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「何者だ、貴様は――ぐ!?」
肩越しに妖を睨みつける少女の顔に苦痛の色がよぎったのは、妖が優子の手首をそのとき強く握ったからである。
「自己紹介はあとでするよ。――それより、きみには玲花から離れてもらわないとね」
そう言って、妖は優子の手を軽く引き、後方へ流した。それだけで、優子の肢体は妖の背後に投げ飛ばされてしまったのである。
驚愕しながらも、優子は空中で身をひねって、見事に着地した。
魔法円の中心――魔力の根源へ。
「大丈夫かい、玲花」
優子を放り投げたあと、妖は顔をほんの少しひき吊らせる玲花に声をかけた。
「ど、何処に行ってたのよ、妖のバカ!」
その剣幕に怯みもせずに、
「いやあ、パチンコに少々」
そう言って、照れ隠しに頭をかく始末である。
「なんなのよ、それは…」
さすがにこれには呆れ返って言葉が続かず、苦笑するしかない玲花であった。
「――本当なの?」
「さてね。――ま、俺にもいろいろと事情があるということさ。きみが置いていったメモは、希が千里眼で見、その内容を教えてくれたよ」
希とは、八導師の一人で最年少の女性で、千里眼とテレパシー能力を身につけていた。よって、その主な担当は、四天王及び八天部への命令の伝達と、テレパシーによる会話の中継である。
「それは、いつ?」
「そうだな、だいたい、きみがマンションを出て五分後くらいじゃなかったかな」
「じゃあ、今まで何をしてたのよ」
「言ったろ、パチンコだって。――星の顔を立ててやったんだよ、これでも」
うんざりした表情で、妖は玲花に告げた。
星が妖に強度の嫌悪感を抱いているのは周知の事実だ。そのことが、今回も邪魔をしたのだ。つまり、玲花の能力では相手に抗しきれないとわかるまで、妖が手出しすることを禁じたのである。
だから、希から連絡を受けてすぐに現場に急行していれば、玲花がダメージを受けることはなかったのである。
玲花は、天を仰いで溜め息をついた。
「――ま、そういうことさ」
「それにしては、なかなかいいタイミングで助けてくれたわね」
星と妖の不協和音に半ば呆れながら、玲花は言った。少し、いじわるになっている。
「ふっふっふ。こんな結界、あってないようなものだからね、俺にとっては」
胸を張って言う妖の背中に、少女の毒気が当たって弾けた。
「…こんな結界、とは、言ってくれるなぁ…。貴様、何者だ?」
その声に妖は優子を振り返り、
「何だ、まだいたのか」
などと神経を逆撫でするようなことを言った。
これに、カチンとこない奴はいないだろう。何せ、今まで完璧に無視されていたのだから。
「質問に答えろ」
もの凄い形相で、妖を睨みつける。
吊り上がった眼は赤光を放ち、狂気に歪む唇からは真っ赤な息――妖気が洩れていた。
「ふん。お前のような魔女に名のるのもおこがましいが、そんなに聞きたいのなら教えてやらんでもない。妖という」
どうやら、喧嘩を売っているらしい。
「綺麗な顔と声をしているのに、性格が悪いのね、妖さんは」
言い終わると、優子はレイピアを構え直した。そのとき、微かに顔が痛みに歪んだのは、妖に握られた手首に激痛が走ったからだ。
「正直な感想ありがとう。その言葉に感謝の意を表して、次は俺がお相手をしてあげよう」
すっと、妖は優子の正面に歩み出た。
いつの間にか、左手はスラックスのポケットに入っている。
雨は小降りになっていたが、風は以前にも増して強く吹いていた。
その風の向こう――
「その女同様、一人で戦ったことを後悔させてあげるわ!」
高々と宣言し、優子は地を蹴った。
漆黒のローブが、急速に間合いを詰める。
妖は不敵な笑みを浮かべたが、構えようとはせずにその場に佇んでいた。
優子の右手の剣が、ギラリと凶光を放つ。
玲花が瞬きし、次に眼を開いたとき、妖に走り寄る優子の姿はなかった。
消えた!?
