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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
終章
23/24

2

 

 トリノにあるサン・ジョバンニ大聖堂の管理を、この一週間はレナルディ神父が大司教より一任されていた。

 白髪のまじり始めた初老の男が、ここに泊まり込んでからはや三日が経つ。

 その日までは何事もなく過ごせてきた。

 就寝前の礼拝の見回りを済ませた後は、よく眠れていた。

 だがその夜、いつものように礼拝を済ませ、聖骸布周辺の見回りを済ませて床に就いたのだが、何故か眠れない。

 たとえ眠れたとしても、すぐに起きてしまう。

 胸さわぎがするのだ。

 何かが起きようとしている。何が起きるのかわからないが、とにかく、何かが起きるのだ。そう確信めいた思いが、神父をして恐い夢を見た子供のように恐怖に震えさせた。

 このままでは、自分は駄目になってしまう。

 神父は勇気を奮い立たせて立ち上がった。

 そして、聖骸布を見てこようと思った。

 何故、そのように思い至ったのか、神父自身わかってはいない。

 とにかく、何か大異変の兆しが起ころうとしている。

 それを見届けなければならない、という強迫観念めいた使命感に支配されていた。

 レナルディ神父は、ある意味では運命決定論者であったため、今、自分が踏み出す一歩一歩、一呼吸さえも時空の始まりより決定づけられていたのだと感じていた。

 自分は、この日のために生まれてきたのだ。

 その思いは、聖骸布に近づくにつれ、より強くなっていく。

 最初は、この思いを事実と認めたくないが故に、恐怖に身を震わせていた。

 事実と認めた途端、自分が自分でなくなるような気がしたからだ。

 だが、今は違う。運命に逆らうよりも、なるべくしてなる宿命(さだめ)――因果律に身をゆだねて良かったと思っている。

 神父が足を停めた。

 そして顔を上げた。

 正面に塔のような物が建っている。

 これが、聖骸布の安置場所だ。

 神の奇蹟を起こすリンネル地の布は、祭壇上の鉄格子の奥にある銀製の棺に収められている。

 十字架に架けられ、ロンギヌスの槍に刺し貫かれたイエスの遺骸を包んだ布であると云う。

 しかし、今から五〇数年前のことだ。

 イエス・キリストが十字架から降ろされ亜麻布に包まれたとき、実はまだ死んでおらず、生きていたと主張する人物が現れた。

 ドイツ人のハンス・ナベールの寝室に明るい光が射し込み、その中からイエスが出現したというのである。

「彼は背が高かった。……髪は長く、口ひげと顎ひげをたくわえていた。そしてその身体には、何の傷もなかった」

 そうハンスは伝えている。と同時に、そのときにイエスが語った衝撃的な〝事実〟も…。

 イエスは、自分が十字架の上で死んだのではないと語り始めたのである。

 手足の傷は彼の全身から抵抗力を奪い、けだものの槍は下から胸部へ突き通されたが、心臓に食い込むことはなかったという。

 その後、アリマテアのジョセフにより墓の中に横たえられたというのである。

 人々がイエスを死んだと認めたために、彼は岩の墓の内側で休息することが出来、やがて復活することが出来た。

 ドイツ人の部屋に現れたイエスは、こう語ったのである。

 ハンス・ナベールはイエスの言ったことを証明するべく、様々な手段を講じたが、結果的には全くのデタラメとして、「インチキ扱い」を受けて相手にされなかった。

 そして今、ドイツ人の見た「幻想」以上の体験を、レナルディ神父はその身に受けようとしていた。

 神父は、あっと声を上げたが最後、凍りついたように動かなくなってしまった。

 両目が皿のように、限界にまで見開かれている

 あまりの驚愕のために。

 全身がぶるぶると震え、汗が止めどなく流れ出している。

 恐怖――人の血の中に眠る根源的な、畏怖すべき存在(もの)に対する、身体の心からの恐怖だ。

 神父の正面の壁――聖骸布の塔を間に挟んで――に、影が揺れていた。

 レナルディ神父のものではない。

 彼の持つ小型ライトに照らされた彼自身の影は、ちゃんと足許にある。

 では、何の影なのか。

 問いかけるまでもなく、レナルディ神父はその答えを自分の裡に見出していた。

 奴だ。

〝輝く一二枚の翼を持つ存在(もの)

