朝倉マリノの、全然ロマンチックじゃない七夕の出会い
朝倉マリノが高校二年生に進学して、数ヶ月たった梅雨明けのある日の朝。
その日のはじまりは最悪といってよいものだった。
マリノは普段占いを信じるたちではなかったが、今朝のニュース番組の合間にある12星座占いが最下位だったことを思いだし、今日ばかりは信じざるおえなかった。ただそれにしたって限度はある。
登校するために電車に乗ろうと駅にむかい、改札前で定期のはいった財布を自室に忘れていることに気づき、さらに家に急いでもどったまではいいが、ドアノブに手をかけたとき、家の鍵は財布と同じところに置いていたことを思い出したからだった。
これにはマリノも深いため息をつくはめになった。
それから唯一もっていた携帯電話で、共働きの母と教師に連絡して午後から学校に出席することになった。なにせサボりをしようにも財布もない、家にももどれないときた。それにそこそこ真面目な学生であるマリノには、サボリという行為にいささかの抵抗がある。
とはいえ家から学校までは距離がはなれており電車を乗りついで30分、歩いていけば1時間ちょっとはかかる。目じりには涙こそ浮かばないものの、マリノは本当に惨めな気持ちになっていた。
マリノは10分ほど扉のまえで落ち込んで、なんとか自分の気持ちを切りかえた。
足はもう学校に向かって歩み始めていた。
そこまでの過程はよかったのだが、マリノが10数分ほど歩道を歩いていると、さきほどまで晴天だった空は急に曇りはじめ、ポツポツと小ぶりの雨が降ってきた。
しかも雨はしだいに強くなり、ついには傘なしでは一歩もまえに進めないほどのゲリラ豪雨に様変わりしていた。
(なんてツイていないのだろう)
学生鞄を傘がわりに、マリノは小走りに雨宿りできるところにむかった。
目的地は自宅と学校のちょうど中間にある、公民館の屋根のある玄関口だった。
この公民館は一階の玄関口からすぐ体育館につながっており、子供のころは日曜日になると父と母とよく遊びにいった場所でもあった。マリノはそのときの記憶をたよりに避難場所を選んだ。
「はぁ、一年に一度くらいはこういう日もあるよね」
マリノはハンカチで顔を拭いて、一息つこうと公民館の玄関口のベンチに座った。
雨でビショビショになったこの姿で公民館の中に入るのははばかられるし、空色の具合から数分もすればすぐに雨がやむことは検討がついた。
だがこの一時の安息はマリノを冷静にさせ、口から改めて深いため息がこぼれた。
じめじめとした湿気と自分に向けた嘆息は、自業自得とはいえアンニョイな気分に陥った。しかも制服はぐっしょりと濡れ、襟の部分はよれよれに所在なさげになっていた。
「あれ、朝倉さん?」
マリノが天をあおぎ雨雲を眺めていると、聞き覚えのない声で呼びかけられた。声のほうを振り向くとやはり見覚えないの男子だった。
長い黒髪とは対照的な色素のうすい白いはだで、身奇麗で、中性的な整った顔は微笑をたたえていた。ひ弱と言うよりも、ふれたら砕けそうなガラス細工のような儚い印象の男の子。
自分の学校の制服と同じ服を着ているところをみると、雨水に滴るこの人物はクラスメートらしい。だが、4月にクラスが変わってから一度も話をしたことはないはずなのだ。
「あ、えっと。ごめんなさい。私、人の顔を覚えるの苦手だから……」
「いや朝倉さんのせいじゃないよ。僕はクラスメートの宗形。よく保健室にいってるから覚えてないよね。自己紹介のときも、病院に行っててあいさつしなかったし」
と、マリノの慌てた返事も目の前の彼にすっかりいなされた。
「宗形……ああ、宗形くんか」
宗形という苗字でようやくマリノは心当たりを一つ思いだした。
宗形はいつも保健室に行っている男子生徒で、教師はなにかしら気をつかっていた。が、それ以上のことはマリノはしらなかった。
彼が重い病気であるとか、そういう事情についてクラスメートから情報がまわってこないせいもある。
彼はいつもクラスで孤立していた。
それはべつにイジメられているわけではない。温和でなにごとにもあっさり返事をする普通の受け答えができる人物だとマリノは認識していた。
ただ同時に彼の醸し出す雰囲気が、なんというか近寄りがたかったということも思いだした。ミステリアスで超絶としていて、まるで美しい西洋絵画からでてきたような別次元の人間だった。であるのにあまり人の印象はのからない。
その場にいるのだか、いないのだかよくわからない人物、それが彼の印象だった。
「で、宗形くんはどうしてここに?」
