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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第2章 始まりと終わりの日
6/24

1

 圭一たちの通う高校をその日染め上げていたものは、赤い血と悲哀と怒り、そして、地平線にその身の半ばまでを没しつつある赤く燃える円盤だった。

 生徒たちはショックを隠せぬまま、昼過ぎに自宅へと足を向けている。

 青木健を惨殺した凶器は、ついに、その近辺から発見されることはなかった。

 体育用具室にしまわれてある様々な用具から周囲の草むらにいたるまで、警察はくまなく調べたのであるが、出てきたのは、恐らく生徒が隠れて吸っていたのであろう数本のたばこの吸い殻だけであった。

 また、用具室の鉄扉の取っ手から発見されたいくつかの指紋はどれも生徒のもので、全員アリバイがあった。しかし、これは誰一人として知らないことなのだが、その指紋の中に、青木健を殺した少女のものは含まれていないのだった。

 教師たちへの事情聴取及び、駆けつけたマスコミへの事件内容の発表などを行ったあと、警察はいったん、本部へと引き上げていった。

 それから程なくして、中野恵子をはじめとする教師たちは、京都府警が警戒線を主要道路に引き、検問を開始したことを知らされた。

 青木の家族は、遺体が司法解剖にまわされているため、彼の遺品だけを引き取って、自宅へ悲しみの帰宅をした。

 教師たちを責めることは出来ない。

 誰一人として、そう殺害された当人すら、この殺人事件を予測し、この死の理由を解明できる者などいないのだから。

 家族の怒りは、殺人犯人ただ一人にのみ一点集中して放射されていた。

 一刻も早く、殺人鬼を地獄の底に葬り去りたい。それこそが、息子の一番の供養だと思うのは、どの家族でも同じだろう。

 恵子たちが高校を後にし家路についたのは、午後六時近かった。

 恵子は、一人、彼女が借りているマンションへ向かっていた。白いハンカチを口に当て、ショルダーバッグを肩から提げて、青白い顔で歩いている。

 元来色白の肌に、このとき青みさえさしていた。

 普段とは違った、はかなげな美が今の彼女にはあった。

 ふと足を止め、恵子は夕陽の光の残滓を見つめた。高台の、ガードレールのそばである。

 目の前に曲がり角があった。

 夕陽は彼女の左側にあり、首だけをめぐらせて、それを見ているのである。

 風が、そよと吹いた。

 夕刻とはいえ、少し生暖かい風だ。

 ようやく気分が落ち着いたのか、恵子はハンカチをバッグにしまった。

 また、風が吹いた。

 タイト・スカートから覗く健康的な足を、生暖かい風が撫でていく。

 決して心地よいものではなかったが、今の彼女には気にもならなかった。

〝――先手をとられたわ。けれど、いったい誰が青木君を…。まさか、あの子が…〟

 空を仰ぎ見る彼女の眼には、凄まじい妖気が渦を巻き、この街を覆い尽くしているのが()えていた。

 何が、起ころうとしているの――?

