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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第2章 始まりと終わりの日
7/24

2

 その日は朝から、何か不穏な気配が満ち満ちていた。天は暗雲に覆われ、暗い、夜のような日であった。

 何かが起こりそうな気配――それを人は無意識のうちに感じ取るのだろう、その日、外を出歩く人の姿は買い物客などを除けば、ほとんどなかったと云う。

 こんな嫌な天気の日は、家で映画を観るに限る。

 そう決めつけて、安田圭一はカウチポテトならぬタタミせんべいとしゃれ込むことにした。

 いぜんと大して変わらぬ生活を送り、表情に喜怒哀楽が戻っていることからも、圭一が青木健の突然の死から立ち直りつつあることがわかる。

 そんな、居間の大画面テレビで映画に見入る義兄の背中を見て、優子が障子の影から笑っていた。

 ニヤリと――。

 そして、気づかれぬように音もなく居間に入る。

「〝大いなる日〟は来た。あとは、最後の生贄を捧げるだけだ」

 優子の全身から、今、凄まじい妖気が放射されていた。この数日間、優子は何もしないで過ごしていたわけではない。

 すでに、儀式のための魔法円を布陣する恰好の場所は見つけ出してある。

 そして封印を解いた後、この地上に最初に召喚する悪魔は彼だ。

 そう、死の間際に話しかけて来た悪魔、魔界侯爵フェノメネウス。

 人間どもを恐怖のどん底に叩き落とし、悪魔族の、そして魔空神王の復活には、彼の強大な魔力が必要であった。

 いつか来る〝最後の審判〟の日に勝利をおさめるために、悪魔を蘇らせるのだ。

 その役目をランバートは持って生まれ、そして成就することなく死んだ。

 しかし今、彼は一人の少女として転生し、成し遂げられなかったことを成そうとしている。

義兄(にい)さん?」

 優子の、一心不乱に映画を観る圭一を呼ぶその声の響きには、邪悪なものが確かに流れていた。

「あん?」

 堅焼きせんべいを口にくわえたまま、圭一は振り返る。映画の見過ぎで思考能力が低下しているのか、優子を見ても、彼女がもう一人の優子だと気づいていない。

 その優子の眼が赤く光った。

「今晩七時に、校庭に行きましょう。――いいわね」

 命令口調で言った。

 虚ろな声で「はい」と答える圭一の眼はもはや何も映さず、優子の赤い眼光を浴びて、赫々と輝いていた。そしてすでに、圭一の精神は優子の魔力によって厚い壁に閉じこめられ、彼の心の奥深くに封じ込められていた。

「――いい子ね」

 そう言って、優子は満足気に邪悪な笑みを口許に閃かせると、圭一に背を向けた。今までもたれかかっていた障子を後ろ手に閉め、そのまま電話へと向かう。

 後には、意識が白濁したままの圭一と、映画の新たなシーンを流し続けるTVとが残されていた。

 優子の白い繊手が受話器を取り上げる。

 しなやかな指が動き、ある電話番号をプッシュする。わずかな間をおいて、呼び出し音が鳴り始めた。

 彼女たちの家から遠く離れた、とあるマンションの一室。ちょうど外から帰ってきた玲花が部屋のロックを解き、ドアを開けたところだった。

 電話の呼び出し音がなっているのに気づき、

「――妖、いないのかな?」

 呟いて、両手いっぱいの買い物袋をキッチンのテーブルに置き、玲花は壁に設置されたコードレス電話を取った。

 出かけるときは、忘れずに留守番電話にしておくように言っておいたのに、妖は忘れてしまっていたようだ。

「もしもし…?」

 少しの間沈黙が続いて、

「中野先生ね?」

 くすくす笑いながら、少女の声は受話器の向こう側で言った。

 すぐに、壁の電話機本体に眼を走らせたが、通話者の顔を映す筈の液晶モニターには何も映し出されていない。ただ、灰色の画面が続くのみだ。

「え、ええ。そうだけど…誰?」

「誰でもいいじゃない。それより――」

 優子は受話器を左手に持ち直し、右手で前髪を掻き上げた。壁にもたれて、ショートパンツから伸びた白い足を、軽く足首のところで組んでいる。

「今晩、あなたの知っている生徒が一人死ぬよ。――いえ、殺されるのよ」

 唐突な、そしてあまりの内容に、玲花は思わず素っ頓狂な声を上げた。

「ちょ、ちょっと、どういうことよ、それ!?」

その声のあまりの大きさに優子は受話器を耳から引き離した。

 そんな優子に、中野恵子はさらに告げる。

「あなた、優子ちゃんでしょ。安田君の義妹(いもうと)の」

「――!?」

 まさか――

 何処まで知っているというのだ、この女。――何者だ?

