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いぬみみうさみみ 第9話  作者: 佐倉蒼葉
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第2章

 年末年始の休みが始まった。昨夜のチャットでは、ラジオも和泉さんも実家に帰ると言っていた。「年に一度くらいは親孝行しないとね」と和泉さんがそう言った時、思い出した事があった。

 ───父親に復讐したいと言っていた事だ。

 それが親孝行とは、どういう事だろう。発言の中に「お袋が」とあったので、お母さんが金沢に居る事が判ったが、お父さんの方はどうなのか、全く触れなかった。

 言える訳がないか……

 ラジオの前で、『復讐』なんて話を。私に言ったのは、眼鏡が壊れた経緯を話していて、ついこぼしてしまったのだろう。

 彼女───由加さんだったか、彼女は知っていたのだろうか。『彼女は僕を怖れているよ。───本当の僕を知ったらどうなるかわからない』と言っていたのを考えると、知らなかったと思われる。だから眼鏡を折る程に怒りを壁にぶつけた和泉さんを怖れたのだろう……

 私には、壁にぶつけたのは怒りではなく悲しみだったように思えた。

 私と同じ、うさぎだったから。『本当の僕』というものが。





 気晴らしに大掃除をする事にした。キッチンの水回りを掃除していると、携帯の着信音。ゴム手袋を外して見ると、『菜摘姉ちゃん』と表示されている。なんだかホッとして「もしもし?」と出た。

「もしもしミオ?姉ちゃんだけど」

「こんにちは」

「こんにちは。今、何してた?」

「大掃除」

「そう、…お正月はどうするの?」

「姉ちゃんとこ行くつもりだけど……いつからなら良い?」

「うちは大晦日から良いわよ。太一も楽しみにしてるし、三日間くらい居なさいよ」

「うーん…」少し考えた。「また二日に行って一泊するよ」

 一人の時間が欲しかった。菜摘姉ちゃんの家は楽しいけれど、それが切なく感じられた。

「そう?また湯島に行くの?」

「いやそれが…」思わずクスと笑いが洩れた。

「芸能浅間神社に行かなくちゃいけないかも」

「芸能?」

「うん。あの太一に似た子…仁史君ね、医者を目指してたんだけど…モデルになる事になったの」

「モデル?」姉ちゃんの驚きの声。

「うん。雰囲気のある子でね…スカウトされたんだ」

「へーえ…太一に似た子がね…」姉ちゃんもクスと小さく笑った。「かっこいいの?」

「そうだな…そこに居るだけで絵になるような雰囲気はあるよ。童顔だけど」

 『童顔』という言葉に、二人でくつくつ笑った。

「本当に、今度連れて来なさいよ。お正月でも良いわよ?大歓迎だわ」

「判った、訊いておくね」

 それじゃお正月に、良いお年を、と電話を切った。

「よーし、やっちゃうか」とまたゴム手袋をはめて掃除の続きにかかった。何かに集中していれば余計な事は考えずに済む……そう考える事が思い出している事だと気がついて、シンクを磨く手に力を込めた。





 大掃除に熱中するあまり、夕方にはする事がなくなってしまった。狭い部屋だ。おせちは会社の食品部門で買った物があるし、そうだ、お蕎麦……休みの間の食材を買いに行く事にした。外に出て腕時計をチラと見ると、まだ六時だ。最近あまり顔を出していない六角屋。今年最後に行ってみようか、と思い立った。

 『北天』を見たかった。

 ≪取り憑かれてるってみんな笑うけど、僕にも『北天』の空は特別なんだ……≫

 人を描き続けた空木秀二が唯一、人を描かなかった作品。それは六角屋の壁として空間を意識したものだからと言う。あの、灯り一つを変えただけで伸び縮みする空間に行きたかった。宇宙にすっぽりと抱かれるような感覚───寂しい身体を受けとめてくれるあの夜空に。

 電車を乗り継ぎ、緩い坂を下って六角屋を目指す。近道の公園を横切って、まだ遠い六角屋の辺りを見ると、看板が外に出ていない。閉店か……それでもいつものように六角屋の扉の鍵は開いていた。遠山さんがいるかなと思いながら、暗い絵の廊下に灯りが滲む店内に向かった。そこには意外な人物が居た。

 高瀬真臣。

 大阪に居る筈の人がどうして……

 彼はいつもと同じ、端のテーブル席に着いていた。

「お久しぶりです、ミオさん」と彼は軽く頭を下げた。私も会釈して「どうも…」と言う声が口の中で萎んだ。遠山さんが居ない。カウンターを振り向いた私に、「オーナーは席を外していますよ。ゆっくり『北天』を見てくれと」と声がした。

