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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
終章
22/24

1

 

 一刀を引っ提げた若者が目の前に舞い降りたとき、侯爵はぞくりと寒気を感じた。

 幽閉空間を、しかも、魔界侯爵が創造(つく)った空間を破るのに、想像を絶する魔力を消費することは前述した通りだ。しかし、眼前の若者は、少なくとも見た目には呼吸を乱し、汗をかいているだけ。

 妖にとって、その二つの現象が自分の身に起こること自体信じ難いことなのだが、彼を知らぬ者が見れば、ほんのわずかな魔力で、空間牢獄を脱したかのように思えてしまう。

 しかし、もし、本当にそうならば、妖は底知れぬ魔力をその体内に潜在させていることになる。

 事実、彼は自分の限界を知らない。

「やっと、あんたに会えたよ、魔界侯爵」

 そう言う妖の額から、すでに汗は乾いていた。

「――今回に限って、おかしなことばかり起きる。謎を全て解き明かしてもらうよ」

 剣を一颯する。

「――それまでは、帰さない」

 言って、妖は一刀を侯爵の眼前に突きつけた。

 口許には、冷笑。

 翡翠色の双眸は妖しく輝き、魔界侯爵を真っ向から睨みつけている。

 よかろう、と薄く笑い、

「――だが、こちらの質問にも答えてもらうぞ。私にも訊きたいことがあるのでな」

 魔界侯爵が言った。

 彼が、妖という人間に興味を持ち始めたのは、優子に召喚されてすぐ、初めて妖に出会った瞬間からであった。

 優子の肉体を介していたとはいえ、妖はフェノメネウスの放った〝侯爵の紋〟の結界を自力で破っている。

 彼が何者なのか、侯爵でなくとも気になる。

 そして、それが最高潮に達したのは、言うまでもなく魔人伯爵〝凶〟との一戦である。

 他の三人の戦士は、能力が結界によって半減させられているのに対し、妖は闇の魔力を己がものとするかの如く、凶と対等に渡り合い、これを撃ち破っている。

 普通(ただ)の人間などに為し得ることではなかった。

 フェノメネウスがそう思うのも無理はなかった。

 凶が死ぬときに、彼にテレパシーでメッセージを送ってきたが、死の直前のものであるため、支離滅裂で、しかも途切れ途切れであったので何が言いたいのかよくわからなかった。