「雨宿りだよ。登校中に雨が降ってきちゃってね。その様子をみると朝倉さんもおなじみたいだね」
「うん、おたがいついてないね。宗像君も座ったら?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
水びたしのワイシャツのはしを雑巾のように絞り、宗形はマリノに触れないよう反対側のベンチのすみに座った。それは遠慮だったり、おたがいの距離感を表しているのかもしれない。そんなことをマリノはうすぼんやりと考えていた。
「そういえばさ今日は七夕だったね。こんな天気になって残念だよ」
宗形の言葉のニュアンスには、残念といった負の感情はこもっていないようにマリノには感じた。今の状況をどこか楽しんでいるのではないか。そう思わせる不思議さと魅力があった。
「確かに。七夕なのにツイてないかも」
「きっとツイてない僕らのかわりに、彦星と織姫はよろしく会ってるころだろうね」
「七夕か……」
今日は7月7日。
マリノはそのことをすっかり忘れていた。
子供のころはいつも七夕が楽しみで、短冊にお小遣いをふやしてくださいとか俗な願いことを書いたりもした。それに彦星と織姫が一年に一度天の川でしかあえないという物語をロマンチックだなと、童心ながら思ったりもした。
だがいまはどうだろう。
七夕を迎えたとしてもなにか特別な日だとは思えなかった。携帯越しに日時を確認しても、ああ、そうだったね、と過去の出来事が通りすぎていくようにかんじるだけだった。
子供のころみたいに自宅で短冊と笹を用意することもないし、パーティを開くこともない。
それに今彦星と織姫の関係を考え直してみると、とてもロマンチックだとはおもえなかった。
一年も会えないのでは、きっとお互い気持ちが冷めてしまうに違いない。
一年越しでしか気持ちを確認出来ないような関係は、それはきっと別の恋がみつかるまでの心の保険でしかないのだろう。そして自分が織姫だったらきっとそう感じる。
心のうちに、確信めいた冷めた感情があった。
損得ばかりで考える、つまらない大人になりつつあるなとマリノは自嘲して、このままそういう大人になるのは、しこりが残るように思えた。
「あ、もう一時間目始まっちゃったね」
彼が左手の腕時計を見ながらそういった。
「ねぇ、学校サボっちゃおっか」
「驚いた。朝倉さんの口からそんな言葉が出るなんて」
本当に驚いたのかどうか分からない口調の宗形と比べ、マリノの方があっと口をあけた表情をしていた。
サボりなんて今まで一度もした事はないし、財布も忘れていたことをマリノは思いだした。
だから今のサボリ発言はとりやめてもいいだろうか。
そう付け足すには少しばかりの気恥ずかしさが勝りマリノは黙っていた。
マリノが沈黙していると、宗形はやはりよくわからない笑顔を彼女に向けてきた。
「いいよ。僕も朝倉さんに同意見だ。きっと君がいわなかったら、僕の方から誘ったから」
また意外な言葉が返ってきた。
「またどうして?」
「だってこんな偶然あるかい?公民館の前で雨宿りしていたら、同じクラスメートと偶然ばったりあうなんてこと、これはもう学校で勉学に励むどころじゃないよ。しかも今日は七夕だ。きっと今日は全力でサボって遊べってお天道様がいってるんだよ」
「ねぇ、へんなこと聞くようだけど、宗形君って運命の出逢いとか信じる?」
「まさか。信じないね」
「いいね、グッド」
今日2人がであったのはただの偶然で運命でもなんでもない。
例えばサイコロを3回振って3回とも一の目が出るような、そんな偶然だ。マリノは2人の出会いをそう結論付けた。
気づけば雨はやみ、曇天の空には薄明がこぼれていた。
公民館の段差をくだり、歩道の前でマリノは両手を脇に置き、ひとつ背伸びをした。
なんとなく、気持ちは晴れやかだった。
雨上がりの空気は澄み、二人の目の前には瑞々しい世界が広がっていた。
「よし、じゃあ行こうか」
「そういえば、行き先は?」
「決まってない。しいていえば、ここではないどこかだよ」
全く、調子のいい男だ。
マリノが心の中で毒づくうちに、宗形は学生鞄を片手に自分の横に並んだ。
それから二人は、あてもなく歩き始めた。
意味のない行動はなんとなくマリノに青春を感じさせた。
二人の関係は、この日だけの特別で奇妙な関係だった。
きっと明日になったら宗形君とはまた一言もしゃべらない、赤の他人同士に戻るのだろう。
マリノはそんな気がしていた。
マリノはふと、今朝の占いを思い出していた。
『運勢は最悪だが、ただし素敵な出会いがある』
そしてそのことを思い出して、すぐに忘れた。