「な…どうしてわかったの?」

 驚いて、思わず優子は受話器を見つめてしまう。

 その彼女に、液晶モニターの中野恵子は、手をパタパタさせて告げた。

「やーねぇ。本当にそうなの? 冗談で言っただけなのに」

「…………」

 優子は気を取り直そうと、もう一度姿勢を変えた。今度は首をちょっと左に傾げ、肩との間に受話器をはさみこんだ。

「――先生、もしかしたら、みんな知っているのかしら?」

「惜しいわね。見当はついていたのよ。今ここで起こっている、またはこれから起ころうとするもの全ての中心にいるのが、あなたじゃないかって。――どうしてそう思うか知りたい?」

「ええ。とっても」

「あなた、青木君の死体が発見されたとき、木の陰にいたわね。それも結界を張って。けれど、証拠がなかったし、信じられなかったのよ」

 受話器から、優子のはっと息を呑む気配が伝わってくる。

「よく、わかったわね」

 しばらくして後、優子は苦笑まじりにそう言った。まさか姿を隠すために結界を張ったというのに、その結界を見破ることの出来る人間がいるとは思っていなかったのである。

「――何故、青木君を殺したの? ううん、それよりも、あなたは何者なの?」

 安田圭一から聞いていた義妹の印象が、今本人と話していてことごとく覆されていく、そんな感覚を味わっていた。

 今、私が話をしているのは本当に安田優子なのか?

「教えてあげるわよ、先生。今晩七時に校庭に来ればね」

 その言葉の裏に潜む邪悪な陰謀と暗い炎を幻視したのか、玲花は一瞬声を無くして凍りついてしまった。

「何をするつもりなの? いえ…いったい、何が始まるの…?」

「儀式を行うのよ。全てを終わらせ、そして新たに始めるためのね」

 玲花には、受話器の向こう側にいる少女の邪悪な笑みが、まるで目の前にいる日のように容易に想像できた。

 悪魔の微笑みに彩られた美少女。もはや、彼女は人間ではなかった。

「させないわ!」

 叫ぶように玲花が言う。

「ならば、止めてみるがいいわ」

 優子は笑い飛ばし、

「――今から、私の家に来ようとしても無駄よ。来れないように結界を張っておいたから。いくらあなたでも決して解けない結界をね。じゃあ、先生、最高のショーを見せてあげるわ」

 チュッと受話器に口づけして、優子は電話を切った。

 壁に掛かった時計は、六時三〇分を指していた。

 あと三〇分…。

「――いくわよ」

 今の障子越しに声をかけると、優子は階段を上がって自室に入った。彼女が部屋に入ると同時に、居間から意志を持たぬ、木偶(デク)人形と化した圭一が姿を現し、おぼつかない足取りで廊下を歩き出す。

