表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第1章 その年、六月――
3/24

2

 優子は、悪い夢を見ていた。恐ろしく、不気味な夢だ。今まで何度か、全く同じ夢を見たことがある。だが、翌朝目が覚めると、どんな夢を見ていたのか、全く記憶にない。ただ、頭の隅に何か――紅色の悪夢の残滓のようなものがこびりついている。

 そんな具合だった。

 普段は寝相のいい優子も、このときばかりはそうもいっていられない。

 うなされ、何度も寝返りをうち、やがて布団がベッドから落ちる。

 もの凄い汗でネグリジェがびっしょりと濡れ、肌に貼りついている。一種艶っぽさを感じるほどだ。時折りネグリジェがはだけで、汗に濡れて光る素肌があらわになる。

 こんな寝姿を見たら、どんな男でも理性を失い、飢えた狼のように優子の若い肉体(からだ)に飛びつくだろうと思われた。

 悪夢を見ているときの優子は、何処か別人のような、何ともいえぬ妖艶さを肢体から漂わせていた。それは、熟した大人の女の色香にも似ていた。

 悪夢は、いつも朱色をともなっていた。

 八畳ほどの洋間で、五歳くらいの女の子が泣いていた。栗色の髪をした少女が泣いているのは、洋間の入り口とは反対の壁際であった。

 どうやら、何かに追いつめられて、この洋間の端にまで来てしまったようだ。

 そして、その何かは、彼女の前に広がる鮮血の海と化していた。

 赤黒い、凝結し始めた血に、腸や心臓が浮かび、また、虚ろな眼眸を少女に向ける二つの首が横たわっていた。

 少女の、父と母であったものだ。

 両親の死体は、体内で何かが爆発したような無惨な死に様だった。

 両親の死に直面してすすり泣く少女の全身も、ぐっしょりと血に濡れていた。

 二人の肉体が爆発したときに、大量の血と臓物を浴びたのである。少女の髪と血海にまじる白いものは、どうやら骨片であるらしい。

 少女の身体に付着した血は、両親の流したものだけではなかった。

 少女の左手首が、ナイフで切られたように、すっぱりと口を開けていた。そこから、血がとめどなく流れているのだ。

 彼女の手首を切ったのは包丁であり、それは、少女がうずくまる場所のすぐ脇のカーペットに突き立っていた。

 刃は、血に赤く染まっていた。

 その〝変化〟は程なくして、急速に訪れた。

 それは、見るもおぞましい光景であった。

 顔を上げ、少女はつぶらな瞳で、それを見ている。

 部屋の壁までも赤く染め上げるほど飛び散った両親の破片が、ゆっくりと一点に集まり出したのである。

 筋が、筋肉が、内蔵や骨が空中を漂い、あるいは床を這い、横たわる首のもとへ集ってゆく。

 己れがいるべき場所を思い出したかのごとく…。

 ずるずる…と吐き気を催す嫌な音が、部屋中に唱和した。あっちでずるずる、こっちでベチャベチャ…。

 全く冗談にもならなかった。

 一つひとつの破片が緩慢な動きで、別の破片と融合していく。

 床に広がっていたあれ程の血が、いつの間にか半分以下になっているのに少女は気づいた。いつもこうだ。そして、消失した血が何処へ消えたのかも、彼女は知っていた。

 血は、両親の再生が進むにつれて、その身体に吸い取られているのだ。

 まだ完全に全身が接着しないまま、両親の形をした〝生ける屍〟は、その身体を起こし始めた。

 眼球に光は依然としてなく、涙のかわりに血を流している。それは身体の方も同じだった。破片と破片との接合部分から流れ出た血は、未だ止まる徴候を見せない。

 小さな音を残して、包丁が宙に舞った。

 少女は、いつの間にか立ち上がっていた。

 包丁は、見えない糸に引かれるように母親の右手に戻った。

 もはや少女は泣いておらず、左手首の傷もなかった。いや、まだ泣いてもいなければ、傷もついていないのだった。

 その証拠に、見るがいい。

 少女の全身をぐっしょりと濡らしていた筈の両親の血は、跡形もないではないか!

