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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第5章 安田圭一
20/24

3


 全てが崩壊し、文明の亡骸を残すのみとなった結界の内側は、暗黒の能力が全てを支配し、司っていた。

 ここでは、四天王らは能力を半減させられ、魔人たち〝闇の者〟はより強大なパワーを振るうことが出来た。

 たとえ妖によってパワーアップしてもらったとはいえ、やはり獅天たちは人間である。

 悪魔に魂を売って暗黒の力を手に入れない限り、この死人ゴーレムを相手に対等の闘いをするのは困難極まるであろうと思われた。

 先刻までのゴーレムとは姿形は同じでありながら、その奇怪な肉体の潜在能力は段違いだと感じられた。

 気迫というのか、とにかく、ゴーレムから放射される〝気〟から違うのである。

「俺を怒らせたこと、後悔するなよ。言った筈だ。ここはすでに魔界と化しつつあるから、一瞬でも気を抜くなよ、と。――その意味を今、教えてやろう」

 そのとき、ゴーレムの眼の下に亀裂が入り、それが、きゅうと吊り上がった。

 嗤ったのだ。

 その笑みに寒気を覚えたのか、獅天たちは一ヶ所に集まると背中を合わせ、三方向に視線を飛ばした。

「目覚めよ、妖魔ども!」

 死人男爵の声が谺したその瞬間、校庭の隅に植えられた数本の木が、身をくねらせ始めた。

「な…何だ…?」

 人間にとって、それは理解を超えた光景であった。ある木は、木の葉の落ちた枝を翼とし、空を翔るナナフシのような妖魔となった。

 またある木は、突如太い幹に亀裂が入ったかと思うと、そのまま巨大な口となり、黒色の不気味な蟲を延々と吐き出し続けた。

 キキキキ

 カ、カ、カ、カ

 再び吹き出した朱い風に乗って、化物どもの嗤い声が聞こえてくる。

 恐怖が、三人の身体を氷付けにし、その場に足を縫いつける。

 驚くべき、そしておぞましき景色の変貌は、獅天たちの足許にまで波及していた。グウランドが一転して、蟲の大群に変わったのである。

 全長が一五センチはあろうかと思われる、黒光りする、フナムシにも似た甲虫の大群だった。それが、隙間なくビッシリと辺り一面を埋め尽くしているのである!

 玲花は、文字通り震え上がった。

 虫が嫌いなわけではないのだが、これには参った。いや、参らない人間がいたら教えて欲しいくらいだ。さすがの獅天たちも、目の前、そして足許に展開される悪夢のごとき光景にすくみ上がっていた。

 そして今、その妖蟲の群がぼろぼろと崩れ、落ちていく。

 下へ。

 大地の下に広がる無限の暗黒空間へ。

 この結界内は、地上にありながら、すでに魔界とつながっている。暗黒の結界の向こうに広がるのは、決して人間の知る地上ではなく、やがては魔界へとつながる異次元の虚空――魔物どもの棲む幻想の、魔空だったのだ!

