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性格の悪い、魔女の弟子の話



 軽いノックののちに扉を開けると、真っ白なシーツの上に明るい朝日が降り注いでいた。その中央で上体を起こしたまま、ぼんやりと窓の外を眺めている後ろ姿に、イェルマは穏やかに声をかける。

「おはようございます、先生」

「あら。おはよう、イェルマ」


 彼女が振り返り、まだ眠りの気配を残した目付きで淡く微笑んだ。

「朝ごはんができたので、早く降りてきてくださいね」

「ありがとう、今行くわ」

 長い黒髪、宝石のように鮮やかに透き通った赤色の目。およそ常人ではありえない気配を纏った女が、寝台の上に鎮座していた。その寝乱れた姿さえもがどこか悠然とした雰囲気を漂わせる。


 ――それは、深き淵の魔女と呼ばれる、ひとりの女だった。



 人ならざる何かを持つ魔女とは言えども、人間と同じものを食べるし、人間と同じ味覚を持つ。それをイェルマは熟知している。

 魔女はイェルマが用意したスクランブルエッグを口に運んで、その赤い目を輝かせた。

「あら、おいしい」

「それは良かった。先生に喜んで頂けるなら本望です」

 イェルマはねじれたエプロンの紐を直しながら、柔らかい表情で微笑む。イェルマの笑顔は町でも評判で、この微笑を向けられた町娘は誰もが心を奪われるともっぱらの噂だった。

 それをイェルマは熟知している。


(スクランブルエッグが美味い? 当たり前だ!)


 あまたの少女たち、あるいはお姉様がたを落としてきた、その輝かしい笑みを魔女に向け、イェルマは「おかわりもありますよ」とフライパンを持ち上げた。


(――何故なら、この僕が、作ったんだからな!)



 ことの始まりはイェルマが年端もゆかぬ少年だった頃に遡る。度重なる凶作に口減らしとして両親に捨てられ、行くあてもなく森をさまよっていたところを魔女に拾われ、弟子となった。何か意外とよくある話らしい。


 が、この少年、野心が異常に強く、なおかつ自尊心が天を衝くほどに高く、そのうえ性格がこの上なく悪かったのである!


(魔女め、待っていろ……いつか絶対に秘術を盗んで、僕が伝説の魔法使いになってみせるんだ……!)

 その本性を師である魔女に隠し通して早十二年。イェルマは虎視眈々と魔女の秘術を盗む機会を探っていた。



 朝食を終えた魔女は、ほわりと柔らかい笑みを浮かべて「おいしかったぁ」と頬に手を当てる。

「イェルマは本当にお料理が上手ね」

(お前が下手なだけだ、魔女め)

「そんな、滅相もない……僕なんてまだまだですよ」

 照れたふりで、イェルマはぽっと顔を赤らめた。魔女はそんな様子に相好を崩し、小さく声を漏らして笑う。


「うふふ、全くもう……イェルマは可愛いのね」

(何を言っているんだ、魔女め)

 凄まじい手際で皿を洗いながら、イェルマはこっそりとせせら笑った。


(可愛いだと? そんなことは言われなくても分かっている)

 ふふん、と鼻先で息を漏らし、イェルマは目の前の磨りガラスに向かって渾身のドヤ顔をキメた。


(――何故なら僕は、最高に可愛くて格好良くて美しくて賢くて理知的で……とにかくハイパーでグレートな、魔女の一番弟子だからな!)