そう錯覚しても仕方なかった。しかし、そうではなかった。
妖が頭上を見上げているのに、玲花が気づいたとき、
「いいやあああ!」
絶叫が空中で爆発した。
風を巻いて、剣が妖の頭上目がけて振り下ろされる。
優子は、玲花が瞬きした瞬間――偶然にも妖もしていたのだが――を狙って、宙に舞い上がったのである。
弧を描いて走る銀光を、しかし、妖は身体の位置をわずかにずらすだけで躱していた。
「――!?」
愕然と妖に顔を向ける優子。
刹那、ポケットから妖の左手が引き抜かれ、その白い指が何かを弾いた。
銀色に光る小さなそれが優子の腹にめり込んだ瞬間、彼女の小柄な肢体は後方へ吹っ飛ばされていた!
まさか――!?
優子は息を飲んだ。
それをなさしめたのが、たった一個の、しかも指で弾かれただけのパチンコ玉なのだ!
どうやら、本当にパチンコ屋に行っていたらしい。
「チイッ!?」
何という魔力だ。
あの女以上の、もの凄い魔力を感じる。
優子は、唇をはっきりと笑いの形に歪める妖を、苦虫を噛み潰したような表情で睨みつけた。
それにしても、何と邪悪な笑みだろうか。しかしそれは、妖に最も似つかわしいもののように感じられた。
その視線は、冷ややかに優子に向けられている。
今なお、優子はパチンコ玉に圧倒され続けていた。必死に倒れまいと両足を踏ん張り、前に進もうと試みるが、そのたびに、それ以上に強い力で数メートルほど押し戻されてしまう。
「バ、バカなぁ…」
優子の可愛い唇から、ついに呻くような声が洩れた。
「どうした、そこまでかい?」
妖が嘲笑うように言う。
「今までの勢いはどうした?――天魔降臨を目指しているんだって? たいしたことないなぁ。パチンコ玉すら押し返せないなんて」
このとき玲花は気づいた。
彼の放つ挑発は、妖という男が、まだ戦いたがっている証拠なのだと。
より強い敵を求め、多くの血を流す。
そして勝つのだ。
戦う相手が強ければ強いほど、戦いの快感は増し、勝利したときの血のわななきは耐え難いものになるのだ。
妖は、〝美槌〟の中にあって最も戦いを好む男。故に、魔人、妖人と呼ばれているのだ。
「――さあ、見せてみろ! 本当に魔王復活の引き金になる気があるのなら、底力を見せたらどうだ!」
妖の放つ殺気と優子の妖気とに圧倒されて、玲花は妖の挑発を止める気力を失っていた。
止めなければと思っても、身体が言うことを聞かないのだ。
今、高校のグラウンドには、もの凄い氣の嵐が吹き荒れていた。
普通の人間がいれば、一瞬のうちに衰弱死してしまうほどの妖気だ。そんな中にあって安田圭一が無事なのは、優子が布陣した魔法円内にいるからだ。
雨は熄んでいた。しかし、依然として天空はぶ厚く黒い雷雲に覆われている。
「…な、なめるなよ…」
優子が、地を這うような声音で呟いた。
「今まで調子にのって吐いたセリフ、後悔させてあげるわ」
言い終えると、優子は剣を持っていない左手で、腹に食い込んでいるパチンコ玉を握りしめた。
瞬間、ローブ姿が宙に舞った。詳しく書けば、パチンコ玉を握りしめて身体をその力の猛威から解放し、反動を利用して一瞬のうちに跳躍したのである。
パチンコ玉を中心にしての華麗な弧が描かれた。
着地する寸前に優子がパチンコ玉から手を離すと、それは銀の尾を引き、校舎めがけて飛んでいった。
異様な音がしたのは、その直後だった。
小さな、直径一〇ミリにも満たぬ銀の玉が、鉄筋コンクリート製の校舎の壁に深々とめり込んだのである。
そのとき優子は、圭一が横たわる魔法円の中心に舞い戻っていた。
眼を閉じている。
妖気の流れを感じ、大地の底から迸る悪魔の力を全身に浴びている――そんな感じだ。
「ふふふ。力が、大いなる種族の力が、身体の中に入ってくる。妖とやら、この力をもって、貴様の身体を切り刻んでやるぞ」
開いた眼眸は以前にも増して煌々と輝き、吊り上がった口からは大量の妖気が洩れていた。悪魔の力をその体内におさめた者の、これが証拠であった。
それに対して妖は、
「ふ~ん」
と受け流しただけである。
余裕なのか何なのか…。
魔法円の図形に沿って、そのとき赤い紗のようなものがかかり始めていた。魔力回路が開きつつあるのだ。これに、呪文というある言葉の組み合わせによって生じる特殊なエネルギーが加わると、地上――現界と異次元とをつなぐ扉が開かれるのだ。
優子のローブを舐めるように、幾条もの蒼い電光が走る。彼女の体内にある魔力に、魔法円を通して奴等の魔力が反応しつつあるのだ。
妖気のエネルギーレベルが、一気に高まった。
瞬間、ぐうっとうねるように妖気が校庭じゅうを荒れ狂う。
「死ね、妖!」
カッと両眼が見開かれた刹那、優子の振った右手から、何かが宙を裂いて疾った。
バシィ!
