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プロローグ 迷宮の核を取り込んだゴブリンと、年老いた呪われし黒竜のお話

この世界、Gevulot Ha-aretzにようこそ。

貴方は記憶をなくした冒険者です。

飛行艇に乗っていた貴方は、エーテルの風に巻き込まれてしまい、そのままこの大陸、Garden of Edenに流れ着きました。


異世界に来たばかりの貴方に、三つの加護を授けます。

・スキルの石盤

・アイテムボックス

・異界への導き石


■スキルの石盤(Luchot HaBrit)

掟の石盤、契約の石盤。

あなたの取得しているスキルを表示してくれる石盤です。この石盤を使って、スキルの新規取得やスキルポイントの割り振りも実行できます。


■アイテムボックス(Pushpaka Vimana)

宝物庫、空中宮殿。

あなたの取得した道具を保管してくれる宮殿です。保管されたアイテムの経年劣化を防ぐ魔術がかけられており、また、広さはどんどん拡張されます。


■異界への導き石(Gibraltar's stone)

世界の最果てジブラルタルの石の欠片。

あなたを異世界に導いてくれる力を持った石です。


最後になりますが、この世界では貴方は限りなく自由です。

のんびりと農業を営んで生活をするもよし、

魔物討伐に明け暮れる冒険者として暮らすもよし、

交易品を仕入れて売りさばく行商人の人生を送るもよし、

ダンジョンを攻略し財宝を発掘する探検家として生きるもよし、

或いは犯罪者として、悪逆非道の限りを尽くすことさえ自由でしょう。


あなたの幸福を祈ります。女神より。







 ヒトと魔物の混ざり物。

 出来損ないの病弱ゴブリン。


 そうやって罵られてきた弱虫のギーグは、集落のゴブリンたちからのイジメが原因で頭のツノを折られてしまった、子供のゴブリンである。




「……も、……だめ…………死……」


 途中で拾った棒を杖にして、足を引きずるようにして迷宮を歩く。

 ギーグはずっと苦しんでいた。

 空腹と渇きで頭が朦朧とし、体は鉛のように重たい。

 熱を出したのか、のぼせているような悪酔いの感覚と、背筋を走るぞくぞくする寒気が先程から止まらない。

 体の節々は、既にずきずきと軋んだ痛みを訴えている。


 そして何よりも――彼の左手は、魔物にごっそりと食いちぎられていた。


 迷宮に放り出されて丸三日。

 そろそろ彼は、体力の限界に近づいていた。


(血を出しすぎたかもしれない。だって、左手を肘から食われちゃったんだもの。左足だって変な方向に折れてるし、あと、脇腹に何か刺さっちゃってるし)


 ぬるぬるした血が歩くたびに滴った。

 今や水分が足りなくなってきたのか、どろっと粘っこいような血に変わりつつある。

 ギーグはもう、乾いた笑いをこぼす他なかった。


(死ぬんだろうな、死ぬに違いない。

 もう何日も何も食べてないし、さっきから寒気も熱も止まらないし、挙句の果てにこんな怪我をしちゃって。

 ああ畜生、僕には勇気があるんだ、なんて挑発に乗らなきゃよかった……)


 今更の後悔。

 ふらふらになりながら思い出したのは、今でも憎たらしいあの挑発である。




『やい、出来損ないゴブリンのギーグ。

 お前の両親は、さぞ大したことのない雑魚だったに違いない。

 何せお前はすぐに病気になるし、体力は弱いし、おまけに魔力も何もないときた。

 この集落の女子供と比較しても、お前ほど出来の悪いやつはいない。

 きっとお前の親は、うすのろで間抜けなグール相手としっぽり子作りしてお前を産んだに違いない――』




 安っぽい侮辱。聞くに耐えないような汚い言葉遣い。

 無視すればいいのに、どこかカチンと来て、ギーグは思わず反発してしまったのだ。

 自分のことを馬鹿にされるのはまだ許せる。

 だが、両親のことを馬鹿にされるのは許せなかった。


(僕の両親はゴブリンの王様と異国の姫様なんだ、自分には勇敢な血と慈愛の血が流れているんだ、って反発しなきゃよかった。

 あのとき黙っておけば、こうやって囃し立てられて、ジブラルタルの異界の門に押し込まれて、今こうして死にそうな目に合うこともなかった――)