 それだからこそ、何かが頭の中に引っかかっているのだ。

 それ故に、今の侯爵と妖との会談はそれを確かめるためのものであるとも言える。

「交換条件と来たか。ま、いいだろう。受けて立つよ」

 相変わらず薄い笑みを浮かべたまま、妖が左手を閃かせる。

 指先が微かに光り、亜空間から闇色の鞘を引っぱり出す。

 そこに、流れるような仕種で魔剣を収めた。

 ちん、と美しい、透き通るような音がした。

「底の知れん男だな、貴様は」

 思わず、苦笑を浮かべる。

 普通なら、あまりの魔力の差に心は恐怖で満たされるものなのだが、妖の場合、全く別の感覚で満ちあふれていた。

 すなわち、戦いへの予感とそれへの歓喜。

 強い魔人と戦えるという、胸がわくわくするほどの喜悦が、そこにはあった。

 侯爵の指が、ぱちっと弾かれる。と、二人の背後に闇の塊が生じた。徐々にそれは形を整え、やがて椅子になった。

「誉め言葉としてとっておくよ」

 妖は実体の感覚を確かめると、どっかと椅子に腰掛けた。

 偉そうにふんぞり返って、足と腕まで組む始末だ。

 そこで、ようやく辺りを見回す余裕が出たらしく、妖は自分のいる空間のあちこちに眼をやった。

 教室らしい。

 らしい、というのは、学生たちが日々使っている筈の机や椅子がないからだ。それらがないだけで、一種異様なまでの寂寥感を覚える。

 教室とは全く違った印象を受けるのは、その所為だろう。

 教室が薄暗いのは、むろん蛍光灯がついていないから。光源は、教室の左右の壁に取りつけられたいくつかの燭台に燃ゆる不気味な輝きのみ。

 そこには、二人の魔人妖人の放つ妖気に揺れる青白い光が宿っていた。

 すなわち、地獄の炎――鬼火。

 眼を移せば窓枠は奇怪な形にねじくれ、そこに嵌められたガラスは、二人の姿だけでなく鬼火すら、そして外界をも映してはいない。

 ガラスの向こうに(ひろ)がるは、暗黒の魔空間か。

「さて、何から知りたい? それとも、俺の方から訊こうか、魔界侯爵」

「好きにしろ」

 侯爵は依然として佇んだままだ。そしてその手がゆらりと円を描いたかと思うと、その掌の上に鬼火を現出させた。

 そして、掌に鬼火を乗せたまま、黒マントを翻しつつ闇色の椅子に腰を下ろした。

 妖に眼もくれず、凝っと鬼火を見つめている。

 と、侯爵の唇から、思わず驚嘆の声が漏れた。

 すかさず、妖が身を乗り出し、

「じゃあ、一つめの質問。その炎の中に見えるのは、どんな光景だい?」

 好奇心旺盛な妖は、あらかじめ決めていた質問事項の順序を変更して、新たな問いから始めた。

 無論、この展開は侯爵の思惑通りで、驚嘆してみせたのは誘いだったのである。

「――知りたいか。ならば、見せてやろう」

 フェノメネウスの右手が、水平に動いた。

 ゆっくりとしたサイドスローで放たれた鬼火は、妖の目の前で速度を失い、静止した。

「――貴様の仲間の最期を」

 浮遊する鬼火を見つめる妖の耳にその声は届いていたが、妖はそれを平然と無視した。

 何故か?

 わかっていたからである、玲花たちの勝利が。

 そうでなければ、今、自分はここにはいない。

 確かに、侯爵の相手をすることは最初から決めていたことだ。玲花たちにも言ったように、心の内から声がするのだ。

 会え、と…。

 だから、妖風が巻き起こり、自分を校舎内に広がる異空間へ(いざな)ったとき、それに身を任せたのである。

 あの程度の烈風で、妖の身体の自由を奪うことは本来なら出来はしない。それが出来たのは、つまり、妖が何ら抵抗を示さなかったのは、玲花たち三人が発揮し始めた能力の可能性に賭けたからである。

