第一章 婚約破棄の悪役令嬢と紅きティンクトゥラ
おめでとうございます、あなたは迷宮の主となりました。
これからあなたは、新しく迷宮を開拓したり、世界各地に散らばっている迷宮を支配したり、暴走した迷宮を鎮静化させたりすることができます。
今後、あなたは以下の特殊能力を使うことができます。
■ダンジョン設計
ダンジョンポイントを振り分けることにより、迷宮を好きなようにカスタマイズすることができます。迷宮設備(罠・収穫所・採掘所など)の設置、フロア改装、魔物の生成などを行うことができます。
■コア設計
ダンジョンポイントを振り分けることにより、迷宮の核について各種操作を実行できます。コアの成長、コア生成、コア吸収などを行うことができます。
迷宮は時間経過と共に、周囲の魔力を吸収することで成長します。
特に龍脈の上、世界樹の根本、異界の門の近くなど、魔力の集まりやすい立地の迷宮は成長が早くなります。
また、何もない洞窟でも魔力が溜まることで迷宮化することもあります。世界樹の苗木が植えられている、強力な魔物が住み着いている、神の石像が祀られている、かつてその場所で数多くの命が失われた、貴重な太古遺物が保管されている、新たにコアを設置された、などがその主たる原因です。
これを応用すれば、迷宮を新しく作ることも可能でしょう。
最後にですが、迷宮とあなたは一心同体です。迷宮が甚大なダメージを受けたとき、あなたもダメージを受けるでしょう。
迷宮には自己修復能力がありますが、それを超えて傷付いた場合は迷宮は崩壊します。
その時あなたは、身体もしくは魂の一部が崩壊するでしょう。
あなたの幸運を祈ります。女神より。
一般的に、薬草採集は初心者冒険者向けのクエストだとされている。だが、実際にやってみるとなるとこれが中々難しい。
鎮痛剤や麻酔薬の原料となるヒヨス草、
免疫増強や滋養強壮にいいクコの実、
不老長寿に効果があるとされる白キクラゲ、
万病に効く特別なキノコと言われる霊芝、
そしてポーションの触媒としても活躍するホワイトベリー。
近年注目を集めている薬理学の書物『ユナニ医学書』によると、他にも有用な植物はまだまだ山程存在するらしい。
これらの薬草を摘みながら見分けなくてはならないのだから、薬草採集のクエストは口で言うほど簡単ではないのである。
そんな奥の深い薬草の鑑別において、右に出る物はいないと評判の人間がこの街に存在していた。
しかもその女性、冒険者ギルドに所属してはいるものの、本業は冒険者でも何でもなく、ただの貴族令嬢なのだという。
――『婚約破棄の悪役令嬢』マリィ。
王子に見初められながら、王子との婚約を一方的に破棄されてしまった悲劇の女性である。
なろう小説にありがちな物語「第一章 婚約破棄の悪役令嬢と紅きティンクトゥラ」
「はああああぁぁ……イケメンに婚約破棄されちゃったぁぁ……。せっかくの腹黒系優等生イケメン王子だったのになぁ……でも下手に歯向かって要らない波風立てるのも嫌だもんなぁぁ……」
薬草を摘みながら大きな溜息を一つ。
それが彼女、自らの手で日銭を稼ぎあげている令嬢マリィの日常である。
当然ながら一人で外出し自分の手を汚して薬草を摘むなんて行為は、間違っても貴族の令嬢がすることではない。
それだけでも、マリィという女がいかに一般からずれているか窺い知れようものであった。
「イケメン……ああ、イケメンなら何でも許すよぅ……。だってもう、本当に本ッ当にイケメンなんだもの……はぁぁ……」
身も蓋もない発言である。
だがマリィの本心でもあった。
てきぱきと進む薬草調達とは裏腹に、マリィの独り言はどんどんと暗く沈んでいく。
「でもさぁ、想いが叶わないってこんな悲しいんだね。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、って言葉をほんの少しだけ信じてたのにね。本当、神様のバカヤローって」
どこに何があるのか、見えている。
それぐらいにマリィの手捌きは速かった。
目視では見つけづらいような木の根の近くに生えているキノコでさえ、ささっと見つけては背負った編みかごにすぐ投入していく。
