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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第5章 安田圭一
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1


 安田圭一は、灼熱する頬に左手を当てた。

 ぬるっとした感触がある。

 頬に一筋の溝が出来ていて、そこから血が流れ出ているのだ。

 その痛みに、圭一は己れの甘さを呪った。

 あれほどの決心をもって、ここまでやって来たというのに、優子の姿を見た途端油断してしまった。

 夢だと思いたかったのだ。

 今さら、何を……。

 圭一は自嘲気味に笑い、指についた血を舐め取ると、頬の血糊を拭い取った。

 優子を見た。

「ふふふ。おいしいわ、圭一さん」

 優子の唇が、妖艶に動いている。

 何かを咀嚼しているのだ。

「――!?」

 圭一の中に、わけのわからぬ怒りが生じた。全身から、芯からブルッと震える。

「気づいたようね。そうよ、あなたのおにく、よ」

 優子が笑いながら言った途端、

「てめえ!」

 自分の身体の一部が喰われたという怒りの衝動に身を任せて、圭一が疾った。

 優子に殴りかかるが、所詮は素人のやること。

 もはや人でなくなった優子にとって、圭一の攻撃を躱すのは、容易なことであった。

 圭一が走りながら繰り出す拳を、軽く後ろに跳びながら、優子が躱し続ける。

 楽しんでいるようだった。

「く…くそっ…」

 息が切れてきた。

 とにかく、優子の動きを封じない限り、白木の杭を胸に突き刺すことなど出来はしないのだ。

 そう思うと、ますます焦燥が高まっていく。

 そのとき、圭一のパンチを躱した優子が、くるりと空中で一回転して瓦礫の上に降り立った。

「ふふ。そんなパンチで、私を斃せると思っているの? あの女の敵を討ちたいのなら、もっと本気でかかってきたら?」

 そう言って、優子は哄笑した。

 肩で息を繰り返す圭一は、情けなくも優子の言葉を認めざるを得ないことに気づいていた。

 皮肉なことだな。

 圭一は唇を歪め、尻ポケットから小瓶を取り出した。聖水の入った小瓶だ。これをもらいに家のそばの教会に向かったとき、建物のまわりは吸血鬼と死人とで埋め尽くされていた。

 そのとき、奴等の上げていた怨嗟の声を、圭一は今でも覚えている。

 うまい具合に、奴等は一人も教会の敷地内に入ってはいなかった。

 神の奇蹟だろう、と思いたかった。

 圭一は裏口から教会の中に入った。

 ひんやりとした空気が漂っている。

 あらゆる入口に寄せられた机や椅子は、魔物の侵入を防ぐ、神父のささいな抵抗だろう。

 それのためにドアが開かないことを悟った圭一は、神父には申し訳ないと思いながらも、十字架の力を借りて体当たりした。

 蒼い光に圧されたドアは一発で崩れ、圭一の前に道を開いた。

 荘厳な雰囲気を、依然として礼拝堂は残していた。正面にはパイプオルガンがあり、巨大なステンドグラスが壁に嵌められている。

 神――イエス・キリスト・インマヌエルを抱く聖母マリア。

 そのとき、圭一は小さな音声を聞いた。

 声というよりも呟きに近かった。

 首をめぐらせ耳をすませ、呟きの出所を探した。

 すぐにわかった。

 正面のパイプオルガンの向こう側だ。

 男――それも年老いた男の声であった。

 おそらくこの教会の神父なのだろう。

 あれだけ派手な音を立てて入って来た圭一に、神父が気づいていない筈がない。

 いや、だからこそ怯えているのだ。

 圭一は、オルガンに向かって歩き出した。

 そして、その向こう側を見た。

 顎ひげをたくわえ、頭の禿げた老神父が、身体を小さくして、震える指で聖書のページをめくっている。

「主よ、

 私を捨てないで下さい……。

 我が神よ、私に遠ざからないで下さい……。

 主、我が救いよ、

 すみやかに私をお助け下さい……」

 そう聖句を唱え続けていた。

 その神父が、圭一の話を聞いて「父と子と精霊の名に於いて」清めてくれた聖水だ。

 圭一は小瓶を握りしめて、優子を見上げた。

 その瞬間、彼女の姿が視界から消えた。

 来た――!