 死人男爵ファレスの操る不死身のゴーレムをも粉砕できる能力を、彼等は持っている。

 必ず勝ち、新たなるステージへの一歩を踏み出すと信じたからである。

 青い光の中、今、人影が動いている。

 左端に大きな影。これは死人ゴーレムか。

 そしてそれに相対するように三つの影がいる。その影も、鬼火に結ばれる映像が鮮明になるにつれ、獅天たちの並び方までわかるようになった。

 どうやら、死人ゴーレムへの攻撃方法を、集まって思案している最中らしい。

 不死身の化物を相手に、さて、どうやって戦ったものか…。

 死人ゴーレム――もとは、魔人伯爵と優子の口づけによって生まれた魔性〝吸血鬼〟だった。

 凶が、妖の魔力を試すときに数十にも及ぶ吸血鬼どもをけしかけたのである。

 勝負は、文字通り一瞬で着いた。

 どのような魔力がそこに作用したのか、結局誰一人としてわかったものはいないままだ。

 とにかく、吸血鬼は妖の魔剣による攻撃を受け、身体に十字架を刻みつけられて死んだ。

 その屍を、死人男爵がどろどろに溶かし、魔界より彼の下僕を召喚し、ゴーレムと呼ぶにふさわしい巨人に再構成したのである。

 そのゴーレムも一瞬の間隙を突いて振るわれた玲花の能力の前に一度は溶解した。

 しかし、戦いはそれでは終わらなかった。ゴーレムが刹那のうちに復活を遂げたのである。

 全身からにじみ出る腐汁は大地をも腐らせ、とろけさせてしまう。

 獅天たちのどのような攻撃にも、ゴーレムはびくともしなかった。

 最初の敗北が、ゴーレムをパワーアップさせて甦らせたのである。

 しかし、それもここまでだ。

 今度こそ、お前の最期だ。

 ヘレニズム文化のラオコーン像には程遠い、小学生の粘土細工のような肉体の巨人を見上げ、獅天は不敵な笑みを浮かべた。

 その笑みを、巨人はどのように取ったろう。

 不敵か。それとも絶望からのカラ元気…。

 いずれにせよ、ゴーレムは三人を睥睨したまま動かない。

「――光炎」

 獅天が、年長の静かな男に呼びかける。

「もう一度、あれをやる。そこでだ。三角陣結界の体勢に入ったら、すぐに奴の周りの熱を奪え。――凍りつかせるんだ」

「なるほど」

 とは頷いたものの、光炎の物静かな顔には、不安そうな翳が落ちている。

「どうした?」

「――三角陣結界を張りながら、ですか?」

「ああ。一度に二種類の術を行使するのは辛いと思う。しかし、今はこれしかないんだ。結界の方は俺と玲花がフォローする」

 玲花が、真剣な顔で頷く。

 光炎が、わかりました、と肩をすくめた。

「頼んだぜ、光炎」

 獅天が、巨漢の肩をぽんと叩いた。

 光炎が静かに頷くのを見たとき、獅天は満足そうな笑みを浮かべた。

 その瞬間、凄まじい振動が彼等を襲う。見ると、ついに、ゴーレムが咆哮を上げつつ歩き出していた。

 どうやら、タイムリミットらしい。

〝遊びはしまいだ! 死ね、虫けらども!〟

 また、ファレスの声が響く。

〝叩き潰してやる!〟

 瞬間、ゴーレムの右腕が暗黒の空高く跳ね上がった。

 ごおっと風を巻いて、怒濤の如く右手が振り下ろされ、大地に叩きつけられたとき、獅天たちは、その手に巨大な棍棒が握られているのを見た。

 形状は、昔話に出てくる鬼が持っていそうな、野球のバットを太くし、その先端にいくつもの突起を付けたもの。その突起は一つ一つが髑髏(しゃれこうべ)で、色はむろん死人色。

 ずん、と大地が鳴動した。

 大慌てでその場から跳び退いた三人は、全身に付着した土埃を拭いつつ、苦笑していた。

 放っておこうかとも思ったのだが、砂粒一つ一つに至るまで魔界の生物であったことを思い出したのである。

 もし放っておけば、毛穴という毛穴から、ナノサイズの妖魔が体内に入り込み、人間の身体の機能を狂わせかねないからだ。

「あんなもの、いつの間に……」

 獅天が舌打ちしたとき、三人の頭上が暗くなって、巨大な足が容赦なく落下してくる。

 足はグラウンドの土を腐敗させ、ぐずぐずに溶解させて、くるぶしまで埋没した。

 このときの猛烈な振動は、だが、妖たちのいる部屋を微動だにさせることはなかった。ここは、校舎内であって非なる空間なのだ。

 つまり、妖たちのいる部屋は、魔空間に浮遊するように存在しているのだった。

 三人は、巨人の足が大地を震撼させて落下する寸前に地を蹴っていた。

 そして、すでにゴーレムを中心にして三角陣を描きつつある。

 聖なる三角。力の三角。魔法陣や封印結界の中でも最も基本的な陣形。

 それを利用して魔を陣内に封印し、原子レベルにまで分解するというのが、三人の最強の術である。

 しかも、今度のは一回目のものよりも大きい。

 ゴーレムが手に棍棒を持ったため、奴の間合いが変化したからだ。

 剣を構えた彼等の身体の深奥から、再び、新たな能力が湧き上がって来ていた。

 今こそ、わかる。

 これは、妖が自分たちに与えてくれた魔力なのではなく、目覚めつつある自分たち自身の能力なのだと。

 それが心に通じたのか、鬼火を見つめる妖の口許を、ようやく気づいたのかと言いたげな優しい微笑みがかすめていった。

 その美貌を見つめつつ、侯爵は自問自答する。

 やはり、この若者は「奴」なのか、と。

 侯爵の闇の術を破り、凶の暗黒の剣に打ち勝つ男。そして、透き通った緑色の瞳。

 だが…しかし、まだ何かが――。

 思いに耽っている間にも、三角陣は完成しつつある。定位置を目指して走っている間にも、彼等は何度か攻撃を受けていた。

 しかし、能力が覚醒し始めた三人は、そのことごとくを容易に躱し、光炎は魔剣〝紅蓮〟を振るうことさえ出来たのである。

 だが、このとき、青竜刀の刃より放たれたのは、火炎竜ではなかった。

 凄まじい冷気を身にまとった氷の竜。

〝何っ!?〟

 男爵の声が驚愕に満ち、それまで攻撃を続けていたゴーレムが突如一転して、それを中止し大地に溶け込み始めた。

 術が完成する前に、結界内から逃げ出そうというのだ。

 しかし、膝までが大地の向こう側に埋没したとき、巨大な氷の竜がついに敵を捕らえることに成功した。その長大な胴体をゴーレムに絡みつかせ、相手の熱を奪い始めたのである。