 今、この家にいるのは二人だけだった。

 母親は、買い物に出ていて留守だ。しかし、じきに戻って来るだろう。だが、それは今すぐではない。重要なのは、今この瞬間なのだ。

 二階に上がる階段の下で優子を待つ圭一の口から、よだれが滴り落ちていた。

 程なくして玄関のドアが開き、圭一の顔を持つ人形が姿を現した。続いて、漆黒のローブにその身を包んだ優子が出てきた。

 ゴオオオ…。

 外は、いつの間にか嵐になっていた。

 尋常ならざる気配をはらんだ強風が街を吹き抜けていく。

 樹々が激しく揺さぶられ、無数の葉が天空へと舞い上げられていく。

 もうすぐ雨も降り出しそうなほど、黒雲が重く垂れ込めていた。

 強風は少女の頬を叩き、長く綺麗に伸びた髪を乱していく。

「きゃっ」

 と可愛らしい悲鳴を上げ、乱れた髪と大きく翻ったローブの裾を慌てて手で押さえる。ローブの下には、パンティしかつけていないようだった。

 コホンと咳払いをして、邪気に満ちた美貌を頭巾で覆い隠す。

 同じだ――

 優子は空を見上げて思った。

 邪悪に輝く瞳は遠くを見つめていた。昔を思い出しているのだ。

 あの夜と同じだ。

 空を埋め尽くす暗黒の雲は、今、地上を吹き渡る狂気の風を受け、くろぐろと渦を巻き始めた。

 そのとき、ふいに不安が心の中に生じた。

 もし、全てが同じであったら…。

 予想外の人物によって、儀式が阻止されるとしたら…。

 優子は頭を振って、不安を追い払おうとした。

 いや、必ず成功させるのだ。

 この地上に、更なる嵐を――地獄の嵐を起こすのだ。

 邪悪なる嵐を巻き起こし、全世界に呪いと災いとを振りまいて、恐怖と絶望と死の渦に全ての人間を叩き落とすのだ。

 それが、自分の持って生まれた役目なのだ。

 優子は、キッと正面を見据えた。

 その眼にはもはや不安や怯えはなく、強い意志と邪なる光輝だけがあった。

 己れを勇気づけて、彼女は烈風の中、目的地を目指して一歩一歩踏みしめながら歩き出したのだった。


 どうするべきか。

 玲花は悩んでいた。

 安田優子から予告電話があってから、すでに一五分が経過している。その間、妖の帰りを待つべきか、それとも単独ででも行くべきなのか決めかねていたのである。

 無論、玲花は優子たちが家を出たことを知らないが、恐らくそうであろうことは推測できた。

 そして当然のことながら、安田圭一が連れられていることなど予想できよう筈もない。

 妖はまだ帰らない。

 今なら、まだ七時までには学校に着くことが出来る。しかし、いつまでもこうしてはおれぬと悟った玲花は、メモ用紙に手短に用件を書きおいて、部屋を飛び出した。

 マンションの玄関を出たとき、吹き荒れる強風に身体ごと持って行かれそうになる。

 風に乱される長い髪を玲花は手で押さえつけ、そして唇を噛みしめて歩き出した。

 走ろうにも走れないほどの強風に雨が混じりだしたのは、それからすぐのことであった。

 風に流されて、雨が斜めに降ってくる。

 タイトスカートから覗く足に雨が当たり、体温を奪っていく。

 ジーンズにすべきだったと後悔しながらも、玲花はその雨がただの水ではないことを感じ取っていた。

 京都に流れ込む凄まじい量の妖気――それがついに今日という日を迎え、いっせいに地上に降り注いでいるのだ。

 そう、これは妖気の雨だ!

 高校に向かう途中、玲花は今までだれ一人として街の人たちに会わなかったことに気づいた。

 帰りを急ぐ人の影さえもない。誰も外へ出ようとしない――外があることさえも忘れ去っているかのように。今日、外出していた人々は、何処で何をしているのだろう。

 消えた――? まさか…。

 玲花は、そう想像してゾッとなった。

 そして、すでに妖気に支配されつつある街を、嵐の中、風に抗いながら駆け抜けるのだった。

「そうか、この嵐は結界なんだわ」

 この嵐が、これから始まるであろう地獄めいた朱の儀式を、愚民――優子(かのじょ)ならそう言うだろう――の眼に触れさせぬための結界なのだと悟ったとき、玲花は苦笑した。

 玲花は、古典の講師として圭一たちの通う高校に赴任したときから、実のところ優子に眼を付けていたのである。

 彼女の持つ、常人には感じられぬ程のわずかな雰囲気の違い。それは、当人とて気づかぬものであったに違いない。そしてその差異こそが、裡に眠るもう一人の人格の存在であったなどと、テレパシストでない優子にわかろう筈がなかった。

 人格転移現象を起こした優子は、強力な魔力を身にまとうに至り、結果、青木健を殺害した。その理由はわからない。

 少年の死体が発見されたとき、玲花が苦虫を噛み潰したような表情をしたのは、自分の詰めの甘さと非力さを呪ったからだ。

 自分にもう少し能力があれば、青木健は殺されなかったかも知れない。安田優子というキー・パーソンを見出していながら…。

「――!?」

 不意に、愕然と玲花は足を止めた。

 高校の門が正面に見え始める位置だ。ここから門までは、まだ百メートルはあるだろうか。

 校舎に眼を向ける玲花の背筋を、そのとき冷たいものが走り抜けていた。

 校舎が、かすんで見える。

 暗闇と嵐のせいではない。そこだけが紗がかかったような感じなのだ。

 しかも、空間が歪んでいた。

 もの凄いレベルの妖気が渦巻いているのだ。

 他の全てを圧倒する勢いで、その一点にのみ妖気が集中しているのである。

 自分一人の能力では、とうてい太刀打ちできる相手ではない。ただの人格転移者ではあり得なかった。妖の話によれば、優子のもう一つの人格は、輪廻転生の末に再び人として生を得たランバートなる存在らしい。