 ばたり、とギーグは倒れ込んでしまった。

 いつの間にか彼は、何かの台座の前に辿り着いていた。

 女神のような像があって、いかにも雰囲気がある意匠の空間である。

 転生を司る女神という説明が彫金されていたが、もはや彼にはその文章を読む気力はなかった。


 こういうところで死ねるのなら本望である、と彼は思った。

 自分のつまらない一生を締めくくるのには十分以上である。神様に看取られて死ぬ、いいじゃないか。


 ただ強いて言うなら、誰かに優しくしてほしかった。

 自分のことを認めてほしかった。

 そして、とても単純に、自分に何か凄い能力がほしかった。

 僕は弱虫なんかじゃない、と。


「ちくしょう……」


 涙は出なかった。声も掠れきっていてひゅうひゅうと言うだけだった。

 だというのに、つまらなくて仕方がない自分の一生が、他者に馬鹿にされたまま終わるのがあんまりにも悔しくて、ギーグは唇を噛んでいた。




 ――そして、死に瀕したギーグがもう殆ど朦朧として何も分からなくなった頃、迷宮の核が産み落とされた。











 なろう小説にありがちな物語「プロローグ 迷宮の核を取り込んだゴブリンと、年老いた呪われし黒竜のお話」











 弱虫ギーグ。角なしギーグ。

 泣きべそかくぐらい悔しかったら、一遍でも相撲で勝ってみせろよ。


(うるさいな、勝てるものなら勝ってやるさ。その憎たらしい顔を、真正面からぶっ叩いてやる――)


 げらげらと笑われて、カチンときて飛びかかって、でも何度挑んでも素気なくあしらわれて。

 自分の全力が、相手には全然歯が立ってないことに気がついて、ギーグはとても悲しくなった。

 今でも思い出す。ニタニタと笑いながら余裕綽々で暴力を振るってきて、それなのに全然こっちより強くて、平然としてて、何でこんなやつが自分より強いんだろう、って。


 こっちのほうが何万倍も悔しいのに。

 ずっと、ずっと我慢してきたのに。




 ぽろぽろと涙が溢れて目元を濡らして、ギーグはようやく全てが夢だったことに気がついた。


(……寝てたのかな僕。何でだろう、久しぶりに寝た気がする)


 地面に横たわっていたせいか、体の節々がぱきぱきと鳴って痛かった。それに筋肉痛が酷い。無理やり筋肉が生まれ変わったみたいに、どこもかしこも鈍痛が走っている。

 何故だか知らないが、ギーグの体の内部はあちこちと悲鳴を上げていた。


 特にひどいのは左腕だった。ずっと血が通ってなかったのかじんじんと痛みが走っていて、さっきから感覚もずっと変で、思ったように動かないし、未だにめきめきと変な音がしている。


(……左腕? 左腕だって!? さっき食べられたはずの左腕がなんで……)


 眠かった頭が驚きで覚醒した。

 左腕。

 迷宮の途中で、年寄りの黒龍に肘ごと食われたはずの左腕が、彼の体に生えていたのだった。


 無くなったものが治るなんて、まるで霊薬のようじゃないか――とギーグはたじろいだ。

 それも集落のオババ様が作るような普通のポーションとは訳が違う、太古の物語で出てくるような、エリクシールだとかアムリタだとか、そういった規格外の霊薬である。


 普通、肉体から欠損した部位は生えてこない。非常に高度な魔術を用いない限りは、元に戻すのが不可能なのである。


(何で、僕の体は元に戻っているんだ……?)


 その時、ぐぅ、と腹の虫がなった。

 眠かった体がようやく、今の酷い飢えを訴え始めていた。今や深刻な空腹感がギーグの喉までせり上がってきており、一旦疑問よりも食料をどうするかを彼は考えた。






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 ギーグが今歩いているのは、黒竜の迷宮と呼ばれるダンジョンである。


 そこに住み着いている魔物は比較的大人しい性格である。

 だが決して弱い魔物だというわけではない。

 むしろいきなりゴブリンの子供が一人で足を踏み入れるには危険極まりない場所である。


 加えてもう一つ特筆すべきことがあるとすれば、黒竜の迷宮は、財宝を溜め込んでいる竜――ファフニールの根城である。

 伝説の時代を生きている齢何千歳の竜の魔物。

 鋼のような鱗を持ち、爬虫類のような姿で毒のブレスを吐いてくる厄介な存在。


(あいつらめ、何が『へへ、お前の度胸を試すのなら丁度いい場所だろ? ありがたく思えよ』だ。こっちは危うく死にかけたところじゃないか。まさかあんな入口近くに、あの年老いた黒竜がいるなんて……!)