病気にかかっているものだったり、よく似た毒草などは、その場でぽいと放り捨てるか、そのまま触りもせず放置している。
――鑑定スキル。
瞳に映ったものを事細かに分析し、様々な情報を調べることができるというもの。
これは一体何のポーションだったのか、
あの料理にはどんな香辛料が含まれているか、
この人は今どんな病気で苦しんでいるのか、
遠くにある小さなあれは一体何なのだろうか。
様々な場面に応用が期待されるこのスキルは、汎用性が非常に高く、日常生活のあらゆる側面で役に立つ。
この鑑定スキルこそが、今までのマリィの薬師生活を支えてきた秘密である。
一キロあたり銀貨三枚ほどの薬草が積み重なって、日当にしておよそ銀貨二十枚以上を軽々と稼ぐ。
言葉にすれば簡単なように思われるが、当時の労働者の平均日当よりも倍近く高い金額を稼ぎ出しているのだから、マリィの手際の良さは異常であった。
「んで、ラーヘンデル草は蒸気分留法で精油して、アロマバス用にお風呂にちょこっと垂らして、香りとともに血流増加作用とリラックス作用を楽しんでもらう。ペパーミントも精油。副産物の芳香蒸留水も香水としての使用を検討する。
柑橘は久しぶりにジャムにしてみようかな。そろそろ無くなるし。あとはハーブティー用にいくつかと、ポーションの調合用にいくつかと……」
ただ売るだけでも、他の労働者の日当の倍近く。
それをマリィは、さらに自前で調合したりすることで更なる付加価値を作り上げようとしている。
悠々自適の生活を送りたい令嬢マリィは、この鑑定スキルを用いることで、とある計画に向けて資金を集めることを画策していた。
マリィはとにかく、面倒な人間関係に疲れていた。ただささやかな幸福だけが彼女の望みだった。
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年寄りの黒竜ファフニールと契約すると、その場に現れたのは、
「――蛇?」
体中が苔むした、薄汚い蛇だった。
この世に顕現する力が足りない今、仮の姿として蛇になっているらしいが、それでも酷い有り様である。
全身が擦り傷と打ち傷だらけで、呼吸も浅くて細い。
意識は朦朧としており、一人では動けないほど弱っていて、非常に危険な状態だと言えた。
(何とかこの竜を助けないといけない)
そう考えたギーグが取った行動は何かというと――川辺に持ち運んでの介抱であった。
思い返せば、この黒竜は水辺に首を浸して傷を癒やしていたはず。
となるとあの水には、もしかしたら癒やしの力があるのかもしれない。
それに水辺ならば、この黒竜の全身に苔むした体を綺麗に洗い流せるし、自分も血と毒に塗れた全身を綺麗にできる。
何となれば川魚を取ることで、食料も確保できるかもしれない。
かくしてギーグはこの黒竜を川辺まで運んで、一生懸命に介抱した。
……つもりなのだが。
「わ、我を殺す気か……! か、体を、全身泡で揉み込むなんて、きき、聞いたこともないぞ……!」
「そんなつもりじゃないよ。全身に巣食っていた苔を落としてたんだ。見るからに不健康そうだったからさ」
何故だかわからないが、黒竜はお冠のようであった。
一生懸命洗った結果である。きちんと洗ったつもりなのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。
「だ、大体なんだ、その泡は! 怪しい魔術か!?」
「いや違うよ。迷宮皁莢っていう豆の植物。豆の部分を取り出したあと、さやの部分を切り刻んで煮込むとぬるぬるした泡が出てくるんだ」
ゴブリンの集落でもっぱら薬草採集をしていたギーグは、こういう知識に妙に詳しくなっていた。
体が病弱なこともあって、どんな薬草が病気に効くのか、などを勉強する機会も多かった。
それ故か、こう見えてもギーグはゴブリンの集落でも指折りの薬師でもあった。預言者のオババ様や、巫女を務めるゴブリナたちの次に薬草に詳しいため、彼女たちにもよく頼りにされていたものである。
それが面白くない連中が、よくギーグを虐めていたのだが。
「あっ! こら、ああっ……んっ……」
