤いローブを身につけ、今まさに、勇者の剣を受け取るところだった。
渡そうとしている人物が……この周囲にいる人々が、いわゆる老師様だろうか。
「ユキ、無事だったんだ」
ユキも周囲も突然の出来事にぽかんとしている。その平和な様子を見て、気が抜けた。と同時に、急激に涙が込み上げてきた。さっき枯れるほど泣いたのに、まだまだ涙は残っていたらしい。
「え、ハル? 泣いてるの!?」
慌てて駆け寄ってきたユキに抱きつく。うわんうわんと声を上げて泣きたいところだけど、ユキの前だと思うと自動的に自制心が働いてしまう。ユキの胸元に顔を押し付けたままぐっと堪え、呼吸を整え、顔を上げる。そのままユキの頬を手で包んだ。
「無事で、良かった。本当に、よかったぁぁぁぁぁ」
やっぱり我慢しきれなかった。でもこれは、いつもの悔し涙じゃなくて嬉し涙に近いやつだから、少しくらい流れてもいいだろう。お父さんもお母さんもどうなったか分からず、アークシュイド=セロウズでさえ私の腕の中で事切れた。そんな絶望の次に出会ったのが、いつも通りのユキなのだ。泣いてしまうのも仕方がない。
と、強烈な安堵で体中の力が抜けた。
人は安心しすぎると、気絶するものらしい。
*
夢の中で何かを追いかける。
それを放ってはダメだと必死で叫ぶのに、周囲の誰も気付いてくれない。
お願い、そいつを止めて。
それはあまりにも危険すぎる。
私が生んだ、その子は―――
*
目が覚めると、そこには知らない天井があった。見慣れた自宅の木の板ではなく、やたら煌びやかないくつもの天使が描かれている。天使の視線の先に居るのは、見たことのない生物だった。人間でもエルフでもない。魔物……というわけでもないだろう。
「ハル、目が覚めた?」
知らない天井の下で、よく知る声に名を呼ばれた。
「ユキ……」
「ふふっ、目が腫れてるよ」
それは多分、その前に泣いた時からだけど。心の中でそう言いながら起き上がる。
「それどころじゃないの、それどころじゃ――」
「うん、知ってる」
どこから説明するべきかと言葉に詰まると、ユキはあっさりとした様子で頷いた。
「勇者の誕生は、魔王の誕生と対になっているんだって。勇者が生まれるという事は即ち、魔王が生まれるという事。魔王が生まれるという事は、勇者が生まれるという事。どちらが先でもなく、同時に誕生するものなんだって」
急な情報に驚いて固まっている私に、どこが世界の祝福なんだろうねと、ユキが笑った。
「勇者は希望なんかじゃない。災厄の始まりなんだよ」
「そんな」
「だけど、こんな風に勇者の印を得たその日に襲撃されることは、史実にも例がないんだって。魔王がどこで生まれたのか、そもそもどの種族に属するのかは分からないけど、もしかしたら近くにいるのかもしれないらしい」
「種族って――魔王は魔物でしょう?」
「魔王は魔物じゃない。人間の可能性すらある。魔物は、魔物。この世界のほとんどの生物と折り合えないだけの存在」
教科書を読むようにスラスラとユキが答える。決して勉強が得意なタイプではなかったはずなのに、まるで昔から良く知っていたかのように新しい知識を喋るユキは、私の知っているユキではないみたいだ。それもこれも、勇者の印を得たからなのだろうか。
「ハル」
ユキが私の手を握る。数時間前に見せた、縋るような眼差しとは違う。何かを決意した強い意志のある眼差しで。
「私は、私の対である魔王を見つけなければならないみたい。それを倒す事でしか、世界の平和は守れない。私と同時に魔王が覚醒した今、一刻も早く魔王を倒す事だけが私の生きる道なの」
「聞いてた話と」
「うん、全然ちがうよね」