 巨人は、逃れることも元の姿に戻ることも出来ず、結界の中央であがいていた。

 苦鳴ともとれるイヤな声をすら上げた。

 徐々に、純白色の氷という名の麻痺が上がってくる。

 もはや、どうにもならなかった。

 三人が魔剣を振り上げた時――突如、巨人の背中の一部が膨らみ、光の珠を吐き出した。

 やはり、ファレスはゴーレムの内部にいたのだ。

 光は弱々しく輝き、大慌てでその場から跳び去っていく。

 その瞬間、三振りの剣が大地に突き立てられた。

 能力の腕が、ぐんぐん伸び始める。

 前回とは比べものにならないほどの速度で、三角陣が完成する。

「封殺ッ!」

 三角陣の完成を悟ったゴーレムが、どうにもならぬことを知りつつも、巨大な猿臂をばたつかせてあがく。しかし、そのとき、獅天らの引いた三角陣を底面とした三角錐の頂点から蒼い光のシャワーが、動けぬ巨人目がけて降り注いだ。

 無数の光線はゴーレムの頭を、腕を胴体を射抜き、穴を開け、即座に溶解させる。

 どろっと腕が溶け落ちた。それも一瞬、もしかしたら再生機能が働き始めたかも知れないが、溶けた右腕は宙にあるうちに凍りつき、落下とともに砕け散った。

 氷点下の麻痺から逃れようというのか、ゴーレムが人の形を解き、異様な姿となって空中に広がる。

 しかし、ついに麻痺は腰から胸へと移り、それから十秒と経たずして、死人ゴーレムを巨大な、そして異様な氷像と変えた。

 地獄――その中に氷地獄(コキュートス)と呼ばれる世界があるが、もしその世界を具象化したとしたら、目の前にあるこの氷像のようになるのではないか。そう思わせる異様さであった。

 それを包み隠すように、三角錐型の結界の内側に烈風が舞う。小さな〝かまいたち〟が無数に集まった嵐である。

 もはや断末魔の叫びすらなく、ゴーレムは風の刃に斬り裂かれ、無数の氷片と姿を変えて散った。

 美しいきらめきが、三角陣内で踊る。

 そのとき、獅天が光炎の名を叫ぶ。それに応えるように、今度は火炎竜が哭いた。

 一切魔性を焼き尽くす降魔の炎が竜となり、結界内に舞うきらめきを全て啖い尽くした。

 そのとき、まさかの反撃。

 最期の悪あがきか、ゴーレムの身体の破片を一つ残らず竜が呑み込んだ瞬間、その胴体が内側から爆発した。

 愕然となった三人の目の前で結界は破られ、妖気をともなった凄まじい爆風がその場に吹き狂った。

 信じられぬ反撃に、玲花たちは一瞬茫然となった。

 なんて、化物なんだ……。

 たった今、全霊をこめて術を行使したために疲労の局地にある三人の身体を、横殴りの妖風が容赦なく吹き飛ばす。

 立っているのがやっとの玲花は当然のことのように、三人は木の葉となって宙に舞った。

 悲鳴さえ上がらなかった。

 最期の反撃の結果に満足したのか、ゴーレムは三角陣と火炎竜もろとも消滅していった。

 玲花は、グランドの隅に植えられた木の幹に背中から激突し、うっと呻いて気絶した。

 光炎は校舎を囲む壁にぶつかり、獅天は校庭の土を削りつつ、半ば土中に身体を(うず)める状態で気を失ってしまった。

 そして静寂の中、玲花のすぐそばに、一つの光が舞い降りた。

 それはやがて、隻腕の男へと姿を変える。

 死人男爵ファレスが、玲花の美貌を凝っと見下ろしている。が、こちらも疲労の色が濃い。

「擬態を解いて、この木に喰わせるか…」

 呟いたが、即座に、それは無理だと悟る。

 この光景を形作る全ての存在の擬態を解いて本来の姿に戻してやれば、今ならこの三人を喰い殺させるのはわけないことだ。しかし、それは同時に、己れの死につながりかねないことも知っている。

