葛藤
「彩、起きなさい。遅刻するわよ!」
下から母の声が聞こえる。目を擦りなが時計の針を見たときは既に8時をまわっていた。いつもならこんなに遅くまで寝ていることはないのに。彩は渋々体を起こした。
学校なんてもう行きたくない。彩はそう思っていた。だってあそこはあやを失った場所だから。あやがいなくなってから既に2週間が経つが未だに戻ってくる気配はない。あやは完全に消えてしまった。彩にとって学校とはもはや忌むべき場所となってしまった。
「早くしなさい。ご飯できてるわよ!」
下にいる母の声はますます大きくなっていった。これ以上無視し続ければ今度は部屋に怒鳴り込んでくるかもしれない。仕方なく彩は階段を降りて食卓へ向かった。
「もう、自分で起きてよね。前までは1人でできてたでしょ?」
母はそう言うが彩にはどこ吹く風のようだった。前までは起こしてくれる人がいたのに今はいないのだが、そんな事をいちいち説明するつもりもなかった。どうせ誰も信じてくれないのだから。
「納豆は?」
彩はぶっきらぼうにそう尋ねた。
「冷蔵庫にあるけど、あなたそんなに納豆好きだっけ?それにおかずは足りているでしょ?」
「別に……」
そう言って彩は冷蔵庫に納豆を取りに席をたった。冷蔵庫には『彩』と書かれた納豆が山積みになっていた。納豆なんてプリンのように誰かに食べられるものでもないが、それでも彩はそれを自分で用意した。
「変な子ねー」
母が不思議がるのも無理はない。あやを失ってから納豆を毎日食べるのが彩の日課になった。理由は単純であやが納豆が苦手だったからだ。あやがこの納豆地獄に耐えられるはずがない。そう考えて彩は納豆を食べ続けている。まだ、完全にあやを失った訳ではない。きっと私のどこかでいるはずだと彩は考えていた。
あやを失った彩矢の心の傷は計り知れなかった。あの転倒事故のあと彩は病院に連れていかれたが、特に目立った外傷もなく脳に異常も見られなかった。しかしあやがいなくなったことは彩以外誰も気づいていなかった。
彩は必死にもう1度診察して欲しいと頼み込んだが何度診察したところで結果は変わらなかった。
「そんな、だってあやがいなくなったの何も異常がないなんて……ならあやは何処に行ったの?あやを返してよ!」
彩は1人病院で泣き喚いた。医者には一時的な感情の高まりといわれたがそんなんじゃない。その日は彩の慟哭が院内に響き渡った。
学校についてからも彩は以前のように他の子と深い関わりを持たなくなった。せっかくできた友達ともあまり会話しなくなった。
「彩ちゃんまだ、賢介君のこと起こってるの?賢介君もちゃんと謝ってたじゃない。許してあげようよ」
「別に怒ってなんかないよ」
「嘘だー彩ちゃんあれ以来全く口を聞いてないじゃない」
「怒ってないって言ってるでしょ!」
「そんなに強く言わないでよ」
「ごめん」
友達は大切にしましょう。それがあやの決まり文句だった。あやの言葉がなければ彩は完全に塞ぎ込んでいただろう。そうならなかったのはあやのおかげだ。あやと共に過ごして友達をがんばって作った思い出をあやと過ごした日々を忘れたくはなかった。
(あやの馬鹿。帰って来ても絶対許さないんだから、お仕置きに納豆にキムチにオクラにそれから色々混ぜてやるんだから……嘘。そんな事しないからだから早く帰って来て)
彩は既に限界だ。物事は時間が解決するという人もいるが、それは大人の勝手な意見だ。現に彩は苦しんでいる。あやを失ってからというものあやの事を忘れたことはなかった。
学校が終わるとやることもないのでいつもまっすぐ家に帰る。家に帰る道では必ず。
(今日はね。テストで67点だったの微妙よね。あやがいればもっといい点とれたのになー、他にもね……)
こうして話しかけていればあやがふと戻ってくる気がした。だから返事がなくても彩は話し続けた。そうしているうちに家の前に着いていた。
今日は何だか疲れた気がする早く寝よ。その日は特に何もしていないはずなのにやたらと体が重く気分も優れなかった。夕食を食べ終わった彩は直ぐに部屋に戻り眠りについた。
夢の中だろうか?もやもやした空間の中に彩は立っていた。しかし空間の境界線がはっきりしない中でも目の前に少年が立っているのは直ぐにわかった。
その少年の顔は回りのもやもやした空間とは対照的にはっきりと浮かび上がっており、どことなく上品さが見受けられた。年は自分と同じくらいだろうか?初めて会ったはずなのに何故か他人の気がしなかった。
「あなたは誰?」
「ぼく?ぼくの名前はエスだよ」
少年はそう答えた。
「君は今誰か探している人がいないかな?」
「何か知ってるの!お願い教えて!」
少年のその質問にとっさに彩はそう答えた。少年のことは知らないかったが、その少年の言葉の探している人の意味があやのことだと彩は信じて疑わなかった。
「いいよ。でも本当にいいのかな?真実を知ってもぼくは責任取らないよ」
「どうしてそんな事言うの?私があやを拒む訳ないじゃない」
「本当に?なら大丈夫だよね。例え君があやを殺していたとしてもね」
少年は笑顔でそう呟いた。
「どういうこと?そんな私はあやを殺してなんかいない、だってあれは事故で……」
「違う違う僕が言っているのはサッカーボールに当たって転んだことなんかじゃないよ、君も思い出しているんだろ?そうだよ。あの交通事故のことさ」
