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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第4章 魔人、激突
17/24

4

「こ、これは……」

 圭一は、ただただ、絶句するばかりである。

 地上に降り立った圭一は、今、無惨にも崩れ去り、跡形もなくなった文明の中を、周囲に視線を飛ばしながら歩いていた。

 瓦礫と言える原形をわずかにでも留めたものから、土砂の堆積と化したもの――それら全てが、つい先刻まで見慣れた街並みであったものなのだ。

 人が住み、笑い、泣き、恋をし――だが、今や全てが虚しいものとなっていた。

 圭一の心を、死霊たちの声が締め上げる。

 無惨な死に方をした人々が、この結界内には何千、何万といる。そして、彼等の魂は未だ救われることなく、辺り一帯に満ちあふれている。その声が、圭一を責めるのだ。

〝何故、おまえは生きているのだ〟

〝何故、俺たちは死なねばならないのか〟

 と…。

 そして、その声なき声に責めさいなまれながら、圭一は思った。

 魂の救済。

 それが、生き残った自分の使命なのだと。

 それを成し遂げるためには、こうなる原因をつくった優子――彼女の裡に潜んでいたもう一つの人格の消滅を図らなければならない。

 そのことは優子を殺すことにつながるが、圭一は自らその道を選んだのだ。

 もはや、あの懐かしく、楽しい日々は戻らないことに気づいたから。

 そう、もう戻ることは出来ないのだ。

 圭一が足を止めた。

 急速に空が暗くなるのを感じたからだ。

 何が起ころうとしているのか。

 眉を曇らせる圭一に耳に、笑い声が聞こえて来た。

 首をめぐらせ、声の聞こえる方向を探る。

 数秒後、圭一の視線は、小さな雑居ビルほどの高さのある瓦礫の山に向けられていた。

 その頂上。

 そこに、ジーンズ姿の優子がいた。

 瓦礫の山に腰掛け、足を組んでいる。

 おかしそうに笑っていた。

 その笑みの裏に、圭一は邪悪なものの気配を感じた。

 優子の金色の瞳が、ついに現れた獲物を前に、きらきらと輝いている。

 獲物の名は、安田圭一。ただの人間だ。

 自分の手で殺したもう一人の自分が愛した男。奴は、従妹の敵を討つために、ここまでやって来たのだ。

 そして私は、奴を殺す。

「よく来たわね、圭一さん」

 優子の妖艶な声が、辺りに響き渡る。

 吸血鬼と化した彼女は、獲物の血を吸えることが嬉しくてたまらないのだ。

 邪悪な血が騒ぐのである。

 あっさりと殺しはしない。

 血に恐怖をたっぷり染み込ませ、いたぶったうえで殺してやる。

 下僕になどするものか。

 優子が唇を笑みの形に歪める。

 ちらりと牙が覗いた。

「どうやら、大詰めだな、優子」

 圭一は、自分の声が震えているのを自覚した。

 恐怖のためか歓喜のためか、わからない。

「降りてこいよ」

 彼の声は少し小さかったが、それでも充分優子には届いているらしく、優子はうっすらと微笑した。

「いいわよ」

 と余裕ある口ぶりで彼女は答えた。

 そして、よっと言うかけ声とともに立ち上がり、跳ねるようにして瓦礫の山を下ってくる。

 間合いを取って圭一の前に立ち、

「あなたに私が殺せて、お義兄さん?」

 せせら笑うように吸血姫が言う。

「おまえに、兄貴呼ばわりされる覚えはない――この悪魔め!」

 圭一が叫ぶように言う。

「ふん。悪魔か」

 鼻で笑った。

「言ってくれるわね。確かもう一人、そう言った人間がいたわね。――じゃあ聞くけど、ただの人間のあなたに、こんな魔力(ちから)を持った私の気持ちがわかるとでも言うの?」