〝暁光の堕天使〟

〝暗黒の支配者〟

 そういった異名を持つ一種の究極的存在。

 その影は、神父の心の中でも読んだのか、嘲笑うように揺らいでいた。

 二本の角を生やし、巨大な蝙蝠の翼を持った生物。

 いや、それを生物といえるのか。

 奴こそ――魔空神王サタン!

「ああ…」

 がっくりと神父は頽れるように膝をついた。

 冷たい。

 驚いて、彼は床に眼をやった。

 ライトの光に照らし出されたのは、いつの間にかびっしりと床を覆い尽くしていた霜の白さであった。そのときになって、急激に気温が下がっていることに、神父は気づいた。

 大魔王サタンは、イエス・キリスト・インマネルに挑戦状を叩きつけに来たのだ。

 唐突に、そう悟った。

 そして、奴は壁の向こう側にいる。とは言っても、それは精神エネルギーの投影にすぎず、直接的な攻撃には出ることが出来ない。

 だから、

「ひぃ…」

 神父は、次々に幻影のように出現する低級妖魔どもの醜悪さに戦慄した。

 こんなものが…いるのか…。

「ああ…神よ。今こそ、あなたの御力をお示し下さい。あなた様のお(つく)りになられた世界が、暗黒に呑まれようとしています…」

 このとき、神父は心の底から神に祈っていた。

 確かに彼は熱心な信者であり、神父としても称賛に値する人物であった。

 しかも、この瞬間(とき)ほど神への信仰を篤くしたことはなかった。

 ハルマゲドンの戦い――〝最後の審判〟の幕開けだ、とレナルディ神父は直感した。

 そのとき、彼は光を見た。

 妖魔どもが、何も出来ぬ彼に向かって、赤光を帯びた邪眼を向けて近づいてくる。

 一匹の妖魔の、太くてブヨブヨとしたイボだらけの腕が、彼の肩にかかったその瞬間だった。

 聖骸布を収めた棺が、まばゆい霊光を放ったのである。

 通常の霊光であれば常人の眼には見ることもできないが、神自身の光はエネルギーの格が高レベルのため、神父にも見ることが出来た。

 霊光は、やがて塔全体を包み込むように光り輝いた。

 その天上界の光に、妖魔どもの身体が崩れ去り、塩の山と化していく。

 ほどなく光が収まったとき、レナルディ神父は眼を開けた。

 すでに妖魔の姿はそこになく、壁面に揺れ動いていたサタンの影もない。

 あるのは、一面の塩の柱だけだ。

 イエス・キリストがサタンの挑戦状を受けたことによって、神魔大戦の幕は上がった。

 静寂を取り戻した聖堂内に、神父一人が残されていた。しかし、その生命(いのち)も、今や消えゆかんとしている。

 あの光景と妖気に、彼の心と身体は耐えることが出来なかったのだ。

 冷たい床に横たわる神父は、死の間際に唇を微かに動かした。

 が、それを聞き取るものは誰もおらず、レナルディ神父はそっと息を引き取った。

 満足そうな死に顔だった。

 そしてこの日の朝、やって来た枢機卿が彼の遺体を発見することになる。


「神よ…今こそ、あなたの御許(みもと)に…」


 ――

 玲花は、自分がひどく不安定なところにいることを知った。暗いものが、混沌として自分の周りにある。形を為さない、不定型な存在(もの)

