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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第2章 始まりと終わりの日
8/24

3

「何者だ、貴様は――ぐ!?」

 肩越しに妖を睨みつける少女の顔に苦痛の色がよぎったのは、妖が優子の手首をそのとき強く握ったからである。

「自己紹介はあとでするよ。――それより、きみには玲花から離れてもらわないとね」

 そう言って、妖は優子の手を軽く引き、後方へ流した。それだけで、優子の肢体は妖の背後に投げ飛ばされてしまったのである。

 驚愕しながらも、優子は空中で身をひねって、見事に着地した。

 魔法円の中心――魔力の根源へ。

「大丈夫かい、玲花」

 優子を放り投げたあと、妖は顔をほんの少しひき吊らせる玲花に声をかけた。

「ど、何処に行ってたのよ、妖のバカ!」

 その剣幕に怯みもせずに、

「いやあ、パチンコに少々」

 そう言って、照れ隠しに頭をかく始末である。

「なんなのよ、それは…」

 さすがにこれには呆れ返って言葉が続かず、苦笑するしかない玲花であった。

「――本当なの?」

「さてね。――ま、俺にもいろいろと事情があるということさ。きみが置いていったメモは、希が千里眼で見、その内容を教えてくれたよ」

 希とは、八導師の一人で最年少の女性で、千里眼とテレパシー能力を身につけていた。よって、その主な担当は、四天王及び八天部への命令の伝達と、テレパシーによる会話の中継である。

「それは、いつ?」

「そうだな、だいたい、きみがマンションを出て五分後くらいじゃなかったかな」

「じゃあ、今まで何をしてたのよ」

「言ったろ、パチンコだって。――星の顔を立ててやったんだよ、これでも」

 うんざりした表情で、妖は玲花に告げた。

 星が妖に強度の嫌悪感を抱いているのは周知の事実だ。そのことが、今回も邪魔をしたのだ。つまり、玲花の能力では相手に抗しきれないとわかるまで、妖が手出しすることを禁じたのである。

 だから、希から連絡を受けてすぐに現場(ここ)に急行していれば、玲花がダメージを受けることはなかったのである。

 玲花は、天を仰いで溜め息をついた。

「――ま、そういうことさ」

「それにしては、なかなかいいタイミングで助けてくれたわね」

 星と妖の不協和音に半ば呆れながら、玲花は言った。少し、いじわるになっている。

「ふっふっふ。こんな結界、あってないようなものだからね、俺にとっては」

 胸を張って言う妖の背中に、少女の毒気が当たって弾けた。

「…こんな結界、とは、言ってくれるなぁ…。貴様、何者だ?」

 その声に妖は優子を振り返り、

「何だ、まだいたのか」

 などと神経を逆撫でするようなことを言った。

 これに、カチンとこない奴はいないだろう。何せ、今まで完璧に無視されていたのだから。

「質問に答えろ」

 もの凄い形相で、妖を睨みつける。

 吊り上がった眼は赤光を放ち、狂気に歪む唇からは真っ赤な息――妖気が洩れていた。

「ふん。お前のような魔女に名のるのもおこがましいが、そんなに聞きたいのなら教えてやらんでもない。妖という」

 どうやら、喧嘩を売っているらしい。

「綺麗な顔と声をしているのに、性格が悪いのね、妖さんは」

 言い終わると、優子はレイピアを構え直した。そのとき、微かに顔が痛みに歪んだのは、妖に握られた手首に激痛が走ったからだ。

「正直な感想ありがとう。その言葉に感謝の意を表して、次は俺がお相手をしてあげよう」

 すっと、妖は優子の正面に歩み出た。

 いつの間にか、左手はスラックスのポケットに入っている。

 雨は小降りになっていたが、風は以前にも増して強く吹いていた。

 その風の向こう――

「その女同様、一人で戦ったことを後悔させてあげるわ!」

 高々と宣言し、優子は地を蹴った。

 漆黒のローブが、急速に間合いを詰める。

 妖は不敵な笑みを浮かべたが、構えようとはせずにその場に佇んでいた。

 優子の右手の剣が、ギラリと凶光を放つ。

 玲花が瞬きし、次に眼を開いたとき、妖に走り寄る優子の姿はなかった。

 消えた!?

