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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第1章 その年、六月――
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 その高校には、何人もの女性の教師がいるが、中野恵子という女性ほど人気のある講師は他にいなかった。

 若干二五歳の彼女は、大学を卒業して間もないというのに、講師としてやっていけるほど頭いい。これは、IQが高いとか一流大学を卒業しているからといった意味ではない。

 教え方が上手いのだ。

 二年生の古典を担当していた坂本というむさ苦しい教師が、交通事故で入院している間、彼の代わりとして雇われているのだが、早くも教師間では坂本先生との交替を真剣に検討中、との噂が生徒たちの間でまことしやかに囁かれている。

 入院中の坂本先生には気の毒だが、実際、いつそうなってもおかしくない状況なのである。

 人気の秘密は教え方の上手さもあるが、それだけで学校中の人気をほぼ独占することはできない。

 彼女――中野恵子の持つ美貌と明るさ、優しさである。

 大人の魅力と清純な少女のイメージとを合わせ持つ彼女は、男子生徒ばかりでなく女生徒にまでファン層を広げていた。

 母親であり、姉であり、また親友である。

 そしてまた、その白い肌に一瞬でもいいから触れてみたいとか、あの切れ長の瞳で流し目をしてほしいといった願望を抱くものも少なくはなかった。

 また、

「中野先生は絶対に処女だ!」

 そう言い張る〝絶対処女派〟と、

「あれだけ綺麗な人が処女である筈がない!」

 と、妙な自信を見せる〝非処女派〟とが過激な論争を、さまざまな憶測やデータを持ち寄って、休み時間ごとにある教室を借り切り繰り広げているという、何ともほほえましい光景も、しばしば眼にすることが出来る。

 それに加えて、彼女が廊下を歩いていたり、職員室の自分の席に座っていると、

「一発やらせて」

「今夜一緒に食事でも――」

 と、露骨な表現から口説き文句までを用意して寄って来る生徒や教師は後を絶たない。

 そんなとき、彼女は決まってこうやるのだ。

 ニッコリ笑って、相手の頬をピシャリ、と。

 それでも、いつか…と男性陣は飽くなき挑戦を繰り返すのだった。

 よくくびれた腰と、その辺りまである長くまっすぐな髪、あまり大きくはないが形のいい胸という申し分のないプロポーションの持ち主を手にするのは、いったい誰なのか?

 そんな賭けが教師の眼につかぬところで行われているという。

 むろん、金を賭けているので見つかりでもしたら、どやしつけられること間違いなかったが。

 そんなこと学校の裏側で実際に行われ、まして、一部の教師も参加しているなど、知らない人が聞けば、なんと荒んだ問題のある学校なのだろうと思うだろうが、現実はそうではなく、明るい教師と生徒の集まる学校なのだった。

 そのとき、中野恵子は職員室の自分に与えられた仕事机で、せっせと何やら報告書(レポート)らしきものを書いていた。

 その手がふいに止まり、恵子は美しい顔を上げた。

 切れ長の瞳が動き、職員室のドアを開けて入って来る学生の方を見た。

 安田圭一である。

 手に、いっぱいの紙を抱えている。

 恵子が集めておくように言っておいた、古典についてのレポートである。

 レポートと言っても本格的なものではない。何でもいいから、古典に対する自分の思いを、原稿用紙五枚以内にまとめよ、と出しておいた宿題だ。

 それを、圭一が集めて提出しに来たのである。

「――先生、何処に置くんです?」

 彼女のそばまで来たとき、圭一はそう訊いた。

「――ん、ありがとう。ここに置いといて」

 と言って恵子が指さしたところに、圭一は原稿用紙の山を置いた。

「重かったでしょう」

「まぁ、程々に。それより、先生、どうして僕に集めろなんていったんです? 学級委員でもないのに」

「他の生徒()に、何か言われたの?」

 微笑むと、恵子は隣の席に座るように言った。

「そりゃあ、もう」

 そのときの様子を思い出しながら、圭一はイスに腰を下ろした。

 圭一を指名して恵子が教室を出ていくと、一斉にブーイングが発生した。男子も女子もなかった。みんな、圭一が指名されたことに納得いかないのだ。特に学級委員長をやっている鹿野秀夫の怒りと嘆きは強烈だった。