 私はカウンター席の椅子にバッグを置いて、コーヒーを淹れる人がいない事に気づいた。勝手に淹れて良いかな…と思ってカウンターの内側、自分の葡萄柄のカップを取って、ポットを火にかけた。いつも遠山さんがしている通りの手順で豆を計り、小さなコーヒーミルに豆を入れた。ハンドルを回すと結構重い。力が要るな…と思いながらごり、ごり、と豆を挽いた。……なんとか、遠山さんのようにコーヒーを淹れ、カウンターを回っていつもの席に着いた。一口飲んでみて、やっぱり失敗だったと思った。

 高瀬さんはその間、黙って『北天』を見つめていた。私から質問する事にした。

「今日はどうされたんですか」

「え?」

「なぜここに居るんですか?」

「ああ」と彼は苦笑して、「こちらに用事が出来たんです。私用ですからご心配なく。…ついでに絵を見に来たんですよ」

「───ない方が良いって言ったのに?」

「ああ、その節は…失礼しました。でも今でもそう思っていますよ」

「どうして?」心臓がどきどきする。怖い予感がする───

「この世には知らない方が良い事もあるんです」

 高瀬さんが『北天』を見に来た動機を……?

 だが彼の答えは違った。

「こんな絵を見たら、知りたくない事まで知ってしまう」

「…どういう…意味ですか…?」

「知りたいんですか?」と言う彼の声は冷ややかだった。「言ったでしょう、知らない方が良い事もあると」

「じゃあ、なぜ高瀬さんは『記憶の地平』を描いたんですか?『北天』に似ていると皆そう言ってます」

「皆、って?」

「私の周りの人達です」

「ハ、」と彼は溜め息混じりに笑った。

「確かに───そう、僕は空木秀二と同じ物を描いたんだと思います」一呼吸置いて、「彼も僕も、同じ物を、記憶を形にとどめたかったのかもしれません」

 そう言って彼は俯いた。「描かなければ良かった」

「…美緒子さんがあなたを思い出しかけているから?」

「……」

 素朴な疑問で訊いたのだが、後悔した。彼の表情は苦悶に歪んだ。

 高瀬さんはまた、目の前のシュガーポットを近くに引き寄せ、匙で少量、砂糖を手のひらにのせて指先で円を描くように混ぜたかと思うと、指先についた砂糖を舐めた。小声で歌い出す。英語の歌だ。聞き取れない……

 私はまた薔薇でも降ってくるかと思い、天井を見上げた。しばらく、黒い梁を見ていたが、歌声が小さくなっていくのに気づいて視線を高瀬さんの方へ───そして驚いた。

 いつの間にか、彼は居なくなっていた。





 この大事件をすぐにラジオに話したかった。食材を買うのも忘れて、慌てて部屋に戻り電話をかけようとしてその事に気づいたけど、お蕎麦くらい明日の大晦日に買えば良い、と思った。それより、高瀬さんは姿をかき消したのだ───歌声を残して。

 ラジオの携帯に電話をかけた。呼び出し音の間ももどかしい。不意に「はい、ミオさん?」と柔らかな声がした。

「えーっと、今大丈夫?」

「うん。どうしたの」

 私は先程の出来事を話した。うん、うん、という相槌を聞いているうちに、少し落ち着いて来た。合間にガチャ、バタンと音がしたのは、ドアを開け閉めしたらしかった。

「今どこ?」

「実家だよ。僕の部屋」

「そう…」それなら、話を聞けるだろう…「どう思う?」と尋ねた。

「高瀬さんが消える前、砂糖を舐めたんだよね?薔薇の時と同じで」

「うん」

「ミオさん、砂糖にも結晶があるって知ってる?」

「砂糖の結晶?」

「普通の砂糖は結晶が砕かれているけれども、まあ結晶である事には変わりないとして……昔ね、僕のおじいさんが言ったんだ。結晶には不思議な力があるんだよ、って」

「不思議な力…?」

「うん」と言って、間が空いた。何か考えているのか───私は次の言葉を待った。

「…僕のおじいさんはね、僕と同じでね。いろんな音が聞こえる人だったんだ。前に僕が小さかった頃の話をしたよね。僕の話し相手は、おじいさんと、おじいさんとおじいさんしか居なかったって」

