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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第5章 安田圭一
21/24

4

 

 爆風を浴びつつ、二人の魔人は跳び離れた。

 凶は跳びすさりながら、正直驚いていた。

 剣と剣とが激突した瞬間、二人の放つ〝気〟が激しく反応し、妖気が爆発したのである。

 これは二人の魔力が対等になったときに生じる現象で、巻き起こる風と熱は大地をえぐり、溶解させて小規模なクレーターを現出させるほどであった。

 そして、あのときの妖の()

 一瞬、背筋がまるで凍りついたかのように寒くなった。

 あれは、人間の眼ではない。

 まさしく魔界のものの眼だ。

 戦いと血を好む魔族の瞳だ。

 しかも、微かだが眼の色が変わってきている。吸い込まれそうになるほどの漆黒から、徐々に、透き通った緑へ。翡翠の色へ。

 とにかく、妖には、もはやこの結界の効果はないと見ていい。そればかりか、暗黒の力までも己れのものとしつつある。

 そんな気さえして、凶は身を(ふる)わせた。

 ならば、全力をもって妖をねじ伏せるまでだ。

 凶は心に誓いをたて、暗黒の剣を構えた。

 柄を両手で握りしめ、刃は己が胸前で垂直に。

 それに対して、妖は魔剣〝夜魅〟を真っ向上段に構えていた。

 妖の一刀の切っ先が緩やかに弧を描きだした刹那、二人はどちらかともなく地を蹴った。

 緩やかな助走から、猛然たる疾走へ。

 すれ違いざま、妖は横一文字に剣を薙いだ。その正面から振り下ろされる暗黒の刃を銀光の一閃が遮ったとき、鉄火ではなく暗黒のきらめきと爆発が生じた。

 二人は互いに位置を変えて向き直った。

「やるな。さっきまでの剣技とは大違いだ」

「――これが、俺の本当の剣技だよ」

「ぬかせ!」

 凶の腕がかすんだ。神速、いや魔速で迫る突きを、妖は見事に剣で弾いた。しかし、防御より攻撃へ移る暇さえ与えず、再び暗黒の刃が伸びた。

 肩に灼熱の痛みを感じ、妖は左肩を押さえつつ後方に跳んだ。

 血が流れているのは見ないでもわかる。が、その流血も六秒ジャストで傷口ごと消失する。

 血が止まるのに二秒。細胞が増殖し、傷口を塞ぐのに四秒。

 だが、

「ちっ。再生速度が落ちていやがる」

 妖が夜魅を右八双に構えたとき、すでに伯爵の刃が目の前に迫ってきていた。

 裂帛の気合いもろとも、凝集した暗黒は刃となって、妖の美貌の左側へ薙がれつつあった。

 曲線を描いて側頭へ吸い込まれる剣を、妖はどの方向に動いて躱すのか。

 どの方向にでもなかった。

 まっすぐ下へ――身を屈めたのである。

 乱れた髪の毛を数本さらって刃が頭上を通り過ぎたとき、妖は左足を大きく踏み出した。

 そして、伸び上がりざま、伯爵の脇腹へ死刃を叩きつけたのである!