 そうは言われても、圭一自身寝耳に水なのだ。

 どういうことだと凄まれても、どういうことなんだろう、と首を傾げるほかない。

 恵子は、思わず吹き出してしまった。

 その生徒なら、恵子の方も覚えている。

 何かと口実をつけて、職員室に押しかけてくるのだ。別に嫌いな生徒ではなかったが、苦手なタイプではあった。

「お前、中野先生に何かしたのか!」

 などといって、圭一の襟首を掴みに来たのである。

 彼ならやりそうだなと思い、恵子はついクスクスと笑ってしまった。

「冗談じゃありませんよ、先生」

 うんざりした顔で、圭一が言う。

「ごめんごめん、つい笑っちゃった」

 とはいったものの、また何か思い出したのか、ぷっと吹き出してしまう。

「せんせえ~、どうでもいいから、何で僕を指名したんです?」

「気になる?」

 笑いすぎて目尻からにじみ出た涙を白い指で拭って、恵子は問い返した。

「もちろんです。教室に戻ったら、ちゃんと報告しなきゃならんのですから」

「あらあら、大変ねぇ」

「大変なんです。――で、何でです?」

「君にね」

 恵子が、色っぽい仕種をして言った。

 この仕種といい、さっきの笑い方といい、本当に子供っぽさと大人の魅力とが同居している女性(ひと)だなと圭一は思った。

 多くの男だけでなく、女にも好かれる筈だ。

「僕に――?」

 思わず身を乗り出してしまう。

 男の悲しいサガだよな、圭一よ。

「興味があるの」

 そう恵子が言った途端、圭一は、自分の顔がボッと赤くほてるのを感じた。

「え、あ、ほ、本当ですか!?」

 声が知らず大きくなっていた。

 学校中の全生徒と、全ての教師が待ち焦がれている言葉だったからだ。

「なに興奮してるのよ。意味が違うわよ」

「へ?」

「ふふ。がっかりした?」

 ちょっと意地悪な恵子であった。

「はぁ、まぁ、それなりに」

「――つまりね、別の意味で興味があるということなの。――わかる?」

「それは、どういう興味なんです?」

 トホホ状態の圭一がそう訊いたとき、恵子は何故か周りを見まわした。

 そして、誰も聞いていないことを確認すると、

「この頃、君の周りでおかしなことが起こっていない?」

 と小さな声で、圭一の耳に囁くように訊いた。

「お、おかしなことですか?」

 思わず顔を真っ赤にしながら、圭一もつられて小さくなった声で聞き返した。

「うん」

 恵子は、子供のように微笑んで頷いた。

 おかしなこと――そう言われて思い当たる節は一つしかない。

 そう、アレだ。

 圭一は、昨晩のことを思いきって話すことに決めた。下手をすれば馬鹿にされるだけかも知れないため、あまり他人には話したくなかったのだが、何故か、この先生ならわかってくれる、そんな気がしたのだ。

「実は――」

 圭一は、悪夢であったかも知れぬ、昨夜の出来事を中野恵子に話した。

「――義妹(いもうと)に殺されかけた!?」

 素っ頓狂な声を上げ、恵子はその夢の内容に愕然となった。

 慌てて周りを見まわし、今度は小声で圭一に、どういうことなのと訊いた。

「いえ、それが、よくわからないんです。現実なのか夢なのか――記憶が混乱してしまっていて…」

 圭一は頭を抱え込むようにして、そう答えた。

 やはり、相当のショックがあったらしい。

 現実にしろ夢にしろ、圭一にとっては変わりないのである。

 そう、義妹に――優子に殺されかけたのだから。

「記憶が混乱するって、どんな感じなの?」

 恵子は、圭一が少し落ち着いたのを見届けると、そう訊いた。

「――どう言えばいいのかな…。何か、こう、寝惚けたときに似た感じがするんです。――でも、絶対にそうじゃないって感覚も、同時にするんですよね。記憶が、そう二重になっているんですよ」

「記憶が…二重…?」

 恵子が、何かを考えるような顔つきで、呟くように言った。

 そのしばしの沈黙を破ったのは、四時限目開始を告げるチャイムであった。

「――先生、それじゃ、次の授業が始まりますので…」

 と圭一が、物思いに耽る恵子に声をかけて席を立ち上がろうとした、まさにそのとき――

 少女の悲鳴が、学校中を駆け抜けた!