 恵子の切れ長の眼が、気落ちしたように下を向く。

〝――妖、あなたがいれば、あんな事件、起こりはしなかったでしょうに…〟

 溜め息をつく恵子に、優しい声がかけられたのは、三度目の風が彼女の長い髪を揺らせたときだった。

 まるで、風が囁いたようだった。

「――玲花」

 声は、そう呼んでいた。

 懐かしく、そして忘れられない声。

「妖!?」

 髪を大きく乱して、恵子は、いや秘密結社〝美槌〟の女戦士〝玲花〟は、愕然と振り返った。

 彼女の背後のガードレール、そこに、いつの間にか美しい若者が腰をかけていた。

〝美槌〟の中で、最も強力な魔力を持つ美麗の男、妖。

 若者は、唇に薄い微笑をのせて、玲花を見つめていた。

 背の高い青年だった。黒のスラックスと半袖のカッターシャツに包まれたスリムな長身は、一六五センチの玲花よりも、まだ一五センチほど高かった。

 玲花は、一瞬、嬉しさのあまり声が出なかった。何せ、ずっと会いたいと思っていた男が、今、自分の目の前にいるのだから。

 京都に妖気が集中し始めたことがわかり、玲花が高校の講師として派遣されてから、すでに半年近くが経過している。

 いつもコンビを組んで仕事をしている妖と離れての初めて仕事であった。

 辛くなかった、寂しくなかったと言えば、それは嘘になる。

 少しでも早く妖気集中の原因を突きとめ、仕事を終えて本部に戻りたかった。

 早く、妖に会いたい。

 それだけであった。

 離れて一人で生活するうちに、玲花は、妖への想いがどれだけ心を占めているのかを、改めて悟った。

 妖の魔力と玲花の能力とでは、比較にならないほどの差がある。文字通り次元が違うのだ。

 しかし、そんなことなど何の障害にもならないと思われるほどに、玲花の妖に対する愛は強かったのである。

「――ど、どうして、京都(ここ)に?」

 ようやく、玲花が思い出したように口にしたのは、その疑問であった。

 それは当然の質問であった。八導師からは、妖が来るという連絡はまだ受けていないのである。

「緊急に、君への増援が決まったんだ」

 妖が言った。

 よく通るいい声だ。

「――何か、手がかりでも掴めたの?」

 妖の言う〝緊急〟が気になって、玲花は形のいい眉をひそめた。

「ああ。詳しいことは後で話すよ。――それより、何かあったのか?」

「ええ。高校の生徒が、一人殺されたの」

「殺人――?」

「そう。――でも、あれはふつうの殺人じゃないわ」

「話してくれないか?」

「いいわ。歩きながら話しましょう」

 そう言うと、玲花は妖に背を向けて歩き出した。

 妖が、無言で玲花の後ろ姿を追う。

 玲花は、程なくして校内で生じた殺人事件について、彼女の知っていることを全て彼に話し始めた。

 警察機構内部にも〝美槌〟の人間がいる。彼等から情報を入手できるため、玲花たちは一般人やマスコミよりも、正確な情報を早く手に入れられるのであった。

「――そして、あの事件の直後から、今まで以上の妖気がこの街を包み始めたのよ」

 青木健の一件を話し終えた彼女は、隣を黙然と歩く美青年に見解を求めた。

 果たして、妖の感想は玲花のものとほぼ同じであった。すなわち――

「先手をとられたかな?」

「わからないの。――でも、そうじゃないかって思うのよ。それに、殺人犯人が妖気を導いているとも考えられるでしょ?」

「ふむ。そうだな…」

 そうとだけ答えて、妖は再び何かを考え出した。

「――ねぇ、何をそんなに考え込んでるのよ。何か心当たりでもあるの?」

 妖の真剣な横顔を覗き込みながら、玲花が訊く。

「ん? いや、今晩どこに泊まろうかなって…。――おや?」

 思わずズッコケてしまいそうになる玲花。もしそうなっていたら、ハイヒールのために足首を捻挫してしまっていたかも知れない。

「あ、あのねぇ、真面目に考えなさいよ」

 呆れ返った玲花が妖に言う。

「考えてるよ。寝るところに三食の飯をどう確保するか――じゃなくて、仕事のことだろ?」

 思わず玲花が拳を握りしめるのを見て、慌てて言い直す。

 玲花は、くすくすと笑い出した。

 二人は、近くにある公園に入っていった。

 すでに陽は沈み、公園に人影はない。

 公園の周囲をぐるりと囲むように樫の木が植えられている。その梢が、風に揺れていた。

 四つあるブランコが、微かに揺れている。

 砂場には、崩れかけた城があった。

 公園には照明がいくつかあったが、とても闇を駆逐するには及ばない。

 玲花は、ブランコの一つに腰かけ、ゆっくりと揺らし始めた。

「さあ、次はあなたの番よ、妖。――何がわかったの?」

 ブランコを支える支柱にもたれている妖に、玲花はそう問うた。

「八導師たちは、事の真相を探るために降霊会(シッティング)を行ったんだ」

「降霊会?――それで、どうだったの?」

「手がかりはあった。今回の妖気の渦に中心にいる人物――または魂を知る霊がいたんだ」

 妖は腕組みをほどいた。

 玲花の隣のブランコに立ち、こぎ始める。

「その霊との交霊によれば、敵――その霊が生きていたときも敵対していたらしいが――は、神の施した七つの封印を解き、魔族の復活を目論んでいるらしい」

「魔族の、復活ですって!?」

 驚愕のあまり、ブランコをこぐのも忘れ、玲花は素っ頓狂な声を上げた。

「その敵って、魔道士なの!?」

「否、だな。霊魂は、普通の男だと告げた。そして、敵――名をランバートと言うらしい普通の男は、すでに七つの封印のうち六つまで解いてしまっている。つまり、残るはミカエルの封印だけってわけだ」