「皁莢はね、本来は山の中とか川辺に生えているんだけど、迷宮の環境に適応して育つ品種もあるんだ。この迷宮皁莢もその一種でね、特徴としてはよく泡が立つんだ」
「ん、っ、ふっ……」
「で、豆の部分は強壮、利尿、血圧降下の作用があって、体内にある猛毒を出すのに効果があるんだ。後で食べてもらおうと思って、今迷宮皀莢入りのスープを作ってるんだ」
「ん、んん、くっ、やめっ」
何でこんな気色悪い声を上げるんだろう。
黒竜の体を綺麗に洗いながら、ギーグはそんなどうでもいいことを考えていた。
「そう言えばさ、この迷宮、黒竜の迷宮って言うんだっけ。僕たちもたまにここを利用したりするんだ。住んでいる魔物はどちらかというと大人しい性格だし、薬草が採れたり魔石を採掘することができるし」
「ん、ぅ、やめ、ないと、あっ」
黒竜を丹念に洗いながら、ギーグは独り言のように話しかけた。
実際、それは独り言であり、作業に没頭するためによく彼が行う癖のようなものである。
「でもね、本当は単独で迷宮に潜るなんてことはやっては駄目なんだ。ましてや第一階層より更に奥に足を踏み入れるなんて、大人のゴブリンでも普通はありえないことなんだ」
「あ、あ、ぁっ、早くっ、やめっ…………〜〜っ!」
「そんな危険なことをしなくても、第一階層を探せば薬草や魔石は必要分だけ手に入るし、どうしても足りないんだったら他の迷宮を探すほうがいい。この迷宮に限ってはあんまり深入りしちゃだめだって集落の皆が言ってるんだ」
「〜〜〜〜っ! ぁ、あっ……〜〜〜〜っ!」
「きっとそれは、皆が君のことを恐れているからだと思うよ、ファフニール。遥か昔からずっと何千年もの間、この迷宮の主として君臨し続けて財宝を守ってきた君に、皆が畏敬の念を抱いているんだ。こんな僕だって君の名前を知ってるんだから」
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
――だからファフニール、僕は君みたいになりたい。今は弱虫だって言われてるけど、いつかは僕も君ぐらい強くなりたいんだ。
思わずそんな言葉が口から出そうになって、ギーグは少しばかり我に返った。
何をいきなりよく分からないことを口にしようとしてるんだろうか。
そんなことを言ってみたところで、この黒竜も困るに違いないのに。
確かに強くなりたいという願いは本当である。
でもそれはあくまでギーグ自身が強くありたいと心に誓っているだけの話であり、他の人に強くしてもらいたいだとか、誰かに強くなるコツを教えてもらいたいだとか、そういうお願いをしている訳ではない。
「……ごめんね、ファフニール。何かどうでもいいことを言っちゃいそうになったよ。何でもないんだ」
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
「僕は別に、君にどうにかしてほしいって思ってはいない。ただ僕は、弱虫な自分が嫌なんだ。弱いからって何かを諦めなきゃいけないことが、僕は悔しくてたまらない」
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
「だから僕は、絶対に諦めない」
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
「この前死にそうな目に遭って、強く思ったんだ。悔しい思いをしながら死ぬことだけは絶対に嫌だって」
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
そういえば、先程からファフニールの様子が変であった。
両手を使ってギーグが体を洗いほぐしても、びくんびくんと体を変に強張らせるだけ。
呼吸も、はっ、はっ、と荒っぽくなっており、心なしか体温が熱くなっている。
しまった、とギーグは顔を青ざめさせた。
ファフニールが逃げ出さないようにしっかりと抑えながら洗っていたのだが、もしかしたらどこか体の傷に沁みたのかもしれない。
それをそのまま洗ってたものだから、さっきまでずっと悶え苦しんでいたのかもしれない。
(しまった、洗剤の泡は傷口に染みることを忘れてた! もっと優しく丁寧に洗わなきゃいけなかったんだ……!)
