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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第2章 始まりと終わりの日
9/24

4

 強大な魔力を持ち、この世に恐怖と絶望を撒き散らすべく、異次元の扉の彼方から、そいつは近づきつつあった。

 その接近の予兆が、強い振動を伴って地上にもたらされているのである。

「――来た!」

 優子が歓喜の声を上げる。

 一瞬、大地のうねりが最高潮に達した。そのとき――もの凄い音を立ててグラウンドが裂け始めた。

 四人は、グラウンドの隅にそれぞれ離れ、次に生じた光景を様々な思いで見つめていた。

 優子が描いた巨大な魔法円の中心を起点として、葉脈が如き亀裂が四方八方に伸びて、広がっていく。それは、妖たちの足許にまで及んだ。

 何か長大な存在が大地の下で蠢き、岩盤を持ち上げようとしていた。やがて傾いた岩盤の隙間から妖光が洩れ出すと、それは大地を押しのけ、ついにその姿を現し始めた。

 凄まじい妖気が奔流と化して、それの周りから噴き上がっている。それに感応したか、グラウンドばかりか学校中、そして空中をも埋めつくさんとする低級妖魔どもが、ぎゃあぎゃあと恐怖と興奮に騒ぎ始めた。

 妖は、期待に喉を鳴らした。

 不思議なことに、彼の全身は喜びに打ち震えていた。血が騒いでいるのである。眼前に姿を現し始めた巨大な存在に対して、妖はこのとき恐怖を感じてはいなかった。

 より強い敵と戦えるという、胸をわくわくさせる予感。この感覚は、優子のものとも、玲花のものとも異なっていた。

 優子は純粋に、役目を果たした彼女への魔王からの報酬を期待し、玲花は人間らしく恐怖に全身を縛られていた。

 そいつは、まばゆい黄金色の光を放って、大地の中――魔法円の向こう側から顔をもたげていた。

 龍である!

 黄金の光に包まれたその長大な胴体、光の中にあって燃え続ける紅玉のような、赤光を帯びた双眸。

 まさしく、龍であった。

 龍が、背中に生えた大きな翼を動かし、妖風を巻き起こして天を目指す。

 優子による結界はすでになかったのか、それとも龍の持つ魔力が結界自体を無力なものにしたのか、ひっそりとした古都の街の上空に、重く垂れ込めた嵐雲めがけて、光の龍が駆け上っていく。

 それは、幻想的な光景であった。

 暗黒の空へ龍が吸い込まれていき、やがてその姿が雲の中へ完全に没し見えなくなったとき――

 カッ!

 と、雲を貫いて鋭い光が無数に地表に突き刺さった。地上に伸びた光のせいか、嵐を起こしていた雲が、たちまちのうちに吹き払われていく。

 龍が消えた辺りを中心にして、雲が円状に払われて、やがて光はおさまった。

 降り注ぐ月光の中、煌々と輝く雄大な姿が、空中から地上を見下ろしていた。

「――邪龍顕現、か」

 感心したように妖は呟くと、何を思ったのか、突如右腕を動かした。

 その刹那、龍の双眸がギラリと光り、耳をつんざくような鳴き声を放った。

 窓ガラスが砕け散る音が、数え切れないほど連続して起こり、その破片が顔や喉、胸に突き刺さって死んだ人が、その一瞬で何百人と出た。そればかりか「何事だ!?」と表へ飛び足してきた人々も、龍の姿を見、その眼の邪悪な光を見た途端、頭が()ぜ、脳奬を撒き散らして死んだ。

 この短い時間で、死者はゆうに一千人をこえていたのである。

「…ああ」

 玲花は、茫然とその光景を〝()〟ていた。

 妖は、邪龍のこの攻撃を予感したために、圭一と玲花を包むようにして、自分の周りに結界を張っていたのである。

 あちこちで火の手が上がり、人々が叫喚地獄へ叩き落とされていく。その様子が、手に取るようにわかる。

 天空を見上げた妖の切れ長の眼が、スッと細くなった。龍の放つ光の中から、二つの小さな光が分離するのを見たからだ。

 なんだ――?