 しかし、ランバートとて人間だ。たとえ、天魔を降臨せしめる役目を帯びて生まれてきたとしても、だ。

 にもかかわらず、今、玲花が感じている妖気のレベルは、悪魔との契約を交わした人間のまとえる域を、遥かに凌駕していた。

 そう、言うならば魔界貴族のレベル…。

 今、世界中の妖気が、この京都に流れ込んで来ているという。では、この地上にはそれほど高レベルの妖気に昇華し得る負のエネルギーが満ち満ちているというのか。

 世紀末――。

 人が人間(ひと)らしい心を忘れ、己れの欲望を満たすためだけに、目の前にある快楽におぼれ、他人を顧みることの少なくなった物欲の世界。そこには、怨みつらみ、妬み嫉みなどの負のエネルギーが充満していた。それが、魔界貴族をもこの地上に召喚し得るほどの妖気になるというのか。

 だが、ここで怯むわけにはいかない。

 覚悟を決める他なかった。妖が、部屋に残してきたメモを見るか、八導師からの連絡を受けるかしてここに到着するまで、何とか持ちこたえるのだ。

 玲花は信じていた。

 妖――あの美しき魔人なら、阻止できる筈だと。

 玲花は足を踏み出した。

 その途端、ぐうっと妖気がうねって玲花に襲いかかる。それは、現実の風圧をも伴っていた。

 ――

 何度か押し戻されそうになりながらも、玲花は何とか校門にたどり着いた。

 わずか百メートルを歩ききるのに、五分近くもかかっていた。

 校舎に近づけば近づくほど、妖気はその濃度を高めている。

 もし常人が玲花と同じ場所に立っていたら、一瞬で内臓まで凍らせて死ぬことになるだろう。

 妖気の伴う異常なほどの冷気は、それをなさしめるのに十分であったのである。

 玲花は閉じられた校門を軽く飛び越えると、音もなく校内に忍び込んだ。

 握った手に汗がにじんでいる。

 緊張と恐怖のため、喉もカラカラになっていた。

 もはや、横殴りの激しい雨が全身を濡らそうとも、全く気にならなかった。

 やがてグラウンドに出た。

 四百メートルトラックが二つ入る、自慢のグラウンドである。それにしても、ここの設計者は、よもや、自分が図面をひいた高校が、悪魔復活の儀式に使われようとは、思いもよらなかっただろう。

 今夜、自慢のグラウンドは妖気にまみれ、汚されていた。すでにそこには、直径が五〇メートルにも及ぶ六芒星が描かれていたのである。

 六芒星。

 すなわち、魔法円。

 すなわち、召喚術。

 正三角形を二つ組み合わせた巨大な星を、真円が取り囲んでいる。その悪魔の図陣の中央に黒いローブをまとった少女がいて、その足許に安田圭一が横たえられていた。

 死んではいない。しかし、死人と同じであった。

 優子の赤光を帯びた凶眼は、今、タイトスカートを押さえてグラウンドに姿を現した美しい影に向けられていた。

 玲花は、優子に声の届く距離まで来ると、

「どうやら、間にあったようね」

 吹きすさぶ風に美貌をしかめながら、彼女は言った。しかし、それが虚勢でしかないことを、自分が一番よく知っていた。

「いいえ、待っていたのよ、先生」

 優子は微笑を浮かべた。

 それは、これから起こる光景の凄愴さを思わせる邪悪な笑みであった。

「――あなたを、殺すために」

 優子の唇が、邪な笑みに歪む。

 まさしく、魔の女であった。

「馬鹿な真似はおやめなさい!」

 風雨の音にかき消されまいと、玲花は大声で叫んだ。

「馬鹿な真似、だと?」

 数メートルを隔てて立つ美女を、優子は嘲笑うように見た。

「あなたは、何もわかっていないのよ。――化物扱いされた人間の気持ちなんか!」

「え――!?」

 優子が突如見せた人間らしい感情に驚いて、玲花は言葉を失った。天魔を降臨させ、いつか来る〝審判の日〟に備えるのが、彼女――ランバートの使命だった筈だ。

 それなのに、何故、優子は眼に涙をためて、玲花を睨みつけているのか。何故、両親を初めとする人間に怒りを覚えるのか。

「――もう一人の優子も同じ気持ちよ。他人にはない能力を持ったのは、私たちがそう望んだわけじゃない。それは()まっていたのよ。それなのに、何も知らぬ愚かな奴等が、私たちを化物扱いする。幼かった私たちに救いの手を伸べようともせず、自分たちの眼の届かぬところに排除しようとした。 救いもなく、追いつめられ、何度死のうと思ったかわからないわ。――あなたに、この気持ちがわかるかしら、先生」