 ずきりと痛みが左腕に走った。

 未だに左腕は、めきめきと不吉な音を立てて修復されつつある。流石に腕一本の修復には時間がかかるらしい。


 ギーグが左腕を食いちぎられたのも、その黒竜ファフニールの仕業であった。




 黒竜ファフニール。

 動きはすっかり鈍重で、体には苔が生えていて、瞳は濁りきってて目の前も見えているのかどうなのか全く分からない、そんな哀れな一人ぼっちの年寄りの黒竜。

 低く唸るような声は、息切れのように弱かった。

 いつも体を引きずっていて、よくよく見れば首元に禍々しい魔剣が突き刺さっていた。


 それでも、何千年を生きる黒竜の力強さときたら尋常ではなかった。

 大地は揺れ動き、空気は割れ、ありとあらゆる生き物の気配が戦慄して緊張に震えた。


 対峙したとき、ギーグは死ぬと思った。

 冗談でもなんでもなく、死を覚悟した。


 だからギーグはあの黒竜が突進してきたとき、咄嗟に左腕を犠牲にして逃げ出したのだった。


(もう二度と会いたくない。出来ればさっさと逃げ出したいのに……。畜生、なんでこういう時に限って黒竜がいるんだよ……)




 まずは迷宮の内部にある水辺で一息つこう。

 そう考えていたギーグは、目の前の光景を見て絶句した。


 あの忌々しい黒竜がそこにいるのだ。

 どうやら痛みに呻きながら水に首元を浸しているらしいが、知ったことではない。

 負傷していようが、苦しんでいようが、黒竜は黒竜なのである。

 これでは水辺に全く近寄ることができない。


(どうする? あの水辺を通らないで帰ることなんてできないぞ。体を洗って血の匂いを落として、水を飲んで空腹と喉の乾きを癒やして、出来れば魚を取って食べようと思ってたのに……これじゃ何もできないじゃないか)


 黒竜が目の前で水を啜って喉を潤すのを、今は遠くから眺めて歯噛みする他ない。

 残念なことに、水辺を迂回して帰還することはできなかった。

 帰り道は基本的に一本道であり、どうしてもこの水辺を避けて通ることはできない。


 かといって、あの黒竜に気付かれないように横を通り過ぎる……というのは、あまりにも楽観的すぎる。途中で絶対に気づかれるに違いなかった。


 何せ既にあの黒竜は、どこからともなく漂う血の匂いに聡く勘付いているようだった。

 どう考えても、先程まで血まみれだったギーグのものである。

 左腕を肘から食い千切られて、土手っ腹に穴を空けて、派手に血を流していたギーグは、控えめに言ってもとても匂った。


(洗い流しに来たら裏目に出るなんて……)


 逃げよう、一旦奥に引き返して黒竜がいなくなるのを待とう、とギーグは踵を返そうとした。

 せっかく拾った命をただ同然で投げ捨てるつもりにはなれなかった。


 だが、そんなときに限って間抜けな腹の虫が、ぐぅ、となった。

 彼は思わず飛び上がりそうになった。


「……」


「……」


 黒竜がゆっくりとこちらを向いた。

 どうやら聴覚は耄碌していないらしい。

 そして最悪なことに目と目があった。

 あの濁った瞳が見えているのかどうかはわからなかったが、分かったことが一つだけある。どうやら彼は、向こうに確実に気付かれてしまったらしい。






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 迷宮の核を取り込んだ生き物は、魂の器が強化されてより強い魔物になると言われている。

 例えば、ある者は全ての生き物の記憶を覗き見る能力を手に入れた。

 また、ある者は無尽蔵に湧き出てくる魔力を手に入れた。

 他にも、ある者は他者を契約で服従させる能力を手に入れたという。


 そして、今必死に逃げ回っているギーグもまた、気付かぬうちに迷宮の核を取り込んだことによって、特殊な力を有していた。




「ぐ、ぁ……痛……」


 もう一度逃げるために左腕を差し出したギーグは、痛みに悶え苦しんでいた。

 二度も食い千切られた左腕は、思わず顔が引きつるぐらいに血が吹き出ている。

 早鐘を打っている心臓の鼓動に合わせて、この小さい体のどこにこれだけの量があるんだとばかりのおびただしい程の鮮血を流していた。


(く、そ……。この年寄りの竜め……! 動きは鈍重なくせに……狙いすましてからの噛み付きは、意外に早いぞ……っ)