 そう錯覚しても仕方なかった。しかし、そうではなかった。

 妖が頭上を見上げているのに、玲花が気づいたとき、

「いいやあああ!」

 絶叫が空中で爆発した。

 風を巻いて、剣が妖の頭上目がけて振り下ろされる。

 優子は、玲花が瞬きした瞬間――偶然にも妖もしていたのだが――を狙って、宙に舞い上がったのである。

 弧を描いて走る銀光を、しかし、妖は身体の位置をわずかにずらすだけで躱していた。

「――!?」

 愕然と妖に顔を向ける優子。

 刹那、ポケットから妖の左手が引き抜かれ、その白い指が何かを弾いた。

 銀色に光る小さなそれが優子の腹にめり込んだ瞬間、彼女の小柄な肢体は後方へ吹っ飛ばされていた!

 まさか――!?

 優子は息を飲んだ。

 それをなさしめたのが、たった一個の、しかも指で弾かれただけのパチンコ玉なのだ!

 どうやら、本当にパチンコ屋に行っていたらしい。

「チイッ!?」

 何という魔力だ。

 あの女以上の、もの凄い魔力を感じる。

 優子は、唇をはっきりと笑いの形に歪める妖を、苦虫を噛み潰したような表情で睨みつけた。

 それにしても、何と邪悪な笑みだろうか。しかしそれは、妖に最も似つかわしいもののように感じられた。

 その視線は、冷ややかに優子に向けられている。

 今なお、優子はパチンコ玉に圧倒され続けていた。必死に倒れまいと両足を踏ん張り、前に進もうと試みるが、そのたびに、それ以上に強い力で数メートルほど押し戻されてしまう。