 優子の、思いもかけない悲痛な訴えは、玲花の心を悲しみに締めつけるのだった。

 確かにそうだ。二人の優子は、どちらも人に愛してもらいたかったのだ。ただ、それだけだったのに…。人は、彼女たちを忌避し続けた。その結果が、これだ。もし、優子が両親の愛情を一身に受けて育っていたら、ランバートの人格が表面に浮上することはなかったのではないか。

「だ、だからって…」

「どうして、こんなことをするのか、でしょ?」

 玲花の言葉を遮って、優子は告げた。

「昔――」

 優子は、遠くを見るような目つきをして言った。

「化物の娘を持ったと、錯乱した両親が私を殺しに来たことがあったわ。もの凄い恐怖と憎悪を感じて、私は、自分はいらないのだと思った。これほどの憎しみを受けて生きていけるなんて思えなかった。だから、これで死ねるのならと、私は安らいだ気持ちになったの。だけど、そのときに思い出したのよ、もう一人の優子じゃないわよ、私がね。自分が背負った役目がいったい何であったのか。思い出した途端、馬鹿馬鹿しくなったわ。何故、こんな奴等に殺されなくちゃいけないのか。その途端、もの凄い能力が私の体から噴き出し、両親を殺した。ううん、両親じゃないわ。――虫ケラよ!」

 優子は、吐き捨てるように言った。

 徐々に眼は吊り上がり、邪悪な輝きを取り戻し始めた。

「本来の記憶と役目を取り戻した私が、優子の身体をもらったのよ。でもね、あの子も願っていたのよ」


 愛して。

 私を、怖がらないで。


「殺したいってね。――さ、話はおしまい。それで、どうするの?」

 玲花は、胸が痛かった。いや、心が痛むのだ。

 人間が、自分以上のものを受け容れることさえ出来れば。

 私たちは、運が良かったのだろうか。

 そう、所詮『運』なのだ、今の人類では。

 それでも――

「――と、止めてみせるわ」

 玲花は、腰に差した短剣(ダガー)を引き抜き、胸前に構えた。

 やはり、ジーンズで来るべきだったが、もはや悔やんでも遅かった。

「やってみるがいいわ」

 不敵に笑う優子の右手が、ゆっくりと上がり始めた。闇に映えるほどの白い腕だ。

 繊手が天空にかざされたとき、その手の中に、細身の(レイピア)が握られていた。

 ランバートの、あの剣だ。

 嵐の中を、音も立てずにローブ姿が地を蹴る。

 (はや)い!

 愕然と身構えたとき、優子より放たれた銀閃は、玲花目がけて空を切り裂きつつあった。

 ぎぃん!

 戞然と、レイピアと短剣とが絡み合う。

 空中を疾って来た刃を、玲花が短剣で受け止めたのである。

 刹那、優子がローブの裾を翻して後方へ跳んだ。

 同時に、閃く玲花の右手から、優子の左胸に向けて一直線の銀光がつないだ。

 玲花が短剣を放ったのである。

 一条の閃光を、しかし優子はとんぼを切って躱して見せた。瞬間、玲花の口許に笑みが浮かんだ。

 勝機――!