 今度の圭一の反応は素速かった。

 ほとんど反射的に動いていたと言っても良い。

 鳩尾(みぞおち)めがけて噴き上がったアッパーを、圭一は左手で受け止めたのである。

 そして、小瓶を握ったまま、拳を振り上げる。

 ここでまた、圭一は無意識のうちに躊躇してしまった。ほんの一瞬、拳を振るうのが遅れたのである。そして、それを見逃す優子ではない。

 こちらは何ら逡巡することなく、そして容赦もなく、圭一の頬を殴りつけた。

 飛び離れ、ぺっと唾を吐くと、

「ふん。偉そうなことを言っといて、(わたし)を殴れないんじゃ、勝てないわよ、圭一さん」

 圭一は、(こうべ)を垂れていた。

 自分の不甲斐なさを感じ、戦意を消失したのだろうか。

「本気を出せないのなら、私を殺せないのなら、これまでね。殺して上げるわ。――殺されたくなかったら、死ぬ気でいらっしゃい」

 優子が言い終わったとき、圭一が顔を上げた。眼が、落ち着いた光を帯びている。

 決意と覚悟の光だ。

 その時、小さな澄んだ音が、いくつも続いた。

 先ず、小瓶のガラス栓を親指で弾いて抜いた音。そして、その栓が瓦礫の大地を転がっていく音…。

 本気で来るのね。

 優子の唇が、きゅうと吊り上がる。

「――では、そうさせてもらおう」

 怯えも躊躇も、甘えもない声。

 圭一の右腕が閃光を放った。

 刹那、もの凄い絶叫が耳をつんざく。

 優子の全身が、白煙に包み込まれていた。圭一の放った聖水をまともに全身に浴びてしまったために、魔に毒された細胞が悲鳴を上げているのだ。

 優子は、全身を襲う激痛と熱のあまり、その場でのたうち回り、やがて身に着けている衣服を狂ったように引き裂き始めた。

 火傷でもしたかのように、肌が真っ赤だ。

「ああ!」

 優子が叫び声を上げる。

「ああ…あつい! 熱い!」

 その姿のあまりの凄艶さに、圭一は眼を奪われて固唾を飲むばかりだ。

 時折り、眼前でもがく少女を救いたいという衝動にかられる。何故なら、そこにいる少女は、確かに、圭一の知っている優子の美貌を持っていたからだ。しかし、それは出来ない。

