② 襲撃
―ウィンザード歴 1852年―
魔楼塔の上空に、129年ぶりの黄金色の輝きが戻ってきた。
イネ州は、カイア国の中でも農業の盛んな牧歌的土地だ。そんなイネ州に、国中から祝福のためにあらゆる種族が集まり始める。いや、もしかしたら国を超え世界からも集うかもしれない。
勇者誕生。
これは、世界中が心から待ち望んできた瞬間だ。
「え、ハル、なんで……」
家に帰ると、見たこともない上等な服を身に纏った両親がきょとんとこちらを見た。
「あなた、これから戴冠式の準備なんじゃないの?」
勇者は双子から生まれる。
そんな言い伝えに期待して、はなから自分たちの服を用意しておいたのだろう。戴冠式は明日だというのに気が早い。そして、そんな姿が今の私にはどうにも鬱陶しい。
「私じゃなくて、ユキがね」
そっけなく言って自室に戻ろうとすると、母に腕をつかまれた。
「ユキってどういうこと?」
その目があり得ないと言っている。私が選ばれなかったことがあり得ないのではなくて。可愛くて可憐なユキが過酷な任務に就くことがあり得ないと、そう言っている。
「ユキには無理だろう」
父の焦ったような声が近付いてきた。イネ州立初等学校の教師をしている父は、いつだって冷静で厳格だ。その父がいつになく慌てている。焦りと混乱を隠していない。
「服まで用意しておいて、何を言ってるの?」
両親になら、甘えてみてもいいだろうか。魔楼塔で呑み込んだあらゆる感情が、一気に溢れ出る気配がした。黒い塊がずるずると。
「双子のどちらかが勇者になる可能性がある。だから、そうやって新しい服を用意して、早速着込んでるのよね? それが私じゃなくユキだったから何だって言うの。確率は2分の1じゃない」
「ユキには無理よ」
母が先ほどの父の言葉を繰り返した。
「あなた、代わってあげなさい。ユキは昔から剣術も体術も苦手で、身体も弱くて、気も強くなくて、そんなんで魔物討伐なんて――ましてや魔王との戦いなんて、耐えられるわけじゃないじゃないっ!」
「私なら耐えられるの?」
「だってあなたは強いもの。しっかりしているし身体だって丈夫だし、何より心が強いわ。ハルなら、魔物討伐だって恐ろしくはないでしょう?」
この母は、自分の言っている事が分かっているのだろうか。
可愛いユキは手元で大切に育てておきたい。強くて逞しい姉は命がけで魔王軍と戦い、家族に誉れを寄越せ――そう言っているのだと、私の頭は理解した。
「やめなさい」
さすがの父も、母の言いようを咎めた。
「勇者を変わることなんて不可能だ。見てみろ、ハルの額にその印はない」
「それなら、ハルは何の魔力が使えるようになったの? それでユキを守れるんじゃ」
「魔力はない」
「え?」
短く返した言葉に父と母が絶句した。
「私の魔力はきっと、お母さんのお腹の中で全部ユキが吸い取ってしまったんだ」
「ハル、待って――」
母の制止を振り切り、階段を駆け上がる。木製の階段が派手な音をたてたが、構わない。いつもなら「階段が壊れるから静かに上って!」と注意する母の声も今日は聞こえない。自室の扉を力いっぱい叩きつけるように閉め、鍵をかけた。清潔に整えられた妹のベッドを一瞥し、自分のベッドに飛び込む。朝起きたときのまま寝乱れたシーツに、思い切り顔をうずめた。
「どうして、私ばっかり……」
両親に泣いていると思われたくない。我慢しきれない嗚咽をシーツの波の中に沈めこみながら、呪詛の言葉を吐きつづけた。
いつも、可愛がられるのは妹ばかり。褒められるのも妹ばかり。
見た目にも性格にも愛される要素のない私が唯一自分を保てたのは、努力で叶う部分だけ。体術だって剣術だって、死ぬほど努力した。そんな努力を「あさましい」と学校で笑われているのも知っている。どう頑張ったって愛されキャラになんてなれないのに、それでも頑張る事でしか自分の価値を見いだせなくて。
だけどそれも、勇者にさえなれば覆せると思っていた。129年ぶりの勇者となって世界中の祝福を受けられれば、ユキのようには愛されない事も受け入れられると思った。私は世界を愛し、世界から愛される唯一の選ばれし者になるのだと――それだけが、心の支えだった。
だけど、もう叶わない。すべては妹の手の中だ。美しさも、愛される事も、そして世界の祝福を受けることもすべて。それならば、命をかける程度の試練なんて一人で耐えればいい。血に濡れ、闇に追われ、苦しめばいい。それは決して、私の使命ではない。
どれほどの時間が経っただろう。戻ってきた時には明るかった空が、すっかり闇に覆われていた。泣きながら眠ってしまっていたらしい。重い瞼に冷え切った手のひらをあてる。泣きながらのうつ伏せ寝は、目に大きなダメージを与えているようだ。鏡を覗くとそこには、魔物でも逃げ出すかもしれないレベルの目つきの悪い腫れた瞼があった。
「でも、スッキリしたな」
身体の中から、悪い感情がするりと抜き取られたかのようだった。
あれほど絶望していたのに、今はない。何もない。
「さて、お父さんとお母さんに謝るか」
昔から、泣いて寝てすっきりするのが得意だった。妹とベッドを並べる部屋で、今日のように思いきり泣いたことはないけれども……寝ている妹にバレない程度に枕を濡らすことはあった。そうやって劣等感でどれだけ落ち込んだとしても、翌日にはすっきり気持ちを切り替えられるところが、私の数少ない美点だと思っている。
いつものようにそうっと、軋ませないように階段を降りる。曽祖父が建てたという築100年を超えるこの家は、目立つ傷みをこまめに修繕しながら住んでいる。妹が勇者となった以上、この家を受け継ぐのは私の役目だ。そう考え始めたとたんに建物への愛着が増すから不思議だ。
そして、そんな風に思考を切り替えられた自分を、心の中でひっそりと褒める。誰も褒めてくれないから自分でめいっぱい褒めるのだ。
「ねぇ、お腹すいた」
いつものようにダイニングに座る父と、キッチンで夕食の準備をする母の姿を想像しながら扉を開けた。しかしそこに両親はいなかった。夕食の準備がなされた気配もない。時計を見ると、18時すぎ。いつもなら何かを煮込む良い香りが漂う時刻なのに、家は暗く静まり返っていた。
「お母さん? お父さん?」
他の部屋を見ようとダイニングを出たとき。
遠くで甲高い音が鳴るのを聞いた。
音というより、悲鳴?