掌を優子に向けて突き出した妖の右手で、それは弾けた。果たして、それは空気の槍と言ったものであったろうか。
気槍が掌で炸裂したとき、もの凄い乱気流が妖と玲花のそばで生じ、玲花は気流の乱れに巻かれて、思わず尻もちを突いてしまった。
「大丈夫かい、玲花?」
肩ごしに振り向いて、妖が声をかける。
本当に心配そうな表情である。
「え、ええ」
とは言ったものの、足がふらついてしまう。
「俺の背中にくっついていろ。あの娘、予想外にやる。どういうことなんだ? 大した魔力は潜在していなかった筈なのに…。まさか――」
妖は、独り言のように呟いていた。
不審感を抱きながらも、しかし、妖の眼には鋭い光が宿ったままだ。
そう、愉しんでいるのだ。
「一発目は上手く受けたわね。――では、これはどう!」
優子の手刀が勢いよく振り下ろされた。
次の瞬間、妖は見た。
不可視の力が刃となって、大地を切り裂きつつ迫るのを。
あれは、妖気の刃だ!
躱そうにも、どうしようもなかった。
玲花を背中に隠れさせたのを逆手に取られたのだ。
妖一人なら、恐らく躱せたであろう。たとえ音速を超えるスピードの妖刃であってもだ。
「――!?」
眼に見えぬ刃は、グラウンドに深々と傷跡を残し、コンクリートの壁を裂いて彼方へ消えていった。
優子が哄笑した。勝ち誇った笑いだ。
妖の美貌が、信じられない表情を浮かべていた。
〝美槌〟の誰一人としてみたこともないそれとは――苦痛であった。
玲花は茫然と、妖の足許に転がるものを見つめていた。
あれは、なに……?
「いやあああ!?」
玲花の絶叫は、吹き荒れる妖気の嵐にかき消されていた。
妖の左腕が、肩口から切断されて大地に転がっていた。
優子の放った二撃目の妖刃が、すれ違いざまに腕を断ち切っていったのである。
優子の哄笑は、だが、すぐに途絶えた。
少女の美貌が、勝利から一転して驚愕へと変わる。
左腕を付け根から切断された妖は、右手で肩口を押さえていた。しかし、血がほとんど流れ出ていないのはどういうことだ。
少しは流血したらしく、指の隙間から血が流れた痕跡はある。だが、それだけだ。
すでに苦痛は去ったらしい。
傷口を押さえながらも、妖は平然とそこに立っていた。その背後で、玲花が声を失っている。一種の錯乱状態にあるようだ。
突如、目の前を腕が落下し、自分のすぐそばに転がったのだから無理もない。
そのとき、二人の女が茫然と見守る中、妖は戦慄する行動に出たのである。
妖は平然と、物でも掴むかのように自分の左腕を拾い上げたのである! こちらもほとんど流血していない。一緒に断たれたシャツの布地が赤く染まっている程度だ。
そして妖は、シャツの袖から左腕を抜き取ると、荒っぽく肩口に押しつけたのである。
一瞬、妖が苦鳴を洩らした。
「まさか――」
優子が、ようやくそれだけを口にした。
一度切断された腕が、再びくっつくなど…。
だが、奇蹟は起こった。
もはや、切断痕すら判然としない。
それほど完璧な融合であった。
「お~、動く動く」
腕をぶんぶん振り回し、指を器用に動かしてみせた。
「よ、妖…?」
どうやら玲花は、まだ事態が理解できないでいるようだった。
それも無理はなかった。妖の非常識さは、人知を遥かに越えるものだったのだから。
「もう大丈夫だ、玲花」
「え?――でも、左手が…」
茫然と呟いた途端、彼女の左頬が激しく鳴った。
活を入れるために、妖が平手打ちを放ったのである。玲花は少しの間頬を押さえていたが、やがて全てを理解したらしい。
瞳に光が戻るのを妖は見た。
「ごめんなさい。どうかしてるわね、私」
「いやいや。俺の来た甲斐があって良かったよ」
ウインクして言うと、再び妖は優子に眼をやった。
「さて、降参するかい?」
「ふざけるなよ、化物め」
優子は、鬼女の形相で言った。
今の彼女に、美少女という形容は逆立ちしても当てはまらない。まさに悪魔に魅入られた少女だ。