 ここで、この()を殺さなければ――

 決意を込めて、圭一がもう片方の尻ポケットから白木の杭を引き抜こうとしたとき、

「おのれ…よくも…」

 優子が凄絶な形相を彼に向け、呪いの言葉を吐いたのだった。

 その眼が帯びる光に気圧され、圭一は思わず一歩退いてしまった。

 もはや、優子の肢体を覆う布は、わずかばかりしか残されておらず、それさえも煩わしいもののように脱ぎ捨てられた。

 全裸の少女が膝をつき、圭一を睨んでいる。

 全身の肌が赤いのは、聖水に焼かれたためだけではない。素肌を見られているという、人間らしい羞恥心のためだった。

 だが、その上にあった美貌は見る影もなく、まさしく鬼女のそれであった。

 恐らく、左眼の辺りに最も多く聖水がかかったのだろう。優子の自慢でもあった綺麗な瞳は無惨にも焼けただれ、赤黒い肉が盛り上がっていた。

 屈辱のためか激痛をこらえているのか、優子は歯を思いきり強く噛み締めている。

 ギリギリと音を立てて牙が伸びた。

 この凶悪な相貌こそ、優子が今まで心の奥底に沈めて生きてきたもの――彼女の暗黒面(ダーク・サイド)なのだ、と圭一は悟った。

 吸血鬼化しているため、肉体の損傷はすでに回復の兆しを見せ始めている。

 のたうち回っているときに苦しみから逃れようと、思わず肌に爪を立てた。

 また、大地を爪で掻きむしり、綺麗に伸びた爪が割れ、血がにじんだ。

 それら多くの傷と聖水による肌の焼け爛れが、急速に回復していく。そして全ての傷が痕形もなく治癒したとき、優子は薄笑いを浮かべて立ち上がった。

 全裸でいることに、もはや何の羞恥心も感じなくなったのか、豊かな乳房も股間もさらけ出して立っている。

 それがあまりにも堂々とした態度なので、何一つ淫猥な感じはなかった。

 美しい…。

 優子の裸身を見て、心の中でそう呟く自分自身に、圭一は驚きを隠せなかった。

 美しい。いや、確かにその通りだ。

 白く滑らかな素肌とあのプロポーションは、そう形容するほかない。だが、今、自分の目の前にいるのは、敵だ。

 殺さなければならない敵なのだ。

 改めて、圭一は萎えかけた殺意に火をつけた。優子が殺されたあの瞬間を思い起こすと、身体の深奥に灯った火が、再びめらめらと大きくなる。

「優子、敵はとるぞ」

 声に出して呟いてみた。

 自分自身への確認を込めて。

「いいわ、来なさい、圭一さん。ようやく本気出来てくれるのね。――殺しがいがあるわ」

 優子は、一種倒錯した境地にいた。

 義兄(あに)と慕った男を、自分の手で殺すのだ。しかも、思い切り残酷に。

 そのときの光景を脳裡に思い浮かべただけで身体中が熱くなり、全身が快感に打ち震えてしまう。

 血を浴びて笑うのにも似た絶頂を、彼女は迎えるであろう。

 圭一は歩き出した。

 ゆっくりと、しかし先刻までのような迷いと弱さは、その歩みからは微塵も感じられない。

 優子とは違い、圭一は血の陶酔など味わっていなかった。

 彼は、修羅と化すことだけを心に念じて歩いていたのである。

「――殺すよ、今度こそ」

 その呟きを聞いて、優子が凄絶な薄笑いを浮かべた。


 宙に舞った月光は剣と化して回転を繰り返し、計算されたような精確さで、切っ先を大地に半ばまで深々と突き立てた。