 彼女は、何故自分が両親に追いつめられたのかを、悟っていた。

「化物!」

 この洋間へ来る前に、少女を追っていた両親が、廊下で口をそろえて、憎悪を吐き出したのだった。

 本物の憎しみが、その口調に含まれていたことを、彼女は感じ取っていた。

 包丁がギラリと、悪意を込めて光ったような気がした。

 少女には、人にはない力があった。それは、単に超能力と呼んで済ますには、あまりにも強すぎる力であった。

 念動、霊視、予知、透視…。

 少女にとって、それは当たり前のことであったので、軽い口調で「あのおばちゃん、明日死ぬよ」と言ったこともあった。

 悪い冗談を言っていると思った。しかし、それが真実になり、少女にとてつもない超能力があることがはっきりすると、初めはTVに出ればいいなどと軽口を叩いていた人々も、そのために畏怖の眼で彼女を見、近寄らなくなった。敏感で、無邪気な子どもたちも、やがて彼等の親によって少女から遠ざけられていった。

 初めのうちは可愛がってくれた両親も、少女が大きくなるにつれ、恐怖を抱き始めた。

 そこに、あの不吉な予知だ。

「呪われた子だ」

「悪魔め、生まれてこなければ良かったのに」

 そうまで罵った。

 もはや夫婦にとって、彼女は自分の子ではなく、そして人間ですらなかったのだ。

 こんなことなら、生まれなければ良かった。

 幾度か死のうとしたが、死ねなかった。

 必ず、何らかの邪魔が入るのだった。

 ある朝、目覚めた少女は、両親が必死に殺気を押さえ、平静を装っているのに気づいた。

 包丁が銀光を引いて躍ったのは、その直後のことである。

 両親は、もう、人間の眼をしていなかった。

 狂気と恐怖に異様に吊り上がった父と母の眼を見たとき、少女の喉の奥からもの凄い悲鳴が迸った。

 我が子を悪魔と罵った両親こそ、本物の悪魔と化していたのだ。

 奇声を上げて、両親が躍りかかる。

 死への絶壁を転がり落ちるように、少女は身を翻して逃げ出した。

 両親のカラをかぶった二匹の悪鬼から。

 洋間へ彼女を追いつめ、もはや逃げることかなわじと悟ったのか、悪鬼が不意に嗤い始めた。

 精神が破綻を来したのか、彼等は狂ったような笑みを浮かべていた。

 少女の背筋を冷たいものが滑り落ち、全身が粟立つのを覚えた。

 父親が、壁を背にして動けぬ少女の首に手を伸ばした。

 その細く脆い首を握り締め、吊り上げる。

 父親の手に力が入ると、途端に少女は空気を求めてもがき出した。

 必死に手を振りほどこうとするが、少女の力ではどうすることも出来ない。

 次第に顔色が紫色に変色し始めた。

 チアノーゼを起こしているのだ。

 視野狭窄が生じたため暗くなった視界に、母親が狂気の笑いをこびりつかせたまま、包丁を振り上げるのが見えた。

 死ねるんだ…これで、楽になれるんだ…。

 少女の中に、驚くほど容易に〝死〟を甘受する思いがあった。これ程までに、彼女は精神的に追いつめられていたのである。

 だが、それとは別に、もう一人の〝彼女〟がいた。その〝彼女〟は、自分をここまで苦しめた人間どもに復讐を誓っていた。

〝死ぬのか、こんな所で! まだ、やることがあった筈だ。それを成し遂げ、愚劣な人間どもをなぶり殺しにし、味わった屈辱の数々、晴らすまで、死にはしない!〟

 それは、まさしく悪魔の如き宣言であった。しかしそれも、〝彼女〟の醸し出す雰囲気に、非情に似つかわしく思われるのだった。

 そして、包丁が閃光のように振り下ろされた。

 刹那、彼女の脳裡で何かが爆発し、それが白光となって彼女を押し包んだ。

 ――

 白光の向こう側に悲鳴めいたものが聞こえたようだが、彼女はもはや気にもとめなかった。

 光がおさまったとき、部屋中にめちゃめちゃに破壊された両親の身体が散乱し、その血の海の中に、真っ赤に染まった少女がいた。

 無言で佇む少女の唇には、確かに薄い笑みが乗っていた。さっきまですすり泣いていた少女とは、決して同一人物とは思えぬ変貌ぶりだ。恐らく、たとえ両親が見ても、別人だと見間違えるほどの変わりようであった。