交通事故と聞いて真っ先に気を失っていた時に見た光景が思い起こされた。あの時、車に引かれそうになった私を助けてくれた人がいた。ずっと夢だと思ってたがあれは本当にあったことなのだろうか?あの日の記憶を彩は少しだけ思い出した。
「まさか!あの人が」
「そうだよあの君を助けた女の人こそが正真正銘あやなのさ」
「そんな、私は……」
「辛かったろうねーあやは。だって考えてみてよ。自分を殺した人と一緒に生活していたんだから。ぼくだったらどうしようかな?君に復讐しちゃうかも」
「嘘よ、だってあやは記憶ないって言ってたもん」
「確かに無かったのかもね。あの時はね。でもさ、おかしいよね。君はこうして記憶が甦ったのにどうしてあやだけ記憶が甦らないと思っているの?」
まさか、あの時あやも一緒に同じ光景を見ていたのか?それならあやが記憶の甦っていても納得できる。そしてきっと私の事を嫌いになっちゃったんだ。
「あやならその扉の向こうにいるよ。早く行ってあげなよ」
そう少年が言うと今までそこに無かったはずの扉が出現した。その扉は厳重でまがまがしい雰囲気を醸し出していた。あれは絶対にヤバイと彩は直感でそう感じた。
「嫌!」
「どうして?ずっと会いたかったんでしょ?君さっきと言ってること矛盾してるよ」
「嫌よ!」
あまりに唐突過ぎて彩は自分の気持ちの整理がつけずにいた。自分が殺した相手に、今更どんな顔であやに会えっていうのだろうか?知らなかったで許される話ではない。彩はなかなか先に踏み込めずにいた。
そんな時だった。
「彩さん。どうして会いに来てくれないんですか?私ずっと待ってました。彩さん早く会いに来て下さい」
あやの声が聞こえた。それは彩がずっと待ち焦がれたもののはずなのに、今はとてもそんなことを考えられない。今は再会する喜びより、恐怖の感情の方が大きい。彩は自然と後退りをしていた。
その時扉勝手に開き、そこから無数の手のようなものができた。そしてその手はがっちりと彩の四肢をつかんだ。
一瞬何が起きたか理解出来なかったが、その手は明らかにこの世のものではない形をしていた。そして彩を無理矢理扉の方へ手繰り寄せてきた。
扉の方へ、あやの方へ引き摺り込まれる。彩はそう思った。
「嫌、放して」
「早くこっちに来て下さい。私寂しいです。だって私を殺したあなたがずっと生きているんだからだから私と一緒に逝きましょうよ」
扉の奥から見えた顔は確かにあのとき見たあやの顔だった。しかし彩がその扉へ近づくにつれ、あやの顔はどんどん変化していった。
顔から鮮血が流れ始め、次第にあやの顔が真っ赤に染まっていった。次の瞬間あやの体はあり得ない方向に曲がってしまった。普通の人間なら絶対に曲がらない方に。やがて立っているとさえできなくなりあやは地面に這いつくばった。それでも顔はこちらを向いている。とうとう目玉までもこぼれて落ちてしまった。それでも、こちらが見えてないはずなのに顔だけはこちらを向けてくる。
「痛い、痛いよ。彩さん。助けてください」
その姿はもはや人のもではなかった。
「お願いやめて。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「だーめ。私はあなたを許さない」
その言葉が引き金だったのか、まるでゴムが切れたように先ほどとは比べ物にならない力で彩の体は扉の方へ引き摺り込また。
「いやーーー」
その瞬間彩の目が覚めた。
気がつくと。パジャマ全体にびっしりと汗をかいていた。心臓は今でもどくっどくっと早い鼓動を続けている。
生きている。それが最初に思った思ったことだった。自分は悪い夢を見ていたのか?しかし彩にはあれがただの夢だとは思えなかった。そして激しい自己嫌悪が始まった。
「ごめんね、あや。私自分勝手だよね。あやに会いたいとずっと思ってた。だけど私は……私は……」
あの事故は間違いなく起きてしまったもの、その事は彩もはっきりと思い出した。あの時あやは私を助けてくれた。私があそこにいなかったらあやは死ななかった。その先のことはわからないけどあやの体はきっとあんな風にぐちゃぐちゃになっちゃったんだ。私があやを殺しちゃったんだ。
あの時は逃げてしまった。自分を助けてくれたあやをあそこに置き去りにしてしまった。きっとあやは今もあそこで苦しみ続けているに違いない。なら私にできることは1つしかない。
ごめんねあや、私あやを裏切った。私があやを助けなきゃいけなかったのに怖くなって逃げちゃったの。でも信じて私があやのと嫌いになったんじゃない。あやはずっと私の側にいてくれたのに。
そこで彩は決心した。
「待っててあや。今そっちにいくから」
彩はベッドから跳び起きると、着替えてから台所に向かった。そこから適当な包丁を見つけて服の下に隠した。
そして家を出ていく前に両親に置き手紙を残した。手紙を書くとき何度も涙でだめにしてしまった。自分が今からしようとしていることを考えると今でも怖じ気づきそうになった。それでも彩は手紙を書くことを止めなかった。
『お父さん、お母さんいつも迷惑かけてごめんなさい。私は大切な人を殺してしまいました。だから私も死にます。今までありがとうございました』
そして彩はまだ明けもしない夜の闇へと消えて行った。