 分離した二つの光――一つはこの近くに、もう一つは少し離れた、龍の被害を受けていない辺りに落ちた。

 いや、降りたと言うべきか。

「なんだ、あの光は…?」

 妖は、心の中で呟いていた。

 美貌から翳りが消え、笑みが浮かんだのはその直後のことである。

「ふふふ。龍が降りてくるぜ、玲花」

 ついに来たか、といった口調である。

 妖の言葉通り、空中に浮遊を続けていた邪龍が、降下のために体を動かし始めたのである。

 漆黒のローブをまとった優子は、妖たちから少し離れたところに立ち、魔界侯爵の到着を待っていた。


 龍から分離した光のうちの一つは、龍を見て爆死した一人の人間の胸の上で光っていた。

 明滅し始め、やがて光は、頭部のない死体の胸の中へ潜行を開始した。

 奇蹟が、いや、涜神とも言える奇蹟が生じた。血の海に沈んだ筈の死体が、ピクッと指を動かしたのである。

 むくり、と上体を起こす。

 血の大半が失われているため、全身の色は確かに死人のものだ。しかし、その胸は力強く上下している。

 ゴボッ。

 そのとき、首から血泡があふれ出た。

 何か、丸いものが、体内から出ようとしているのだ。

 肉を押しのけ、黒いものが姿を見せた。

 頭…?

 そう、髪の毛につづくそれは、まさしく何者かの頭部であった。

 何者か――それは、先程死体に吸い込まれるように消えていった光そのものであった。

 やがて全貌が明らかになると、血と脂肪と肉片にまみれ、ぬらぬらと光る頭部は、すぐに胴体と完全な融合を遂げた。

 まるで、最初からその頭部が身体につながっていたかのように。

 その結果に満足でもしたのか、どす黒い顔が、ニヤリともの凄い笑みを浮かべる。

「この男の肉体、なかなかのものだ。使命を果たして戻るまで、使わせてもらうとしよう」

 男は呟くと、決して人間のものではあり得ない凶光を放つ眼で辺りを見回した。

 街灯や家の明かりのない暗闇でも、男はものを見ることが出来るようだ。

 自分の周りに、無数の死体があるのが見えた。

 路上にも、そして家の中にも…。

「侯爵様が、わざわざ造って下さった道具だ。死人男爵ファレスの名に恥じぬ働きをしてもらうとしよう」

 男――ファレスは眼を閉じた。

「死人男爵ファレスの名において命じる。魂を失いし肉体よ、我が意のままに動け」

 それは、恐るべき命令であった。

 だが、その命令は静かに実行されたのである。

 まるで糸で操られるマリオネットのように、周囲に散らばる死体が起き上がり、死人男爵のもとへと集まりつつあった。

 一方――

 龍から離れて先に地上に降りたもう一つの光は、地表近くになると人の形を取った。

 漆黒のインバネスを翻し、彼は音もなく地上に舞い降りた。

 長髪の、美しい男であった。

 黒い髪は、すらりとした長身の肩にかかるほど伸ばされ、肌の色は青みを伴うほどに白かった。

 彼は、侯爵の降臨した高校から相当離れた住宅地を歩いていた。この辺りまでは被害は及んでいないようだ。

 やがて、ある建て売り住宅のそばを通りかかったとき、彼は足を止めた。

 カーテンを開けたままの二階の窓から、深夜近いというのに、机に向かう少女の姿が見えたのである。

 男の美貌が歪む。

 そう、まぎれもない歓喜に。

 そのとき、真紅の唇が割れて、あれが覗いた。

 血の渇きを訴える、乱杭歯が。

 美青年が宙に舞った。

 双眸は黄金色に輝き、背中からはインバネスを押しのけて、蝙蝠の翼が生えていた。

 少女が外の妖しい気配に気づいたとき、窓には吸血鬼の邪眼が光り、彼女を金縛りにした。

 そして、少女の手が窓を自ら開け、吸血鬼の狂った牙にその白い喉を差し出すまで、時はそれほど残されていなかった。


 空中の邪龍の巨体が大きく、ぐうっとうねり、猛烈な勢いをもって大地に落下した。

 正確には、魔法円の中心に頭から急降下し、激突寸前に別の姿に変身したのである。変身は一瞬のうちに行われた。白光が爆発しているうちに。

 その光が急速に消え、妖たちが眼をかばった手を下ろしたとき、魔法円の中央に――無数に走った亀裂の起点に、一人の男が立っていた。

 爬虫類のような双眸を持つ男――

「魔界侯爵フェノメネウス、か――」

 妖の声は、そして全身は、歓喜に打ち震えていた。

 眼前にただ佇むだけの人影を中心にして、もの凄い妖気が渦を巻いている。龍身のときと同レベルのエネルギーを、この人影は奔出しているのである。常人が浴びれば一秒とかからずに生体エネルギーを根こそぎ奪われ、衰弱死しかねないほどの妖気であった。