「あんたたちが、悪いんだよ」

 決して五歳の少女のものとは思えぬ、はすっぱな口のききようだった。唇についた血を舐め取るその仕種にも、背筋をゾクッとさせるなまめかしさすらあった。

 少女の小さな足が、彼女の足許に転がる母親の首に置かれる。

 ぐしゃ

 まるで力を加えたと思えないのに、母親の首は少女の足の下で潰れていた。

 眼球が糸をひいて、床を転がっていく。

 ぐしゃぐしゃに潰れた脳にまみれた足を母親の首から上げた彼女は、カン高く哄笑し始めた。

「あはは! あははは!」

 血にまみれて嗤う少女は、もはや、両親の狂気の前に泣くしかなかった少女とは、完全に異なっていた。

 両親に殺されかけたという精神的ショックが、少女の心奥に眠っていたもう一つの〝彼女〟を目覚めさせたというのか。

 少女は、自分が誰なのか、そして何のために生まれて来たのか――その全てを悟っていた。

 そのためだろうか、身体の震えが止まらず、笑い続けているのだった。


 勢いよくベッドの上で跳ね起きた栗色の長い髪の少女は、その不快感から、全身に汗をかいていることに気づいた。

 エアコンは効いている筈なのに、とネグリジェの袖で額に浮いた汗の珠を拭う。

「――どういうの?」

 ふと呟く。

 何かが違っていた。

 いつもであれば、眼をさますと同時に忘却してしまう筈の紅色の悪夢が、今夜に限って細部まで余すところなく記憶されていたのである。

 両親の狂気に彩られた眼光、笑い声、首にかかる指の力、母親の首を踏み潰し、砕いた感触さえも…。

 自分が夢の中で言った――幼い頃に首を絞められたときに言った言葉を、今ははっきりと思い出せる。

 恐らく一字一句違えずに言うことが出来よう。

 こんなことは初めてだった。

 それと同時に、何かが動き出したことも知った。

 両親を殺したという衝撃的な事実――間違いなかった。どうやって殺したのかはわからないが、自分が殺したのだと、このとき確信できていた――を、安田優子は無意識のうちに忘れようとしてきた。

