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いぬみみうさみみ 第9話  作者: 佐倉蒼葉
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第1章

 北風の冷たさは嫌いじゃない。

 私の中の、何かを揺り起こすように、頬に冷たく触れ、切ったばかりの短い髪を揺らす。梢のざわめきを聞きながら、六角屋へ向かう道すがら、小さな公園を横切った。あとは一本道。森宮生花店の脇の階段の前に看板がなかった。誰もいないかな、と思いながら、地下への階段を降りて六角屋の傾げたドアノブを引くと、あっさりと開いた。優しく懐かしいギターの音がする。ラジオが来ているのだと判って、ホッとすると同時に少しだけ緊張した。

 ───大丈夫。ラジオは心の声に耳を塞いでくれている。

 そう信じて絵の廊下を進み、奥の戸口から「こんばんは」と声をかけた。カウンター内の遠山さんが振り向いて「よう、パソコ」と言うと同時に、ラジオはギターを弾く手を止めた。「こんばんは」と言う微笑み。ラジオの纏う空気は、いつも優しい。

 今日はラジオの、モデルとしての初仕事の日だと聞いていたので六角屋を覗いてみたのだが……落ち着いた笑顔だ。上手くいったのだろう。彼の隣の椅子に腰掛けて、けれど、どうだった?と尋ねる事も出来なかった。先日ここで彼らと会った時には泣いてしまったから───言葉が見つからなかった。

「髪、切ったんだね」とラジオ。「随分短くしたね」

「ああ、うん……気分転換?」

 私は職場と同じ言葉でごまかした。やっと「どうだった?モデルの仕事」と逆に訊いた。「緊張した」と言って苦笑し、ラジオは抱えていたギターを傍らに置いた。

 ≪絵を描いてみたかった。───写真ではあるけど、被写体になることで描けるものがあるんじゃないかと思ったんだ。僕自身が描く絵≫

 伊野さんに写真を撮られた後にそう言っていたっけ……

 ラジオの描いた絵を再び……早く見てみたい、そう思った。

「緊張したけど、良い意味でね」とコーヒーを一口啜り、「何も知らない世界に飛び込んだ訳だから、新鮮だったし、ミオさんの仕事も少し判った気がする」と、コーヒーの傍らに置いた煙草を手に取り、1本くわえて火を点けた。

「卒業試験もやっと終わったし。医師国家試験は受けないから、まあ自由の身になったんだけど、卒業まではね、いろいろ考えたい事があるんだ」

「いろいろって?」

「僕の耳とか」

「……」

 煙草の灰をトンと灰皿に落として、少しの沈黙。そして「この前、和泉さんと話してね」と言う小声にどきんとした。

「彼女とは離れる事にしたって」

 ───え?

「これまでのお礼と、その事のお詫びを言われたよ。僕の方こそ何も出来なかったのにね。それで、何の為に僕のこの能力があるんだろうって……」

 そう語るラジオの声は、静かで、重く、掠れていた。

 ≪彼女は僕を怖れているよ。今はその感情を無視して僕を信じてくれているけど≫

 和泉さんはそう言っていた───彼女が彼に怯えてしまったからか。

 それとも……私との一夜の過ちのせいだろうか。

 ≪僕から逃げ出したいほど怯えたんだね。───落ちなかったけど≫

 周囲の空間を曲げてしまうほど、好きな人が自分から逃れようとしたというなら……

 それはどんなにか、悲しく苦しい事だろう───

 同じ事を思ったのか、ラジオは「チャット越しだけど、和泉さんの悲しみを感じたよ」と呟いた。「それで、以前から考えていた引っ越しをしたって言ってた。まるで高瀬さんのようだね」

「高瀬さん…」

 高瀬真臣。大阪のギャラリー櫂の社員であり、自身も絵を描く人。ラジオと同じく能力者であり───彼の絵を見て彼を探していた美緒子さんの記憶を封じたかもしれない人物……

 十年前に失踪したという高瀬さん。美緒子さんの前から姿を消す為に、記憶を操作したのかもしれない。憶測に過ぎないが、それは和泉さんとも重なって見えた。

 ≪もしもだよ…?≫

 ≪僕が、一番大切な人の前から姿を消さなきゃいけなくなったら…僕もそうすると思うんだ≫

 ───ラジオの発言だ。

 伊野さんによれば、それは『俺と居ると相手が不幸になると思った時』だという。

 その愛情ゆえに───

 胸が痛んだ。どうして人の心は擦れ違うのだろう。巡り会っても、別れる時が来るのだろう。

 別れがあると知っていて、なぜ惹かれてしまうのだろう。その答えを、多分私は知っている。

 東さんとの日々が教えてくれた事。

 漠然とだけれど……

 悲しみの波動が、波紋のように広がってゆくのを感じた。今、ラジオは同じ事を感じているだろう。遠山さんも黙っていた。しじまの中で、悲しみがこだまする。

 私は後ろを振り向いた。ラジオもそれにつられたように振り返る。

 空木秀二の『北天』がそこにあった。

 空木の眼差しを描いたような夜空。大きな雪の結晶が、冷ややかに、中央の赤い北極星と回転する星々の弧を抱いている。そこに吸い込まれるような気がした。深い孤独の夜空に。

 高瀬さんも和泉さんも、まるで孤独を選ぶかのように思えた。

 私の唇にわずかな熱を残して帰っていった和泉さん───

 その感触を思い出して、またちくんと胸が痛かった。





 それでも淡々と時は過ぎゆく。

 時間は心の痛みの最良のお薬で、日が過ぎるにつれ痛みは薄れてきたように感じられた。ふいにズキンと痛みを伴って思い出す事はあっても、仕事の忙しさで忘れている時間も多くなった。