 それなのに、妖は平然としているばかりか、喜びすら感じているのである。この胸の高鳴りは、魔人たちと全力をもって戦わねば、おさまりそうになかった。

 龍が飛び出したために、グラウンドは滅茶苦茶な状態になっていた。あるいは隆起し、あるいは裂け、無惨な傷跡をさらしているのであった。

 しかし、魔法円だけは、依然としてもとの姿のまま、そこにあった。

 魔界侯爵フェノメネウスは、魔法円の中心に立っていた。そこで、図形を隔てた向こう側に広がる暗黒の世界から、妖気を吸収しているのだ。

 不気味な光を帯びた爬虫類の如き双眸を、侯爵は五芒星型の外側で(ひざまづ)く少女に向けた。

「――神の施した七つの封印を解き、我を呼んだのは、お前か?」

「はい」

 優子は答えた。

「前世での名を、ランバートと申します。前世からの契約――私の死の間際の言葉に従い、己が役目を果たし終えました」

「ふむ。女の姿をしておるが、確かに、あの男の波動を感じる。――我等悪魔の解放、ご苦労であった」

 フェノメネウスの言葉に、優子は返事をしなかった。いや、恐縮しきっていて、返事どころではなかったのである。

 魔界侯爵は、ゾッとするような薄い笑みを浮かべた。

「――まあいい。私のそばに来い。お前も、魔界貴族に加えてやろう」

 この言葉には、さすがに弾かれたように優子は顔を上げた。

「ま、まことで、ございますか…?」

 声が震えている。

「無論だ。お前は封印を解き、大魔王復活に向けて大きな一歩を我等に与えたのだ。サタン様も、大いにお喜びだ。――さ、ここへ来い。あとで伯爵より位を授かるといい。――奴の妻としてな」