 魔女の秘術を盗もうという挑戦は、まだまだ終わりそうにない。イェルマ十八歳の春が始まろうとしていた。



 ***


 週に三日、魔女は町にある自身の店へと顔を出す。

 時計塔が十四の鐘を打った頃、魔女とイェルマは店の扉を叩いた。馬車や荷車、人々が行き交う大通りに面した角である。

 明るい昼下がり、昼食を終え、空気は暖かく、眠気が襲ってくる時間帯である。イェルマは今にも閉じそうな目を必死に開けながら、魔女の後ろで荷物を手に立ち尽くしていた。


 からん、と扉に付けられた鈴が鳴り、店の中からひょっこりと少女が顔を出す。 

「お待ちしておりました、魔女さま!」

「一昨日ぶりね、ニーニア。いつも店番ありがとう」

「いーえ! 昨日はお客さまが少なかったからお掃除しておきました! ぴっかぴかですよ、ぴっかぴか!」

「あら、ありがとう。ニーニアはいい子ね」

「うふふ」

 魔女が不在の間、店番を任されている赤毛の少女である。魔女がふわりとした笑みを浮かべて、ニーニアの頭を撫でた。ニーニアはくすぐったそうに首を竦め、魔女に昨日の報告をしている。


 襲う眠気も手伝って、イェルマは不機嫌さを隠せずにニーニアを睨みつけた。ニーニアは気づく様子もなく魔女と仲良さげに喋り込んでいる。


(魔女に頭を撫でられたぐらいで、アルバイト風情が調子に乗るなよ)

 イェルマは苛々と腕を組み、指先を忙しなく動かした。

(魔女に取り入ろうったって無駄だぞ。魔女の一番弟子はこの僕だ! 秘術を継ぐのも絶対にこの僕だからな……お前には決して渡さん!)

 カッと目を見開き、イェルマはニーニアを睨めつけた。ニーニアは一切気づかず、魔女もイェルマに背を向けているため気づかない。

(くそ……これでは独りズモーじゃないか! ……ズモーって何だ? 後で魔女に訊いておこう……)


「それで、これが昨日受けた注文です! あと、四番街の宿屋のおかみさんが、イェルマさんに用事があるって言ってました!」

「んっ!?」

 心の声がやかましく騒ぎ立てていた矢先、唐突に名前を出されてイェルマは我に返った。普段のイェルマが漏らしそうにない奇声に、ニーニアが不思議そうな顔をする。


 イェルマは慌てて表情を和らげ、ニーニアに向かって少し眉根を寄せてみせた。

「……ごめんね、少し考え事をしていて……もう一度言ってもらっても良いかな?」

 慣れた甘い微笑みでニーニアに告げると、ニーニアは声を上げて笑い、腕を組んで胸を張った。


「まったく、イェルマさんったらうっかりさんなんだ、か、らぁ! あと一回しか言いませんからねー?」

(ハゲの呪いでもかけてやろうか、この女)


 いくつも年下の少女に内心でガチギレしているとはおくびにも出さずに、イェルマは「ありがとう」と身を屈めてニーニアと視線を合わせる。

 渾身の微笑みに対して、ニーニアは「ふふーん」と小鼻を膨らませて口角を上げた。この得意げな表情を見るに、自分の甘いマスクが心に響いた様子ではない。

(……僕の格好良さが分からないとは、哀れな女だ)

 謎の敗北感を圧倒的な自尊心で慰めながら、イェルマはニーニアに向き直る。


 ニーニアは腰に手を当て、びしりと人差し指を立てた。

「四番街の宿屋のおかみさんがね、イェルマさんに用事があるんですって!」

(んんーッ!?)

 イェルマは思わず顔を歪めた。

(四番街の宿屋と言えば、この間、僕が思い切り愛想を振りまいてきたところじゃないか! どっちだ? 母か娘か……)


 堪えきれずに表情を崩したイェルマに、魔女が心配そうな顔をする。

「大丈夫? 何か心配ごとがあるのなら、私が代わりに行ってもいいのよ?」

 気遣わしげに顔を覗き込んでくる魔女に、イェルマは「いえ、大丈夫です」と微笑む。


 明らかに嫌な予感がしていた。しかし行かない訳には行くまい。――自分は、魔女の弟子として、一人前になったと見せつけねばならないのだ!