声が、まるで別人のように嗄れてきている。
「化物とはひどいな。せめて、不死身の妖くんと呼んでくれないか?」
「ぬかせ!」
優子の双眸がギラリと凶光を放った刹那、大地を一筋の光が疾った。
その光は蛇のように地表を這い、素早く、妖と玲花を取り囲むように円を描いた。
「妖、これは!?」
そう言う玲花の美貌は、すでに戦士の顔に戻っていた。先程までの弱さは、一片すらも留めていない。それを見て妖は微笑んだが、その裏にあるのは、必死に隠そうとする驚愕であった。
妖は、一瞬にして自分たちを囲む光の正体を見抜いていたのである。
今、二人の足許にあるのは、魔界貴族の紋章だ。輝く円内に奇怪な魔界文字がいくつか書かれてある。そして、魔界貴族の紋章は、そのまま堅牢な牢獄となる。
二人は一瞬の隙を突かれて、不可視の、そして強力な牢獄に閉じ込められたのである。もはや逃れようがなかった。この紋章を持つ魔人が解かぬ限り――あるいは、そいつを倒さぬ限りは…。
大失態だ…。
妖は、心の中で舌打ちした。
それとともに、予想通りだとも思った。
優子が魔法円内に戻った途端、その魔力が増した。妖でさえ、相手をするのに骨が折れるほどにだ。何故、いきなりパワーアップしたのか。その答えが、ここにあった。
彼女は――
「そこで、そうしているがいい。それは、魔界侯爵の紋章だ。如何な貴様とて、その結界を破ることはかなうまい」
「まあね」
「妖っ!?」
「あの娘の言う通りだ。この紋章は確かに奴のものだ。いくら俺の魔力が強大でも、すぐに破ることは不可能だよ。それに、もし破れたとしても、下手をすればこの若さで廃人さ」
思考を遮られた妖だったが、今は他のことに気を取られている場合ではなかった。
半ばあきらめの口調だが、内心はその逆だ。
いくら魔界侯爵の紋章とはいえ、描いたのは奴自身ではない。それならば、まだ望みはある筈だ。
妖は、その〝望み〟を探していたのである。
このとき、妖と玲花はもの凄い波動を肌で感じていた。
それは、暗黒と悪の息吹の波動だ。
妖気のレベルが信じられないほど上昇し、濃度を増していた。すでにグラウンドの隅に植えられている十数本の樹は、その生気を抜かれて枯死していた。
魔法円を覆う赤い霧が濃くなって行くにつれ、死霊どもが辺り一面に姿を現し始めた。
妖気に呼ばれているのである。
そいつらが上げる声なき怨嗟の声を、玲花は聞いた気がした。
足がガタガタと震えている。
「玲花、ヤバイぜ、こいつは」
妖の声も震えていた。
恐怖に? いや――
「どうしたの?」
「思った通り、この牢獄に弱い所はあった。そこを突けば結界は破れる。だけど、破るのにかなりの時間がかかりそうなんだ」
「妖の魔力でも?」
「ああ。――見てみろよ、呪文の詠唱が始まっちまう」
妖の言う通りだった。
下から吹き上がる猛烈な妖気の流れを受けて、圭一の身体は空中に浮かび上がっていた。
今、妖エネルギーのレベルは最高潮に達していた。
魔法円の放つ赤い霧が粘着質のものに変化し、グラウンド中にわだかまった。
いつの間にか、魔法円の周囲はもの凄い数の妖魔に占領されていた。
恐怖と憎悪が満ちていくのが、玲花には感じられた。
ふと妖を見ると、牢獄を破るべく魔力を集中させている。
「ふふ。無駄よ。あなたたちの能力では、あの方の紋章を破ることは出来ないわ。そこで見ていなさい、侯爵様の降臨をね」
優子の嘲笑に、玲花は唇を噛んだ。
そうなのだ。この蛇の紋章は、魔界侯爵の一人、フェノメネウスのものだと以前に妖が言っていた。〝美槌〟の中で、何故か、妖が魔界貴族について知る唯一人の男なのだ。しかし、その知識が何処で得たものなのか、本人すら知らないと言う。
その魔界貴族の侯爵位を持つ悪魔を、たった一人の魔力で、何故召喚できるというのだろうか。