 …れ…い…か……れい…か…れいか…

 やがて、それらの隙間から音が漏れ始めた。まるで、カセットテープの再生速度を極端に遅くしたような音声である。

 そして、ようやくその音声が、自分の名を呼んでいるのだとわかる。

 徐々に速度を増したため、それは男の声だとわかった。しかも、聞き覚えのある声だ。

 それとともに聞こえてくるのは、何の音だろう。

 波の音のような、獣の唸り声のような。

 まさかそれが、やがて覚醒し、地上への復活を狙う大魔王の息吹だとは、玲花に知る由もない。

 ぼんやりとした思考でとりとめもなく様々なことを思っていると、また声が聞こえてきた。

 れいか…れい…か…

 今度の声は、先程とは異なって、ある種の輪郭を帯び始めていた。

 そして、例の音。何かが、もの凄い勢いで流れる音だ。

 それは、地球全体に広がった負のエネルギーを吸い込んでいるのか、それとも復活の近きを預言しているのか…。

 玲花……玲花!

 唐突に震動が伝わってきた。

 玲花の肢体が、誰かに激しく揺すられているのだ。

 激しい震動は、やがて、玲花をまどろみから引き戻し始めた。彼女の精神は、気絶から眠りに移行していたのである。

 あまりにも疲れすぎた。あまりにも能力を使いすぎていた。いくら身体の奥底から新たに湧き上がって来るとは言え、今回の戦いはそれさえも上回るほどの熾烈さであった。

 そう、まさに尋常な戦いではなかったのである。

 心身ともに参ってしまっていた。

 能力はともかく、体力だけでも回復するまでは眠っていたかった。

 今目覚めても、立つことさえかなわないのではないだろうか。

 玲花! 玲花!