「バ、バカなぁ…」

 優子の可愛い唇から、ついに呻くような声が洩れた。

「どうした、そこまでかい?」

 妖が嘲笑うように言う。

「今までの勢いはどうした?――天魔降臨を目指しているんだって? たいしたことないなぁ。パチンコ玉すら押し返せないなんて」

 このとき玲花は気づいた。

 彼の放つ挑発は、妖という男が、まだ戦いたがっている証拠なのだと。

 より強い敵を求め、多くの血を流す。

 そして勝つのだ。

 戦う相手が強ければ強いほど、戦いの快感は増し、勝利したときの血のわななきは耐え難いものになるのだ。

 妖は、〝美槌〟の中にあって最も戦いを好む男。故に、魔人、妖人と呼ばれているのだ。

「――さあ、見せてみろ! 本当に魔王復活の引き金(トリガー)になる気があるのなら、底力を見せたらどうだ!」

 妖の放つ殺気と優子の妖気とに圧倒されて、玲花は妖の挑発を止める気力を失っていた。

 止めなければと思っても、身体が言うことを聞かないのだ。

 今、高校のグラウンドには、もの凄い氣の嵐が吹き荒れていた。

 普通の人間がいれば、一瞬のうちに衰弱死してしまうほどの妖気だ。そんな中にあって安田圭一が無事なのは、優子が布陣した魔法円内にいるからだ。

 雨は()んでいた。しかし、依然として天空はぶ厚く黒い雷雲に覆われている。

「…な、なめるなよ…」

 優子が、地を這うような声音で呟いた。

「今まで調子にのって吐いたセリフ、後悔させてあげるわ」

 言い終えると、優子は剣を持っていない左手で、腹に食い込んでいるパチンコ玉を握りしめた。

 瞬間、ローブ姿が宙に舞った。詳しく書けば、パチンコ玉を握りしめて身体をその力の猛威から解放し、反動を利用して一瞬のうちに跳躍したのである。

 パチンコ玉を中心にしての華麗な弧が描かれた。

 着地する寸前に優子がパチンコ玉から手を離すと、それは銀の尾を引き、校舎めがけて飛んでいった。

 異様な音がしたのは、その直後だった。

 小さな、直径一〇ミリにも満たぬ銀の玉が、鉄筋コンクリート製の校舎の壁に深々とめり込んだのである。

 そのとき優子は、圭一が横たわる魔法円の中心に舞い戻っていた。

 眼を閉じている。

 妖気の流れを感じ、大地の底から迸る悪魔の力を全身に浴びている――そんな感じだ。

「ふふふ。力が、大いなる種族の力が、身体の中に入ってくる。妖とやら、この力をもって、貴様の身体を切り刻んでやるぞ」

 開いた眼眸は以前にも増して煌々と輝き、吊り上がった口からは大量の妖気が洩れていた。悪魔の力をその体内におさめた者の、これが証拠であった。

 それに対して妖は、

「ふ~ん」

 と受け流しただけである。

 余裕なのか何なのか…。

 魔法円の図形に沿って、そのとき赤い紗のようなものがかかり始めていた。魔力回路が開きつつあるのだ。これに、呪文というある言葉の組み合わせによって生じる特殊なエネルギーが加わると、地上――現界と異次元とをつなぐ扉が開かれるのだ。

 優子のローブを舐めるように、幾条もの蒼い電光が走る。彼女の体内にある魔力に、魔法円を通して奴等の魔力が反応しつつあるのだ。

 妖気のエネルギーレベルが、一気に高まった。

 瞬間、ぐうっとうねるように妖気が校庭じゅうを荒れ狂う。

「死ね、妖!」

 カッと両眼が見開かれた刹那、優子の振った右手から、何かが宙を裂いて疾った。

 バシィ!

 掌を優子に向けて突き出した妖の右手で、それは弾けた。果たして、それは空気の槍と言ったものであったろうか。

 気槍が掌で炸裂したとき、もの凄い乱気流が妖と玲花のそばで生じ、玲花は気流の乱れに巻かれて、思わず尻もちを突いてしまった。

「大丈夫かい、玲花?」

 肩ごしに振り向いて、妖が声をかける。

 本当に心配そうな表情である。

「え、ええ」

 とは言ったものの、足がふらついてしまう。

「俺の背中にくっついていろ。あの()、予想外にやる。どういうことなんだ? 大した魔力は潜在していなかった筈なのに…。まさか――」

 妖は、独り言のように呟いていた。

 不審感を抱きながらも、しかし、妖の眼には鋭い光が宿ったままだ。

 そう、愉しんでいるのだ。

「一発目は上手く受けたわね。――では、これはどう!」

 優子の手刀が勢いよく振り下ろされた。

 次の瞬間、妖は見た。

 不可視の力が刃となって、大地を切り裂きつつ迫るのを。

 あれは、妖気の刃だ!

 躱そうにも、どうしようもなかった。

 玲花を背中に隠れさせたのを逆手に取られたのだ。

 妖一人なら、恐らく躱せたであろう。たとえ音速を超えるスピードの妖刃であってもだ。

「――!?」

 眼に見えぬ刃は、グラウンドに深々と傷跡を残し、コンクリートの壁を裂いて彼方へ消えていった。

 優子が哄笑した。勝ち誇った笑いだ。

 妖の美貌が、信じられない表情を浮かべていた。

〝美槌〟の誰一人としてみたこともないそれとは――苦痛であった。

 玲花は茫然と、妖の足許に転がるものを見つめていた。

 あれは、なに……?