痛くしてごめんね、もっと優しく丁寧にするから、とギーグは丹念に洗うことを続けた。
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
ギーグは知っている。
遥か昔より、痛いの痛いの飛んでいけ、というおまじないがある。
これは、生き物の感覚器官の優先順位が、痛覚よりも触覚のほうが高いから行われるおまじないなのである。
体を冷やしてお腹が痛い時にお腹をさするのも、打ち身をしたときにその場所をさするのも、痛覚よりも触覚のほうが優先されるから痛みが和らぐ、という生理学の応用である。
生き物の体は、触られた感触に敏感になるよう作られているのである。
なので、今度は泡を洗い流してから、黒竜の体を揉みさすることに専念した。それもなるべく優しく丁寧に行うことを心掛けて。
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜っ!」
黒竜は声なき声で悲鳴を上げていた。
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後で二人は思いっきり喧嘩をした。
どうやらこの黒竜、雌竜だったらしい。おかげさまで説教を受ける羽目になった。
「わ、我は……やめてって……でも……お前が……やめなかったから……ぅぅ……」
「ごめん、気付かなかった。ちゃんと尻尾のところをひっくり返して見ておけばよかったよ」
「!! なな、何をするか!!」
「あ、確かに雌だ」
「殺す!! 殺す殺す!!」
「痛ッ!」
毒の牙で思いっ切り噛み付かれる。腐っても数千年を生きる毒竜の牙である。ギーグが死なないことを承知の上の反撃なのだろうが、痛いことには違いなかった。
「いてて……でもよかったよ、ちゃんとファラが元気になってくれて。半日介抱した甲斐があったよ」
ファラ――ファフニールの愛称である。
これは本名を外で言うのはまずいと考えたギーグが咄嗟につけた名前である。本人からの了承も得ている。
伝説とされる竜を愛称で呼ぶのは恐れ多いことだが、この際仕方がないことであった。
「元気……? まさか。小康状態といったところだ。流石に何百年も魔剣に呪われたままだったからか、身体の至るところが腐っておる。元気になったというよりは、死につつあったところから少しだけましになった、という方が近かろう」
「魔剣……魔剣グラムだっけ。あの剣の呪いはどうやったら全部取り去ることができるの?」
「無理だ。ただでさえあの魔剣は大業物の一振りで、加えて北欧神の魔術が込められている逸品ぞ。呪いは尋常のものではない」
「え、じゃあファラは……」
と、そこまで言って、白く濁った瞳をしばたたかせたファラはくるりとギーグの方に顔を向けた。
「……と、思っていたのだがな。どうやらお主と契約したときから、身体がゆっくりと癒えているようなのだ。どうやらお主の治癒力を譲渡されたらしい」
「……本当? それはよかった」
「……」
ギーグが安堵したのは、自分も魔剣の呪いをたくさん浴びていたからである。
もしこのままファラが何の後遺症もなく無事に快復すれば、ギーグも呪いの後遺症を気にしなくてもいいであろう。
一応、もう魔剣グラムには使い手として認められているのだが、使い続ける上では呪い対策は気になるところであった。
「それよりもギーグよ。お主の方こそ、身体に何か変化はないか? 我の血をあれだけ浴びたのだから、もしかしたら変化が起きておるかも知れぬ」
突如ファラに問いかけられてギーグは不意を食った。
「え? ……変化か、何だろ」
「……言い伝えによると、竜の血を飲んだものはありとあらゆる生き物の言葉を解するようになり、竜の血を浴びたものは身体が甲羅のように硬くなり、そして竜の心臓を食らったものは並み外れた叡智を手にするという。お主に似たような変化があればと思ったのだが」
「そうだな……」
身体の変化といえば、突如手に入れた謎の治癒能力が大きい。
だが、これは竜の血を浴びる前から手に入れていた力である。
どうして手に入れたのかは分からない治癒の力。
だがこれは、竜の血とは無関係である。
竜の血を浴びてからの肉体的な変化となると、今のところギーグにはあまり思いつかなかった。
(まだ自覚できるほど変化してないのか、それとも自覚できるような変化じゃないのか……)
「……そうか、変化がないなら仕方がない。……それならつまり、そこまで我の体は腐っておったのだということぞ……」
ふ、とファラは自嘲の笑みを浮かべた。
小さな蛇の姿をしておいて器用なものだとギーグは思った。
(……そういえば、今まであんまり気にしてなかったけど、何で僕は治癒能力を手に入れることができたんだろう?)