()ッ!」

 優子が着地しようとするまさにその瞬間、再び玲花の右手が蒼い光を放った。

 玲花の手を放れた瞬間、蒼い光を帯びた短剣は、無数の光の矢へとその姿を変えた。

 光矢(こうし)が、文字通り豪雨となって優子に降り注ぐ。

 真正面から。

 だが――

「馬ァ鹿」

 嘲笑を浮かべて、優子がレイピアを一閃した。

 一本残らず叩き落とされる光矢を、玲花は何が起こったのか理解できずに、茫然と虚空を見つめていた。

 傷一つ負うことなく、優子は悠々と着地する。

「ここは、結界の中。この中では、あなたの超能力も半減するのよ。――それにしても…」

 優子は、ゆっくりと玲花に向かって歩き出した。その平然とした姿を見て、玲花の心は絶望と屈辱に沈んだ。

 やはり、私には無理なのか…。

 心の中で呟いたとき、まさにその一瞬の間に、視界の中から少女の姿が消え去っていた。

「――!?」

 消えたと思ったとき、すでに玲花の身体は高々と宙に舞っていた。

 何か、強烈な衝撃波が腹部に集中し、弾き飛ばされたのである。

 数十メートルも飛ばされ、玲花は自由落下のスピードで地面に背中から叩きつけられた。

「ぐはっ!?」

 短い苦鳴を上げる。呼吸が一瞬停止した。

 視界は暗転していたが、程なく回復した。

 薄笑いを浮かべ、自分を見下ろす優子の顔が見えた。

 その手が玲花の襟首に伸びて、少女のものとは思えぬ腕力で、玲花の身体を引き上げる。

 年上の美女が苦しそうに喘ぎ、痛みに美貌を歪ませるのを、優子はサディスティックな眼で見つめていた。

 いつの間にか優子の手は下ろされ、玲花は空中に浮かんでいた。

 いや、眼に見えぬ何かに首を締めつけられ、吊り上げられているのだ。

「阻止する、ですって? ふふふ。どうやら無理だったようね。所詮、あなたたち普通(ただ)の人間には、止めることなどかないはしないのよ」

「……く――」

「それにしても、先生、あなたはいったい何者なの? 私の結界を見破り、さっきみたいな超能力を使うなんて」

 優子は、玲花に喋らせるために、少しだけ首を絞める不可視の手の力を弱めた。

「わ…私に勝っても…すぐに私よりももっと強い(ひと)が…来るわ」

 玲花が喘鳴まじりに告げる言葉は、優子をイラ立たせるに十分であった。

「減らず口を叩かないでほしいわね、先生。あなたがここに来られたのは、私が、校舎中に張り巡らせた結界をゆるめ、通してあげたからなのよ。――わかる? さっきとはもう比べものにならないくらいの妖気が、ここに集中しているわ。結界はすでに閉じられ、二度と開くことはないし、たとえは入れたとしてもこの妖気に耐えられる人間はいない。先生だって、身体が衰弱していくのを感じている筈よ。それよりも、さっきの質問に答えてちょうだい」

「え、遠慮するわ」

「なに!?」

 にわかに、優子の美貌が怒気に歪む。

 まさしく鬼の如き、もの凄い形相だ。

「貴様…死にたいのか」

 レイピアを玲花の眉間に突きつけて、優子は美貌を怒気に歪ませた。かろうじて正気を保っているようだ。それほど、玲花の態度が気に入らなかったらしい。

「どうなのだ!」

 レイピアの鋭い剣先が、ぎらりと凶々しい光を放った。

 玲花は、気持ちが悪くなるほど鋭利な刃を、平然と落ち着いた様子で見つめ返していた。

「その覚悟は出来ているわ。――今回の仕事を受けたときからね」

 いえ、〝美槌〟に入った瞬間(とき)からよ。

「くく、そう。それなら――死になさい!」

 レイピアの切っ先が、すっと後退した。次の瞬間、その刃が、玲花の美貌を刺し貫くのだ。

 優子の満面に、凄まじい笑みが浮かぶ。人間を殺すという歓喜に打ち震えているのだ。そして、血の臭いを待ち焦がれているのだ。

 レイピアが空を切り裂いて疾った刹那――

「妖っ!」

 玲花は思わず眼を閉じ、愛する男の名を叫んでいた。

 自分の生命を奪う死の刃――凶刃は、しかし、いつまで経っても玲花に襲いかかることはなかった。それでいて、すぐ目の前に突きつけられている気配はある。

 恐る恐る玲花は眼を開けて、それを見た。

 レイピアを今まさに彼女に突き刺そうとする優子の腕を、男の手が掴んでいるのを。

 ピクリとも動かない。

「貴様は――」

 呻くように、優子が首をねじって、背後の影に言う。

 そこに、一人の美しい若者がいた。

 切れ長の眼、吸い込まれそうなほどの黒い瞳、そして口許にはあるがなしかの笑み。

〝美槌〟のうちで最も強大な能力――魔力を宿す美しき魔人。

「待たせたな、玲花」

 よく通る、綺麗な声で妖は言った。それだけで、玲花は安堵のあまり、気を失いそうになった。

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