「いやあああ!?」

 玲花の絶叫は、吹き荒れる妖気の嵐にかき消されていた。

 妖の左腕が、肩口から切断されて大地に転がっていた。

 優子の放った二撃目の妖刃が、すれ違いざまに腕を断ち切っていったのである。

 優子の哄笑は、だが、すぐに途絶えた。

 少女の美貌が、勝利から一転して驚愕へと変わる。

 左腕を付け根から切断された妖は、右手で肩口を押さえていた。しかし、血がほとんど流れ出ていないのはどういうことだ。

 少しは流血したらしく、指の隙間から血が流れた痕跡はある。だが、それだけだ。

 すでに苦痛は去ったらしい。

 傷口を押さえながらも、妖は平然とそこに立っていた。その背後で、玲花が声を失っている。一種の錯乱状態にあるようだ。

 突如、目の前を腕が落下し、自分のすぐそばに転がったのだから無理もない。

 そのとき、二人の女が茫然と見守る中、妖は戦慄する行動に出たのである。

 妖は平然と、物でも掴むかのように自分の左腕を拾い上げたのである! こちらもほとんど流血していない。一緒に断たれたシャツの布地が赤く染まっている程度だ。

 そして妖は、シャツの袖から左腕を抜き取ると、荒っぽく肩口に押しつけたのである。

 一瞬、妖が苦鳴を洩らした。

「まさか――」

 優子が、ようやくそれだけを口にした。

 一度切断された腕が、再びくっつくなど…。

 だが、奇蹟は起こった。

 もはや、切断痕すら判然としない。

 それほど完璧な融合であった。

「お~、動く動く」

 腕をぶんぶん振り回し、指を器用に動かしてみせた。

「よ、妖…?」

 どうやら玲花は、まだ事態が理解できないでいるようだった。

 それも無理はなかった。妖の非常識さは、人知を遥かに越えるものだったのだから。

「もう大丈夫だ、玲花」

「え?――でも、左手が…」

 茫然と呟いた途端、彼女の左頬が激しく鳴った。

 活を入れるために、妖が平手打ちを放ったのである。玲花は少しの間頬を押さえていたが、やがて全てを理解したらしい。

 瞳に光が戻るのを妖は見た。

「ごめんなさい。どうかしてるわね、私」

「いやいや。俺の来た甲斐があって良かったよ」

 ウインクして言うと、再び妖は優子に眼をやった。

「さて、降参するかい?」

「ふざけるなよ、化物め」

 優子は、鬼女の形相で言った。

 今の彼女に、美少女という形容は逆立ちしても当てはまらない。まさに悪魔に魅入られた少女だ。

 声が、まるで別人のように嗄れてきている。

「化物とはひどいな。せめて、不死身の妖くんと呼んでくれないか?」

「ぬかせ!」

 優子の双眸がギラリと凶光を放った刹那、大地を一筋の光が疾った。

 その光は蛇のように地表を這い、素早く、妖と玲花を取り囲むように円を描いた。

「妖、これは!?」

 そう言う玲花の美貌は、すでに戦士の顔に戻っていた。先程までの弱さは、一片すらも留めていない。それを見て妖は微笑んだが、その裏にあるのは、必死に隠そうとする驚愕であった。

 妖は、一瞬にして自分たちを囲む光の正体を見抜いていたのである。

 今、二人の足許にあるのは、魔界貴族の紋章だ。輝く円内(サークル)に奇怪な魔界文字がいくつか書かれてある。そして、魔界貴族の紋章は、そのまま堅牢な牢獄となる。

 二人は一瞬の隙を突かれて、不可視の、そして強力な牢獄に閉じ込められたのである。もはや逃れようがなかった。この紋章を持つ魔人が解かぬ限り――あるいは、そいつを倒さぬ限りは…。

 大失態だ…。

 妖は、心の中で舌打ちした。

 それとともに、予想通りだとも思った。

 優子が魔法円(サークル)内に戻った途端、その魔力(パワー)が増した。妖でさえ、相手をするのに骨が折れるほどにだ。何故、いきなりパワーアップしたのか。その答えが、ここにあった。