 しかし、これまでに繰り返し見た夢でその封印は徐々に解かれ、そしてついに今夜の夢で、その中に封じた〝何か〟が飛び出してしまった。

 封じられた〝何か〟が、精神に何らかの操作を施し、自らを甦らせたのだ。

 その何かとは――

 このとき、ベッドの上で思案にふける優子に変貌が起きつつあった。

 変わる。

 外見はそのままなのに、全くの別人に変わる。そんな印象だ。そして、それは事実だった。

 無意識のうちに封じた〝何か〟とは、両親を殺し、母親の首を何の躊躇もなく踏み潰した〝もう一人の自分〟なのだ。

 優子の唇が、キュウと吊り上がった。

 その笑みは、明らかにこれまでの優子のものではなかった。

 悪魔に魅入られた者だけが浮かべることを許された邪悪な、リリスの微笑み。

 優子はベッドから下り、廊下へ出た。

 驚いたことに、音一つ立てていない。

 廊下を歩くときも、一切の音を絶っていた。

 優子の部屋は二階にあり、義兄である安田圭一の部屋の隣であった。

 暗く、静まりかえった廊下に、四角い光が漏れている。

 圭一の部屋の明かりだ。

 そして優子は、彼女が幼い頃に悟った「目的」を思い出し、それを遂行すべく足を一歩踏み出した。

 もはや、彼女の眼前には、暗く厭うべき修羅の道しか残されていなかったのである。

 その頃、安田圭一は、自分の部屋で一学期末テストの勉強にいそしんでいた。

 妙に暑い夜だったので、Tシャツと短パンという出で立ちで、机に向かっていた。

 テストという三文字を耳にしても、まだ拒否反応を起こすことのない二年生でありながら、やはりテストはイヤなものであった。

 しかも、あと半年ほどすれば、イヤでもテスト地獄、すなわち受験地獄が始まってしまう。まったく、おかしな国だな、日本という国は。

 そうは思っても、親のスネかじりの学生の身分では、如何ともし難いものがあった。

 通っている高校が一応進学校であるだけに、血縁の人間の注文は実に厳しい。

 一流の大学に、それも国立大学に入るんだぞとか、いい会社にはいるには勉強しろよとか、好き勝手なことばかりぬかす親戚がいる。

 しかも、二〇歳になったら国民年金に強制加入させられてしまうのだ。

 学生の肩身は狭くなる一方だった。

 確かに、今後の日本の高齢化を考えれば、これはやむを得ない対処なのかも知れないが、何も経済力の乏しい学生まで締めつけることはなかろう、と思う。

 おまけに、私立の高校や大学の学費は年々増加傾向にあると来た。

 たまったものではなかった。

「それにしても…」

 鉛筆を机の上に放り投げ、圭一はTシャツの胸もとをぱたぱたとやって、生ぬるい空気を送り込んだ。

 じっとりと汗のにじんだ肌に冷えていない空気を当てても、やらないよりはマシという程度にしかならなかった。

 エアコンがあればいいのだが、彼はエアコンが苦手なのだ。といっても、別に機械いじりが苦手というわけではない。

 圭一は、どんな機械でも最高一〇分間見ているだけで、解説書もなしに全ての操作が把握できてしまうという妙な特技を持っているのだ。

 彼のエアコンが苦手な理由は、それをかけたまま一晩眠れば、立派に風邪をひいてしまう所にある。しかも、腹が下って鼻水も出るというたちの悪い風邪だ。

 だから、圭一の部屋ではエアコンのかわりに扇風機が奮闘している。が、こんな熱い晩では、それも温風機と化してしまっていたが。

「それにしても、なんちゅう暑さじゃ」

 拭っても噴き出してくる汗を、湿った――何度も汗を拭いているからだ――タオルで拭うと、圭一は席を立った。

 このまま勉強を続けていても、何も頭に入らないと判明したからである。

 ここは一つ、シャワーでも浴びてキリリと冷えた麦茶でも飲んでくるべぇ。

 半ば脱水症状を来しつつ、圭一はドアに向かった。

「…暑い…」

 暑すぎるのでドアも開けっ放しである。

 とにかく、体力的にも精神的にも参ってしまっていたので、何の異変にすら気づかず、圭一は階段を下り始めた。

 そのとき、背後から女の声がかかった。

「圭一さん」

 ビクッとなって振り向いた圭一は、廊下の暗闇の中に立つ見知らぬ女に向かって、愕然と声を上げた。

「だ、誰だ!?」

 優子に向かってそう叫んだ。決して、顔が闇に隠れて見えなかったからではない。圭一の部屋の明かりで、彼女の美貌はうっすらと見えている。それなのに、圭一には彼女が優子だとわからなかったのである。

 他人から見れば、先ず間違いなく首を傾げたであろう。義理の妹として十数年間一緒に暮らしてきた少女に向かって、誰何(すいか)の声を上げるとは。

 確かに、圭一の眼前に立つ少女は、何かが普段と異なっていた。外見的、肉体的には何ら変貌は認められない。いや、言うならば、眼つきが妖しかった。が、それも彼女の醸し出す雰囲気と内面の変化の比ではなかった。

 まるで別人、であった。

 愛くるしさなど一片もなく、妖艶ともいえる色気が漂っていた。

「あたしよ、優子よ」

「う、嘘つけ!」

 平静を装ってみても、口調が荒くなるのは仕方なかった。今の優子を前にすれば、たとえどんな聖人君子といえども、欲望を剥き出しにして襲いかかってしまうだろう。優子は、そんな天性の娼婦、魔性の女と化していた。