 何故なら、実体を取り戻した妖魔どもを抑えられる自信が、いまないのだ。

 魔力と、生体エネルギーの欠乏の所為だった。

「痛み分け、というところか」

 自嘲気味に嗤い、ファレスは、また光の球に姿を変えると、暗黒の空の彼方目指して飛び去っていった。

 あとには、再び沈黙だけが残された。


 安田圭一は歓喜に打ち震える腕で、暖かさを取り戻し始めた少女の肢体を、ぎゅっと抱きしめた。

 奇蹟が起こったのである。

 天魔降臨の儀式の際、もう一人の自分に殺された優子が、今、息を吹き返していた。

 吸血鬼となった優子の意思が消滅するとき、圭一の元に返していったのだ。

「圭一…さん…?」

 寝起きのようなぼんやりした口調で、優子が彼を呼ぶ。

 圭一は、優子の背中を軽く手で撫でてやりながら、何度も涙ながらに頷いた。

「ああ。ここにいるよ、優子」

「…私、どうして――?」

 生きているのかと問うたあと、優子は義兄から身体を離した。

 そこで、ようやく自分が裸であることに気づく。

 きゃっと声を上げ、優子は慌てて胸と股間を手で隠す。

 その反応は、圭一にとって安堵感を抱かせるものであった。

 ああ、本当に還って来たんだな、優子。

 圭一は微笑んで、着ていたシャツを脱ぎ始める。

 その下から、意外に逞しい体格が現れる。

 そして、脱いだシャツをそっぽを向きながら優子に手渡す。

 圭一のそのシャツは、二人の流した血や土で汚れていたが、優子には気にもならなかった。それ以上に、嬉しかったのだ。

「もういいよ、圭一さん」

 と言う優子の声が聞こえ、圭一は彼女の方を振り向いた。

 圭一のシャツを小柄な優子が着るとやはり大きいらしく、彼女の太腿の半ばまで隠れていた。

「――ねぇ、訊いていいかしら」

 頬の朱が消え、深刻な表情を美貌に浮かべる。それにつられて、圭一も真剣な顔になった。

「これ、私がやったの?」

 優子が辺りを見回しながら、消え入りそうな声で訊く。

 見るも無惨な光景が広がっていた。

 彼等の通う高校を中心にして広がった妖気の爆発は、外へ外へとベクトルを向けながら、半径六〇キロにも及ぶ真円を描いてようやく止まった。

 一瞬、世の中の光と影が入れ替わり、その直後、ただひたすら白光の如き不可視のものが建造物を破壊しつつ広がったのである。

 爆発に呑まれる前に目覚めた者は、着の身着のままで表へ飛び出した。途端にパニックに陥ったことは言うまでもない。

 妖爆発に己が生命を吸われた人間は一千万単位で存在するが、パニック時に他人に殴られ蹴られして死亡した人の数は、各地合計して数千にも上っていた。

 誰もが「われ先に」逃げようとしたためだが、その結果、大阪湾に怪獣が上陸するだの、宇宙人が攻めて来ただのと、とんでもない流言が飛び交うことと相成った。

 やがて爆発が停止し終熄したとき、それはそのまま「虚無」をともなった闇の結界へと変化した。

 それに加えて、大空にはとてつもなく巨大な扉〝魔道門〟が四枚、大地と平行に出現する。いったいどのような力が扉とその周辺の空間に作用しているのか、近づくことすら叶わぬ妖気を発し、音もなく浮遊し続け、落ちる気配は全くない。

 この後のことはすでにご承知のことであろう。ヘリの群れが、結界より放たれたプラズマによって、蠅や蚊のように撃ち落とされたのだ。

「――いや、お前じゃない。やったのは、魔界侯爵だよ」

「でも…彼等を呼び出したのは…私」

 優子の綺麗な瞳から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 圭一は首を横に振った。

「お前じゃない。優子、お前の意思じゃない」

 そして、再び少女を抱きしめる。

「もう一人の優子(あいつ)の所為でもない……」

「でも、私…いくら身体を乗っ取られていたからって、青木さんを…」

 圭一は、泣きじゃくる少女を胸に抱き、優しい声でそっと囁きかける。

「いいんだ。もう…いいんだ」

 これは、自分のエゴイズムかも知れない。だとすれば、自分は何という人間なのか。

 これでいい筈がない。数え切れないほどの人間が死んだ。いや、殺された。それはわかっている。

 確かに、近畿圏の文明を破壊し尽くした原因の一つは、この()にある。

 しかし、だからといって、俺までこの娘を突き放していいのか?