 切羽詰った表情で逃げ回るギーグ。

 だが、左手を犠牲にしたおかげでいくつか分かったことがある。


 一つ目は再生能力。

 ギーグの体は、先程からゆっくりとではあるが再生しつつあった。

 失ったはずの左手を補うように、断面からめきめきと繊維が生え伸びている。そのまま網状に絡まりあったかと思うと、中を通る芯のような骨が層状にだんだん太く形成されて、今に至っている。


 時間が経てば、きっと手首から先も復活するのであろう。

 ただし逃げ回っている今は、血を吹きこぼすだけの断面が長く伸びただけに過ぎない。


 二つ目は身体能力。

 先程、台座のそばで気を失う前の身体能力と比較すると、ギーグは遥かに長い距離を走って、それでも息切れが起きなくなっていた。

 跳躍力や反射神経も、心なしか伸びている気がする。

 それだけではない。

 失血が続いているのに、頭も朦朧としなくなっている。

 何故かはわからないが、ギーグの肉体は以前よりも遥かに頑強になったらしかった。


 そして三つ目。

 この黒竜は、先程よりも執拗にギーグを食べようと狙っていた。




「……奇妙な、話だ。先程、貴様の左腕を食ろうたときは、さほど魔力を感じなかった。十把一絡げの雑魚だと、思っておったが。

 しかし今にして、貴様から、非常に強い魔力を感じる。……それも、並大抵ではない、見逃すには危険なほどの魔力」

 

(いや、そこはせめて見逃してくれよ!)


「この脆弱さ、いずれ死ぬと捨て置いておったが。この我が、見誤ったかな」


 ばう、と毒の霧が周囲を包んだ。

 毒の吐息。

 狡猾なるファフニールの攻撃手段の一つである。当然、激しい運動で呼吸が荒くなっているギーグには防ぐ術もなかった。


「!? ……ッ!」


 息を止めたが遅かった。

 喉が焼け爛れる程に痛く、腹の底からせり上がってくる水が底を尽きない。

 げえ、と吐瀉してみれば、血のような膿のような気味の悪い色合いであった。呼吸器の内壁を溶かしているような色合いであった。

 呼吸も急に苦しくなった。いくら空気を吸っても楽にならない。

 まずい、毒にやられたか――と、這いつくばりながらもギーグは転がって逃げた。


「――粘る。小さきものの体で、よく粘るものだ。だがこの先は、行き止まりぞ。ジブラルタルの女神の台座があるだけの、何もない空間。お前の悪運もここで尽きた」


 這々の体で、ギーグは奥まで逃げ込んだ。


 狭い道、狭い道と、迷宮の先をずっと進んでいったが、黒竜からはついぞ逃げられなかった。

 かの黒竜は、狭い通路を選んでも身体ごと無理やり入って、迷宮を押し広げながら突き進んでくる。

 その無理矢理にも程がある強引さは、逃げているこちらが絶望するぐらいの迫力があった。


 そしてついに、この女神の台座のところまで追い詰められてしまったのである。




「逃げる場所はない。もう終わりだ。死ぬがよい」


(冗談じゃない! 絶対に死んでやるものか……!)


 激しい竜の咆哮。大地が割れるほどに鳴動し、空気の圧が板のようになって体へとぶつけられる。

 そして続けざまに毒の吐息が部屋を包む。逃げ隠れる隙間はない。

 余念のない確実な殺し方であった。

 竜は油断なくギーグを始末しにかかっていた。


 が、しかし。




(――そうだ! 確実に僕を殺すためには、隙間なく周囲を攻撃できる、咆哮と毒の吐息の二種類で攻めてくる! でも僕の身体が傷付くことを度外視すれば、前に飛び出せば相手の側に潜り込むことが出来る……ッ!)