 圭一がそれでも何とか理性を蒸発させずにおれたのは、優子が自分の従妹であり、義妹であるという事実と、優子自身のあまりの変貌ぶりに対する恐怖のおかげであった。

 心臓の鼓動が、早駆けのように鳴っている。

「――あら、疑うのね。それなら、証拠を見せてあげようか?」

 そう言って差し出したほっそりした左手首には、包丁の刃がかすめた傷の跡があった。

 圭一の知っている優子にも、同じ所に傷があったのを、彼は思い出していた。

 もはや、疑う余地はあり得なかった。

 この優子は、間違いなく、あの優子だ。

「な、何か…用なのか…」

 空気を求める魚のように、口をぱくぱくと喘がせながら、圭一は訊いた。喉がカラカラだ。ただでさえ喉が渇いていたのに、こんな緊張状態に陥ってしまったため、ヒリヒリと喉が灼けつくようだった。

 唾を飲み込もうにも、一滴の唾液も湧いてこない。

 優子が、コクリと頷いた。

「な、何だ…?」

 思わず声がうわずってしまう。

 情けない。

「――部屋に入って」

 媚びるような眼つきと口調であった。

 それに圧倒された圭一は、思わず「はい」と答えて、言われるままに自分の部屋に戻った。

 優子が、後ろ手にドアを閉じる。

 喉を鳴らし、唾を飲み込みたくても、相変わらず唾は湧いてこない。

 優子が、圭一の目の前で艶然と微笑む。

 いつもは年下の少女なのに、このときの優子は、年上の大人の女のように思えた。

「私ね、ようやく思い出したの」

 優子が、流れるようないい声で圭一に話しかける。

「は?」

 何のことかわからず、頭の上に?マークが浮かんでしまう。

「あなたは、私の目的を遂げるのに邪魔な存在なのよ」

「へ!?」

 ちょ、ちょっと待ってくれ。話が見えんのだけど…。

「だから――死んで」

「な!?」

 一瞬、まさに一瞬であった。優子が囁くように言った最後の言葉の意味がわからずに声を上げた圭一の首に、するりと優子の白くて細い指がからみついたのだ。

 指に、力がこもる。

「ぐええっ」

 圭一は、もの凄い力で首を締め上げられ、たまらずに舌を吐いた。

 かつて、自分の父親が彼女を殺そうとしたやり方で、今、彼女は義兄を殺そうとしている。

 顔色が紫色に変じていくのを、優子は残忍な笑みで迎えた。

 苦悶の表情を浮かべながらも、圭一は腕を払いのけようと必死になったが、まるで駄目。全く歯が立たないのだ。

 女の子一人の力とは、とうてい思えなかった。まさに、大人の男の力に匹敵するように思われた。

 薄れゆく意識の中で、圭一はこれは夢だと思った。いや、思い込もうとした。

 やがて、ゆっくりと意識が白濁の海に沈みゆき――

 暗黒。

「うわあ!?」

 圭一は、自分の声に驚いて眼を覚ました。

 そしてすぐに、全身がびっしょりと汗に濡れる不快感に気づいた。

「夢――だったのか?」

 力のない声で呟く。

 額から流れ落ちる汗を拭い、圭一はベッドを出た。

 そう言えば、いつベッドに寝転んだのだろう。昨夜は蒸し暑かったので、布団なしでも――そう、布団をかけずに眠っていたのだ――良かったが、これが冬だと今頃風邪で大変だろうな。

 とりとめもなく考えながら、圭一は鏡の前に立った。鏡を覗き込みつつ、首筋をさすってみる。しかし、特に異常は認められない。

 優子に首を絞められた夢――本当に夢だったのか?

 しかし、首に指の痕もついていない。

 開け放たれたままの窓から、朝の鮮烈な空気が流れ込んでくる。

 今日も暑くなりそうな、そんな日射しだ。

「う~ん、わっかんねえなぁ」

 頭をぼりぼりとかき、ぼやきながら、一階にある洗面所へ向かうために、圭一は階段を下りようとした。

 ふと足を止める。

 眼は、自然と背後――廊下の奥に注がれていた。

 隣の部屋のドアは閉じられていた。

 それが、圭一には、なぜか「閉じこもっている」ように感じられた。

 まだ何か釈然としないものがあったが、やがて圭一は階段を下りていった。

 俺、夜中、この階段を下りなかったっけ?

 記憶が、依然として混乱を来したままだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