 瞬間、弾かれたように席を立つ恵子。その美貌は、すでに悲鳴の上がった方向を向いていた。

 まさか、そう言いたげな表情が浮かんでいる。

 急に騒然とし始めた職員室で、中野恵子だけが茫然と立ち尽くしていた。

 すでに何人かの教師たちが、駆けつけた生徒とともに、悲鳴の上がった場所へ向かっている。

 それに続いて、廊下をドタバタと生徒たちが走っていく。

 何が――何が、あったのだ。

 圭一の鼓動が、何故か速くなっていく。

 嫌な予感がする。

 突然、目の前で美人教師の長い髪が、大きく揺れた。走り出したのである。

「せ…」

 圭一が声をかけようとしたとき、すでに恵子の後ろ姿はドアをくぐっていた。

 圭一は、後を追うように走った。

 確かに、誰かは知らないが、少女をしてあれ程の悲鳴を上げさせた原因を知りたいという好奇心はあった。

 しかし、決してそれだけではない。

 この、心の奥底に棲まう嫌な予感の正体を解く鍵が、悲鳴の上がった場所にある――そんな風に意味もなく思われたからだ。

 圭一は、まっしぐらに、校舎裏の体育用具室に向かって走った。

 何人もの生徒を抜いて走ったが、用具室についたとき、そこにはすでに黒山の人だかりが出来ていた。

 圭一は、その周囲に、気分の悪そうな顔をした生徒が多くいることに気づいた。

 激しく嘔吐している奴もいた。

 圭一は、恵子の姿を求めて、人だかりを押しのけて前へ前へと進んだ。

 美人教師の姿は、やはり最前列にあった。

 先ず、彼女の苦虫を噛み潰したような表情が眼に入った。

 次に、彼女のすぐそばで、うずくまったまま吐き続けるジャージ姿の女の子の姿に気づいた。

 どうやら、何かの第一発見者らしい。

 最後に、圭一の眼は正面を見た。

 恐らく彼は、ここに来た途端に、何があるのか気づいていたのだろう。

 辺りに漂う臭いから、腐敗臭と血臭とを嗅ぎわけていたのかも知れない。

 果たして、それは死体であった。

 用具室内に、バケツをひっくり返したようにぶちまけられた大量の血、そして、そこに浮かぶ二つのもの……。

 すなわち安田圭一の親友、青木健の首なし死体と、切断された頭部であった。

「何だ…?」

 圭一が茫然と呟く。

 あの…血の海に浮かんでいるものは…いったい…何なのだ…?

 圭一の思考は、そこで停止していた。

 異常なまでの腐敗臭が、つんと鼻をつく。

 殺されて、まだ五分ほどしか経っていない筈なのに、この強烈な臭いはどうだ。

 無数の蠅が、この臭いに惹かれて、死体の周りを飛びまわっている。そして蛆が、青木の眼球の隙間から這い出て来ていた。

 この死体の周りだけ、時間の流れが速いとでもいうだろうか。

「…あ…青木…?」

 うわごとのように言って、圭一は腐りかけた死体に近づこうとした。

 それに気づいた恵子が、慌てて圭一の肩を押さえる。

 圭一の虚ろな眼差しが、恵子の方を向く。

 心の中に、ぽっかりと空洞が出来ているようだった。

 恵子は、首を横に振って、

「駄目よ、安田君。行っちゃ駄目!」

 その声さえも、圭一には届いていないようだ。

 青木が、死んだ…?