「く…くそったれが!」

 恐怖の鎖を引きちぎって、獅天が前に出る。

「雑魚どもが…てめえらに用はねぇ!」

 自分たち目がけて群がってくる不気味な妖魔の群れに、獅天は怒号を浴びせかける。

「そこ――どきやがれぇ!」

 魔剣〝風牙〟が唸りを上げる。

 刃に宿る風の精霊が、獅天の強力になった能力で活性化し、以前とは比べものにならぬくらい巨大な竜巻をそこに現出させた。

 もの凄い勢いで蟲どもを暗黒の空へと巻き上げていく。それにつれて、足許の大地も、蟲の群れから元の姿へと回復し始めた。

 竜巻は妖魔の胴体ねじり、引きちぎり、無数の肉片と変えて外に吐き出した。

 すると、それらはもとの木や塀、鉄棒などの姿に戻り、破片となって地上に降り注ぐ。

 竜巻は、そのまま勢いをゆるめずに、待ち受ける死人ゴーレムへと向かった。

「行くぞ、玲花、光炎!」

「はい!」

 二人とも元気を取り戻し、前を走る獅天の背中を追った。

 獅天の放った竜巻が討ち洩らした化物を、二人の魔剣が全て引き受けていた。

 といっても、それほど多い数ではなかったが。

 それを何処から見ているのか、

「ちっ。まだ成長しきっていなかったか。世界を形成して間もない妖魔では、弱すぎる」

 そう悔しそうに呟くファレスの声がした。

 完全に成長しきった低級妖魔なら、たとえ胴体を分断されても、その状態で生き延び、それぞれが全く異なった種類の生物として成長を続ける。

 そういったところが、一個体である上級妖魔――すなわち魔界貴族とは異なる複合体の特徴といえよう。

 玲花の細身の魔剣〝月影〟が、深々と大地に突き刺さった。その刹那、ゴーレムの足許から蒼い光が奔流と化して、まるで間欠泉の如く天に向けて噴き上がった。その光の怒濤は、ゴーレムの右腕を呑み込み、肩まで消滅させた。

 ゴーレムの眼が、驚愕に丸くなる。

「…………!?」

 そして、怒りにまかせて、己が身に迫る竜巻を圧し潰したのである。

「ちぃ!」

 再び、風牙が唸る。

 今度は真空の刃だ。

 三日月状の刃はゴーレムの左手の指に身を食い込ませると超振動を起こし、指を五本とも次々に切り落としていった。

 死体で創ったとはいえ、やはりそれなりの硬度は持っているらしく、粘土を切断するようにはいかなかった。

 しかも、腕一本丸ごと消失した右腕とは違い、切り落とした途端に指が再生した。

「ならば、これは!」

 光炎の裂帛の気合いとともに、轟っと炎が渦を巻いた。

 突き出された青竜刀の刃に巻き付いていた火炎竜が、一声かん高く哭いて空中に解き放たれる。

 ゴーレム目がけて紅蓮の竜が飛翔するのと、ゴーレムの動きとどちらが速かったか。

 異様な咆哮を上げ、ゴーレムが横殴りに太い腕を振るう。

 しかし、火炎竜はその腕に炎の胴体をからみつかせ、次の瞬間にはゴーレムの左手首に炎の牙を食い込ませていた。

 異様な臭気が、ものの焼ける音とともに辺りに漂う。死体を焼くときの臭いと音に似ているのは、やはり当然のことだろうか。

 三人の反応は素早かった。

 これを勝機とでも見たのか、三人は一斉に地を蹴っていた。

 溶け落ちた右腕が再成され、左腕にからみつく竜を払いのけるまでに少しでも多く傷を負わせるのだ。

 あざやかな閃光の尾を引いて、三振りの魔剣が死人ゴーレム目がけて振り下ろされる。

「――!?」

 だが、愕然となったのは、獅天たちの方であった。三人の魔剣が、受け止められていたのだ。

 三本の腕に。

 新たに三本の腕が肩や胸から生え、魔剣を一振りずつ受け止めたのである!

 そうだった――

 三人は魔剣を掴まれたまま空中で歯がみし、改めて相手の正体を思い知らされていた。

 そうだ。相手は人外の化物なのだ。

 この結界の内側では、人間の常識など当てはまらないのだった。

 そしてゴーレムは、わずらわしそうに三本の腕を動かし三人を放り投げると、右手に啖いつき、全身を焼こうとがんばっている火炎竜の頭を、胸から生えた腕で握り潰し消滅させた。

 三本の腕が溶けた肩に集まり、一本の腕に変わる。それを空中で見届けた後、三人は体勢を整えて何とか着地した。

 ただ、玲花だけは苦しそうに肩を上下させている。獅天たちと違い、玲花は女だ。体力の歴然たる差が、ここに出ていた。

 いつもならコンビを組んでいる妖がいて、彼女をかばいながら敵を倒してくれた。

 そのために、いつの間にか無意識に妖を頼るようになり、そんな自分が嫌だったから、彼女は必死にトレーニングを重ねた。

 しかし、男と女とでは基本的に内包できる体力のキャパシティが違うのか、以前よりは体力はアップしたけれども、妖の足を引っ張っているのではないかという懸念は消えなかった。そして今回、その妖は魔人伯爵と戦っていて、自分の隣にはいない。