妖は、これについても解答を得ているようだったが…。
「我が四囲に五芒星、炎を上げたり…」
そのとき、優子の唱え始めた呪文が、玲花の思考を現実に引き戻した。
優子はレイピアを逆手に持ちかえ、圭一の心臓の真上に掲げていた。
その唇が呪文を唱え続ける。
高く、低く、また大きく、小さく…。
声は妖気をはらむ風に乗って、校舎を包み込む結界内に充満していった。
「光柱に六芒星、輝きたり
偉大なる魔王の眷属
その魔力もて光を駆逐せよ
我 炎の力によって
今 汝を召喚す」
優子の眼が赤光を帯びて、らんと光ったとき、魔法円より迸る凄まじい妖気が炎の柱となった。
玲花はこれを見て、改めて優子の想念の強さを思い知らされていた。
このとき、召喚の儀式に眼を奪われていたので、玲花は自分の足許に生じた変化に気づいていなかった。
その変化とは――優子が描いた魔界侯爵の紋章が、微かだが波打ち、揺らぎ始めたのである。その変化は徐々に大きなものへとなっていく…。
妖の魔力が、敵の魔力を押し戻そうとしているのだ。
「――約束の時は来た
今こそ、我が呪に答え
我と言葉を交わすべく
邪龍となりて
我が前にその力 具現せしめよ!
強大にして偉大なる魔界の侯爵
悪魔フェノメネウスよ!」
そして、ついに呪文は完成した。
優子の美貌が狂気の笑みに彩られる。
あとはレイピアを生贄の心臓に突き刺すだけだ。
だが、そのとき、優子にとっても魔界侯爵にとっても、信じられないことが起こった。
侯爵の紋章の魔力を、あの男が破ったのである。
美貌の若者、妖が!
牢獄を破るのに使った彼の魔力が、そのまま衝撃波となって、優子に襲いかかる。
「――チイ!」
しかし、その衝撃波を、優子は妖気の障壁を張って弾き飛ばした。
さすがの妖も続けざまに攻撃をすることが出来ず、肩で呼吸を繰り返していた。
いくら侯爵本人が描いたものではないとは言え、紋章の持つ魔力は想像を絶していた。もしこれが本人によって描かれたものならば、さしもの妖でさえ、突破することは不可能であったろう。
だが逆に、想像を絶する魔力を持った牢獄を、妖だったからこそ破ることが出来たと言えるのではないだろうか。
「馬鹿な!? ――だが、もう遅い!」
優子の心は驚愕に支配されたが、それも一瞬、優子は自分めがけて地を蹴った二人に向けて息を吹きかけていた。
途端、見えない何かに押し戻されるかのように、妖と玲花の足が止まり、逆に後退を始めるのだった。
そして、ふたりが校舎を囲む壁の一部に磔になった瞬間、
「侯爵様、今ここに、最後の封印を解く鍵を捧げましょう!」
振り上げた細身の剣を、優子は勢いよく振り下ろしていた。
刃は寸分の狂いもなく心臓を貫き、鮮血が天よ染まれといわんばかりに噴き上がった。
「ぎゃああああ!?」
天衝く絶叫は、しかし圭一ではなく、優子の口から上がっていた。そして声は、もう一人の優子のものだった。
優子の胸を刺し貫いたレイピアを、優子は平然と引き抜いた。まるで、鞘から剣を抜くように。
そして一呼吸おいて、止めを刺すべく、もう一度深々と突き刺したのだった。
その瞬間、優子は大量の血を吐いた。鮮血は滝となって首を伝い、胸へ、腹へと流れてゆく。
「どうして――」
血泡まじりの言葉で、優子が問いかける。
何故、自分が殺されるのか、わからなかったのだ。しかし、愛する圭一が生贄とならず、生き延びられたのだから、これでいいとも思っていた。
そう思うと、不意に涙がこぼれた。
そんな優子の心に、冷然と声がかかる。
「気づかなかったのか? お前、いや私の身体こそが黄金律――神による封印を解く鍵そのものだったのだよ。それに、お前のような腑抜けに用はない。生贄となって、少しでも私の役に立つがいい」
「そんな――」
全身の力が抜けてきた。今、優子の精神が死ねば、肉体は完全に邪悪な少女のものとなってしまう。だが、今のうちなら――