 位置は、妖と凶の距離を一辺とした正三角形の、もう一つの頂点。

 二人は、互いに位置を入れ替えて立っていた。伯爵が振り返ったとき、まだ、妖は背を向けたままだった。

 茫然としているようだ。

 それもその筈である。彼自身信じられないでいるのだ。今、己れの身に起こった出来事を。

 今、妖の手に魔剣はない。

 弾き飛ばされ、地面に突き刺さっているのがそれだ。

 まだ痺れの残る両手を、妖は茫然と見つめていた。気持ちの整理がつかないのだろうか。

 こんなことは初めてだった。

 今まで多くの敵と剣を交えてきたが、一合目で剣を弾かれたことなど一度もなかった。

 相手がどれほど強敵であってもだ。

 それが今、破られた。

 自分と同じくらいの体格の持ち主で、実力もほぼ互角と見ていた魔人(おとこ)に。

 だが、それで完全に意気消沈するような男でないことは、すでにご承知の通りだ。

 妖は大きく深呼吸してみた。

 気持ちを切り替えるのだ。

 おもしろいな。

 そう思った。

 あっけなく決着がついたのでは、おもしろくないものな。

 首をコキコキと鳴らすと、妖は足を前後に軽く開き、少し腰を落とした。

 空手の構えに似ている。

 妖は薄く笑った。

「くく。まだ、やるというのか」

 その笑みを見て、伯爵が嗤う。

「当然だろう?」

「貴様の魔力は、我等が結界内にあるため、そのパワーの発現を抑えられているのだ。勝てるかな、それで?」

「勝ってみせるさ、伯爵」

「ほざけ!」

 凶が暗黒剣を振りかざして躍りかかって来る。闇が斜めに流れるのを、妖は不動のまま眼で追った。

 猛悪な勢いで、剣は振り下ろされた。

 妖の眉間を割る筈の剣は、だが、妖には何のダメージを与えることもなかった。

 躱したと思った瞬間、妖が動いていた。

 妖の右手が手刀と化して鞭の如くしなったのである。

 見事なくらい綺麗に、手刀は凶の手首に極まり、みしっという嫌な音が聞こえた。

 一瞬、凶の美貌が苦痛に歪む。

 転瞬、妖の足が跳ね上がり、暗黒剣を力いっぱい蹴り上げた。

 手首を痛め、握力が弱くなっていたのか、剣の柄はスルリと掌を抜け、高々と宙に舞った。

 剣はちょうど、妖の魔剣とは対称の位置に突き刺さった。妖にとって、この程度の芸当は朝飯前なのであろう。

 これで立場は対等。

 凶は、まだ痛みの残る手首をもみながら苦笑した。まさしく苦笑いだった。

 どこが結界のせいで弱くなっているというのだ。

 魔力は確かに結界にその威力を奪われているのだろう。だが、その反面、妖の持つ技はますます精彩を放って来ている。

「まいったよ、妖。どうやら俺は貴様を見損なっていたようだ。これからは全力で潰しにかからせてもらうぞ」

「どうぞ御勝手に」

 実に妖らしい返答である。

 何を考えているのやら。

 しかし、凶はその返答に満足した。

 魔界貴族――しかも第三位〝伯爵〟ともなれば、その魔力はあまりに強大すぎて、たいていの相手は最初の一撃で決着がついてしまう。

 しかもその一撃とて思う存分パワーを発揮することはない。

 魔界貴族という称号を持つ魔人たちは、「魔界」という閉鎖された空間にあって最強の軍団――来たるべき戦いに控える魔王軍団のエリートであると同時に、最も戦いに飢えた者たちの集団なのだ。