「は、はい!」

 優子は、夢幻境をさまよっているような足取りで、侯爵のもとへ歩き出していた。

 思ってもいなかったことになったからだ。

 それなりの報酬はあるだろうと思ってはいたが、まさか『伯爵』の妻とは。

 優子が、侯爵と妖たちとの距離の半ばにさしかかろうとしたとき、

「ちょっと待ったぁ!」

 と声がかかった。

 その声で我に返った優子が、肩ごしに声の主を振り返る。

 魔界侯爵の蛇の眼が、ギロリと動く。

 美貌の若者が、にやにや笑いながら、二人を見ていた。

「その()は、渡さないよ」

 妖はそう言うと、無造作に歩き出した。

 優子ではなく、侯爵に向けて。

「渡さぬとな? ――では、どうする気だ。すでにこの(むすめ)は魔の波動を放ち始めておる。今さら人間には戻れぬよ」

「だからと言って、目の前で魔界に連れて行かれようとしているのを、このまま見過ごすわけにも行かないのさ」

「この娘自身が、それを望んでいるのだぞ? わからぬものだな、人間という奴は。まあいい。――ならば、連れ戻したくば、私に勝つがいい」

 侯爵がニヤリと笑った瞬間、妖の姿がかすんだ。

 疾駆に移ったのである。

「――ぬぅ」

 侯爵が呻いた。

 一瞬で間合いをつめた妖が、フェノメネウスの側頭部めがけて、ハイ・キックを放ったのである。

 あまりの速さのために、風のうねりとしか思えなかった蹴りを腕で受けられたのは、彼が魔界貴族だったからだ。

「ありゃりゃ」

 まさか受け止められるとは思っていなかったのだろう、妖が間抜けな声を出す。

「これだけか、人間」

 今度は、侯爵の番だった。間合いを取った妖の腹に向けて、強烈なブロウを叩き込んだのだ。

「わ――」

 強烈な妖気を巻いた拳に吹っ飛ばされた妖は、玲花のすぐそばの壁に思い切り叩きつけられた。

 ぐぅと呻き、地面に倒れる妖に、侯爵が嗤いかける。

「あまり、私を見くびってもらっては困るな」

 しかし、その嗤いが凍りついたのは、その一瞬後だった。

 全く何事もなかったかのように、妖が平然と立ち上がったのである。

 信じられないことであった。侯爵は、パンチを放ったときに、同時に妖気を相手の体内に流し込んでいる。

 魔界侯爵の気を腹腔に溜めたまま立ち上がるなど、人間には不可能なことだ。たとえ超能力を持った、常人を超えた人間であっても。

「馬鹿な――。貴様、何者だ?」

 侯爵の声が、グラウンド中に響き渡る。

 いつの間にか、周りにいた無数の低級妖魔が姿を消していた。誰もが侯爵に眼を奪われていたので、気がつかなかったのだ。

 もしかしたら、その獲物を求めて京都の街を徘徊しているのかも知れない。だが、今はそれどころではなかったのだ。

「ようやくその質問が来たか。普通は、最初にするもんだぜ」

 妖は、薄笑いを浮かべて言い返した。

「しようと思ったら、貴様が蹴りかかって来たのでね、出来なかったのだよ」

「なるほど。それは気づかなかったよ。――では、質問に答えてやろう。妖――あやかしと書く。以後見知りおいてくれたまえ、フェノメナ君」

 どこかの大企業の社長みたいな口調で、わざと名前を間違えていったあと、妖はわははと笑った。

「ふざけた男だな、貴様は」

 侯爵の顔が引き吊っていた。

 妖が挑発しているのは明らかだった。ここで激昂してしまえば、それこそ奴の思うつぼだろう。

「もう一度、殴り飛ばされたいのか?」

「――やれるかな?」

「何?」

「さっきのパンチで、あんたもハッタリじゃないことはわかった。――だが、俺もそうだ。そう簡単にはやられはしない」

「クク。おもしろいな、妖とやら。それほど私とやり合いたいのなら、私の部下を倒してから来るがいい」

「部下――?」

 妖が眉根を寄せて呟く。

「部下も来ているというのか!?」

「ああ、そうだ。――『魔人伯爵』〝凶〟と『死人男爵』〝ファレス〟の二名だ。彼等を突破して、私の所まで来い。そうすれば、相手をしてやろう」

「偉そうな口を叩くなぁ。――何処にいるんだ、その二人」

 わざとらしく額に手を当て、ぐるりと見回したあと、妖は大げさに言った。

「いないじゃないか」

「いるさ。気づいているのだろう?――すでに二人はこの街の何処かに降り立っているよ」

 やはり、あの光か。

 どうやら、妖の表情で何が言いたいのか察したらしく、侯爵は、その通りだと言った。

「はやく二人を見つけて(たお)さないと、この街は崩壊するぞ。――まぁ、見つけたところで、どうにもならんだろうがな」

 フェノメネウスの言う通りだった。

 相手は確かに魔界侯爵よりも弱い。遥かに弱い。だが、それでも魔界貴族だ。称号を与えられぬ妖魔とは、魔力の差が天と地ほどもある。それが二人もいる。

「無理かも知れないが、やってみるしかないだろう?――それが、俺たちの仕事さ」

「クク。妖よ、我々と手を組まぬか? 貴様の能力、我等の魔力とよく似ておる。封印が解けた今、人間どもに生き延びるチャンスはない。――どうだ?」

「ほほう。報酬はなんだ?」

「お前の望みのままに、妖」

 侯爵が唇の端を吊り上げて笑った。

「――俺が欲しいのは、記憶だ」

「記憶、だと?」

 どうやら、妖のこの望みは予想外だったようである。世界の王でも、永遠の生命でもなく、自分は何者なのかという失われた己れの過去を求めるとは。

 このとき、玲花は、妖の横顔を心配そうに見上げていた。

 魔界侯爵が出現して以来、恐怖で身体がすくんでしまっていた彼女であるが、妖が魔人と契約を結ぶか否かの会話をしているのを聞いて、別の恐怖が身体を駆け抜けたのだ。

 妖が、敵になってしまう!?