 能力を増幅していってくれたとはいえ、こんな奇妙な魔物が相手では、それも心細かった。

 とにかく、どんな攻撃を仕掛けてくるのか全く不明だし、弱点が分からなければ如何なる攻撃も通じないと来ている。

 全く困った化物だった。

「何をしている、玲花ぁ!?」

 獅天の怒鳴り声が、玲花の鼓膜を振るわせた。

 驚いて顔を上げると、もの凄い形相でこっちに駆けてくる獅天が見えた。

 何があったのか、と顔をゴーレムに向けたとき、玲花は血の気が引いていく音を聞いた気がした。

 どすどすと地響きを立てて、ゴーレムの巨体が迫って来ていた。

 げっという表情の玲花の全身を、漆黒の影が呑み込んだ。かと思うと、はるか頭上よりゴーレムの足が彼女目がけて落下してくる。

 疲れ果てて逃れ得ぬ彼女に、横合いから小柄な影が体当たりしてきた。

 グラウンドを震わせて、巨人の足が地面を一メートル近くも陥没させていた。

 いかに物質を腐らせ、とろけさせる液を出しているとはいえ、これだけ地面を沈下させるには、どれほどの圧力がかかっていたのか。

「大丈夫か、玲花」

 玲花を押し倒したような格好で、獅天が彼女の美貌を見下ろしながら言う。

 茫然と頷いた玲花が立ち上がったのは、それから少し後のことだった。

 それまでのあいだじゅう、光炎がゴーレムの注意を引きつける仕事を受け持っていたのだ。

「ごめんね、もう大丈夫よ」

 獅天の肩を借りるようにして立った玲花は微笑してそう言ったが、呼吸はまだ整ってはいなかった。

 今まで相当無理をして疲労を隠していたのだろう。このことで、攻撃や防御のバランスが崩れたら、獅天や光炎ばかりか妖にまで迷惑をかけてしまう。

 そう思ってのことなのだろう。

 なんと気丈な女なのだろうか。

 美しいだけじゃない。優しく、しっかりしている。自分のことよりも他人への思いやりを持つ女性。だが、それがアダとなることだってある。

 妖よ、お前は素晴らしい女を手に入れたな。

 獅天が妖を探したとき、彼の視界の隅で剣を持った妖が疾り、その直後、小規模な爆発が生じていた。

「――よし、あれをやってみるか。何処まで奴に通用するかわからんが、別々に攻撃するよりはマシだろう。それに、お前の身体の方も心配だしな」

 獅天が、玲花の顔を見て、にこっと笑う。

「ごめんね、心配かけて」

「いいさ」

 笑顔で応えた後、獅天は、必死で一人でがんばる光炎に向かって剣をかかげた。

 火炎竜を放ち攻撃を続ける光炎は、それを見て取れたらしく、ゴーレムの無数の――そう、今や無数の腕がゴーレムの腕や足、指に至る全身から生えているのだ――腕を躱しながら頷いた。

 瞬間、玲花と獅天が同時に別々の方向に走る。

 三人はゴーレムを中心にして、正三角形を描きつつ走り、やがてある所で停止した。

 魔剣が司る方角、すなわち玲花は東、獅天は西、そして光炎が南。

 そこに立って、彼等は聖三角陣を布陣したのである。

 妖が魔剣を携えて〝美槌〟に参入する以前に、三人で妖魔調伏にあたっていた頃に何度か使った技である。

 三人は、各々の定位置につくとゴーレムの方を向き直り、魔剣を地面に突き立て他の二人へ能力の腕を伸ばす。その光景は、まるで原子と原子が結合するかのようだ。

 こうして完成した正三角形は、数ある魔法陣の中で最も基本的な形を成す『聖三角陣』となる。

 必殺の技を行使しつつある獅天たちの顔からは、しかし焦燥の色が窺えた。

 たいていは剣を突き立てるとすぐに三角陣は完成するのだが、今度ばかりはそうもいかなかった。

 魔界侯爵フェノメネウスの魔力が彼等の周囲に渦巻き、技の完成の邪魔をしているためだ。

 その干渉が強すぎるため、能力の腕は通常の五分の一程度のスピードでしか伸びていかない。

 ゴーレムが、焦る三人を嘲笑うかのように睥睨し、口らしき亀裂を、きゅうと耳まで吊り上がらせた。

「――!?」

 そのとき、三人はゴーレムの身長がわずかだが低くなっていることに気づいた。

 奴の足首までが再び融解し、しかし地面に溜まるのではなく、今度は染み込んでいきつつある!

 逃がしはしない!