 そして、その一人である魔人伯爵〝凶〟は、今、この妖との戦いで心から満足できそうであった。

 やはり、妖は彼が今まで出会った敵の中で、最強にして最高の相手だったのである。

 満足そうな微笑みを浮かべ、凶は右手でインバネスの肩の部分を掴んだ。

 勢いよく漆黒の衣を剥ぐ。

 瞬間、小さな闇が妖の視界に広がった。

 妖の双眸が鋭くなり、全身の筋肉に殺気と闘志がこもる。

 ゆらゆらと闇は揺れ、波打ち、二人の中間の大地にわだかまったとき――

「――!?」

 凶の姿は、そこになかった。

 凄まじい殺気が足許で膨れ上がるのを感じた妖は、反射的に上体をのけぞらせていた。

 その顎先を、黒い颶風が吹き抜けていく。

 いつの間に妖の間合いに入っていたのだろうか。妖とて超一流の戦士である。その彼に悟られることなく移動し得るとは、さすが魔人伯爵というべきか。

 だが、そうであったとしても、凶の放ったアッパーを躱すことの出来た妖もまた、恐るべき男といわねばなるまい。

 二人は、再び間合いを取って対峙した。

 二人の唇には、笑みが浮かんでいた。


 その少し前のことである。

 死人男爵ファレスの姿が獅天らの眼前から消え、その数秒後、吸血鬼の死体の溶解液で出来た「沼」から巨大な二本の円柱が突き出された。

 円柱の先端には、おのおの五本の小さな円柱があり、やがてこれが腕であることがわかった。

 その程度の造形なのだ。決して精密、精巧とはいえない。

 少しして、その腕が中ほど――そこが肘なのだろう――で折れ曲がり、大地にべしゃっと手をついた。

 そして、何かを「沼」の向こう側から引っ張り上げようと踏ん張り始めた。

 何が起こるのか。

 ファレスは、下僕を呼び出すと言っていた。

 では、これが、その下僕なのか。

溶解液にまみれた、おぞましい、これが。

 やがて、「沼」の中央に円いものが浮かび、波間に見え隠れし始めた。

 頭か――。

 悪臭に包まれて見続ける獅天たちを睨むように、「沼」の水面に巨人の眼があった。

 赤光を帯びた、吊り上がった眼が二つ。

 頭が出た後の出現は速かった。

 巨人が、その巨大な足で地上に第一歩をしるすまで二〇秒とかからなかった。

 全身十メートルもの巨人が、地上の虫けらを見るような眼つきで、人間の戦士を睥睨している。

「――死人ゴーレムだ」

 ファレスのせせら笑うような声が、直接脳裡に響く。

 何処にいるのだろうか。

 三人は辺りを素速く見まわしたが、ファレスらしき存在は感じ取れなかった。

「私の第一の下僕だ。見事斃してみるがいい」

 しばらくの間、ファレスの哄笑が三人の頭から離れることはなかった。


 次は殺すよ、と言ったときの圭一の声と表情を、優子は生きている限り忘れはしないだろう。

 何せ、自分を心の底から寒からしめた最初で最後の二つなのだから。

 その声は低く、あくまでも冷ややかだ。

 そしてその瞳には昏い炎が宿り、修羅の戦士の表情(かお)がそこにあった。

 戦うために余計な感情の一切を押し殺した、そんな表情だった。

 圭一は、腕を胸前に構えた。

 ボクシングの構えらしいが、やはり素人の構えの甘さが見える。

 本人にそのつもりはないのだろうが、残念ながら隙だらけであった。

 そんな圭一にフッと笑いかけると、優子は次の瞬間、白い暴風と化した。

「――!?」

 その素早さには、人間の追随を許さぬものがあった。まさしく荒れ狂ったのである。

 ときおり腕や足が飛んでくるが、圭一には躱すことはおろか防ぐことすら出来ない。

 そんな圭一を嘲笑うかのように、優子の攻撃は精確を極めた。

 まず、急所を外すことは決してない。

 腹をやられたときは、胃の内容物を飲み下すのに苦労した。

 やがて、腕を上げていることすら出来なくなり、身体が思わずくの字に曲がったとき、不意に暴風が熄んだ。

 耐えきれず、圭一は両膝をついた。

 咳き込んだ。

 知らないうちに肩で呼吸しているのに、ようやく気づいた。

「ふふふ。口では本気だの、殺すだの言っていても、それじゃあ無理ね。私を殺して、あの女の敵を討つなんて出来っこないわ」

 あの女…だと?

 圭一が、キッと顔を上げる。

「くく、あれ、怒ったの? だって、そうでしょう。聖水がなくなった今、あなたに私を傷つけることが出来て?」

 圭一の指が震えながら、地面に食い込んでいる。悔しさのため。そして震えは怒りのため。

 力のない自分が悔しかった。

 何のために俺はいるのだ。

 優子の敵を討つ。それには優子の持つ魔力を超える力が欲しい。

 悔しさのあまり涙がにじんだ。

「泣いてるの? ふふ、弱いわね。そんなんじゃ、あの女同様、私の手にかかって死ぬしかないわね。いっそ、そうしたら?」

 優子の嘲笑が圭一の耳を打つ。

 少年の身体の内側に燃える炎。

 強く、心臓が鼓動を打ち始める。

 何かが覚醒しようとしているのか。

 いつの間にか、首にかけた十字架が、蒼い光を帯びていた。

 圭一の怒りと優子への愛に、十字架が反応しようとしているのだろうか。

 力が、身体の芯から湧き上がってくるようだ。

「これは――」

 何が、俺の身体に起きたんだ?

 従容と圭一が立ち上がる。

 優子の眼には、圭一が蒼いオーラをまとっているように見えた。

「今度こそ…やっと…」

 そう呟いたときの優子の表情には、何故か安堵があった。それが彼女のどういった心理を反映するものなのか不明だ。

 しかし、圭一はそれに気づいていない。

 再び、優子が躍りかかってきた。

 鋭い手刀の連続。

 虚空を切り裂き、コンクリートの塊をも貫く手刀が、凄まじい速さで次々に突き出される。

 右、左、右、左…。

 だが、残像さえも残して移動する超高速の手刀を、今度は圭一は難なく躱していた。

 信じられないことだったが、全て見えるのだ。

 それもスローモーションのように。

 優子は愕然となった。

 圭一が、プロボクサーをも超える技術を駆使し、変幻自在に繰り出される手刀を躱し続けている。

 優子は、圭一の胸元で揺れる十字架に気がついた。蒼い光が先刻とは比べものにならないほど強く輝き、十字架を包んでいる。

 もし、玲花や獅天・光炎が今の圭一を見たら、きっとこう思うだろう。

 妖そっくりだ、と。

 その通りだった。今、安田圭一という一人の少年は、十字架に秘められた力を借りて、超戦士と化したのだった。

 腕が足が、自然に動くのである。

 いつしか、攻守は逆転していた。

 圭一の攻撃の仕方は、まさしく妖そのものであった。確かに、技のレベルは妖のそれに及ぶべくもないが、それでもプロフェッショナル以上のレベルにまで到達していることは認めざるを得なかった。