 妖は、相変わらずブランコをこぎ続けていた。

「再び現世に転生したランバートが最後の封印を解き、魔族をこの世に放ったとき、この世界は闇に呑まれ、生物は死滅する」

 玲花は、恐るべき発言を平然と言い続ける妖を、このとき唖然として見つめていた。

 背筋に冷たいものが走るのを覚えずにはいられない。しかし、それでも妖を愛している自分がいる。たとえ彼が何者であろうとも、この気持ちは変わらないだろう。

「絶対に阻止しなきゃ」

「わかっている。――よっ!」

 かけ声とともに、妖がブランコから飛ぶ。

くるりと一回転し、二メートルほど前方へ着地する。

「そのために、俺が来たんだ。必ず、転生したランバートを見つけ出し、くいとめてやるさ。――がんばろうぜ、玲花」

「うん…」

 妖の自信満々な口調に対し、玲花のは力がなかった。当たり前である。人類の存続が自分たちの双肩にかかっていると知れば、誰だってこうなる。

「元気出せよ、玲花」

「あなたは、元気ね」

 苦笑しながら言う。

「はっはっは。元気だけが取り柄だからね」

 腰に手を当て大笑いする妖の白い美貌が、明かりに照らされて薄暗い闇にの中に映えている。

 妖の美貌ほど、闇の似合うものはないと、玲花はこんなとき思うのだった。

「ところで、もう一つ大変な問題があるのだが、覚えているか?」

「さて、何だったかしら?」

 いたずらっ子のように玲花が微笑む。

「とほほ~、そりゃないよ、玲花」

「嘘よ。――妖、私の部屋に来ない?」

「いいのかい?」

 一瞬、妖は戸惑ったようだ。彼にしてみれば、玲花からそういい出すとは思いも寄らなかったのだ。

「食事と寝る場所くらいは提供するわよ。――ただし、ソファだけどね」

「君が?」

「馬鹿」

 玲花の美貌が少し赤くなっていた。彼女自身、自分の言った言葉に困惑しているらしい。

「――さ、行きましょう」

 ふわりと妖精のようにブランコから飛び降りて、玲花は妖の腕をとった。

 高校の門を出たときとは大きく異なり、足取りも気持ちも軽やかになっていた。


 安田圭一は、自室のベッドの上で膝を抱えていた。学校で見せた凄まじい怒りは何とかおさまったが、それでもなお、自然に唸り声が洩れてしまうほどであった。

 依然として怒りの炎は、心の内奥でくすぶり続けているのである。

 ほんの少しでも風が吹き抜ければ、それはたちまちの内に大火となるであろうと思われた。

 圭一が顔を上げたのは、玄関のドアが開いて閉じる音がしたときだった。

 窓の外に眼を走らせると、すでに夜闇が漆黒のベールのように下りていた。

 ドアが閉じる音がした直後、何かが倒れる音がした。ペタペタと慌てて駆けつけるスリッパの音。事件のせいですっかり遅くなった夕食の準備をしていた母親が、玄関の方へ駆けつけたようだ。

 食べたくないと圭一は言い張ったのだが、母親は食べないでどうするの、と言い返した。

 圭一は、あまりの怒りのため、胃が食べ物を受けつけられる状態ではなかったのだ。

 しかし、それでも食べなければならないときもある――そう母親は言った。

 だから圭一は、食べたくなったら食べるよ、と告げて自室にこもったのだった。

 そして、今頃になって腹の虫が騒ぎ出しつつある。どうやら、少し感情が落ち着きだしたせいらしい。

 思わず自嘲じみた笑みを浮かべたときだった。階下から優子の名を連呼し、圭一を呼び立てる声が聞こえて来た。

 何か切迫したものが感じられる。

 圭一の背筋を冷たいものが疾る。

 まさか、優子の身に何か――!?