 そんな彼女の思いを知ることもなく、呼びかける声はますます切迫したものになっていく。

 そして、そのとき、彼女の脳裡に一人の若者の顔が浮かび上がった。

 美しい若者。名前は確か――

「――妖!?」

 何の前触れもなく、玲花は状態を跳ね起こした。途端、背骨に激痛が走り、呼吸が一瞬止まる。玲花はどきどきする胸に手をやり、深呼吸を何度かした。

「大丈夫か、玲花」

 そう声をかけた男は、玲花の脳裡に描かれた男ではなかった。小柄で無骨、どちらかといえば短気。けれども人の良い男であることは確かだ。

 目の前の、髪の長い美しい女を愛する男。

「…獅天、あなただったの」

「悪かったな、妖じゃなくて」

 少し怒ったような口調で獅天が言うと、玲花は、自分が何気なく発した一言が彼の気に障ったことを知った。

 あわてて、

「ご、ごめんなさい、獅天。そんなつもりじゃ…私…」

「いいよ、玲花、気にしてないよ」

 言いながら獅天が差し伸べた手につかまり、玲花は「よっこいしょ」と立ち上がった。

 呼吸するたびに背中がズキズキと疼く。それに加えて、思った通りまともに立てなかった。

 獅天によりかかるように、玲花は立っているのである。

 そのときになって、獅天が頭から砂をかぶっていることに気づいた。多少は払い落としてあるようだが、まだ少し残っている。

 死人ゴーレムの最後の反撃の際、思い切り吹っ飛ばされた彼はグラウンドの土を長々とえぐり、挙げ句の果ては上半身を土中に埋めるような有様で気絶していたのである。

 玲花はすまなさそうに、獅天の頭や肩についた砂を払ってやった。

「――二人とも無事だったんですね」

 そこに、光炎の声。

 二人そろって、声にした方向を振り向く。

 校舎のぐるりを囲む壁の南側の一部を突き破って気を失っていた巨漢が、少し離れたところに立っていた。

 彼も相当まいっているらしく、何とか立っているといった感じを受ける。

 玲花同様、背中の痛みに耐えているのだろう。

 光炎は、抜き身のままの〝紅蓮〟を引きずって歩いてきた。

「無事で悪かったな、光炎」

「まったくです。これで、ようやく頭痛の種が消えたと思ったのに」

「なにをう!?」

 冗談とわかっていても、相手に食ってかかるのが獅天である。

 光炎が獅天の「攻撃」を躱す間、玲花が、まあまあと獅天をなだめていた。

「――しかし、ハードな展開だったなぁ」

 首をコキコキと鳴らした後で、溜め息まじりに獅天が言うと、玲花が肩をすくめて、これに同意した。

 それにしても、妖はどうしたのだろうか。

 玲花が心配そうな瞳を校舎に向けたとき、遠くで「中野先生」と呼ぶ声がした。

 三人が、いっせいにその声の方向を振り向く。

 すぐに、校門のそばに立つ二つの影に気づいた。

 一つは安田圭一のものと知れた。

 では、もう一つの影は――

 圭一が肩を貸している少女とは…。

 素早く、獅天の手が腰間の魔剣の柄に伸びる。

 むろん、魔少女の姿をそこに見出したからだ。

 ここまで、優子は圭一におんぶされてやって来たのだが、人がいるとわかった途端、恥ずかしくなって義兄の背から降りた。降りたのはいいが、うまく立てない。だから、圭一の肩を借りながら歩いてきたのだ。

 髪は短くなっているが、間違いなく優子だった。玲花はそう確信した。

 すると新たな疑問が湧いてくる。

 何故、圭一が(かたき)である筈の優子を連れているのか。肩を貸してまで。

 玲花がそう思っている間にも、二人は彼女たちの正面にまでやって来た。

 優子は、義兄から聞かされた罪の重さのためか、玲花たちを正視できないで、その美貌を伏せている。

 そのとき、鋭い鞘鳴りが玲花の右側で生じた。

 見ると、獅天が魔剣〝風牙〟を抜き放っている。

 殺気に満ちた、凄まじい形相をしていた。

「ま、待って下さい! この()は、違うんです!」

 眼前で光る切っ先に、圭一の声が飛ぶ。

「もう、あの優子じゃ…ないんです」

「どういうことだ?」

 拍子抜けした獅天が闘気を消して剣を引く。

 玲花が、圭一に優しく声をかける。

「あなたが知っていることを、全て話して」

 圭一は優子をその場に座らせると、話し始めたのである。

 彼が知り得る限り全てのことを。

 もう一人の優子との死闘のこと。自分自身の手で、義妹の胸に杭を突き刺したこと。そして、十字架が生ぜしめた「再生復活」という名の奇蹟のことを。

 殺された優子は、生き返ったのだ。

 話し続ける圭一の顔を、優子は凝っと見つめていた。ここへ来る途中、背中で聞いた話ばかりだ。何度も聞きたくない話ではあったが、聞かなくてはならない。そう優子は思っていた。