 刃は異様な音とともに、凶の腹を三分の一ほど切り裂いて止まった。

 よろめきつつ、凶はえぐられた脇腹を押さえて退がる。

 押さえた手の指の隙間から流れ出る滝は、多量の血であった。

「貴様…何故、魔力をこめなかった? こめていれば、俺を、この一撃で斃せていた筈だ…」

「魔力をこめるのは最後の一刀だけと決めているのでね」

 というのが、妖の返答であった。

「ふふ。…いい心がけだ」

 伯爵は手についた血糊を舐め取ると、一刀を眼前の妖人に向けた。

 すでに血は止まり、腹の傷は消えつつある。

 もし二人が死を望むのであれば、如何なる傷を負わせればよいのか。

 その答えは――

「いえええいっ!」

 妖の口から裂帛の気合いが迸り、剣は銀線と化して雪崩れ落ちた。

 その勢いを阻まんと暗黒が流れ飛ぶ。

 二つの魔剣は空中で刃を噛み合わせた。

 また爆発が起こり、吹っ飛ぶ。

 糞。

 伯爵が素速く立ち上がった。立ち上がったときには、すでに地を蹴っていた。

 妖も立ち上がっていた。だが、吹き飛んだときに頭を打ったらしく、しきりに頭を振っている。

 まだ、剣を構えていない。

 凶の微笑をその刃にのせ、暗黒の剣は流星と化して美麗の妖人に伸びた。その胸へ。

 剣を構えることなく、妖が胸に死の刃を突き立てられ、地に倒れ伏す。

 凶は、そんな光景を夢見ていたのかも知れない。だが、微笑を凍りつかせ、驚愕に眼を見開いたのは、次の瞬間であった。

 もの凄い衝撃とともに、凶の暗黒剣は左に薙ぎ払われていた。

 妖の手に、魔剣があった。

 いつ魔剣を構えたのか。

 いつ腕を動かしたのか。

 何もわからぬまま、凶は痺れた手を茫然と見つめていた。そこに剣はない。

 以前と立場が逆になったことに、凶は気づいているのだろうか。

「…なぜだ…」

 凶の口から、悔しさの塊が洩れた。

「なぜだ…何故、貴様に勝てんのだ…。魔界貴族第三位の、この…俺が!」

 凶は、己れの拳を地面に叩きつけて喚いた。

 今まで何人もの敵を相手に築き上げてきた何かが、それはプライドの、または自信の塔であったかも知れぬ何かが、今、もろくも崩れようとしているのだ。

 自分の正体すら知らぬ若者によって。

 その若者は、今も攻めてこようとはしない。

 とんだ甘ちゃんだと思う。

 戦いは常に非情なものなのだ。

 とにかく相手を殺せばよいのだ。たとえどんな手段を使ってもだ。だが、妖は違う。

 何が何でも正々堂々とやる気らしい。

 考えようによっては、この方が非情と言えるのではないだろうか。

 敗れる、勝てないとわかっていても、剣を交えねばならないのだから。

 凶は、地に突き刺さった剣を引き抜き、疾っていた。そのとき、彼は、その眼に死を()つめていたのかも知れない。

 暗黒が熱き怒濤と化して、妖の頭上より降りかかる。

 妖の魔剣が、幻想のようなきらめきを残して、逆袈裟に神速をもって動いていた。

 美しく澄んだ金属音。

 真円を描いて、凶の魔剣は空中に再び弾き飛ばされていた。

 折れた刃の半ばまでが。

 半分に叩き折られた暗黒剣を見て、凶がしばし茫然となった間隙を突いて、再び銀閃が疾る。

 返す刀で、妖が、凶の左肩から右脇腹まで一息に、魔力をこめて斬り降ろしたのである。

 斜めに走った傷口から血があふれ、

 ざんっ

 と地面を濡らす。

 凶の傷口が塞がることは、もはやない。

 妖の魔力は、それほどのものなのだ。

 再生しようとする肉体はおろか精神までも凌駕する魔力を、凶は以前にも味わっている。

 あのときは腕だけで済んだ。

 しかし、今回はそういう訳にはいかない。

 ついに、血に闇色が混じり始めた。

 凶の肉体を、闇が蝕み始めたのだ。

 遠くで、折られ宙に舞っていた刀身が、地に転がる音がした。

「な…何故、勝てないのか…理由がわかった。

 お前の瞳…その透き通った緑色の瞳…。

 お前は…奴なのだ…」

 血を吐きながら、凶は嗤った。

 その血にも、闇のきらめきが宿る。

 倒れゆく凶の身体を受け止めたのは、妖が魔人の言葉に驚いていたからだ。

 俺を――知っているのか!?