 圭一はその瞬間、明かりもつけずにいた部屋から矢のように飛び出していった。

 一気に階段を駆け下り、玄関へ走る。

「――!?」

 玄関では、母親がぐったりとなった優子を、青ざめた顔で介抱しようとしていた。

「優子!?――母さん!?」

 母親の腕に抱かれる義妹は、冷や汗を流して気を失っていた。先程聞こえた何かの倒れる音とは、失神した優子の起こした音だったのだ。

「あ、圭一!?――優子を居間に連れていって。母さん、タオルと着替えを取って来るから!」

 こんなときでも気が動転していないとは、我が母親ながら落ち着いた女性だな、と圭一は心の中で評価を下した。

「あ、ああ、わかったよ」

 頷くと圭一は優子を預かり、「よっこいしょ」と抱き上げた。

 軽い身体だった。

 女の子の身体とは、こんなにも軽いものなのだろうか。何とか弱い存在なのだろう、と思った。

 母親がキッチンに入るのを見届け、圭一も居間に向かった。居間は、廊下を隔ててキッチンの向かいにある。

 障子を開け、中に入る。

 居間は一〇畳ほどの広さがあった。冬は掘り炬燵になるテーブルが中央にあり、大型のワイドテレビが部屋の隅に置かれてある。

 とりあえず、圭一はテーブルのそばに優子を寝かせた。

 と、母親が顔を覗かせ、タオルを放り込んでいく。それで、優子の汗を拭えということらしい。

 少しドキドキしたが、やはりセーラー服まで脱がせなかったので、顔や手など露出している部分だけ拭いておくことにした。

 手を拭き終わり、顔から首筋にかけてタオルをあてたとき、再び母親がやってきた。

 優子の着替えと、冷えた身体を温めるためのホット・ミルクを入れたマグ・カップと持っている。

「――何があったのかしら?」

「わからない。青木が殺されてから、ずっと優子の姿が見えなかったんだ。だから、てっきり先に帰っていると思っていたんだ…。なのに…」

「わかったわ。――あとは母さんがやるから、あんたは部屋に戻ってなさい」

 マグ・カップをテーブルの上に置くと、母親は押し入れから布団を取り出しながら、しっしっと圭一を居間から追い出しにかかった。

「わ、わかったよ。それよりも、腹が減ったんだけど…」

 部屋を追い出された圭一が、間の抜けたことを障子の向こうの母親へ訊いた。

「ほらみなさい。キッチンのテーブルの上にあるわよ。――用があったら呼ぶから、食べてなさい」

 それが母親の返答であった。

「あ、ああ…」

 ともかく、優子のことは母親に任せるしかなかったので、圭一はキッチンへ引き下がることにした。

 優子の悲鳴が聞こえたのは、それから一〇分ほど経過してからのことだった。

 あまりの唐突さのために、圭一は口に含んだみそ汁を吹き出してしまった。

「な、何だ――!?」

 圭一はキッチンを飛び出した。

 背後で食器がテーブルから落ちて割れる音がしても、耳に届いていない。

「優子!?」

 一気に障子を開けた。

 何も聞きたくないとでもいう風に、優子は耳を押さえ、ガタガタと震えている。

 母親は、さすがに今度は動転したらしく、オロオロと何をして良いのかわからない様子だった。

「母さん、何が――」

 と言いかけたとき、圭一は優子の狂乱の原因を悟った。

 居間のワイドテレビが、ニュースを報じていた。

 九時のニュースであるらしい。ということは、圭一は四時間近くも部屋にこもっていたことになる。

 ニュースの内容を途中からだが耳にした圭一は、腹の中で何かが、ごそりと動くのを感じた。

 眼鏡をかけたアナウンサーが、淡々とした口調で原稿を読み上げている。

 青木健が、彼の通う高校で惨殺された事件を。

 依然として、優子は泣きじゃくっていた。

 何が、彼女をしてそうなさしめるのか、圭一にはわからなかった。

 優子が今、どんな気持ちでいるのかなどと、他人である圭一には、いや人間にはわかる筈もないことなのだ。

 優子は、青木を殺した犯人を知っていた。いや、知らされたというべきだろうか。

 犯人は、他の誰でもない。ここでこうして泣き叫んでいる自分なのだ!