 痛みに喘ぎながらも、ギーグは一瞬の隙を突いて、黒竜の懐に飛び込むことに成功していた。


「む、愚か者め。我にはまだ、爪も牙もあるのだぞ」


 ここに来てファフニールは爪と牙で襲いかかってきた。

 普段は鈍重なくせに狙いの鋭い一撃。

 ギーグはそれを、何とか危うい距離で回避し続けた。


 逃げながらもギーグの視点は一点に集中している。ファフニールの首元に突き刺さっている一本の魔剣。

 あれを手に掴むことができたら。




「くどい!」


 土手っ腹が再び鋭い爪で抉られた。

 回避したと思ったのに、ごっそりと肉を引き千切られたらしい。

 焼けるような痛みにギーグは喉の底から叫んだ。


 だが、その勢いを逆に利用して、ギーグは高く跳び上がった。そのまま迷宮の壁を蹴って、ファフニールの首元近くまで辿り着く。

 

「愚か者め! それは、私を封印し、呪っている魔剣ぞ! それを抜けば、我はむしろ強くなり、力が解放されるのだぞ!」


「知、るかぁああ……ッ!」


 叫びながらギーグは剣を掴んだ。

 抜くのではなく、ぐじゅぐじゅと搔き乱す。

 それも思いっきり、勢いを込めて。


 そして痛みのあまりに、竜は吼えた。


「――ああああああああああああああああああああッ! 貴様、貴様ッ、がああああああああああああああああああッ!」


 咆哮。そして大暴れ。

 怒り狂った黒竜は、首元ごと思いっきり迷宮の壁面に叩きつけ、ギーグを無理矢理剥がそうとした。

 左右に往復したり、擦り付けるようにしたり、それはとても惨たらしい振り払い方だった。




 当然ながら、黒竜の身体も傷口が大きく広がった。

 魔剣が刺さっている場所を何度も叩きつけたり擦り付けたりするのだから、傷と呪いはますます酷くなっていた。


 反してギーグは、決して剣を離そうとはしなかった。

 何度身体が叩きつけられて骨が砕けようと、何度壁に擦り付けられて背中からごっそり肉が剥がれ落ちようと、歯を食いしばって、ギーグは耐えた。


 魔剣が抗ってもギーグは握り続けた。

 本来、伝承の魔剣ともなると使い手を選ぶほど魔力が強い。

 当然ながら単なるゴブリンのギーグは魔剣には選ばれず、魔剣から溢れる瘴気と呪いに身を焦がして、魂さえも呪いに焼かれている状態だった。

 だが、それでもギーグは手を離さなかった。


 それは、誠に恐るべきことであった。




「――僕は、弱虫なんかじゃ、ないんだ!!」




 勇敢な血と慈愛の血が流れていることを馬鹿にされたくない自分だから、

 今まで何一つ敵わなくて悔しくて悔しくてずっと泣いてきた自分だから、

 魔剣を握る右手から呪いの炎が吹き出て黒焦げになりつつあっても、

 ギーグは絶対に手を離さなかった。


 今だけは体よもっと再生してくれ、とギーグは願った。

 いくら痛くたって歯を食いしばって耐えてみせる、と心の中で叫んだ。

 勇気だけはいくらでもありったけ振り絞るから、だからこの瞬間だけは自分を強くしてください、と強く祈った。


 身体を蝕む鮮烈な呪いが、ギーグの中で吹き荒れた。


 それでもギーグには、この手を離して弱虫な自分に戻ってしまうことが何よりも嫌だった。




 ばくり、と黒竜の身体が面白いように裂けた。暴れまわったファフニールの古傷が開いたようだった。

 大量の血が吹き出して、ギーグはそれを全身に浴びてしまった。

 竜の血は生き物を強化する絶大な魔力を秘めているが、同時にそれは熾烈な猛毒でもある。


 傷口に染み入る猛毒。

 ギーグは激痛に吼えた。

 だがそれでも魔剣は手放さなかった。




「――ああああああああああああああああああっ! おのれ、貴様! 正気か!?」


「うる、さいな……! 僕は……! 僕は……!!」




 魔剣をさらに奥深くまでねじ込んだ感触がした。

 けたたましい咆哮と、悲鳴に似た慟哭。黒竜はいよいよ深刻に悶え苦しんでいる。

 さらに、治りかけの左腕を開いたばかりの傷口に突っ込む。

 どぷりと嫌な感触がしたが、ギーグはそんなことお構いなしだった。

 左腕も竜の血で焼けるように痛いが、引き換えに竜の骨を掴むことができた。

 この手を離さない限り、もう並大抵では振り落とされない。


「ああああああああああああああああああっ! ああああああああああああああああああっ!」


 暴れまわった黒竜が、今度は思い切りギーグを女神の台座にぶつけてきた。

 女神の抱えている槍が、ギーグの背中の真ん中を綺麗に刺し貫く。