 伊野さんはこれまでと変わらない態度で接してくれていた。あれから───何もなかったように。だから私も安心して仕事に専念出来た。

 ようやく年末を迎え、仕事納めの飲み会の後で、帰りの駅まで伊野さんとゆるゆる歩いていた時だった。「なあミオ」と呼ぶ。

「この前思ったんだが…」

「ん?」

「おまえ、好きな奴出来たろ」

 どきっとした。返事が出来ずにいると「図星か」と伊野さんは一人、頷いた。

「良かったな」

「え?」

「東も安心するだろ」

「……」

 伊野さんは横目でチラと私を見ると「そうでもないか」と言った。「その顔は上手くいってないな」

 好きな奴……そう言われて真っ先に浮かんだのが和泉さんだった。けれど私は本当に彼を好きなのか、判らない。あの夜の事を引きずっているだけのように思えた。

「どんな奴だ」と問われて、思い返すと───初めて会った時の私を訝る顔、湯島で遭遇した時の険しい眼差し、大阪で共鳴した後の固い言葉をぶつける態度───それは出会ってからしばらくの東さんを思い出させた。

「…東さん…に…似てるかも…」

 顔立ちも声も全然違う。けれど纏っている空気が似ているような気がした。

「あ、でも本当に…その人の事好きなのか…自分でもよく判らないの」

「ただ気になる?」

「…うん」

「そうか」と伊野さんはこちらも見ずに言った。「それはもう惚れてんのと同じだぞ」そう言われて、心臓をぎゅっと絞られる感じがした。

 駅に着いた。ここで伊野さんと別れる。「今年もお疲れ様でした。来年もよろしく」と伊野さんが頭を下げ、私も慌てて「良いお年を」とお辞儀した。顔を上げるとそこに伊野さんの右手の拳があった。「お疲れ」「おう」拳をごつんとぶつけて、伊野さんは「あんまり悩むなよ」と言って踵を返し、改札に向かって行った。

 それはもう好きと同じ───

 伊野さんの背中を見送りながら、その言葉を噛みしめた。思い浮かぶのは、眼鏡を叩き壊したと言う苦笑と、彼女を思ってした事が『何だったんだろうな』と言う微笑だった。

 その激しさと寂しさ……

 抱きしめたい。

 これが恋しいと言う事なのだと、雑踏の中を一人立ち尽くした。





 部屋に戻ると空気が冷えきっていた。ストーブを点けてコートを脱ぎ、「さむ…」と呟きながらミルクを温めた。甘いホットミルク。優しさのような飲み物で、身体を芯から温める。人恋しさを慰めるように……両手でカップを包んで持った。こたつにノートパソコンを置いて開く。ウェブにある、ラジオのチャットルームを覗いてみた。『入室:0』。誰も居ないから……私はパスワードを入れて入室ボタンを押した。

 ラジオと和泉さんの会話が20件、残っていた。

 何気ない音楽の話題。楽しそうに見えて、少しほっとした。

 和泉さんもうさぎになったのなら、私と同じ事を感じていた筈だ───だから。今、彼は違う話であの夜の事を忘れようとしているだろう……いや、違う。

 ≪前のようにね…いい友達のままで…なんて、後戻り出来ると思う?≫

 なかった事になんて出来ない。それも私と同じ筈だ……

 ログが1行、不意に動いて『Radioさんが入室しました』と表示された。


  Radio:こんばんは

  海音:こんばんは

  Radio:珍しいね、海音さんが一人でいるなんて

  Radio:何かあった?


 あったけれど言える訳がない。私は『元気?』とだけ返事した。


  Radio:元気だよ

  Radio:海音さんは元気ないみたいだね

  Radio:どうかした?


 指がキーボードの上で動けなくなった。

 ≪泣いていいんだよ。僕の前では≫

 ───大丈夫。もう落ち着いたから……


  海音:大丈夫。ありがとうね

  Radio:ならいいけど。話したくなったら言ってね

  海音:うん

  Radio:今日はこれから和泉さんと待ち合わせてるんだけど

  Radio:海音さんもよかったら居てね


 和泉さんが……

 居ない方が良いかとも思ったけれど、和泉さんがログインするまでラジオと話していたい気もした。───寂しくて。

 ただあの人の気配を感じたくて。

 何を話せば良いのか判らないけれど……ラジオの言葉に甘える事にした。以前のように、二人の話を聞いているだけでも良いかもしれないと思った。

 待ち合わせ時間になったのだろう、ラジオと話す間もなく和泉さんが現れた。「こんばんは」と挨拶を交わして、和泉さんから話し始めた。


  rhythmi:聴いたよ「starlet」

  Radio:早速ですか(笑)

  rhythmi:声がラジオ君に似てるね

  Radio:え?そうですか?

  rhythmi:うん

  Radio:あんなクセあるかな

  rhythmi:ありますよね>海音さん

  海音:どんなクセ?


 するとラジオが動画サイトのURLを発言に貼った。ウィンドウをもう一つ開いて聴きながら話を見ていた。なるほど、少し掠れたような、少年のような声。似ていると思った。


  海音:良い歌詞だね

  Radio:でしょう?

  rhythmi:ツボった(笑)


 どこが和泉さんのツボにはまったのだろう……切ない恋の歌。

 二人は私に気を遣ってか、いろいろと質問してきた。好きなミュージシャンは?とか、最近映画は見ましたか?とか。何気ない会話が和泉さんとの距離を縮めてゆく。回線越しにではあるけど、そんな距離感が心に沁みた。

 ≪彼女とは離れる事にしたって≫

 私のせい───?

 その話は出来ないと思った。きっと傷つけてしまう。ラジオが聞いているだろう……それが最良な気がした。


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