 一歩前へ歩み出て、イェルマは魔女の両手をそっと掬い上げんだ。

「お気遣いありがとうございます、先生。でも僕だって先生の弟子ですから……!」

 この数年で大きくなった両手で、魔女の白い指先を包み込む。背を丸めて魔女と視線の高さを合わせ、イェルマはとろけるような微笑みを向けた。これで落ちない女はいなかった。


(絶対に、この魔女をメロメロのトロトロのデロンデロンの骨抜きの首ったけのゾッコンにしてやる! そして僕は秘術を盗む……!)

「イェルマ……」

 魔女は目元を和らげ、幸せそうな笑顔でイェルマを見返した。

(落ちた!)

 イェルマは内心でガッツポーズをする。魔女が手中に落ちれば、あとはこっちのもんである。運命の恋人のごとく甘やかして夢中にさせ、自分なしでは生きられないようにしてやる。そして、秘術を手に入れるのだ!


 魔女は両手をそっと抜き、イェルマの頬に指先を触れる。

「全くもう、いつの間にか大きくなっちゃって……」

(あっ違うこれ家族愛だ!)

 クソが! とあくまで内心で悪態をついて、イェルマは「先生……」と涙ぐんだ。そっと目元を拭うような仕草をして、イェルマは魔女に顔を寄せる。


 耳元に囁くようにして、イェルマは低い声で告げた。

「僕がいつまでも子供だと思ったら大間違いですよ、先生」

「うふふ、私にとってはイェルマはいつまでも可愛い、大切な男の子よ」

(なんだよこれ手強すぎだろ!)

 今度こそ覆せぬ敗北感に、イェルマはすごすごとその場を立ち去った。



 ***


 町を貫く目抜き通り、正門から数えて四つめの小路の名を、四番街と呼ぶ。

(少し媚を売っておけば割引になるかもしれないと思ったのが間違いだったな……)

 イェルマは誰にも知られぬ内心でぶつくさと文句を言いながら、四番街へと足を踏み入れた。


 イェルマが件の宿屋を利用したのは一週間ほど前のことになる。魔女が用事で迎えに来れないのを忘れて酒を飲んでしまい、転移魔法で家に帰ることができなくなったのである。さしものイェルマも、法律を犯してまで飲酒魔術に踏み切るほどの度胸はない。

 そうして泊まった宿屋で、イェルマは多少やりすぎた。仕方ない、あのときは酒が入っていたのである。


 目的の宿屋の前に立ち、イェルマは扉を叩く。少しの間をおいて、扉が大きく開かれた。イェルマはそれまでの微妙な表情を消し、目を細めて笑い、爽やかな口調で声を発した。


「こんにちは。お呼びだと聞いたので伺いました」

「あら、わざわざありがとうねぇ」

 扉の向こうにいたのは、宿屋の女主人である。イェルマは鋭い目付きでその表情を窺う。特にこれといった感情を抱いているようには見えない。


 女主人に迎え入れられ、イェルマは話を聞く。主人は腕を組み、眉をひそめながら口を開いた。

「実は、一昨日からうちの裏の井戸の調子が悪くてね……。ただの不具合じゃなさそうだから、魔術に詳しい人を頼ろうと思って」

(水道業者を呼べ!)

「なるほど。僕に分かることであれば精一杯手を尽くしますね」

「ありがとう、娘に案内させるから少し待っててちょうだいね」


 女主人が部屋を一旦出る。イェルマはそれまできっちりと整えていた姿勢を崩し、出されたお茶をずるずると啜りながら背もたれに寄りかかった。

(ったく……僕は配管工じゃないんだぞ)

 ずびずびと音を立てて茶を啜る。魔女の前では決して見せない姿である。背もたれに片腕をかけ、軽い舌打ちをした。


(この様子だと、僕を呼びつけたのは娘の方か)

 カップをテーブルの上に戻し、空いた手で顎を撫でる。

(この間ちょっと優しくしてやったから勘違いしてしまったのか? はァ……美青年ってのも楽じゃないな)

 やれやれ、とイェルマは肩を竦めた。足音が近づいてきたので姿勢を戻し、顔も作っておく。


 完璧に依頼をこなし、そして魔女からの信頼を獲得するのだ。そのためには良好なイメージが欠かせない。

 努力で培った魔法に関する膨大な知識、魔術を扱う確かな実力は大前提。生まれ持った優れた容姿に軽やかな弁舌、磨き抜いた礼儀作法や体術は老若男女問わずに好印象を与えるし、流行りや人間関係に敏感な様子は気さくなイメージに繋がる。


 イェルマは虚空に向かってキメ顔で嗤った。

(そう! この僕に! 何一つとして死角はない!)