 彼女は――

「そこで、そうしているがいい。それは、魔界侯爵の紋章だ。如何な貴様とて、その結界を破ることはかなうまい」

「まあね」

「妖っ!?」

「あの娘の言う通りだ。この紋章は確かに奴のものだ。いくら俺の魔力が強大でも、すぐに破ることは不可能だよ。それに、もし破れたとしても、下手をすればこの若さで廃人さ」

 思考を遮られた妖だったが、今は他のことに気を取られている場合ではなかった。

 半ばあきらめの口調だが、内心はその逆だ。

 いくら魔界侯爵の紋章とはいえ、描いたのは奴自身ではない。それならば、まだ望みはある筈だ。

 妖は、その〝望み〟を探していたのである。

 このとき、妖と玲花はもの凄い波動を肌で感じていた。

 それは、暗黒と悪の息吹の波動だ。

 妖気のレベルが信じられないほど上昇し、濃度を増していた。すでにグラウンドの隅に植えられている十数本の樹は、その生気を抜かれて枯死していた。

 魔法円を覆う赤い霧が濃くなって行くにつれ、死霊どもが辺り一面に姿を現し始めた。

 妖気に呼ばれているのである。

 そいつらが上げる声なき怨嗟の声を、玲花は聞いた気がした。

 足がガタガタと震えている。

「玲花、ヤバイぜ、こいつは」

 妖の声も震えていた。

 恐怖に? いや――

「どうしたの?」

「思った通り、この牢獄に弱い所はあった。そこを突けば結界は破れる。だけど、破るのにかなりの時間がかかりそうなんだ」

(あなた)魔力(ちから)でも?」

「ああ。――見てみろよ、呪文の詠唱が始まっちまう」

 妖の言う通りだった。

 下から吹き上がる猛烈な妖気の流れを受けて、圭一の身体は空中に浮かび上がっていた。

 今、妖エネルギーのレベルは最高潮に達していた。

 魔法円の放つ赤い霧が粘着質のものに変化し、グラウンド中にわだかまった。

 いつの間にか、魔法円の周囲はもの凄い数の妖魔に占領されていた。

 恐怖と憎悪が満ちていくのが、玲花には感じられた。

 ふと妖を見ると、牢獄を破るべく魔力を集中させている。

「ふふ。無駄よ。あなたたちの能力では、あの方の紋章を破ることは出来ないわ。そこで見ていなさい、侯爵様の降臨をね」

 優子の嘲笑に、玲花は唇を噛んだ。

 そうなのだ。この蛇の紋章は、魔界侯爵の一人、フェノメネウスのものだと以前に妖が言っていた。〝美槌〟の中で、何故か、妖が魔界貴族について知る唯一人の男なのだ。しかし、その知識が何処で得たものなのか、本人すら知らないと言う。

 その魔界貴族の侯爵位を持つ悪魔を、たった一人の魔力で、何故召喚できるというのだろうか。

 妖は、これについても解答を得ているようだったが…。

「我が四囲に五芒星、炎を上げたり…」

 そのとき、優子の唱え始めた呪文が、玲花の思考を現実に引き戻した。

 優子はレイピアを逆手に持ちかえ、圭一の心臓の真上に掲げていた。

 その唇が呪文を唱え続ける。

 高く、低く、また大きく、小さく…。

 声は妖気をはらむ風に乗って、校舎を包み込む結界内に充満していった。

「光柱に六芒星、輝きたり

 偉大なる魔王の眷属

 その魔力もて光を駆逐せよ

 我 炎の力によって

 今 汝を召喚す」

 優子の眼が赤光を帯びて、らんと光ったとき、魔法円より迸る凄まじい妖気が炎の柱となった。

 玲花はこれを見て、改めて優子の想念の強さを思い知らされていた。

 このとき、召喚の儀式に眼を奪われていたので、玲花は自分の足許に生じた変化に気づいていなかった。

 その変化とは――優子が描いた魔界侯爵の紋章が、微かだが波打ち、揺らぎ始めたのである。その変化は徐々に大きなものへとなっていく…。

 妖の魔力が、敵の魔力を押し戻そうとしているのだ。

「――約束の時は来た

 今こそ、我が(しゅ)に答え

 我と言葉を交わすべく

 邪龍となりて

 我が前にその力 具現せしめよ!