「――あの、先生。あの男の人は…?」

 圭一が訊いた。

 どうやら妖のことらしい。

 そのとき、優子が小首を傾げた。

 目の前に立つ玲花が、何者なのかようやく気がついたのだ。

 あれ、あの女の人、中野先生だ。

 心の中でそう呟く優子の耳に、圭一の「そうですか」という声が届いた。

 あらためてグラウンドに眼をやる。

 惨憺たる有様だ。

 邪龍の顕現とその後の魔戦とで、もはやグラウンドは使いものにならなくなっている。

 沈黙が、大きな腕で彼等を抱きしめる。

 だが、それも一瞬だった。

 その刹那、突如大気を震わせ、大地を激しく鳴動させて、凄まじい音が噴き上がったのである。

 天に向けて。

 何処から、と愕然と五人が校舎を振り仰ぐ。途端、彼等の眼が皿のように大きく見開かれた。

 十個の黒瞳が、赤々と輝いている。

 声もなく、ただ茫然と、虚空へと奔騰する紅色の怒濤を見つめていた。

 校舎の一部から、屋上をぶち抜いて光の柱が立ちのぼっているのである。

「激浪、天をうつ」という言葉があるが、まさしく彼等の眼前の光景がそれであった。

 獅天たちでさえ震え上がらせるほど凄まじい妖気をまき散らし、周りの空気を凍らせつつ、紅色の瀑布は一滴の破片すら落とすことなく、天空目がけて上昇していく。

 優子は、その内部に一つの影を見た気がした。遠いためによくわからなかったが、巨大な魔鳥に吊られた人影と見えたが、錯覚であるかも知れない。

 そう思ったが、どうやらその影はそこにいる他の四人全てに目撃されていたらしい。

「…お、おい、ありゃ…」

 時間にして、ちょうど例の人影が天空を覆う暗黒に吸い込まれた頃だった。

 獅天が天を指さし、嗄れたような声を上げた。

 喉がカラカラに乾いて、声が張りついているのだ。

 間欠泉の如き光柱が消え、かわりに異様な「もの」が天空で明滅し始めていた。

 先刻までの妖光が、それを創ったのか。

 その「もの」は、巨大な影――いや、光であった。

 全身の輪郭が光っているのである。

 一度見たことのある玲花や圭一でさえ、その想像を絶する圧倒的な姿に声も出ない。

 巨大で長大な「そいつ」は、遙か頭上より地上に蠢く虫けらどもを嘲笑するかのように睥睨している。

 玲花たちは、恐怖のために金縛りにあったかのように指一本さえ動かせなかった。


 裂帛の気合いとともに飛んだ妖気の塊を腹に受け、妖はたまらずに吹っ飛んだ。自分の背後にある壁目がけて一直線に。

 普段の妖を知る者なら我が眼を、そして耳を疑ったであろう。

 無様な苦鳴を吐き、美貌の若者は壁にめり込んだのである。

 激突のショックで、口から鮮血が散る。

 妖は動くことも出来ずに、そのまま壁に「はりつけ」られた。

 間髪入れず、妖の周囲の壁に縦横無尽に走った亀裂から、何か細長いものが鎌首をもたげ始める。

 蛇のようだが、不気味さでは遙かにこちらが勝っている。

 その魔界の妖蛇どもが、らんらんと赤光を放つ双眼を妖に向ける。

 こめかみからも流血した妖が、それに気づく気配はない。

「あっけないな。もしや、と思っていたのだが…。このような虫けらに斃されるとは、凶も愚かな奴よ」

 失意の念を禁じ得ず、侯爵は妖に背を向けた。

 しかし、すぐには歩き出さない。

 もしかしたら、心の片隅では待っていたのかも知れない。

 侯爵の背に、壁の崩れる音が弾けたのは、そのときであった。

 愕然と――しかし、嬉々として振り返る魔人は見た。

 全身に絡みついた蛇をぶちぶちとちぎり、美貌の妖人が壁から降り立つのを。

 妖の足許では、引きちぎられた妖蛇が小さな声で哭いていたが、妖に頭を踏み潰され、胴が干からびるとともに消えていった。

 そして、妖の背後では、壁がその向こう側に崩れ落ちていく。

 壁に開いた穽の向こう側に展がるは闇――すなわち、魔空。

 この教室は、校舎の一部でありながら、同時に魔空間にも存在しているのだ。

 その穴の前。

 白き美貌は流れ出た血に半面を赤く染め上げ、しかし、血色の中でも翡翠色の双眸は光を失うことなく、らんらんと輝いていた。

 美貌の血を拭い去り、妖は言った。

「――何処へ行く? 俺はまだ、死んじゃいないぜ」

「そ…それほど、死に急ぐかぁ!」

 金属杖を自分の頭上で激しく回転させ、凄まじい勢いに乗せて、魔界侯爵は妖目がけて突き出した。

 その刹那、速度・質量ともに増した妖気が巨大な塊と化して、再び妖に迫る。

 轟然たる地響きを上げて床を削りつつ、直径三メートルにも及ぶ妖気塊が、妖の真っ正面から激突した!