「うん」

「あれはね、僕のおじいさんとばかり話してたんじゃなくて、他にもおじいさんが居たんだ。小さかった頃に飼っていた犬のおじいさんと、庭の桜のおじいさん」

「……」

 驚いて声も出なかった。人の心だけでなく、犬や桜───人でないものの声を聞いていたという話に愕然とした。

「両親はね、僕がちょっと変わってるって心配してたけど。おじいさんがね、お父さん達には内緒だよ、って、一度だけ自分の話をしてくれたんだ。僕の力はおじいさん譲りだって。そして、いろんな声に耳を傾けてごらんって。でもそれが辛い時は、砂糖や塩を舐めなさい、って」

 おじいさんのおまじないには、そんな深い意味があったのか……

 気休めだと思っていた私は、結晶の不思議な力というものが気になった。一体、どういう事なのだろう。だが、それで前に一度ラジオの実家に行った時に、彼がアルバートと会話していたのは、彼がふざけていた訳ではなかったのだと納得がいった。

「だからね、『北天』を初めて見た時に…、こんなに大きな結晶はどんな力を持ってるんだろうと思った。絵に過ぎないとも思ったよ?でもその『北天』のある六角屋だからこそ、薔薇が降ったり高瀬さんが消えたり出来るんじゃないだろうか。───空間を歪めるような、ね。高瀬さんはそれを知っているんだと思う。『こんな絵はない方が良い』と言ったんだから。本来の自然の摂理を曲げてしまう程の力があるんだ、って」

 あの言葉は『北天』をバカにしたのではなかったのか───

 だとしたら、高瀬さんの気持ちは如何許りだったろう。見る人を圧倒する大きな結晶を前にして。

「『北天』にライトを当てて店内を暗くした時にもね、ミオさんはその度に転びそうになったじゃない。あれは六角屋の空間が少し歪んでいたんだと思う」

 それを聞いて膝の力が抜けた。私は床にぺたんと座り込んだ。

「……いつから……それに気づいてたの?」

「この前…ミオさんが転ぶのが二度目だった時かな、その前からなんとなく思っていたけど…確信したのはその時」

「…どうして言ってくれなかったの?」

「うん?」と少し考えた様子で、「言ったら信じた?」と逆に訊かれた。───多分、信じられなかったろう。「高瀬さんの事がなかったら、今も言わなかったと思うよ」とラジオは言って、ふう、と息を吐いた。

「こうも考えられる」と彼は続けた。

「空木秀二はこうなる事を……空間を歪める事を、初めから考えてあの絵を六角屋の壁にしたんだと」

「ど、どうして?」

 混乱は深まるばかりだった。

「高瀬さんの言う『知らなくても良い事』を、形にして残す為に。きっと僕のように───梢子さんのように、自分の力に戸惑う誰かの為に……これが真実の自然なんだって伝える為に」

 真実の自然───

 難しくてよく判らなかった。

「でも、空間を歪める事は自然の摂理を曲げる事なんでしょう?」

「そういう事になるね」

「ラジ、矛盾してるよ」

「そうだね。今の僕に判るのはここまで。空木秀二の真意の奥深さは……僕にはまだ読めない」

 ───沈黙。

 ≪今わからないことはいつかわかる≫

 ラジオの座右の銘だ。

 今の僕に判るのは、と彼は言った。いつかこの謎を解き明かす日が来るのだろうか───その時、私達が見るのはどんな絵なのだろうか。

 見る者を吸い込むような奥行きを持つ『北天』のような空か。

 無限の地平のような、高瀬さんの『記憶の地平』の美しい広がりか。

 誰が次の絵を描くのだろう……

「あ、」と思い出して声が洩れた。「何?」と訊くラジオの声は、もう普段の懐っこさを取り戻していた。

「従姉がラジに会いたいって言ってた。ほら、ラジに似てる子…太一のお母さんで…」

「え?」と言う声が笑っている。これまでの緊張がとけてほっとした。

「お正月二日の日、空いてる?」

「うん、予定はないけど?」

「初詣、新宿の神社行かない?芸事の神様も居るんだって。仕事で会うモデルさん達とかも行ってるの」

「へえ…」と感心した様子で「うん、ミオさんのお誘いならどこでも」と答えた。

「その後、従姉の家に……待ってるって、ラジの事」

「うん。判った」

 では二日に、と待ち合わせの時間を決めた。混雑と菜のはなに行く事を考えて早めの時間。じゃあまたね、と話を終えようとした時、不意に「ありがとう」と言われた。「うん」と答えながら、心が温まるのを感じた。


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