 あり得ないことだと思いたかった。

 妖とコンビを組むようになってから約三年が経つ。しかし、パワーの差がありすぎて、玲花は妖についていくことが出来ず、結果的に妖の足を引っ張ることが少なくなかった。同時に、たまに行き過ぎてしまう妖を止めることも出来ないでいた。

 それでも妖は、コンビ解消を決して言い出しはしなかった。だが、今は――

「まあね。どうだいって、冗談だよ」

 そう言うと、妖は侯爵に向かって、アカンベエをした。

 それから玲花の方を向いて、優しく笑いかける。

「びっくりしたかい?――心配することはないよ、玲花。俺は人間が好きだからね。悪魔と契約などかわさないよ」

「妖――」

 玲花は、ほっと安堵の溜め息をついた。

 心の底から明るくなった感じがする。妖が何処か、自分の手の届かぬ所へ行ってしまう感じがしていたからだ。それが完全になくなってしまったとは言えないが、今は希薄になっている。

 だけど、いつの日にか――

「強がりはよせ」

 侯爵が嘲笑うような口調で言う。

 妖は、ぷいっとそっぽを向いた。

「まあいい。この娘を取り戻したくば、伯爵と男爵を斃してこい。そのときは相手になってやろう。――いいな」

「いいよ」

 そっぽを向いたまま、妖は返答した。

「――来い、娘よ」

 侯爵の手招きに応じて、優子は再び歩き出す。そして、魔人のマントにくるまれたときも、少女の心は夢の中にあった。

 魔人伯爵の妻となれる。何という素晴らしい報酬なのか。

「どうした、娘」

 そう魔界侯爵が問うたのは、魔法円を通って亜空間に突入したときだった。

 このとき、凄まじい妖気の流れに乗って、二人はある場所へと向かっている。

「伯爵との結婚、気に食わぬのか?」

「とんでもございません。身にあまる光栄ですわ、侯爵様」

「ならば、何を浮かぬ表情(かお)をしておるのだ?」

「考え事をしていただけでございます。私が吸血姫となった後のことを」

 そう答えて、優子は侯爵の腕の中で笑った。

「おもしろい女だ」

 正直な感想を述べた後、侯爵は大声で笑った。

 その笑い声は、妖気の流れに乗って、亜空間の隅々にまで響き渡るかと見えた。

 ――

 一方、妖たちは、侯爵たちが一瞬で姿を消した後もしばし茫然と立ち尽くしていたが、サイレンの音が耳を打って、ようやく我に返った。

 結界はすでに消えている。と同時に、伯爵たちが下僕とともに活動を開始したらしい。見れば炎の舌がいくつも、暗黒の空に伸びている。その下では、さながら阿鼻叫喚地獄が展開されていることだろう。