 勢いで、彼は噎せ返るほど血を吐き出した。彼は絶命するかと思った。

 あまりにも槍が冷たくて、何か致命的な部位を貫かれたような予感が拭えない。


 だがそれでもギーグは手を離さなかった。




「ああああああああああああああああああっ! ぐ、き、貴様、これでも諦めないのか……! あぁ、……ぁ……」


 最後の手段とばかりに、至近距離で毒の吐息を思いっきり浴びせかけられた。

 吹き荒れる熱風。

 皮膚が爛れてじくじくと溶け出した。強酸の焼けるような痛みと、竜の吐息特有の高熱と、猛毒の燃えるような痛みが三重苦となってギーグを苛んだ。


 だがしかし、黒竜の傷付きようも尋常ではない。

 己の毒が直に傷口に入り込み、ますますのた打ち回って苦しんでいる。

 もはや竜も限界が近いらしかった。

 なりふり構わぬ暴れ方は、竜の方を早く消耗させていた。


「あぁ……ぁ……」


 ――やがて年老いた黒竜は、暴れまわって呪いが早く体に回ったのか、げえ、と一声鳴いて大地に倒れ込んだ。






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 気がついた頃には、ギーグはもう一度地面に横たわっていた。


 どうやら長いこと気を失っていたらしい。

 恐ろしい寒気と、焼け爛れて今もじくじく溶けている皮膚が、ファフニールの猛毒の恐ろしさを物語っている。

 頭痛も耳鳴りも酷い。

 ギーグは、早く体を暖めないと死んでしまう気がした。


 胸を見ると、槍に貫かれた場所は塞がっている。

 ただ、何やらその跡にルーン文字が刻まれており、その場所が針刺すようにずきずきと傷んだ。

 槍の呪いにでもかかったのかもしれない、とギーグは苦笑いした。


(生きている……僕はまだ生きているんだ)


 生きている。

 あの死闘を乗り越えてギーグはまだ、生きていた。


 そして、真正面には横たわっている黒竜がいる。

 強大なる竜は、ひゅう、ひゅう、と虫の息で呼吸していた。

 思えばこの黒竜も哀れな存在である。一人ぼっちのまま年老いて、今は魔剣の呪いの苦しみで死に瀕している。


(そうか、まだ僕、竜に手を突っ込んだままだったし魔剣も握ったままだ……)


 ずる、と左手を抜くと、竜は痛みでびくりと体を強張らせた。

 だが、それきりだった。もはやほとんど息絶えつつあることが、ギーグにも分かった。




(あ、そういえば魔剣……)


 ふと、魔剣の呪いを感じなくなっていることにギーグは驚いた。

 既にギーグの右手は、ところどころが炭化していて見るに耐えない状況である。

 それでも魔剣からは熱さを感じない。吹き荒れるような、そして体を貫くような呪いの圧力がすっかり消え失せているのだ。


 魔剣に認められたんだ、とギーグはそのとき気が付いた。


「……そうか、認められたんだ」


 ずっと諦めずに握っていたからなのか、それとも目の前の黒竜を倒してみせた異形の成果によるものなのか、そのあたりは不明である。

 だがギーグは、強大なる魔剣に認められることとなったのである。




「……小、僧……。気が付いた、ようだな……」


「……ファフニール」


 ぐるる、と喉を鳴らして、掠れるような声で話す黒竜は、哀愁を誘うほどに弱々しかった。

 痛ましい、と感じるほどに衰弱し切っている。

 もう多分、ゴブリンの子供でも嬲り殺せそうなほどに違いなかった。


「……最後の、願いだ。……殺せ」


 黒竜の言葉には、諦めが漂っていた。


「我を、早く楽に、してくれ……。

 殺せば、お前には、た、大量の魂が流れ込む……。きっとお前は……つ、強くなり、竜殺し、の加護を得られよう……」


「……」


「……憐れむな。……我の誇りを……穢すで、ないぞ」


 言葉に敵愾心を滲ませつつも、ひゅう、と吐き出す息の音が力ない。

 既に竜は死につつあるのだ。あまりにも悲しいほどに。




「……契約を結ぼう、ファフニール」


 だからギーグは、つい思わずそんなことを口にしてしまった。

 黒竜は目を丸くしていた。






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△





「僕の母上は、ただのヒト族のお姫様だったけど、契約の魔術の使い手だった。そしてその契約魔術を僕にこっそりと教えてくれたんだ。その中にある、魂を分け与えてもいいと思った相手とだけ契約できる魔術を、僕は知っている。