 ――彼に唯一難点があるとしたら、この性格である。



 扉を開けて入ってきたのは、見覚えのある少女だった。宿屋の一人娘である。もじもじと恥じらう様子を見せる彼女に、イェルマは「こんにちは」と微笑みかける。すると彼女は顔を真っ赤にして、消え入るような声で「お待ちしておりました」と俯く。


(やたら照れてるな、僕何かしたっけ)

 イェルマは内心で腕を組んだ。一週間前に思いを馳せる。――そういえば酔っ払って手の甲にキスしたな、とイェルマは不意に思い出した。『何かあったらいつでも呼んで』とかとも言った気がする。

 あの日は手持ちが乏しかったので、何とか割引にならないかと頑張って媚を売ったのである。ちなみに結論から言えば、イェルマは大人しく定価を支払った。


「それで、井戸の調子が悪いということでしたが」

 何かを期待しているような目には気付かないふりで、イェルマは立ち上がって少女に歩み寄る。

「は、はい! ご案内致します……!」

 先に立って歩き出した少女の一歩後ろで、イェルマは小さく肩を竦めた。これも反省のひとつとして心に刻んでおくとしよう。

(まったく……本当に僕は罪作りな男だな)

 さらりとしたブロンドヘアを片手で掻き上げ、イェルマはふぅとため息をついた。



 宿屋の娘は廊下を抜け、裏口の引き戸を開け放つ。狭い裏庭は塀に囲まれており、洗濯物のかかった物干し竿や家庭菜園、そして井戸がある。

 イェルマは顎に手を当て、井戸を注視した。

「これは……なかなか古い形の井戸ですね。未だに現役ですか」

「はい。それが、一昨日から様子が変で……」

 少女が頷いた直後、井戸の外から異音が響いてきた。


 ……ォォォオオオオン…………


 イェルマは少女を振り返る。

「……何か言いました?」

「わたし喋ってませんけど!?」

 少女は目を剥いて首を振った。


(なるほど、確かにこれは配管工の手には余る案件だな)

 イェルマは腕を組み、頬に指先を添える。この井戸はただの故障ではない。恐らく、中に何か良くないものが住み着いているのだろう。


「何かまずいんですか……?」

 難しい表情のイェルマに、宿屋の娘は不安げな顔を見せた。イェルマはすぐににこりと柔らかい微笑みを少女に向け、「大丈夫ですよ」と応じる。

 イェルマはそっと身を屈め、未だに表情の晴れない少女に顔を寄せた。

「大丈夫――僕に任せて」

「は、はい……!」

 軽く頬に触れられた少女は、ぼんと顔を赤らめて何度も頷いた。イェルマは密かに鼻先でせせら笑う。


(一体何が出てくるかは分からないが、この僕にかかれば敵じゃない)

 腕をまくり、イェルマは一歩井戸へ近づく。井戸の中から響く声は一層大きくなり、イェルマは口角が上がるのを止められないでいた。

(さっさと片付けて夕食の買出しへ行こう。めちゃくちゃ美味い夕食を食べさせながらこのことを報告すれば、魔女だって僕を少しは評価するはずだ)

 魔女の驚く顔が目に浮かぶ。その様子を思い描きながら、イェルマは皮算用でホクホクだった。


 ――だから、反応が遅れた。



「う、わッ」

 井戸から黒い影がぶわりと立ち上る。イェルマは思わずその場に立ち竦み、それから慌てて両手を突き出して障壁を形成しようとした。

(まずい、)