ユキが強い眼差しをふわりと綻ばせた。それはいつも通りの、優しいユキの顔だ。
「魔王はこの世界に常にいて、魔物をつかって世界を手に入れようとしてる。魔王を討伐できるのは赤い印を得た勇者だけ。勇者こそが世界の救世主だなんて、元老院が仕組んだとんでもなく壮大な嘘だったんだよ」
「そんなの、ひどい」
「そう? 私はありがたいと思ったけど」
嘘で世界をコントロールしているのに、どうしてそれがありがたいのか。ユキの言う事が分からなくて首を傾げる。いつもと逆だ。これまではユキが首を傾げ、私が教え諭していた。今はもう、立場が入れ替わってしまったのだ。
「だって、勇者誕生が災厄の始まりだとみんなが知っていたら……私たち双子なんて、とっくに生きてないよ。きっと、覚醒前に殺されていたと思う」
返す言葉もなかった。
その通りだ。
勇者と魔王が対を成す存在であるならば、覚醒前にどちらかを葬れば、もう片方も覚醒しないのではないかと――普通は思うだろう。
「ちなみに、129年前の時はね、勇者は人間で魔王はゴブリンだったんだって」
「ゴブリン……って強くないよね」
魔物の中でも下級とされるゴブリンは、一部には知能の高い種族もいて人間と友好関係を築いている。が、一部野蛮な者は今でも討伐対象だ。討伐するのは元老院直轄組織『ギルド』に所属する戦士たち。その戦士の中でも、一人前になる前の見習いが鍛錬のために討伐するのが、ゴブリンだ。
思い描いていた魔王像とは遠い――そう言うと、ユキは静かに首を振った。
「大変なのは、魔王を討伐することじゃなくて、見つけることなの。魔王を見つけるのに時間をかけるほど、世界の被害が拡大する」
「悪さをしているゴブリンなんて、魔王であろうがなかろうが、戦士にあっさりやられない?」
「魔王を倒せるのは勇者だけなの」
「つまり、そのゴブリンだけはめちゃくちゃ強いってこと?」
質問ばかりになっている自覚はあるが、質問せずにはいられない。
「そうじゃなくて、魔王は自分の眷属を使役するの」
「ケンゾク?」
「使い魔とも言われるらしいんだけど、そういうのを生んで、世界を襲わせるんだって」
「自分は何もせずに?」
「そう。だから余計に、発見されにくいんだよ」
その辺にいる見るからに善良な市民が、密かに世の中に自分の使い魔を放って平和をかき乱していたとして、誰が気付けるだろう。
「だから、勇者のやることは戦いよりもまず、情報を集めて魔王の居場所にあたりを付けること」
「なるほどね」
魔物を倒せば魔王に辿り着けるというものではないのなら、わざわざ魔物を倒しに行く理由もない。戦闘よりむしろスパイ活動の方が大事だ。
「そこで、改めてハルにお願いしたいの」
緩めていた手に力を込めて、ユキがもう一度私の手をぎゅっと握った。
「手伝って欲しい。ハルは私よりも頭がいいし、いつだって冷静でしょう? 私は怖いことがあるとすぐにパニックになっちゃうし。でも、ハルが隣に居てくれたら、どんな道でもちゃんと進めると思う。ハルさえいてくれたら、ハルが笑って隣に居てくれるだけで、私……」
「買いかぶりすぎだよ。ユキはともかく、私はただの15歳だ」
「ねぇ、お願い。自分が生まれたことをこれ以上後悔したくないの。私が討伐しなかったら、世界はどんどん闇に覆われてしまう。私が生きる意味は、魔王を討伐することにしかもう、残されていないの」
それは、切実な叫びだった。
ユキのせいで魔王が生まれた、なんてことはないのに。
それでも、そう思わずにいられないユキの気持ちは分かる。
だって今、私、自分が勇者じゃなくて良かったって、心から思ってしまっている。
「――分かった。そこまで言うなら……私も一緒に、旅に出る」