 だからファフニール。その魂と最後に契約させてくれないか」


「……くだらぬ……。我はもう、死ぬのだぞ……」


「実は僕も死にそうなんだ……さっきから寒気が止まらないし、毒が全身に回ってる気がする」


 ギーグは少し嘘を吐いた。

 大量に浴びた猛毒に苦しんでいるのは間違いないが、ギーグには並外れた治癒能力がある。今は確かに、熱病にうかされたようになってるが、果たして死ぬか生きるかは五分五分であった。

 だが、どうせなら生き残る確率を少しでも上げたいとは考えていた。


「お互いに契約を結べば、魂の力は強くなる。端的に言えば、治癒能力が底上げされるはずなんだ。実を言うと、僕は呪いに強い体質なんだ。きっと契約を結べば、君の命を蝕む呪いだって無くしてみせる」


「……」


「君の名前を教えてくれる? ちゃんとした真名を教えてほしい。そうすれば契約は上手く行くはずだ」


「……我を、恨んでないのか……」


 ぽつりと呟いた黒竜の言葉に、ギーグはあまりぴんとこなかった。

 恨んでいないのか。

 まるで常日頃から恨まれていて当然だとばかりの言葉である。

 それは自嘲するような暗さのある言い回しだったが、そんな年老いた竜の感傷の込められた台詞は、真っ直ぐなゴブリンの少年には届かなかった。


「いや、怒ってるけど。でも迷宮の中ではお互い様だよ。僕も酷いことをしちゃったし。それだけだよ。

 家族を殺されたとか、友人を殺されたとかそういうのはないし、別に君を恨んでることなんてないよ」


「……」


 恨んでないよ、という言葉に、恨まれ続けてきた黒竜の瞳は微かに揺れた。


「それに僕は生きたいんだ。恨み云々は置いといて、今は死にたくないんだ」


「……生きたい、か」


 少しばかりファフニールが逡巡している気配がした。

 生きたい。

 その真っ直ぐで単純な言葉が、長い時を孤独に過ごしてきた黒竜の心のどこかに触れたらしい。




「……生きたいか……そうか……」


 繰り返すような呟き。

 ギーグにはその言葉が、そういうこともあるだろうな、という言い方に聞こえた。

 どうにもこの年老いた竜は、死ぬ寸前になって、色々と物思いに耽っているらしかった。


 ならばせめて呪いからは楽にしてやろう、と魔剣を手に握って抜き取る。剣はあっさりと抜き取ることができた。

 その行いに、黒竜は「な……」と驚きを隠せない様子であった。


「貴様……何故、魔剣グラムを抜いたのだ……。刺したままにしておけば、我を余念なく殺せたものを……」


「どうせそんなに弱ってるなら一緒だよ……ってのは嘘だけど。でもこれで呪いの責苦からは解放されたんじゃないか?」


 年老いた竜は戸惑っていたが、ギーグは特に何も考えていなかった。

 一人ぼっちで苦しみ続けてきた竜を助けた。それはただ単にそれだけのこと。はぐれものの竜を呪いから助けた、はぐれもののゴブリンの気まぐれなお話。




「……貴様は」


「あれ、僕何かやっちゃった?」


「……。【抱擁するもの(Fáfnir)】」


「?」




 黒竜の身体がうっすらと光った。

 体には不思議な紋様が浮かび上がっており、その黒竜の全てを呪術として書き表していた。

 真名を名乗ることは、時にこのような神秘を見せることにもつながる。ギーグにはそれを全部読み解くことはできなかったが、それでもこの黒竜のことが少しだけ理解できるような気がした。




「【抱擁するもの(Fáfnir)】、我の真名だ。数ある財宝を抱えて、毒と死を撒き散らす魔物になれ果てて、今に至る。……好きにしろ」






 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 こうして、弱虫なゴブリンの少年と、独りぼっちの年老いた竜は、お互いに契約者になりました。


 ゴブリンの少年の体には、竜の契約者を意味する刻印が浮かび上がりました。

 刻印の名は『竜を従えしもの』。

 それは、今までどのゴブリンも授かったことのない、最大級の名誉の証でもありました。


 かくして、二人の冒険は始まるのでした。




 ――ネリーネ・スィレナ著『小さなゴブリンの物語』より抜粋。


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