 妖は無言で立ち尽くしている。

 今、彼の心の中で、どのような嵐が吹き荒れているのか。玲花は、ほんの少しだけわかるような気がした。

 玲花は、そばでうずくまる圭一に意識を移した。ずっと膝を抱えたままなのだ。

 圭一の肩に手を置いたとき、彼女は、少年の全身がぶるぶる震えていることに気づいた。

「安田…くん…?」

 不安げに呟く玲花の耳に、やかましいサイレンの音に混じって、呪詛のような声が聞こえてきた。

「…優子…必ず…お前を殺した奴は…必ず、殺してやる」

 玲花が、何度も名を呼び肩を揺すったにも関わらず、圭一は呟きをやめようとしなかった。

 しだいに薄ら寒くなってきた玲花は、助けを求めようと妖を振り返った。

「――!?」

 妖が唇を噛んでいた。

 それが何故だかわからず、玲花は妖の視線を追った。

 思わず、あっと声を上げてしまう。

 どうして、こんな所に――

 三人から少し離れた所に、一人の男が立っていた。神経質そうなリムレスの眼鏡をかけた男。

 きつい眼が、詰問するように冷ややかに光っている。

 秘密結社〝美槌〟の八導師の一人、星であった。

「――星…どうして、ここに?」

 玲花がそう言い終わる前に、

「とんでもないことをしでかしてくれたな、妖よ」

 星は、氷のような声を妖に放った。

 妖は無表情で、星の悪意の波動を身に受けている。また始まったか、といった心境であろう。いつか身を滅ぼすぞ。

「貴様には、魔族復活の阻止を命じておいた筈だぞ。それを、目の前で成し遂げられるとはな」

「星、それは――」

 慌てて玲花が口をはさもうとした。その命令は、玲花も八導師から受けている。妖が責められるのなら、自分もではないか。いや、自分こそが責められるべきなのだ。

「玲花は黙っていろ。私は、今、妖と話をしているのだ」

「…………」

 ああ、そうかよ。もう好きにしたらどうだといった表情の妖は、どうやら口をきく気すらなくなってきたようだ。

「四天王の位にありながら、なんてザマだ、妖」

「――星、お前、〝石版の間〟で、あのときの様子を〝視〟ていたんだろう?」

「貴様! 口を慎んだらどうだ! 私を誰だと思っている!」

 星が怒号を放つ。妖のペースにはまりつつあるのに、どうやらそのことに気づいていないようだ。

「俺はお前のような奴を指導者とは思っちゃいないよ。故に、頭を下げる気にはなれないね」

 とは口に出さず、妖はかわりにこう言った。

「――どうなんだ?」

「無論だ」

 星は冷静さを取り戻そうと、呼吸を整えながら答えた。

「それなら、阻止できなかった原因はわかる筈だ。相手は、魔界侯爵の紋章を使ったんだぜ。あれを破るのは容易じゃない」

「そうかな?」

「信じないというのか、星」

「お前ゆえに、な」

 その答えに妖は肩をすくめた。呆れているのだ。

「アホらしい。あんたと不毛な会話を交わしているヒマはないんだ」

「何処へ行く気だ、妖」

「決まってるだろ。奴等を斃しにいくのさ」

「その必要はない」

 星の声は、彼に向けられた妖の背中で、冷ややかに弾けた。

 これにはさしもの妖も驚いたらしく、見たくもない星に眼を向けてしまった。

「どういうことです、星」

 狼狽して尋ねる玲花の声が、思わず大きくなる。

「君たちは任務より外された。処分が決定するまで、次元牢にでも入っていてもらうさ」

「じゃあ、奴等はどうする気だ? 放っておくのかい?」

 妖が頭の後ろで手を組んで、気のなさそうな声で訊く。

「まさか。すでに、獅天と光炎に連絡をつけてある。二、三時間のうちに仕事を終え、こちらに来ることになっている。きみに心配してもらうまでもない」

「では、その間は、どうする気なのです!?」

「人々を守るのが、我等〝美槌〟の最終目的ではないが、死滅させる気もないのでな、八天部に出てもらうよ」

 星は、妖に嘲笑の眸子を向け、口許に笑みをたたえて言った。

「とくに妖、お前になぞ任せられんからな」

「しかし――」

 なおも食い下がる玲花を、妖は制した。

 泣きそうな表情(かお)の玲花に、妖は無言で首を横に振る。

「妖…」

 玲花が、悲しそうな声を出した。

 情けなかったのだ。一生懸命になって、妖は天魔降臨を阻止しようとした。非力な自分を何一つ責めることなく、だ。それなのに…。

「もういいよ、玲花」

「でも…」

「馬鹿には何を言っても無駄さ。俺が失敗したのをいいことに、それにつけ込んで、俺を四天王から外そうとしているのさ。そんな奴に、いや、今や能力(ちから)をなくしつつある八導師に、奴等の本当の強さは感じ取れないよ。八天部で何分保つかやってみるがいい。夜明けには、京都から生きている人間は一人もいなくなるだろうさ」

「な、何だと!」

 妖の嘲りの口調が気に障ったらしく、星が怒気に顔を歪めた。

「ま、そのときのお前の表情(かお)が楽しみだな。――行くか、玲花」

「――ん。ちょっと、待ってて」

 そう言うと、玲花は首から十字架のついたネックレスを外した。以前、妖と玲花がコンビを結成した際に、妖が彼女に贈ったものだ。

「これ、安田君にあげてくるわ」

「ああ。必要になるだろうからね」

 うんと頷くと、玲花は圭一のそばに駆け寄っていった。

 膝を抱えたままの圭一は、玲花の気配を察したのか、ぼんやりと表情を彼女に向ける。

 玲花が何事か話しかけ、少年の首にネックレスをかけてやる。

 少年が、何か玲花に話しかけている。

 それに微笑して答えた玲花が、妖の隣に戻ってきた。

「星、あんたの決定が、この京都を地獄と変えるのは間違いないだろうぜ。――俺なら、それを止められたかも知れないけどね」

「ぬかせ、妖。――全て、貴様の油断が原因なのだぞ」

 星は、空間に〝穴〟を開けた。離れた二点間を瞬時にして移動できる〝通廊〟である。これをつくることが出来るのは、八導師だけだった。

「それは、どうかな?」

 そう言い残して、妖は〝通廊〟の中に消えた。

 玲花がそれに続く。

 星の表情を一瞥することもなく。

 後には、星の呻くような声だけが残った。

「おのれ…妖、我等が配下の分際で…」

 血の滲むほどに歯ぎしりして言った。


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