 が、初手が遅れたせいで間に合わない。伸び上がった影からはしなる鞭のような触手が無数に伸び、イェルマの前に作られようとしていた透明な壁を打ち破る。


「っ!」

 腕と頬に火が触れたような熱が走る。血飛沫が舞い、頬を熱い液体が伝う感触がした。それを拭う余裕もなく、イェルマは触手を弾いて再び結界を張り直す。


「イェルマさんっ!?」

 背後で宿屋の娘が叫んだ。その声に、頭の中心の辺りがすぅっと冷静になる。

(これは悪霊だな……中級だろうか?)

 対峙する黒い影をじっと睨みつけ、イェルマは素早く判断を下した。上着を脱ぎ捨て、普段は隠している無骨な金属の杖を腰の後ろから取り出す。

 触手はドーム型に張られた障壁に張り付き、イェルマたちを付け狙っていた。みしみしと結界が音を立てていた。目を凝らせば、透明な障壁に細かなヒビが入っている。思ったより早い、とイェルマはほぞを噛んだ。


(悔しいけど、これは僕の手に負える代物じゃない)

 自分個人の意地で語るのならば、何としてでもこの悪霊を自分の手で調伏し、魔女に見せつけたい思いがあった。が、それで無茶をして身を滅ぼすほどイェルマは愚かではない。


 一瞬の逡巡ののち、イェルマは鋭く叫んだ。

「先生を呼んできてくれ!」

「えっ……」

「早く! 中級の悪霊が出たと伝えろ!」

 足音が走り去る。これで、この裏庭にはイェルマと悪霊のみが残った。


 イェルマは悪霊から目を逸らさないまま、三分割された杖のパーツを素早く組み合わせる。そうして完成した杖を両手でしっかと握りしめ、イェルマは悪霊に向かって水で作られた矢を続けざまに三発放った。

 悪霊に顔はない。ただ黒いもやのようなものが井戸から伸び上がり、宙に広がっているだけである。イェルマが放った水の矢は悪霊の体をすり抜け、遠くの空へ消えた。

 イェルマは盛大な舌打ちをする。しかし、水が効かないとなればこの悪霊の属性は限られてくる。そう……確か、水が効かない属性は……



 思考を動かし、記憶を照合しようとした矢先、イェルマは鋭く息を飲んだ。

「っまずい!」

 みしり、と障壁が怪しい音を立てる。イェルマは杖を地面に突き立て、両手を出して障壁を張り直そうとした。間に合わない。


 障壁を突き破って伸びてきた触手を、イェルマは杖で払い除けた。イェルマの杖は金属製である、たとえ魔術が使えなくても普通に鈍器としての役割を果たす。


 魔術を展開する余裕はなかった。まるで降り注ぐように襲い来る触手を払いのけ、イェルマはじりじりと後退する。とん、と下げた足の踵が壁に触れた。見れば、背後には背の丈を超す塀がそびえ立っている。イェルマは歯噛みした。

(くそ……!)

 触手がイェルマの頭部を狙って繰り出された。咄嗟に首を捻って避けると、額のあった位置に大きな穴が空いた。その勢いの激烈さに、思わず細い息を吸った。


(僕に何とか出来るのか? まだ余裕があるうちに転移して助けを呼んできた方が……)

 石造りの塀を突き抜けた触手が、ぱらぱらと瓦礫を落としながら縮んでゆく。それを横目で睨んでいたイェルマは、穴の向こうから聞こえてきた笑い声に血の気が引くような思いを覚えた。

「こっちだよー!」

「あー、待ってよ!」

「あはは」

 楽しげに笑い交わす子どもたちの声。――今、自分が背を触れているこの塀の向こうに、何も知らない子どもたちがいる。


 怖じ気づき、萎縮しかけていた気持ちを奮い起こす。イェルマは杖を持つ手を構え直し、悪霊の姿を厳しい目で見据えた。

(考えろ、イェルマ。僕は頭脳明晰でクールでクレバーでパーフェクトな、魔女の一番弟子だろ)