 玲花たちは、技の完成を急いだ。

 腕は、もうじき結合する。だが、このとき、玲花は精神を集中させすぎていたので、自分の背後に起こった異変に、まるで気づかないでいた。

 彼女のすぐ後ろの地面に、小さな、ゴーレムの身体と同じ色のシミが出来ていたのである。

 やがてそのシミが泡立ち、泉が湧くかのようにどろどろに溶けたゴーレムの肉体が広がっていく。

 直径が五〇センチほどに広がったとき、そのシミが瀑布のように天に向かって噴出した。

 そこでようやく気がつき、愕然と振り向いたときには、すでに遅かった。

 玲花の足許に広がったシミから、その色をした人間が生えていたのである。

 よくくびれた腰や形の良い胸、そして流れるような髪は、玲花自身であった。

 死体という嫌悪すべきもので創られた玲花が、本物の方に手を伸ばす。その光景は、まさに美しきものへの冒涜とさえ見えた。

 一番疲労が激しい相手が玲花であることを見抜いた、ゴーレムの攻撃であった。

 三角陣結界は精神波の乱れにより消滅し、死人ゴーレムは反撃に出た。

 ふくらはぎから腕を生じさせ、獅天と光炎を一薙ぎに思い切り殴り飛ばす。

 一方、自分自身に首を絞められ、腕一本で吊り上げられた玲花は、その呪わしい呪縛を振りほどこうと必死で長い足をばたつかせていた。

 しかし何の効果もなく、玲花の無駄な抵抗を嗤うかのように、偽者は右手に力を込め始めた。

 首を絞める力が徐々に強くなり、玲花は思わず相手のぬるぬるした手首を押さえた。

 視界がぼやけ始める。血液が循環していかなくなったため、視野狭窄を起こしているのだ。

 その眼で、玲花は偽者の顔を見た。

 偽者には顔がなかった。あるのは鋭く裂けた口だけで、そこには唇さえもない。

 やられるわけにはいかない。

 こんな、でたらめな生物に、こんな所で殺されるわけにはいかない――。

「妖――」

 玲花がかすかに呻く。

 勝利の予感に唇のない口が喜悦の表情に歪んだとき、今、力なく垂れた玲花の右腕が、銀光を伴って斜め上方に閃いた!


 ――


〝次で最後だよ〟

 安田圭一が優しい声で言ったとき、眼前の優子は、何故か、どことなく悲しさをまとった笑みを浮かべた。

 何故、そんな笑みを浮かべたのか。

 圭一の想像通りなのか。

 その答えを聞き出せぬまま、二人は死に向かって地を蹴り始めた。

 吸血姫へと変貌を遂げた従妹との戦いの最中に、奇妙な、言葉に表し得ぬ感情が圭一の心の中に生じていた。

 もう一人の義妹に対する、理解できぬ感情だと心の奥に封じていたものが、抑えきれずににじみ出してきている。

 それが何なのか。

 この一刀で全てが明らかになるだろう。

 そして、全てが終わる。

 もはや、そこに怒りはなかった。

 優子の胸中からも、人間に対する怨念、そして憎悪は、それがあったことが嘘のように消え去っていた。

 そう、あったことすら、もうどうでも良くなっていた。

 あるものは――つぐない?