 美しい若者の翡翠色の双眸は、腕の中で死んでゆくものを、凝っと見下ろしていた。

 その者の全身を、薄く闇が支配していく。

 妖の魔力の源である闇が、凶の胸の傷から広がり、全身を啖っているのだ。

「…我が、生涯の最期に、素晴らしい敵に、出会えた。――さらば、だ…」

 そのあとに、何かを呟いたようだが、もはや言葉にならなかった。

 そのとき、翡翠色の瞳を持つ若者は、闇色の人形を抱き、茫然と立ち尽くしていた。

 その、翡翠色の双眸に移るものは、果たして何であったか。

 やがて、魔人伯爵〝凶〟であったものが砕け、妖風に乗って流れていったとき、妖は初めて他の三人の戦場に眼を向けた。

 玲花たちの存在をようやく思い出した、そんな感じである。

 そして、事実またそうであったのである。

 二手にわかれて戦いを開始した直後、妖は光炎や獅天はおろか、玲花の存在すら忘れた。

 そうしなければ、彼らの戦いに気を散らしては、魔人伯爵の脅威的な魔力に立ち向かうことなど出来はしなかったであろう。

 凶は、それほどの相手だったのである。

 と同時に、妖は戦いに熱中していた。

 あれほどに熱中できたのは、初めてだった。

 凶が最後に言い残したように、最高の敵であった。戦いに必要なものすべてが、凶にはそろっていたように思う。

 それを打ち崩すために、妖は戦いにのめり込んでいったのだった。

 思い出すだけでも、ぞくりと快感が背中を疾り抜ける。あの眼、あの気魄、あの刃の冴え…。

 そのとき妖は、愛する女の姿を見て愕然となった。

「――!?」

 玲花が、不気味な人形に首を絞められ、片手で吊り上げられているのだ。

 妖が、救い出そうという衝動に駆られて走り出したとき、首を締め上げられていた玲花が、能力を帯びた短剣を閃かせた。

 青い閃光が尾を引いて斜め上方に流れる。

 偽玲花の、何もない顔がかき切られる。

 解放されて、首をさすり、むせぶ玲花の目の前で偽玲花は元の汚物と化し、地中に吸い込まれていった。

 ゴーレムの元へ大地の下を移動して戻ったのだろう。

 少しの間、どうしたか不明であるが、ゴーレムの攻撃がやんだ。

 これをチャンスと見たか、獅天がゴーレム目がけて走った。

 焦っているな、獅天、と妖は思う。

 妖から見れば、ゴーレムの攻撃のブランクは、新たな攻撃の準備か罠への誘いかの二つのうちどちらかと考えられる。

 しかし、獅天は焦燥のために気が先を急いでしまい、それを考えることが出来なくなっているのだ。

 そのとき、大地が、もの凄い衝撃によって揺れた。

 ゴーレムが、その巨大な拳を思いきり大地に打ち付けたのだ。

 振動を避けて宙に舞った獅天に向けて、ゴーレムの全身から汚物の槍が伸びる。

 次々に迫る槍の林の中を、獅天は魔剣〝風牙〟を振るいながら、何とか後退した。

 苦虫を噛み潰したような表情で、獅天はゴーレムを睨んだ。いや、睨みつけた。

 そのとき、玲花は、妖と凶との魔戦が終熄していることに気づいた。

 妖がこちらを見ている。が、彼の瞳の色が変わっているところまではわからない。

「――獅天、妖が、伯爵を斃したらしいわ」

「ほほお。さすが、やるもんだねぇ」

 と、玲花の嬉しそうな声にそう応えながら、獅天は頭の中では別のことを考えていた。

 どうやって、奴を斃そうか。

 もはや打つ手がないらしく、光炎もただ攻撃を受け流す側にまわってしまっている。

 どうすればいい……。

 くやしいが、ここは一つ、妖に聞く手だ。

 そう思い、獅天が首をめぐらせて妖を探したとき、校舎の昇降口の一つが、大きな音ともに扉を開けた。