 触手を弾く杖に炎を纏わせる。手のひらで金属に伝わる熱を感じながら、イェルマはしなりながら伸びてくる触手に狙いを定めた。炎を察知したのか、寸前、触手は躊躇いを見せる。イェルマはそれを許さずに鋭く杖を振るい、触手の先を打ち据えた。

 じゅっと音を立てて触手は消えたが、少しすると再生する。しかし、水よりはよほど効いているようだ。イェルマは杖を持ち直し、悪霊に向かって大きく一歩踏み出した。

(水は効かず、炎はそれなり。これでもしも雷撃が効けば、)


 イェルマは杖を持つ手を掲げた。ばち、と杖が弾けるような音を立てる。雷を帯びた杖の先を向けると、悪霊は目に見えて怯んだ。イェルマは思わず片頬を歪めて笑う。

 杖から左手を離した。右手の指をペンを持つかのように持ち替えて、杖の中央を三本の指でつまみ上げる。金属製の杖が、徐々に光を増した。小さな稲妻が杖の表面をいくつも走り抜けてゆく。


 息はとうの昔に上がっていた。走り回ることも出来ない狭い中庭、外には何も知らない子どもたちが走り回り、自分はただ一人で、これまで見たこともないような悪霊と対峙している。

「はは……燃えんじゃん」

 それまでいちいち気にしていられなかった傷の痛みが、今になって知覚された。開いた傷口からは熱い血が流れ、腕や指先、足を伝っている。イェルマは端正なかんばせを左右非対称に動かして笑った。

「お前の正体なんてもう割れてんだよ。この僕を相手取ったのが運の尽きだったな」


 肩で息をしながら、イェルマは長い杖を持つ右腕を持ち上げ、体を低く屈めるように膝を曲げながら腰を捻る。

「食らえ、この……」

 低い声で吐き捨てた。助走を付け、全身をしならせて、肩から腕へ、肘、手首をしならせ、渾身の力で杖を放った。投げ槍のように飛んでいった杖は今や溢れんばかりの光を纏い、まるでそれ自体が一つの雷撃のようだった。

「……クソッタレ水霊がァ!」

 荒々しい声で怒鳴り、イェルマは杖の行く先を睨みつける。悪霊は避けようとするように身を捻ったが、イェルマが狙ったのは井戸の出口、すなわち悪霊が出てくる根源である。


 雷撃が突き刺さった。衝撃は地面にまで波及し、空気を揺らす轟音が響く。悪霊の全身に雷撃が広がり、それまで見えなかった輪郭がはっきりと見えた。悪霊の絶叫が空気をつんざく。

 イェルマは膝に手をついて、歯を見せて声もなく笑った。

(ま、これくらいやれば、塀の外まで触手は伸ばせないだろ)

 これだけで中級の悪霊が死ぬはずがないことは分かっている。とどめを刺さねばならない。が、問題は杖を投げつけてしまい、手元にないことである。


 それにしても、失血量が些か多すぎた。くらりと目の前が暗くなり、足に力が入らずに倒れ込みかける。無茶苦茶に振り回される触手が迫るのが見えた。まずい、と思ったが、体が上手く動かない。