玄関を開ける。私たちが住むイネ州の州都は、他の州都に比べればのんびりとしているらしいが、それでもそれなりには賑わっている。いつものこの時間ならまだ、通行人や馬車がたくさん行き交い、家々の明かりも十分に灯っているはずだった。
ところが。
街には人がいない。
明かりもなければ、夕食の準備をしているはずの煙すら出ていない。誰もいない石畳の上で、私は途方にくれてしまった。
もう一度、遠くから何かが聞こえた。迷わずに走り出す。こんな状況、普通ではない。誰も人がいないなんてあり得ない。そもそも明日は勇者の戴冠式だ。国中から、いや、世界中から大勢が集まるはずの州都がこんなに静かだなんて、おかしい。
それとも既に、みんな魔楼塔へ集まっているのだろうか。前夜祭があるという話は聞いたことがない。街の中心にそびえる魔楼塔の頭上には、黄金色の輝きがある。勇者誕生の証。おそらく、全世界の魔楼塔に同じ輝きが灯っているのだろう。
魔楼塔に向かって、走る。脚力にはかなり自信がある。7歳から毎日体力づくりを欠かしていないのだ。歩けば30分以上かかる魔楼塔への道を、一気に走る。速度は落とさない。
その間、どの家にも明かりがないのが不気味で仕方なかった。ただ、魔楼塔の頭上だけが輝いており、足元をぼんやりと照らしてくれている。
星も月も見当たらない闇の中を、黄金色だけを頼りに走った。全力で、走った。その先で見たものは――
「アークシュイド=セロウズ……様?」
魔楼塔を取り囲む広場にはいくつもの遺体が転がっていた。今しがた襲われたばかりなのか、血の臭いと一緒に生物が放つ温かさも立ち昇っている。
その遺体の中でも最も魔楼塔に近いところに、今朝がた見たばかりの銀髪が散らばっていた。
手を伸ばしかけて、躊躇する。生きているようには見えない。生きていないものに触れるのは、怖い。
「う……」
迷っていると、銀髪ほんの少し動いた。呻き声と共に、投げ出されていた手が何かを掴むように動く。
「アークシュイド=セロウズ様!」
その手を握り、慌てて抱き上げる。儀式を受けたときから着たままだった真っ白いローブが血に汚れたが、この状況で出会った初めての生存者を前に、それどころではなかった。
「まおうが……うまれてしまいました……」
彼は自分が誰と喋っているのか、認識できているのだろうか。美しい顔を苦しげに歪め、エルフ族の中でも特に永い数百年に及ぶとされる生を、今、手放そうとしている。
その衝撃があまりにも重すぎて、彼の言葉をうまく理解する事ができない。
「ま、まおう、を、倒すのです、勇者なら、かないます、が、あのゆうしゃは、あまりに、もろい」
勇者を脆いと言った。それでようやく、私の脳内で「まおう」が「魔王」に変換された。
「え、待ってください。魔王が生まれたっていいました? 今まではいなかったんですか?」
アークシュイド=セロウズは答えない。苦しげに胸を大きく動かしながら喘いでいる。胸元の血量を見るに、肺をやられているのかもしれない。
「ゆうしゃ、に、すべて、おはなし、しました。ゆうしゃを、おたすけ、ください」
いや、ってゆうかこれもしかして、勇者が生まれたから魔王が襲撃してきたってことなの? だとしたら、まだ何の訓練も受けてないユキなんてあっという間に捻り潰されちゃうんじゃ……
「は、やく――きゅ、せいしゅ、さがして――…すべてが、ておくれ、に、なる、まえ、に―――――……」
あ、死んだ。数百年の寿命がいま、事切れた。
「くっそ!」
お母さんに聞かれたら思い切り顔を顰められそうな言葉を吐いてしまった。
アークシュイド=セロウズを石畳におろして立ち上がる。何がなんだか分からないが、とりあえず、ユキが何か知っているならユキに話を聞くしかない。両親の安否も気になるけれど、とにかく今はあまりにも話がわからなすぎる。
震える膝をパシパシと叩いた。お願い、もう少し頑張って。ユキに会わなくちゃ。
昼間、失意のまま辞した魔楼塔に向けて、もう一度走り出す。堅く閉ざされているはずの門が開いているという事は、もしかしたらこの惨劇の犯人――あるいは魔王が、この中にいるのかもしれない。怖さと同時に、長年染み付いた感情がわきあがってくる。
とにかくユキを、助けなくては……!