 そんな筈がない。そんなことをしたら、また振り出しに逆戻りだ。

 化物とか、人間じゃないなどと言われ続けた昔に戻ってしまう。

 そうなれば、彼女の精神波崩壊してしまうかも知れない。

 優子は、もう一人の自分の犯した罪を背負って、これから一生を過ごすだろう。これからずっと、眼に見えない暗い十字架を背負っていくに違いない。

 俺には、まわりのもの全てから優子を守るという義務がある。

 この世に生まれてきた人間は、やがて、精神世界にいたときに託された役目を知ると、昔何かの本で読んだ。

 どうやら、これが俺の役目らしい。

 二度と、優子のような不幸な人間を世の中が生み出さぬようにしていかなければ、人はいつまでも妖魔の絶好の標的になり続けるだろう。

「――立てるかい?」

 そう言いながら、圭一は少女の手を取って立たせてやると、流れた涙をていねいに拭ってあげた。

「これから、どうするの?」

「学校へ。十字架が、そこへ行けって言ってるんだ。――歩けるか?」

「たぶん、歩けると……」

 と言って歩き出したが、途端に腰が砕けてしまい、優子はその場にぺたんとお尻をついてしまった。

 恥ずかしくて真っ赤になる優子に、

「おんぶしてあげるよ」

 と圭一は声をかけた。優しい声だ。が、優子はその優しさが時折り恐くもなる。

 どうして、少しも怒らないのか、と。

「忘れろといっても、忘れられないだろう。なら、刻みつけるんだ。いいか、優子。俺が一緒に背負ってやる。事実を知れば、全世界が敵に回るだろう。だけど、俺は必ずお前のそばにいる。――いいな」