 嘘だろ…? そんな馬鹿なことがあってたまるか…。

 そう叫ぶ奴が、己れの中にいる。

 いや、真実だ。認めろ。眼をそらすな。

 冷酷に告げる奴もいる。

 二つの自分が、圭一の心の中で争い始めた。

 死体を凝っと見つめる圭一の眼が、ゆらゆらと揺れ始めた。

 心が動揺しているのだ。ようやく真実を受け容れる用意が整ったらしい。

 徐々に、恐ろしい現実が心の水面に浮かび上がって来る。

 青木は、もういないのだ。

 奴とは、小学校以来の親友だった。本当にいい奴だったのに……。

 もう、奴とは話せない。

 何者かに、殺されたのだ――!

 そう悟った途端、圭一の虚ろな眼に光が戻った。と同時に、心の奥底から湧き上がって来る、激しく熱いものを抑えきれなくなった。

 それは、眼からあふれる涙であり、喉を焦がすかのような〝声〟の怒濤でもあった。

「あ…ああああああ!」

 圭一の口から熱塊が奔出した。そうしないではいられなかった。

 恵子の手を振り払って、圭一は地を蹴った。

 一刻も早く、その場から離れたかった。

 全力疾走で用具室から離れ、圭一は近くの男子トイレに駆け込んだ。

 トイレの中は、酸っぱい臭いが充満していた。死体を見た生徒や教師が、ここで吐いていったのだろう。が、そんなことは圭一の知ったことではなかったし、気にもならなかった。

 迸る〝声〟は、依然と続いていた。

 殺してやる!

 殺してやる!

 圭一は、右拳を鏡に叩きつけた。

 瞬間、ピッと鏡に蜘蛛の巣状の亀裂が疾る。

 ひび割れた鏡に映った圭一の顔は、怒りに顔面を赤く染め上げ、まさしく復讐鬼のそれと化していた。

 小さな痛みが右手を駆け抜ける。

 血が、洗面台に滴り落ちていった。

 青木を、俺の親友を殺した奴は、必ず俺が殺してやる!

 叩きつけた拳を引いた。

 鏡が光の破片となって、洗面台の中に落ちていく。その破片を見つめながら、圭一は蛇口をひねり、拳の傷を洗い清めた。

 水が傷にしみり、圭一が顔をしかめる。

 傷跡が残るかも知れないが。圭一にとってはその方が良かった。

 傷跡を見る度に、青木を殺した奴への怨みが密になっていく。そんな気がするからだ。

 圭一は、(かたき)を討つことを誓い、トイレを出た。

 そこに、川中義人が立っていた。

 どうやら一部始終を見ていたようだ。

 圭一を、心配そうな顔で見つめている。

「――安田」

 珍しく、川中が遠慮がちに声をかけた。

 圭一の心中を察してのことだと思われたが、どうやら理由は他にあったようだ。

 圭一は無言で、川中の前を通り過ぎた。

 口が、ブツブツと何かを呟いていた。

 双眸が鋭く吊り上がり、鬼気迫る光を帯びていた。

 圭一は、川中に気づいていなかったのかも知れない。

 親友の背中を見送り、圭一が校舎の中に姿を消したとき、川中はほっと溜め息をついた。

 圭一の全身から、人の心を凍えさせるに足る殺気が迸っていたのを感じたのである。

 圭一は、こう呟き続けていた。

「…殺してやる…」

 と。

 犯人が誰かも知らずに。いや、知らないから良かったのだ。もし知っていれば、今頃圭一は人格崩壊を起こし、狂っていただろう。

 圭一を見送った川中が用具室の前に戻ってきた頃には、すでに生徒たちは家に帰され、警察の現場検証が始まっていた。

 第一発見者の女生徒は、どうやらあまりのショックで入院してしまったようだ。

 用具室の死体はすでに運び去られ、血は拭い取られており、内部には何人かの警官が入り込んでいた。

 静かな京都の街に、地獄の門がその口を開けようとしていた。

 川中はこのとき、長く苦しい夏の始まりを予感していたのだった。

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