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Gevulot Ha-aretz 旅の知識
■トラーウィスカル・パン・テークトリの槍
アステカの災厄神にして、ナワトル語で『曙の主』を意味する、トラーウィスカル・パン・テークトリの槍。
明けの明星(金星)が彼の本体とされており、その輝きは「破壊をもたらす神の槍」「全ての災いを引き起こすもの」と考えられてきた。その槍に貫かれたものは大いなる災いに見舞われるという。
■アンドヴァリの指輪
ファフニールの宝具の一つ。黄金をもたらす呪われし指輪。その指輪は持っているだけで富を生むとされるが、非常に強力な呪いがかかっている。
■恐怖の兜
ファフニールの宝具の一つ。相手に恐怖を与える兜。ゲルマンの伝承エッダの「ファーヴニルの歌」に言及されている。
■貫きの剣フロッティ
ファフニールの宝具の一つ。古ノルド語で「突き刺すもの」を意味する宝剣。
■魔剣グラム
古ノルド語で「怒り」を意味する剣。かつて最高神オーディンがリンゴの巨木に突き立てて、引き抜くことが出来たものに与えると言われた剣とされる。
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ぱちぱち、と乾いた木が音を立てて燃えていた。
付近をさまよう野生の魔物を追い払うための焚き火が、ひときわ大きく揺らめいた。
火は周囲を明るく照らす光源にもなっていたが、炎で揺らめく大きな影が魔物たちを近寄せなかった。
大きな影は大きな生き物。魔物はそれを見て勝手に逃げていく。実際はただのゴブリンと蛇なのだが、炎による影はそれ以上に大きく伸びて広がっていた。
本来ならば迷宮には木々や森などはないのだが、この黒竜の迷宮ほどの代物になるとちょっと勝手が違っており、迷宮内部にも平然と森や川がある。野生の魔物が潜んでいることも普通にある。
だからこうやって焚き火をする必要があった。
大人のゴブリンでも黒竜の迷宮には単身で潜ることは滅多にしない。森に何が潜んでいるか分からないからである。単身で潜り込んできたギーグがどれほど無茶なことをしたのか窺えようものである。
「ねえ、ファラ。まだ起きてる?」
「……何だ、ギーグよ」
「あ、いや……寒くないかなって」
眠そうに目をしばたたいたファラは、のそりと首を上げた。往年の呪いがこの竜を疲弊させていたらしく、動きが緩慢であった。悪いことをしたかな、ゆっくり寝かせてあげればよかった、とギーグは申し訳なく思った。
「……寒い?」
「……うん、何だか体が冷えて仕方がないんだ。頭もぼんやりしてきて、体の震えも何だか止まらなくてさ。熱でも出したみたいだ」
ギーグは正直に答えた。
頭がぼんやり霞がかったようで思考も冴えなく、それに何だか気だるくて仕方がなかった。
「……お主、もしやと思うが、あの災いの槍に貫かれたのではあるまいな?」
「槍? ああ、この槍のこと?」
「……。ああ、それじゃ。災いの槍、トラーウィスカル・パン・テークトリの槍。滅び、呪い、災いの形をしておろう?」
「へえ……」
ぼう、と熱でうだる頭で考える。
この槍は、ギーグがあの祭壇から持ってきた道具の一つである。
ファラを看病している間、他の魔物に襲われたら攻撃し返すために持ってきた槍。
そういえば、この槍には一度心臓を貫かれた記憶があった。
「この槍に貫かれたものは、呪い殺される運命にある。あまりにも凶悪な凶つ神の武具じゃ。この世の災厄そのものを具現化した槍と言って過言ではあるまい」
「……え?」
「……え?」