 強大にして偉大なる魔界の侯爵

 悪魔フェノメネウスよ!」

 そして、ついに呪文は完成した。

 優子の美貌が狂気の笑みに彩られる。

 あとはレイピアを生贄の心臓に突き刺すだけだ。

 だが、そのとき、優子にとっても魔界侯爵にとっても、信じられないことが起こった。

 侯爵の紋章の魔力を、あの男が破ったのである。

 美貌の若者、妖が!

 牢獄を破るのに使った彼の魔力が、そのまま衝撃波となって、優子に襲いかかる。

「――チイ!」

 しかし、その衝撃波を、優子は妖気の障壁を張って弾き飛ばした。

 さすがの妖も続けざまに攻撃をすることが出来ず、肩で呼吸を繰り返していた。

 いくら侯爵本人が描いたものではないとは言え、紋章の持つ魔力は想像を絶していた。もしこれが本人によって描かれたものならば、さしもの妖でさえ、突破することは不可能であったろう。

 だが逆に、想像を絶する魔力を持った牢獄を、妖だったからこそ破ることが出来たと言えるのではないだろうか。

「馬鹿な!? ――だが、もう遅い!」

 優子の心は驚愕に支配されたが、それも一瞬、優子は自分めがけて地を蹴った二人に向けて息を吹きかけていた。

 途端、見えない何かに押し戻されるかのように、妖と玲花の足が止まり、逆に後退を始めるのだった。

 そして、ふたりが校舎を囲む壁の一部に磔になった瞬間、

「侯爵様、今ここに、最後の封印を解く鍵を捧げましょう!」

 振り上げた細身の剣を、優子は勢いよく振り下ろしていた。

 刃は寸分の狂いもなく心臓を貫き、鮮血が天よ染まれといわんばかりに噴き上がった。

「ぎゃああああ!?」

 天衝()く絶叫は、しかし圭一ではなく、優子の口から上がっていた。そして声は、もう一人の優子のものだった。

 優子の胸を刺し貫いたレイピアを、優子は平然と引き抜いた。まるで、鞘から剣を抜くように。

そして一呼吸おいて、(とど)めを刺すべく、もう一度深々と突き刺したのだった。

 その瞬間、優子は大量の血を吐いた。鮮血は滝となって首を伝い、胸へ、腹へと流れてゆく。

「どうして――」

 血泡まじりの言葉で、優子が問いかける。

 何故、自分が殺されるのか、わからなかったのだ。しかし、愛する圭一が生贄とならず、生き延びられたのだから、これでいいとも思っていた。

 そう思うと、不意に涙がこぼれた。

 そんな優子の心に、冷然と声がかかる。

「気づかなかったのか? お前、いや私の身体こそが黄金律――神による封印を解く鍵そのものだったのだよ。それに、お前のような腑抜けに用はない。生贄となって、少しでも私の役に立つがいい」

「そんな――」

 全身の力が抜けてきた。今、優子の精神が死ねば、肉体は完全に邪悪な少女のものとなってしまう。だが、今のうちなら――

 優子は、自分の腰の辺りを漂い、眠り続ける圭一の身体を震える手で押した。すると、何か台のようなものから落下するかのように、圭一は地面に転がり落ちた。

 ごつん。

「いてっ!?」

 そのショックで眼が覚めた圭一は、ぶつけた後頭部をさすりながら上体を起こした。このとき彼は気づいていなかったが、薄い障壁に身を包まれていたのである。恐らく、覚醒と同時に保護されたのだろう。