「くっ…!?」

 両腕を広げて妖気塊を抱き止めた妖だが、しかし勢いはおさまらず、じりじりと背後に覗く魔空の穴へと押しやられていく。

 妖の靴底が床を擦る。

「……」

 魔界侯爵は、そんな妖を茫然と見つめていた。

 何故なら、先程よりも数倍の威力を持つ妖気塊を受けてもなお、妖は吹き飛ばぬばかりか、倒れてもいないのだ。

 妖は確かに、全身でこの攻撃を受け止めていた。

 侯爵にとって、これほど愕然となる光景が目の前で展開されたことはなかった。と同時に、

「この男、やはり、奴であったか」

 そう確信するに足る光景でもあった。そしてその直後、魔界侯爵はさらなる驚愕を体験することとなる。

「まさか……おお!?」

 侯爵の口から、ついに驚愕の声があがった。

 妖が、両腕で抱いていた妖気塊を、侯爵の眼前で()し潰したのである!

 信じられない魔力と膂力であった。

 侯爵レベルの妖気――渾身の一撃を受け止めたばかりか、それを圧し潰すなどと!

 茫然となるフェノメネウスの眼前に、剣を構えた妖が立ちはだかる。

 息も荒く、身体中いたるところから血を滲ませているが、しかし、依然として美しい双眸から光輝は失われていない。

 魔剣〝夜魅〟――二尺八寸の刃は妖気に濡れ、血に染まるのを待ちわびているかのようだ。

「何故、そんなにまでなって、人間を守ろうとする」

 侯爵が呻くように、ぼろぼろになった服を着た、血みどろの若者に問うた。いや、問わざるを得なかった。

「たかが人間に、生命を張ってまで守る必要があるのか。奴等は、いわばゴミ溜めに蠢く虫けらなのだぞ。それを…貴様のような男が何故……?」

「虫けらといったか? ならば、答えよう。人間が全て虫けらなら、俺も同じ虫けらだ。――虫けらが虫けらを守るのが何故わからん」

「馬鹿な!? 貴様…そうか…忘れておるのか」

「何をだ?」

「――貴様は、人間ではないのだよ。その証拠が、貴様のその翡翠色の()だ。私は、その瞳の持ち主をよく知っている」

「な――!?」

「だが、まあいい。ここで貴様を斃せば、別に関係なくなるからな」

 言い終えたとき、侯爵は眼前の若者の身体から立ちのぼる凄まじい気迫を感じ、愕然となった。

「――やれるかな?」

「…………」

「そんないいことを聞いた以上、このまま黙ってやられるわけにはいかなくなったよ」

 笑っていた。

「な、なんだと…」

「決めたよ。貴様を斃し、貴様が知っているという俺の正体について、聞き出してやるよ。――この、俺の剣でなぁ!」

 だん、と妖が魔剣を振りかざして地を蹴る。

 猛然と侯爵に迫る。

「チィ!」

 魔界侯爵が舌打ちして杖を構えた。

 その瞬間、虚空を斬り裂いて、白刃が弧を描いた。

 真っ向上段より、侯爵の脳天目がけて。

 銀閃を侯爵が金属杖で受けた瞬間――

 その瞬間(とき)、雷光が鉄火の如く飛散し、暗黒。

 二つの魔力が戛然と交差した瞬間(とき)――暗闇。

 凶の暗黒剣、侯爵の幽閉空間よりもまだ濃密な、魔空そのもののような永劫の闇。

 それは、全き闇。

 室内を照らしていた鬼火すらも消滅し、そのとき、二人の魔人は、文字通り全き暗黒が支配する世界にいた。

 その中にあって、魔界侯爵は灼熱の痛みに全身を震わせていた。

 鋭い刃が肉と骨とを断って、肩に喰い込んでいる。

 妖の魔剣は侯爵の杖を分断した後、侯爵の左肩の肉を胸の辺りまで斬り降ろしていたのである!