「――!?」

 その向こう側に広がるは、漆黒の闇。

 その闇の奥深くで、時折り、白いものがゆらりゆらりと舞うが、それは、もしかしたら帰る所拠るべき所を失いさまよう死霊か地獄の亡者であったかもしれない。

 そして、その暗黒の中心へ向かって空気が流れ始めたのは、それから数瞬後であった。

 もの凄い勢いで空気が吸い込まれていく。

 まるで、扉の向こう側に広がる闇は、光さえも呑み込むブラック・ホールであるかのようだ。

 とにかく、中心へ渦さえも巻きかねない勢いで吸い込まれいくのだ。

 ただし、妖の周りだけ。

 まさしく、何者かの意志が介入していた。

 魔界侯爵フェノメネウス――

 妖がにやりと口許を歪めたとき、

「あらっ!?」

 意志ある風に足許をすくわれて、妖は後方に倒れた。その身体を、暴風は己れの身体に乗せて、暗黒の待つ昇降口へ、いやその奥へ運び去っていく。

 止める手だてなく、妖は、ふざけた救いを求める叫び声を残して、昇降口に消えた。

「わざとだ…」

「わざとですね」

「ええ、絶対」

 思わず、妖を飲み込んだ昇降口を、半目で見つめる三人。


 背後で、扉が閉まった。

 瞬間、妖は、扉の向こう側に広がる闇の中へ、真っ逆さまに落下した!

 否、それは上昇であった。

 重力場が変化し、上下左右の関係がここでは滅茶苦茶なものとなっているらしい。

 体感する感覚が、完全に狂っていた。

 すなわち、左は上の下にあり、右は下の左にあった。そう感じられるのだ。


 戦いが始まる前、妖は侯爵の相手も自分がすると言っていた。

 そして今、侯爵は自ら妖一人を自分の前に招いたのだから、予定通り、フェノメネウスの相手をするのは妖ということになった。

 それはそれでいい。

 獅天が唇を噛んだのは、自分に対してだ。

 妖の魔力を借りる、だと?

 そんな甘い考えを抱いていた自分が情けなかった。

 自分たちの能力で死人男爵を斃すのではなかったのか。

 いつの間にか、弱気になっていたようだ。

 獅天は首を振って、再び死人ゴーレムを睨みつけた。

 やってやる。

 結論が出た獅天が、〝風牙〟を構える。

 正眼の一刀が振り下ろされたとき、光炎を殴り続けていた、ゴーレムの足から生えた手が不意に消失した。

 獅天の放った真空の刃が、一瞬にして原子まで分解せしめたのである。

 光炎が軽く手を挙げて礼を返す。それに返礼しながら、獅天は呟いた。

「やれやれ、厄介な野郎だな、このデカ物」

「本当ねぇ」

 横にいる玲花も、溜め息混じりに言う。

「――で、どうするの?」

「それは――戦いながら考えるとしよう」

 獅天が剣を手にして、ゴーレムに突っかける。それを追って、すっかり回復した玲花も走る。

 火炎竜が哭く。真空の刃が舞う。青い光矢が雨のように降り注ぐ。

 しかし、彼等の攻撃がある度に、ゴーレムは溶けたり、焼け落ちたりした箇所から人形を出現させたし、刃によって切断された所はすぐに再生した。

 妖、私たち、がんばるわ。だから、あなたも、必ず生還(かえ)ってくるのよ。

 負けずに、玲花が魔剣〝月影〟を振るう。

「わはは! もはや、貴様等に勝ち目などないことが、まだわからぬのか!」

 死人男爵ファレスの声が響きわたる。

「くそっ!」

 迫りくる己れの姿をした死人人形の首を薙ぎ払いながら、光炎は考えていた。

 本当に打つ()はないのか。

「――!?」

 一瞬の間隙を突いて、右手を槍と化した人形が迫ってくる。

「くっ!?」

 槍を、光炎目がけて突き出す。

 狙いは光炎の眉間。

 逃れられない!?