 圭一は、少しだけ強い口調で言った。

 優子は、圭一の背中で揺られながら、こっくりと頷いた。

 背中に当たる柔らかな感触を楽しみながら歩いていると、不意に背中から優子が話しかけてきた。

「どうした?」

「高校に着くまで、何か話して」

「――そうだな、どんな話がいい?」

「私が死んでいる間の出来事」

 優子があっさりと言ってのける。

 無理している。そう直感した。

 それ故に、圭一は無言であった。

 そんなことを話せば、優子は死にたくなるに違いない。せっかく生きようとしているのに、死んでいる間の出来事など話してしまったら、残るのは絶望と狂気しかない。

 その中をくぐり抜けてきた自分でさえ、信じられぬ光景ばかりだというのに…。

「お願い、話してほしいの。死のうなんて思わないわ。知っておきたいの。――いえ、知らなきゃいけないの。これから生きていくために」

 圭一の心を読んだかのように、優子はズバリと言った。

「お願い、圭一さん」

「――わかった、話してあげるよ」

「ごめんなさい…」

「いいさ。どうせ、いつか話さなきゃならないことなんだからな」

 そして、圭一は話し始めたのである。

 高校に着くまでの間、ずっとずっと…。

 優子は、ただ、愛する男の背に顔を押し当てて、静かに聞いているだけだった。


 ――


 妖の眼前で燃えていた鬼火が、ゆらりと大きく揺らいだかと思うと、次の瞬間弾けて消えた。

 椅子の背もたれに背を預け、妖は足を組み替えた。

 口許には、相変わらずあるがなしかの笑みが浮かんでいる。

「――さて、これで残るはあんた一人だな」

「仲間がやられたというのに、貴様、平気なのか」

 侯爵の口調には、さすがに焦燥と驚愕が窺える。落ち着きが無くなってきているのが、そのいい証拠だ。

「くく。おもしろいことを言うな。仲間がやられたのは俺じゃない。あんただ。玲花たちは気を失っているだけ。あんたはもはやたった独りだ。――違うか?」

 妖は、ここで一旦言葉を切った。そして次に口を開いたとき、少し声のトーンを落として、問い詰めるような静かな口調で、フェノメネウスに問うた。

「何が目的で降臨した。あの魔道門は何故顕現した。そして、俺の正体。知っている筈だ。――さ、答えてもらおう」

 妖の高圧的な口調に、侯爵は含み笑いをした。そして、妖の美貌を真っ向から見つめ返すと、答えてやろうと言った。

「先ず目的だが――これは知っていよう。あの娘、いや、ランバートとの契約だ。昔からのな。我等悪魔の行動は、常に契約に基づいて行われるからな」

「ふーん」

「不満そうだな」

「当たり前だ。それ以外にある筈だ。降臨した理由がさ」

「――さて、何のことかな」

「じゃあ、言わせてもらおう。何故、あの娘――安田優子が天魔降臨の儀式を行うとき、あれほどの妖気が作用し、お前を降ろすことが出来たのか」

「…………」

「あの瞬間、彼女の妖気――怨念以外のものが、あそこにはあった。そうだ。凄まじい量の負のエネルギーが、彼女の描いた魔法陣に働きかけていた。――では何故、そうなったのか。答えろ」

 侯爵は苦笑まじりに肩をすくめた。

 正直言って驚いていた。意外なのである。

 すでに、ここまで洞察していたというのか。

 そんな思いがある。

「大したものだ。いいだろう、教えよう。――確かに、ランバートとの契約の成就により最後の封印が解かれたことも、この地上に降臨した理由の一つだ。しかし、それだけでは、凶とファレスを伴う必要がない」

「そりゃそうだ。で、どうしてだい?」

「あの娘の肉体は、一種の〝通廊〟になっていてな。それを通ってこの国の、いや、世界中の怨念・憎悪などのいわゆる〝負のエネルギー〟が魔界に流れ込んでくる。それがあの娘の精神を狂わせてあのような憎悪の塊と変え、同時に我等を呼んだ」


〝何かが…私に、そうさせていたのよ…〟


「だが、それで終わりではない。我等が主が命令を下されたのだ。――裏切り者を殺せ、とな」

 言い終えたとき、侯爵の口許には不気味な歪みが生じていた。嗤っているのである。

 そして、その意味ありげな笑みが向けられた相手は、ふーんと関心なさそうな様子だった。

「二つめの質問の前に答えてもらおう。凶の牙を受けて吸血姫となった娘が、少年に殺された。そして、今また、ただの人間として生き返った。全ては、あの少年の持つ十字架の魔力なのか。あれは、貴様のものだな」

「その通りだ。俺の魔力を変化させて作ってある。玲花にあげたものさ。でも、安田優子の再生は知らない。あれこそ、真の奇蹟だろうな。お前たちには一生かかっても理解できないことだよ」

「くく。言いよるわ。――さて、魔道門の件だったな」

 侯爵が笑って、足を組み替える。

「ああ」

「少しくらいは、見当はついておるのだろう?」

「――まあね。ただ、いまいち釈然としない」

「良かろう。答えは簡単だ。あの門の出現の要因は、貴様たち愚か者どもにあるのだ」

 どうやら、フェノメネウスは、妖の属する組織〝美槌〟のことを言っているらしい。が、それがどういう意味なのかよくわからない妖は、魔界侯爵に訊き返していた。

「貴様等の持つ四振りの剣は、亜空間に存在する門の開放を阻むためのものと聞くが、違うかね」

「全くその通りだ。よく勉強してるじゃないか」

「――だが、貴様等は妖魔迎撃のための武器として、その剣を手にした」

 妖の揶揄を無視して、侯爵は続けた。

「門の封印が役目の筈の剣を取り払えば、門が現界に顕現するのは当然だろう?」

「いちいちごもっとも。だが、今までこんなことはなかった。だから、いつものように剣を取ったんだ。何故、今回に限って出現したんだ?」

「それは、私の存在の所為さ」

「――?」

「魔道門は、侯爵レベル以上の魔力に反応し、この地上に出現するのだよ。その者の魔力の強弱に、門もその大きさを変化させながらな」

 つまり、魔力が強ければ強いほど魔道門を地上に引き寄せる力が強くなり、空中に浮かぶように出現する門もまた巨大なものとなっていくというのだ。

 魔界侯爵一人であの大きさだ。では、公爵なら、どれほどの大きさになるのか。そして、その上の魔では…?