 それも不明だった。ただ一つ。恐らく自分が負けるであろう。このことだけは、優子には明らかなものとして感じられていた。

 近づいてくる従兄の胸へ、自分の手刀が伸びていく。しかし、それが彼の胸を差し貫くとは思えない。

 圭一にもそれがわかった。

 今までの攻撃に比べて、その手刀はあまりにも遅く、そして鋭さを欠いていた。

 俺を殺す気がなくなったらしい。

 そう感じた。

 俺だってそうだ。だが、これは自分自身へのけじめなのだ。

 青木が殺されたとき、あふれ出る「声」とともに誓ったではないか。

 優子が殺されたときも、両親を殺したときも、何度も誓いを繰り返してきたではないか。

「敵は、必ず()る」

 と。

 だから、そのためにも……。

 だけど、俺、泣くだろうなぁ。

 耳許で風が鳴る。優子の放った手刀が頭の横を通り抜けたのだ。

 圭一の目の前に、優子のかわいい胸がある。

 強く、強く杭を握りしめた。

 痛いほどに。

 見上げたとき、彼の義妹は眼を閉じていた。

 唇に微笑がある。哀しい死の微笑み。

 圭一は眼を閉じなかった。

 彼女の最期を全て見届けるのが、自分の義務・使命だと思ったからだ。

 自然に、口から声が迸った。

 どんな声だったか覚えていない。

 その声とともに、圭一は杭を突き出したのである。

 杭の尖端が、少女の肌に食い込む嫌な感触。

 トロリとしたものが、杭から圭一の手に流れてくる。

 凝っと、それを見ていた。

 赤い、赤い血だった。

 そのとき、圭一の頭の後ろで優子が血を吐いた。

 杭が肺を突き破って侵入し、血が気管に流れ込んだのだ。

 大量の血が背中にかかり、シャツを赤く染め上げても、汚いとは思わなかった。

 必死で、こみ上げてくる涙と声を抑えていたが、ついに堪えきれなくなり、圭一は大声を上げて泣いた。

 泣き喚いた。

 優子が死んでしまった。

 冷たくなっていく。そして、自分を抱きしめるように(ねむ)っている。

 俺は、両親ばかりでなく、愛する義妹まで殺してしまった。

 もう、誰もいないのだ。

 今こそわかる。いや、認めよう。

 自分は、二人の優子に、男女間の恋愛感情にも似たものを抱いていたのだ、と。

 一人は、長い間ともに暮らすうちに。

 一人は、この命を賭けた戦いの中で…。

 だが、もう、二人ともこの世にいないのだ。

 涙でくもる圭一の眼に、優子の背中で力なくうなだれる蝙蝠の翼が飛び込んできた。

「……十字架よ…」

 圭一は、祈るような気持ちで言った。

 せめて、この翼と胸に突き刺さる杭を消して、綺麗な身体で、この()を瞑らせてやってくれ。

「――!?」

 そのとき、十字架が仄かに蒼い光を放ち、それが少女の冷たくなった白い肢体(からだ)を包み込んだ。

 宝石のようなきらめきを残し、背中の翼が消え、裂けた肌も跡形もなく治癒していく。

 そして、乳房の谷間に突き刺さっていた白木の杭も、流れ出た血とともに綺麗に消滅した。

 眼に見えぬ名医の為せる技か、胸に開いた傷口も、折れた肋骨も、全て元通りになった。

 これから、どうしようか。

 心の中で、圭一は自問した。

 ここで、優子と一緒に朽ち果てるのも良い。

 独りで生きていくのは寂しすぎる。

 生きていて、何になるというのか。

 しかし、その絶望に対決する声がある。

 忘れたのか。お前にはまだ、友がいるではないか。

 友?

 そうだ。この魔界の外側で、お前の帰りを待ち続けている友だ。彼のためにも、生きるのだ。

「ああ、そうだった。川中が待ってくれているんだ」

 圭一の精神が、絶望という名の混沌の中に沈みゆこうとするのを引き止めたのは、果たして誰の声であったか。

 彼自身の声かも知れぬし、十字架に宿るものの声かも知れない。

 そして、また新しい声が彼を呼んだ。

 頭の中に、直接声が響いてくる。

 それは、今息絶えた筈の優子の声であった。

「ごめんなさい、圭一さん。結局、ずっとあなたを苦しめてしまったわ。あやまってすむようなことじゃないけれど…私…もう一人の優子が憎かったの。だって、彼女は光の存在…私はいつも影にいて…だから…思い知らせてやろうと思ったの…なのに…こんなことになってしまって……」

「優子、もういい。もう、いいんだ」

 圭一は、ぎゅっと優子を抱きしめ、首を横に振った。

「何かが…私に、そうさせていたのよ…」

「…………」

「圭一さん? 私は、もうすぐ消えるわ。――その前に、あなたに返さなきゃならないものがあるの。受け取ってくれる?」

 頭の中で、優子の声がそう告げる。

 何を返すというのか。

 不審に思いながらも、圭一は頷いた。

「ありがとう。――こんなこと言っちゃ、おかしいかも知れないけど――大好きよ。

 さよなら、圭一さん」

 声は、それきり聞こえなくなった。

 孤独――

 不意に、圭一は熱く湧き上がるものを感じ、無言でそれに耐えていた。

 そして、優子の声が聞こえなくなってから数秒後、静寂を別の音が破った。

 ゆっくりと、しかし力強く鳴り始めたそれは、優子の、生命の鼓動であった。


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