 それをやったのは、妖か玲花かそれとも――

「ゆ、優子!?」

 圭一は、眼前に立つ義妹の無惨な姿を見た瞬間、凍りついてしまった。

 優子は、剣を胸に刺したまま、死の直前の笑顔を圭一に向けた。

 何という慈しみ深い笑みか。

 涙が血の気の失せた白い頬を伝い、身体を染め上げる血と混じりあった。

 圭一は、優子の胸の剣をしばし茫然と見上げていたが、何が起こったのか理解していなかった。いや、出来なかったのだ。

 頭が、それを拒んでいたのである。

「ゆうこ…」

 その、うわごとのような声に優子が頷く。

「ごめんね…あたし…ごめんね…」

 何を言っていいのかわからず、そして何も言えず、優子は同じ言葉を何度も繰り返していた。

 徐々に全身の機能が言うことを聞かなくなりつつある。支配権が奪われつつあるのだ。

 もう、どうにもならなかった…。

 そのとき、突如、彼女の意志を無視して右手が動いた。レイピアを再びより深々と突き刺し、横にひねる。ぱっくりと開いた胸の傷口から、血がどっとあふれ出た。

 絶叫。

 圭一の顔に生暖かい血が降りかかり、真っ赤に染め上げる。

「う、うわああああ!?」

 ようやく、圭一は今起こっている事態を理解した。だから声を上げたのだ。

 死ぬ…死んでしまう!

 優子が、俺の大切な義妹が!

 もう一人の自分に殺されてしまう!

「や、やめろぉ!」

 大声で叫ぶと、圭一は優子に掴みかかった。

 胸に刺さっている剣を引き抜こうと。

 しかし、それよりも早く、優子はレイピアを無理矢理引き抜いてしまっていた。

 薄い、邪悪な嗤いを浮かべたまま。

 その瞬間、圭一は悟った。

 自分の義妹の生命が永遠に失われてしまったことを。そして、もはや眼前にいるのは、邪悪な魔少女でしかないということを。

 圭一は力無く、その場に座り込んでしまった。

 そんな彼を、優子は侮蔑の眼差しで見下ろしている。少女の全身に、このとき血の痕はかけらさえも付着していなかった。当然、胸の傷もない。

 何故なら、あれは別人が受けた傷なのだから、ここにいる優子が傷ついているわけがないのである。

 義妹の名を呟き続ける圭一を一笑にふすと、優子は妖たちの方を向いた。

 妖と玲花は、優子の放った妖気に壁に押しつけられたままだった。妖の魔力が正常なら弾き返すことなど容易だったが、あいにくと紋章の結界を破ったために、それさえも出来なくなっていたのだ。

 優子がパチンと指を鳴らすと、その呪縛も解けた。

 地面に(くずお)れる二人。

「なかなか、やるもんだねぇ」

 苦笑を浮かべて、妖は優子に言った。その口調には失敗を犯した罪悪感も、悪魔復活への恐怖も感じられない。むしろ、この状況を愉しんでいるようだ。

「強がるなよ」

 優子が笑い飛ばしたとき、地面が鳴動を開始した。

 地震だった。

 このとき、彼等のいる高校のみが、震度六の強震に襲われていたのである!

 窓ガラスが振動で次々に砕け、無数の光のかけらとなって地面に降り注ぐ。

 大地がうねり、地上に立つあらゆるものを薙ぎ倒そうと激しく身悶えする。

 妖は素早く圭一の所まで移動し、少年を脇に抱えて玲花の隣へ戻ってきた。

 地震は、まだ続いていた。

 いや、これは地震ではなかった。

 魔法円がその機能を発揮し、異次元への扉を開いたのである。

 そして、魔界に棲む奴が、この地上を目指して近づきつつあるのだ!

「来るぞ、玲花」

 妖は、圭一を脇に抱えたまま、いつでも動けるような構えを取った。

 優子の美貌が、凄絶な笑みに歪んでいた。


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