「――ごめんなさい、遅くなって」


 そのとき、どこか湿って重苦しい空気が一変した。イェルマの首元を切り裂こうとするように伸びてきた触手が、根元から断ち落とされて宙を舞った。


「よく頑張ったわね、イェルマ」

 優しい声と共に、ふわりと背に柔らかい感触が触れる。頭がくらくらとし、暗くなってゆく視界に、見慣れた魔女の微笑みが映った。

「そうね、本当に、いつの間にかこんなに大きくなって……もう子どもだなんて言えないわ」

 魔女の顔が迫り、額に温かい何かが押し当てられる。それが唇である、と気づいたとき、既に全身の痛みは引いていた。


「軽率に近づいたのは駄目だったわね。相手を軽視してしまったの? それとも自分の力を過信した?」

 イェルマの頭を自らの膝に乗せて、魔女はゆっくりとその頭を撫でた。傷が癒える。痛みが遠ざかる。イェルマは瞼を下ろしながら、掠れた声で答えた。

「僕の、驕り……です、」

「分かっているならそれで良いの。今度から気をつけてね」

 魔女がそう囁いたところで、悪霊が再び触手を伸ばしてくる。が、いつの間にか張られていた障壁に阻まれて近づけないらしい。イェルマは薄らと目を開け、魔女の顔を見上げた。


「真っ先に私を呼んだのは本当に偉かったわ。雷撃を選んだのも素晴らしい。出来れば杖を手放さずに雷撃を放つ魔術を習得しておきましょうね」

 魔女の手に何度も繰り返し頭を撫でられる。イェルマはすぅっと穏やかに意識が遠のくのを感じていた。


「あとのことは私に任せて、今はゆっくりと休みなさい」

 魔女の声が最後に聞こえて、イェルマは静かに意識を手放した。



 ***


 悪霊が障壁の向こうで何とかこちらへ触手を伸ばそうと奮闘している。その様子を横目で確認して、魔女はクイと指先を上げることで結界を解いた。触手が嬉々として迫る。


「うるさいわね」

 冷え冷えとした眼差しを悪霊に向け、魔女は低い声で呟いた。膝の上では彼女の大切な弟子が頭を乗せて眠っている。起こしては可哀想だ。

 輪郭に特有の揺らぎを伴っているその姿は、見るものが見れば一目で水霊だと分かる。未熟な弟子がそれを咄嗟に判断できなかったのが愛おしく、魔女は小さく声を漏らして笑った。


 健やかな寝息を立てるイェルマの頭を撫で、それから魔女は悪霊を一瞥する。

「――砕け散りなさい」

 その声が消えるより早く、覆い被さるように頭上へ広がっていた悪霊の体が一瞬にして凍り付いた。魔女が視線を外すと、悪霊は粉々に砕け、跡形もなく雲散霧消する。その様子に短く鼻を鳴らし、魔女は弟子の顔を見下ろした。



 魔女は弟子の膝の裏と背中に手を差し入れると、その体をひょいと持ち上げて立ち上がる。物陰から様子を窺っていた宿屋の母娘に微笑みかけ、魔女は「失礼します」と頭を下げた。

「破損した塀やその他の設備に関してのお話はまた後日でよろしいでしょうか」

「そんな、補修はうちでやりますよ!」

 慌てて身を乗り出した女主人を、魔女は唇の前に指を立てることで制した。弟子はまだ眠っているのだ。

「そうした話も含めて、また今度……ね?」

 言いつつ、魔女は宿屋の娘をちらと見やる。この少女にも軽く釘を刺さねばなるまい。くすりと笑って、魔女は四番街の宿屋を立ち去った。



 細い路地裏を歩く魔女の腕の中で、弟子はいやに整った顔を歪めていた。見れば、もごもごと口元を動かして何やら呻いている。

「むにゃ……秘術……うぬぬ、魔女め……」

 寝言を漏らす弟子に、魔女はにっこりと微笑んだ。

「私の秘術はあげられないし、教えてもあげない」


 曇天で薄暗い町の底、魔女は機嫌よさげに鼻歌を歌いながら家路を歩んでいた。邪な野望を抱く弟子を愛おしげに揺すり上げ、魔女は赤い目を緩める。眠るイェルマに顔を寄せ、魔女は静かに囁いた。

「昔、どこかの誰かが言ったんですって。『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ』そうよ」

 腕の中で長い体を窮屈そうに曲げている弟子を見下ろして、魔女は頬を吊り上げる。





 その女の通り名を、深き淵の魔女という。

 ――生まれ持った秘術は、対象の心を覗くというもの。



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