 それだけではない。もし、公爵以上の位格(ペルソナ)を持った魔人が複数降臨してしまったら…?

 そう考えると、背筋を寒いものが走り、妖は言葉を失ってしまうのだった。

「なあ、妖よ。この後、門はどうなると思う?」

 侯爵は口許に薄笑いを浮かべて言った。爬虫類の如き奇怪な眸子(ぼうし)には、えもいわれぬ輝きが宿っている。

「門が開く。――すると、どうなる」

「わかるだろう? もはや魔法陣を通して、この地上に召喚されるのを待つ必要はなくなるのだ。そう、低級妖魔を先頭にして、全ての魔属(デモンズ)がこの地上へあふれ出る。むろん、魔界貴族もだ。そして、魔空神王サタン様をお迎えする準備を始めるのだ!」

「な、何だと!?」

 妖は、闇の椅子を後ろに倒すほどに勢いよく立ち上がっていた。倒れた椅子は、その直後形を失い、程なく消滅した。

 妖の美貌は恐怖のために青ざめていた。何故か、凄まじい恐怖が身体の隅々にまで、血管を伝わって駆け巡っている。

「いつか来る〝その秋〟に、神の子は復活する。何処に、何時、この世に降りるのかはわからぬ。しかも、サタン様の御力をもってしても、奴の復活を阻止することは出来ないのだ。これは、まさに運命といえるほどのものだ。そして、まさにそうであるならば、神の子がやがて〝天照らす神の軍団〟を呼び寄せるは必定。それまでに我等は、神の子と神々に対抗するための準備を完了せねばならん」

「その…準備とは…」

 妖は、呻くように言葉を紡ぎ出していた。喉がカラカラで、言葉が張りつくようだった。

「――人間は、様々な宿命を背負って生まれてくる。そう聞いたことがあるが、それはあながち間違いではない。神にも悪魔にもなれる可能性を秘めた、未完成な生命体――それが、人間なのだ。だが、その可能性に目覚めることなく、自分で勝手に決めた役目を宿命と勘違いし、一生を終えてしまう。いや、それならまだいい。何も考えず、ただ生きて、死んでいく奴等の何と多いことか」

 侯爵は吐き捨てるように言った。

「だから、神の側につく人間、そして大いなる変革を迎えることなく過ごす人間などは、生きていてもらっては困るのだ。邪魔なのだよ」

 フェノメネウスは嬉しそうに続けた。まるで、その光景が、目の前に展開されているかのようだ。

「そして、神々へ戦いを仕掛けるのだ。まだ、完全に奴等の戦闘準備が整う前にな」

「…あ、あの戦いを、もう一度やるというのか」

「人類を死滅させた後にな。雪辱戦だ。――ほお、相当こたえたようだな。で、貴様の正体についてだが――」

 茫然と立ち尽くす妖を嗤いながら、侯爵がゆらりと椅子から立ち上がる。

 その背後で、闇の塊となって椅子が消える。

 まるで侯爵の身体からあふれ出る妖気に恐れをなしているのかのようだ。

 もしかしたら、新たなる魔戦の幕開けを察知したのかも知れない。だから、二人の戦いの邪魔にならぬように消えていった。そんな風にも思えた。

 魔界侯爵は漆黒のマントを大きく翻して、右腕を振った。

 手に、忽然と金属杖が現れて、侯爵がそれを強く握りしめる。

 鬼火すら反射しない杖を握ると、身体の奥底から魔力が湧出してくる。

「私を見事斃せたならば、教えてやろう!」

 侯爵の口から裂帛の気合いが迸る。

 突き出された金属杖の先端から、凝集された妖気の塊が妖目がけて放たれた。

 眼に見えるほどに凝縮されたもの凄い濃度の妖気が文字通り塊となって、妖の鳩尾へ吸い込まれていく。

 その瞬間、魔剣〝夜魅〟を構えることさえ出来ずに、妖は背後の壁目がけて吹っ飛ばされていった!

 まさか――!?


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