優子は、自分の腰の辺りを漂い、眠り続ける圭一の身体を震える手で押した。すると、何か台のようなものから落下するかのように、圭一は地面に転がり落ちた。
ごつん。
「いてっ!?」
そのショックで眼が覚めた圭一は、ぶつけた後頭部をさすりながら上体を起こした。このとき彼は気づいていなかったが、薄い障壁に身を包まれていたのである。恐らく、覚醒と同時に保護されたのだろう。
それをやったのは、妖か玲花かそれとも――
「ゆ、優子!?」
圭一は、眼前に立つ義妹の無惨な姿を見た瞬間、凍りついてしまった。
優子は、剣を胸に刺したまま、死の直前の笑顔を圭一に向けた。
何という慈しみ深い笑みか。
涙が血の気の失せた白い頬を伝い、身体を染め上げる血と混じりあった。
圭一は、優子の胸の剣をしばし茫然と見上げていたが、何が起こったのか理解していなかった。いや、出来なかったのだ。
頭が、それを拒んでいたのである。
「ゆうこ…」
その、うわごとのような声に優子が頷く。
「ごめんね…あたし…ごめんね…」
何を言っていいのかわからず、そして何も言えず、優子は同じ言葉を何度も繰り返していた。
徐々に全身の機能が言うことを聞かなくなりつつある。支配権が奪われつつあるのだ。
もう、どうにもならなかった…。
そのとき、突如、彼女の意志を無視して右手が動いた。レイピアを再びより深々と突き刺し、横にひねる。ぱっくりと開いた胸の傷口から、血がどっとあふれ出た。
絶叫。
圭一の顔に生暖かい血が降りかかり、真っ赤に染め上げる。
「う、うわああああ!?」
ようやく、圭一は今起こっている事態を理解した。だから声を上げたのだ。
死ぬ…死んでしまう!
優子が、俺の大切な義妹が!
もう一人の自分に殺されてしまう!
「や、やめろぉ!」
大声で叫ぶと、圭一は優子に掴みかかった。
胸に刺さっている剣を引き抜こうと。
しかし、それよりも早く、優子はレイピアを無理矢理引き抜いてしまっていた。
薄い、邪悪な嗤いを浮かべたまま。
その瞬間、圭一は悟った。
自分の義妹の生命が永遠に失われてしまったことを。そして、もはや眼前にいるのは、邪悪な魔少女でしかないということを。
圭一は力無く、その場に座り込んでしまった。
そんな彼を、優子は侮蔑の眼差しで見下ろしている。少女の全身に、このとき血の痕はかけらさえも付着していなかった。当然、胸の傷もない。
何故なら、あれは別人が受けた傷なのだから、ここにいる優子が傷ついているわけがないのである。
義妹の名を呟き続ける圭一を一笑にふすと、優子は妖たちの方を向いた。
妖と玲花は、優子の放った妖気に壁に押しつけられたままだった。妖の魔力が正常なら弾き返すことなど容易だったが、あいにくと紋章の結界を破ったために、それさえも出来なくなっていたのだ。
優子がパチンと指を鳴らすと、その呪縛も解けた。
地面に頽れる二人。
「なかなか、やるもんだねぇ」
苦笑を浮かべて、妖は優子に言った。その口調には失敗を犯した罪悪感も、悪魔復活への恐怖も感じられない。むしろ、この状況を愉しんでいるようだ。
「強がるなよ」
優子が笑い飛ばしたとき、地面が鳴動を開始した。
地震だった。
このとき、彼等のいる高校のみが、震度六の強震に襲われていたのである!
窓ガラスが振動で次々に砕け、無数の光のかけらとなって地面に降り注ぐ。
大地がうねり、地上に立つあらゆるものを薙ぎ倒そうと激しく身悶えする。
妖は素早く圭一の所まで移動し、少年を脇に抱えて玲花の隣へ戻ってきた。
地震は、まだ続いていた。
いや、これは地震ではなかった。
魔法円がその機能を発揮し、異次元への扉を開いたのである。
そして、魔界に棲む奴が、この地上を目指して近づきつつあるのだ!
「来るぞ、玲花」
妖は、圭一を脇に抱えたまま、いつでも動けるような構えを取った。
優子の美貌が、凄絶な笑みに歪んでいた。