 心の奥にいる残忍で狡猾で邪悪なもう一人の自分が、彼女に教えたのだ。

「殺したのは、私だ。そして、私はお前自身なのだ」

 と。

 自分を化物呼ばわりした人間どもへの復讐と、ある偉大な目的のためだとも言った。

 優子には、もう一人の自分が、青木が首を断たれて死んでゆく光景をどんな表情で見ていたのか、幻視することが出来た。

 そして、熱い血のたぎりすら、感じ取れる気がしたのである。

 圭一たちは、優子の裡で何が起きているのかわかる筈もなく、その狂乱ぶりを茫然と見守るしかなかった。

 ――

 いつの間にか、優子は眠りに落ちていた。

 泣き喚くのに疲れたのだろう。

 そう判断した母親は、優子をもう一度布団に寝かせると、息子を伴って居間を出た。

 TVも電灯も消された居間に、暗闇と静寂とが訪れた。

 眠りという混沌の世界の中で、優子は、このときもう一人の自分の声を聞いていた。

 衝撃的なニュースを耳にした後の眠りのため、優子の自我を取り囲む壁が緩くなっていたせいかも知れない。

 居間まで、もう一人の自分と話をしたことなどなかったし、その存在さえも知っていなかったのである。

 驚愕と戦慄とを、それはもたらした。

 青木健を殺す光景を、優子はあのとき見せつけられた。

 彼の、ちょうど首の位置につくった次元の亀裂に、青木は触れてしまったのだ。

 そのため、この地上の如何なる刃物を以てしても成し得ないような鮮やかな切り口を残して、青木の首は切断された。

「いいことを教えてあげるわ」

「――!? い、いいこと…?」

「そう。――お前と、私のことさ」

 はすっぱな口調で、もう一人の優子がそう告げた。

「日が経つにつれ、この身体の支配権は私に戻りつつあるのよ。――どういうことか、わかる? つまり、もうじき、この身体は私のものになるということよ」

「…………」

「やっと、時の流れと星辰の位置が、私の味方についたのよ。優子として育った五年間――そのときの自我であるお前は、私の目的の前には、非常に邪魔な存在だった。それに、邪魔な者どもを周りに置き、我が意を阻んだ。それが、たとえ無意識のうちであってもね。――でも、それももう終わり」

「――!?」

「次は、そうね、お義兄(にい)さんにでも死んでもらおうかしら?」

 くすくすと楽しそうに笑いながら言う。

 優子は、夢幻の中でやめてと、思わず叫んでいた。

 その声が、不安定な世界の中に谺する。

「そうはいかないな、優子。――奴を生かしておけば、必ず私の邪魔をするだろう。ここで奴を殺しておかねば――」

「あなたは――」

 もう一人の自分が言い終わらぬ内に、優子は何かを感じ取り、絶句していた。

 恐怖のために声が震えているのが自分でもわかる。歯の根も合っていない。

「――なんだ?」

 声が、おもしろそうに促す。

 優子が言わんとしていることに見当がついているらしい。

「あ、あなたは、いったい何者なの? あなたは、決して私なんかじゃないわ!」

 このとき優子は、自分の身体が自分のものではないような錯覚にとらわれていた。

 現に、もう一人の自分だと名乗る存在が、肉体の支配権を奪取しようとしているという。

 狂ってしまいたい。

 そうまで思った。

 二つの自我が同時に存在し、身体を奪い合っている。自分が、あの残虐な心に勝てよう筈がないことを、優子は感じ取っていた。

 だから、狂ってしまえれば楽になれるのに…。

「そうだ、私はお前ではない」

「――!?」

 その邪悪な声の響きに、思わず身を縮める。

「――私は、前世の目的完遂のために、この世に生まれてきたのだ。黄金律の人間を探し出し、それを生贄として悪魔を復活させるのだ!」

 まるで、男のような口調であった。

 もう一人の優子だと告げていた声が、突如として別の存在に変わった。いや、それがもう一人の優子の本来の自我なのだ!

 もう一人の優子は男の口調でさらに続け、恐るべき事実を優子に告げるのだった。

「我が名はランバート! 封印を解く鍵を知る唯一人の存在であった者。そして今なお、そうである者だ!」

 それが真実であることを、優子は無意識のうちに悟っていた。

 そして、自分が生まれながらにして背負わされた業のあまりの重さに、精神の闇の中へと落ち込んでいくのだった。

 優子が眼を覚ましたのは、それから六時間後であった。いつ何時、もう一人の優子が身体を乗っ取って行動を起こすのかわからず夜も眠れなかったが、結局、それからの数日間は、ランバートの記憶を持った優子は姿を見せることはなかった。

 星の運行を見、〝そのとき〟の到来を待っていたのだという事が、後になって知れた。

 しかし、人々は優子の苦悩を知ることもなく――顔色の悪さを気遣ってはいたが――日々を過ごしていた。

 やがて夏休みに突入したのであるが、青木の友人であった圭一や川中義人たちは、予定していた家族旅行を中止し、家で脱力感に見舞われる毎日を送っていた。

 何もする気が起きなかった。

 青木健の死は、彼等にとって非常に大きなものだったのだ。

 まだ、殺人犯人は捕まっておらず、容疑者も挙がっていないことが、そのことに拍車をかけているのだ。

 そして、夏の始まり――。

 古都は、異様な静寂さを現出させていた。

 ただ、時だけが過ぎてゆく。

 その現実に、優子はある詩を思い出していた。

 曰く――

〝大いなる日は、速やかに来る。

 誰にも悟られることなく、静かに。

 地に棲むものは、決して気づかない。

 暗黒と恐怖と絶望と死の日…〟

 いつしか、空から鳥の姿が消えていた。

 そういえば、野良猫や野良犬たちの姿も見えない。

 だから、静かなのだ。

 そして、七月も終わりのある曇天の日、まだ陽は高く、星も見えなかったが、ついに「大いなる日」が到来したことを、もう一人の優子は知ったのである。

 全ての終わりの、それは始まりであった。


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