 優子は、このあまりの変貌に愕然としたのか、攻撃の機会を逸してしまい、防戦一方だった。

 覚醒、という言葉がある。

 人間の持つ魂、その本質ともいうべきものが、古い記憶の中から掘り起こされ、浮上し、人を本当の道に導くことを言う。

 それは、人に与えられた最後の道である、更なる高次元の超生命体への進化の道のこと。

 もしかしたら、十字架の力を借りてではあるが、圭一は進化覚醒しようとしているのかも知れない。

 一瞬、圭一の足が滑って隙が出来た。

 小石を踏んでバランスを崩したのである。

 優子が、ニヤリと笑った。

 攻撃のチャンスと見たからだ。

 そのわずかな間隙を突いて、優子は手刀を放った。

 絶妙のタイミング…の筈だった。

 まさか、それが躱されるとは!?

 しかも、そのまま腕を取られ、懐に入られたのである。

「何っ!?」

 驚愕の声が上へ流れた。

 優子の身体が見事に弧を描き、背中から地面に叩きつけられていた。

 柔道の授業で習った技、背負い投げだった。

「ぐあっ!?」

 大地に叩きつけられた優子の口から、血が繚乱と白い肌の上に散った。

 ゴツゴツした瓦礫の上に裸で叩きつけられたのだから、それも当然だろう。

 そうか…。

 圭一が足を滑らせて隙をつくったのは、〝誘い〟であったのか。

 優子は、口許に付いた血を拭いながら思った。だが、悔しさは不思議となかった。むしろ、よくぞここまでという想いがある。それは、子を思う母親の気持ちに似たものであったのかも知れない。

 優子は四つん這いのまま、圭一を見上げた。そして、微笑する。

 冷たい、あの笑みではなく、愛らしい笑顔であった。

 圭一は、優子の微笑みを見た瞬間、動揺を感じた。

 何だ、どういうんだ?

 優子の笑みから邪気が感じられなくなっていた。

 憎しみも怒りすらない。それどころか――

「安らぎを感じた……」

 まさか、そうなのか?

 圭一は優子に眼で問いかける。

 戦いに疲れたのか?

 死にたいのか?

 それで、あんなにも俺を怒らせようとしたというのか…?

 優子は、しかし、無言で圭一を見つめ返してくる。

 死を哀願しているように思えるのは、錯覚でも何でもなかった。


 殺して、私を。


 声が聞こえたというわけではない。テレパシーとも違う。意識――優子の意思そのものが、圭一の頭の中に入り込み、スパークしたのだ。

 圭一は、尻ポケットに差した白木の杭を抜き取り、握りしめた。

 優子が、自分の想いが通じたのを知って、満足そうに微笑む。

 そのとき、立ち上がろうとした彼女の背中に変化が起きた。

 精神がいくら死を望もうとも、肉体はそれとは関係なく吸血鬼の超能力を発揮していく。

 今度の変化もそれだ。

 肩甲骨のあたりが異様に膨らんでいた。長さ二〇センチほどの皮膚が、まるで畝のようになっている。高さは約五センチ、まだまだ高くなる。

 変形(へんぎょう)が進むにつれ、優子は苦痛に耐えきれずに呻き声を洩らし始めた。

 やがて、そこが血の珠を噴いた。

 圭一には、何が起ころうとしているのか理解できた。恐らく、これが最後の変形だろう。

 ピッと皮膚の裂ける音が聞こえたと思った瞬間、

「ああっ!」

 優子の口から短い悲鳴が迸った瞬間、綺麗な白い肌が裂け、血が奔騰した。

 そして、その背中の二筋の裂傷から漆黒の闇があふれた。

 闇は優雅に波打つと広がり、圭一の目の前で二枚の蝙蝠の翼になった。

 ゆっくりと、優子が立ち上がる。

 軽やかに舞い、少し距離を置いて、音も立てずに舞い降りた。

 きれいだ。

 今は、その感情を圭一は正直に認めることが出来た。

 圭一は杭を胸前で構えて、言った。

「次で最後だよ」

 その優しい声に、優子は何も言わずに頷いた。

 哀しそうだった。


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