「チィィ……」

 凄まじい眼光で睨みつける侯爵から、妖は刃を引いてゆっくりと離れた。

 闇が幻のように消え、もとの光景に戻る。

 視界の隅で鬼火が、何事もなかったかのように揺れていた。

 依然として、妖の眼前では、侯爵が肩を押さえて呻いていた。

 傷が癒えないのである。

 魔力を込めた一刀は、侯爵の生体エネルギーを啖い続け、やがて衰弱死に至らしめるであろう。

 漆黒のマントの表面を濡らすは、奴の血か。

「ふふ…やはり、お前は奴、だ…魔界の裏切り者、だ…。今、ようやく、確信、した…くくく…」

 侯爵の声は、笑いに震えていた。

 妖は何も言わず、話し続ける男を見ている。

「…人間に転生していたのか…ふふ…わからぬのも道理…。だが、転生し、疲弊しきった貴様の魔力では、私は斃せぬよ。――今回は、これで、手を引く。…だが、近いうちに、必ず、貴様の、首をもらいに来るぞ…」

「本当の俺は、もっと強いのか?」

 妖が歓喜にわななく声で訊いた。

「ああ。本来の貴様なら、今の一撃で私を斃して、いた筈だ。まだまだ、貴様は弱い。――そうか、今回、地上に降臨したにも関わらず、門が開かなかったのは、貴様の、存在の所為であったのか……」

 だが、妖は、侯爵の言葉を半ばから聞いてはいなかった。

 えもいわれぬ喜びと興奮のため、震える身体を抑えるのに必死だったのだ。

 そのとき、妖の目の前で、傷ついた魔界侯爵の身に変化が生じていた。

 肉と生体エネルギーを吸収する妖の闇に身体を喰われ続けながらも、侯爵は術を行使していたのである。それは、凄まじい精神力の為せる技であった。

 もし妖が普段の冷静さを持っていたならば、この変化を見逃さず、さらなる一撃を加えていただろう。

 だが、気づいたときには遅かった。

 右肩の肉が、衣服を破る勢いで大きく瘤のように盛り上がる。

 マントを押しのけて大きくなった瘤に耐えきれず、ついに服の肩の部分が弾け飛んだ。

 しかも、蠢いている!

「――!?」

 妖の目の前で肉瘤は蠢き続け、まるで意志あるものの如く何かを形づくり始めた。

 ああ、それは――

 やがて肩に出現したそれは、鼓膜を破るような奇怪な声で哭くと、背中に生えた皮膜の翼を動かし始めた。

 侯爵の肉から生じた「翼あるもの」が、フェノメネウスの両肩にがっちりと爪を食い込ませ、彼を吊り下げて飛び去っていく。

 天へ――

 教室の天井には、いつの間にか暗黒が広がっていた。

 魔空間への通路が開いていたのである。

 そこから上下に赤色の妖気が迸り、通路は赤色光柱と化した。その中を、悪鬼に連れられた魔界侯爵が上昇する。

「魔界侯爵フェノメネウス!」

 妖は光柱を見上げ、叫んでいた。

「――俺は、もっともっと強くなってみせる。強くなって、必ず、貴様を斃してやる!」

 まだ、自分は強くなれるらしい。

 身体の何処かで、喜悦に踊り出す自分がいる。

 強くならなければ、侯爵には勝てない。

 ということは、この地上が魔人に蹂躙されるのを見ているしか()がないということになるのだ。

 玲花が、殺されてしまう……。

 しかし、今の妖の頭の中に、この式は存在しなかった。ただ単純に強くなりたいという思いがあるに過ぎず、式は後に組み立てられるのであった。

「必ず、強くなってやる」

 呟いたとき、妖の口許には魔的な笑みが乗っていた。

 見る者を総毛立たせる笑みを浮かべていることに、果たして妖は気づいているのか。

 やがて、額にこびりついた返り血を拭った後、妖は教室のドアを開けた。

 すでに教室は魔界との接触を断ち、地上に戻ってきていた。

 後ろ手にドアを閉めると、妖は昇降口までの廊下を歩き始めたのだった。


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