濁った目の蛇がきょとんとした顔になった。
「お主、まさか、まさか……!」
「……うん」
「あああ……何ということじゃ……何ということじゃ……! こんなこと、こんなことあってはならん……!」
「……あれ、僕何かやっちゃった?」
蛇はうなだれるようにギーグに頭を擦り付けて、きゅう、と小さく鳴いた。
それがあんまり寂しそうな鳴き方だったので、思わずギーグは頭をなでた。
(……だめだ、僕のほうが眠いや)
寒気がする。それに気だるさも。
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古竜の鱗や脱皮した殻に生える苔を龍苔という。
正確にはこれは苔というよりも地衣類の一種であり、菌類と藻類の共生した姿である。
菌類は藻類に安定した住み家と生活に必要な水分を与え、藻類は光合成で作った栄養を提供する。
そのようにして互いを助け合う地衣類は、生育環境がコケ類と共通する部分が多く、ぱっと見では苔との違いが分かりにくい生き物であった。
特に古竜の中でも神話級と名高い竜の鱗で育った龍苔は、非常に高い薬効が認められており、錬金術の材料として人気が高い。
(錬金術に否定的だったとされるかの大賢者、イブン・スィーナーでさえ、龍苔に含まれるラパマイシンなどの各種薬効成分は高く評価している)
机の上に『ユナニ医学書』と『アーユルヴェーダ生学書』を開きながら、こつこつと錬金術に励む怪しい影がひとつ。
外はすっかり夜の帳が下りて、星あかりと月明かりがこの迷宮街を優しく照らしている。
白レンガで構成されているこの『白い街』は、そんな微かな夜の光でも薄ぼんやりと夜闇を見渡せるようになっている。夜闇に紛れての追い剥ぎや襲撃を減らすための治安施策。そしてその白レンガのお陰で、この街は昼も夜も美しかった。
錬金術の街。第二のプラハ。天文時計塔の街。
迷宮出土品によって栄えるこの『白い街』は、様々な知識と文化のるつぼであった。
「明かりをもっと強くしないと……」
もうすっかり夜の作業に慣れっこになってしまった錬金術師の少女は、目の前にある試薬を混ぜ合わせて調合を繰り返していた。
不思議な呪力を持つ、メドゥーサの血。
霊薬アムリタの原料となり、ハオマの大樹の実。
霊薬ネクタールの原料となる、楽園の果樹の花蜜。
トネリコの木に集まる半翅目昆虫が出す体液を採集して作られる、天寿甘露。
原初の海(乳海)の海底から取れた海草、シーブ・イッサヒル・アメル。
同じく原初の海から取れた三種類の塩を混ぜ合わせたもの、ムン・ウップ。
原初の海の深海熱水孔から排出される、熱水の脂質が水中でミセル化した生命のスープ――高分子集合体。
不思議な治癒能力を持つとされるマナの宿る石、カフナポハク。
それらのいずれもが、目が飛び出るほどに高価な希少材料である。
(時間が足りない。早く、何としてでも完成させないと)
試行錯誤の連続。
文献調査と薬効検証の繰り返し。
闇の中を手探りで進むような、気の遠くなるような作業。
錬金術師の少女は、希少な筈の材料を湯水のように使い、失われた霊薬を作り上げようとしていた。
天界の桃園の中で数千年に一度だけ熟し、それを食べたものは仙人になれると言われる仙桃、蟠桃を薄切りにして煮詰める。
かつての先住民たちがその葉をつぶして患部に塗り付け、上から粘土で覆って怪我や皮膚の治療などに使用してきたとされる樹木、ティーツリーの葉をすり鉢で潰す。
この際、試せるものは何でも試すつもりであった。
彼女の狙いは一つ。
錬金術師たちが夢見てやまない神秘の結晶――紅きティンクトゥラを作り上げることである。