 光炎は、無意識のうちに〝紅蓮〟を突き出していた。その瞬間、彼の新たな能力が発動した。

 青竜刀から無数の白い破片が迸る。

 氷だ! 無数の氷の破片だ。

 破片は余すところなく、死人人形を覆い尽くす。

 一瞬で人形は凍りつき、動けなくなった。

 剣を振るって、それを叩き壊す。

 再生しない!

 それを見た獅天が指を弾き、嬉々として叫んだ。

「それだ!――もう一度やるぞ、玲花、光炎」


 闇が、広がっていた。

 夜、空を見上げたときに、眼に飛び込んでくる暗闇の比ではない。

 星の光、月の影が地上を照らしている夜空ではなく、何ものをも生み出さぬ闇〝虚無〟、全てを吸い込んで放さない全き暗黒が広がっているのだ。

 落下感を全身に浴びつつの上昇は、昇降口の内側に吸い込まれた数秒後には終わっていた。

 今、質量さえも感じさせる重苦しい漆黒の闇の中に、世にも美しい若者が、茫洋と浮遊している。

 全き存在を圧し包む暗闇と、無音の世界の中にいる人間は、やがて狂うという。

 見上げても見下ろしても、そして辺りを見回しても、何も存在しない。何も見えぬ、聞こえぬ。存在の気配すら感じない。

 そんな発狂しかねぬ闇の真っ直中にあっても、美貌の持ち主は平然と浮いていた。

 ここには、地面に足がついているという、あの安心感すらない。なのに、若者の呼吸、脈拍、脳波に一瞬の乱れもない。

 手には一刀。

 漆黒に黄金細工で縁取られた鞘に、若者に仕える魔剣が収まっている。

 名を〝夜魅〟といい、大地と闇とを司る日本刀に酷似した片刃の(ブレード)

 妖は髪を掻き上げながら、ゾクッとするような切れ長の瞳で、辺りを見回している。

 白い美貌の中で、翡翠色の瞳が綺麗な輝きを帯びていた。

 やがて妖は、剣を脇に挟むと腕を組んで、うーんと唸った。

 どのようにして、この闇を脱しようかと考えているらしい。が、どうも彼がやると本気で悩んでいるようには思えない。

 眉根を寄せて考えること数十秒。

 素晴らしい案が浮かんだらしく、妖は両手をぽんと打ち合わせた。

 魔剣の鯉口を切る。

 剣を引き抜いた途端、鞘は闇に紛れて消えた。

 妖は浮遊したまま、足を少し開く。

 どきどきする刃の切っ先は、正眼へ。

 眼を薄く閉じ、精神を統一する。

 精神一到何事かならざらん。

 口許には、あるがなしかの冷笑。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。

 呼吸を整え、チャクラを回転させ、大宇宙のエネルギーを吸収して気を高めるのだ。

 何度か妖が呼吸を繰り返すうちに、鋭く光る剣先がゆっくりと上がり始めた。

 流れるような、美しい上昇である。

 しなやかな肢体の何処に、これほどまでの気が存在していたのか。

 凄まじい気の放出は、冷たく冴え渡った刀身から、そして妖の全身からであった。

 ついに剣の切っ先は、妖の頭上遙かに達した。そのとき、妖の秀麗な相貌には、汗が珠となって浮かんでいた。

 想像を絶する精神集中のためだ。

 極限にまで高められた気を、かかげた剣に集中させる。どうやら、妖は、この闇を切り裂くつもりでいるらしい。

 妖を包む闇は、侯爵フェノメネウスが用意してくれたものだ。

 すでに、無限の広がりを感じさせる闇のある一転――侯爵の魔力が一番弱い部分は見つけ出してある。

 妖は、その前に立っているのだ。

 たとえ相手がどのようなものでも、術を仕掛けてくる限り、得手不得手がある。

 魔界侯爵の場合、邪龍変化による物理的破壊は得意であっても、闇を操るのはあまり巧くはないようだ。

 だが、いくら不得手とは言っても、相手は魔界貴族第二位の魔人。彼の張った術を破ってみせようというのだから、いかな妖といえどもまさに命がけである。

 だからこそ、妖に己れの術の弱点を見つけられたとき、侯爵は鬼火の如き輝きの前でこう呟いたという。

「ほう、さすがだな、妖。よくぞ見つけた。だが、どうやって抜け出るつもりだ?」

 と。

 余裕の口調である。もしかしたら、破られるかも知れない。しかし、それはそれでいい。

 こちらにもそれなりのダメージが残るが、何といっても侯爵の術である。破るのに、果たしてどれほどの能力を消耗するのか。

 もし、獅天たちが妖と同様のことをやろうものなら、たとえ術を破ることが出来たとしても、あまりの衰弱のため立てなくなるのは必定。

 あるいは、精神力を使い果たして死んでしまうかも知れない。

 そんな危険なことを、あえてやろうというのか、妖よ。

 侯爵は眼を閉じて、その姿を脳裡に見出していた。

 そして、妖を見ていて湧き起こった思いを、呟くように口に出して言った。

「なぜ、生命を賭けてまで人間を守るのか」

 侯爵は、そばで揺れる鬼火に、蛇の如き双眸を向けた。妖のそれとは全く別の意味で背筋に寒さを覚える眼――爬虫類の瞳。

 そのとき、侯爵フェノメネウスは空間が微かに震えるのを感じた。

 人間には決して感じ取れぬほどの微細な振動。

 空間が、恐怖している!?

 来るか、妖。己が生命を賭けて、我が闇より見事抜け出してみるがいい!

 侯爵が、凄絶な笑みを浮かべる。

 そして、彼の内なる声に応えるように、暗黒世界の妖が翡翠色の双眸をカッと見開いた。

 刹那!

 気合い一閃!

 振り下ろされた魔剣は、妖の強大な能力を内に秘めつつ、冷たい流星と化して闇を翔けた。

 瞬間、白刃は、暗黒の一点を斬り裂いていた。と同時に、侯爵の感じていた振動が一瞬のうちにトップレベルにまで跳ね上がり、彼のいる部屋にのみ、地震が生じた。

 ずんっと何か重いものが落ちたような音を残して、刹那のうちに地震は終熄した。

 そして、虚空は裂けた。

 苦痛に顔を歪める侯爵。斜めに走った額の傷口からは、赤い血が流れ落ちる。

 双眸は吊り上がり、邪悪な眼は眼前のそれを見据えていた。

 目の前の空間に出現した虚空の亀裂を。

 それはまさしく、妖が魔剣〝夜魅〟で虚空を斬り裂いたときに生じたものであった。

 加えて、侯爵の額に疾る傷と同じ方向に裂けている。

 誰が知ろう。

 妖の魔力の迸りは、空間を斬り裂くだけではおさまらず、侯爵の額をも裂いたなどと。

 凄まじい、脅威的な魔力であった。

 侯爵が額の血を拭う。傷はすでに無い。

「――!?」

 そのとき、侯爵の表情が動いた。

 目の前の亀裂から宙を掴むように数本の白い指がのぞいているのを発見したのだ。

 その指に力がこもる。信じられぬ光景であった。

 かたくなに閉じようとする空間の裂け目を、左右に強引に押し広げて、美しき魔人が顔を出したのである。

「やぁ」

 ぬけぬけという妖に、

「くく、やってくれるな、妖」

 と、侯爵は苦笑するばかりである。

 そして今、妖を産み落として、虚空の亀裂は閉じた。

 深呼吸を何度かした後、美貌の妖人は、

「ああ、しんどかった」

 と肩をもみながら言った。

 それほど、しんどそうでもない。

「――さて、いよいよ、大詰めだなぁ、魔界侯爵フェノメネウス」

 まことに、嬉しそうな口調であった。


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