 一瞬、少女の金色の瞳に涙が閃いたように思えた。が、同情する気はない。

 魂を救うというタテマエのためではない。復讐のために殺すのだ。

「わかりもしない奴等に、悪魔だと罵られたくないわね!」

 言い終わるが早いか、優子は圭一に向かって走り出していた。反応の遅れた圭一めがけて鋭く伸びた爪が繰り出される。

 あまりに絶妙なタイミングであったため、圭一は防御の姿勢をとることが出来なかった。

 優子の手刀が圭一の左頬をかすめて疾り抜けていく。その瞬間、鋭い痛みが走った。


 爆発の中心地となったその高校は、今や魔人たちの巣と化していた。

 奇妙なことに、校舎はほぼ無傷だった。

 学校の敷地を一歩出れば、あの爆発の影響を受け、消滅し、瓦礫と化し、崩壊しているというのに、その建物だけはまるで冗談のように、依然としてそこに建っていた。

 凄まじい妖気が、朱き暴風となって妖たちに吹きつけてくる。

 嗤い声が聞こえる。幻聴ではない。吹き荒れる妖風に潜む妖魔の声だ。

 一瞬でも気を許せば、その瞬間に魂を持っていかれてしまうだろう。

 奴等は、その隙を狙っているのだ。

 地上に降りる途中で空が暗くなり始めたが、別に気にもならなかった。魔界侯爵が、この崩壊した地を結界に包み込もうとしているのが明白だったからだ。

 そう、この地は魔界の戦場と化したのだ。

 妖が、不気味な陰の如く立ちふさがる校舎に眼を向けたとき、彼はその背後に揺らめく黒い炎のような影を見て、一瞬恐怖に身を震わせた。

 馬鹿な…。

 自嘲めいた笑みを、誰にも悟られぬように浮かべる。

 この俺が、何を恐れる必要があるというのだ。そう言い訳がましいことを思ってみたが、背筋を疾り抜けたあの冷たいものの記憶は消えなかった。

 玲花たちは、何も気づいていないらしい。

 だが、妖は確かに見たのだ。

 あの影――頭部に二本の角を生やし、巨大な蝙蝠の翼を持った生物が、らんと輝く吊り上がった双眸と大きく裂けた口を自分に向け、睥睨し嘲弄しているのを。

 まさか、奴か――

「どうしたの、妖?」

 立ち尽くす彼に気づいて、玲花が心配そうに声をかけてきた。

「いや、何でもない。――行こう」

 その声で我に返った妖は美貌を左右に振り、脳裡にこびりついて離れぬ〝影〟を、とりあえず忘却の彼方に追いやった。

 四人は倒壊した校門を入ってすぐ左に折れ、校舎を右手に見ながら歩き、グラウンドに出た。

 暗黒に閉ざされた世界だが、彼等の眼にはグラウンドの様子が光の下のように見ることが出来た。

 魔界侯爵フェノメネウスの化身である邪龍が大地を割って飛び出したため、グラウンドは滅茶苦茶になっていた。グラウンド中にひびが入り、下から持ち上げられた岩盤が山のように隆起している。そして、それら岩盤には、優子が魔人どもを召喚する際に描いた魔法陣が断片となってなお描かれていた。

 まだ、多くの生命を奪う地獄の幕開けとなったあの悪夢の瞬間から半日と経っていないというのに、あまりにも多くのことが起こりすぎて、現実はおろか、時間の感覚さえもあやふやなものに感じられた。

 四人の頬を、再び風が打ち始めた。

 妖気を含んだ朱き風。

 いよいよだ。

 その瞬間、四人の顔が戦士のそれに変わった。

 校舎のグラウンド側に、校舎内に通じる扉が三つある。その中央の扉に、妖たちの眼は向けられていた。

 妖風が激しくうねり、グラウンドの隅に植えられた数本の樹の葉――驚くべきことに、樹が残っていた!――を天空へ巻き上げていく。

 妖の双眸はいよいよ鋭くなり、扉の前に存在する暗黒を睨みつけていた。

 すでに四人は戦闘態勢を整えていた。

 それぞれの魔剣が司どる方角を向き、剣を正眼に構えている。

 妖は北――校舎の方向。

 そこにある暗黒から、凄まじい妖気が吹きつけてくるのだ。だが、妖気はそれだけではない。すなわち、四方からも。

 盛り上がった岩盤の隙間から、樹々の影から、学校を取り巻く塀の向こう側から、そして天地から、何者かが見つめている。

 無数の視線と殺気とが、四人の全身に突き刺さっているのだ。

 ゆらり、と妖の眼前にわだかまっていた暗黒が揺らぎ、伸び、人の形となった。

 漆黒のインバネスをまとった、魔人に。

「ようこそ、我等が朱の宴へ」

 唇を歪め、牙を覗かせて魔人伯爵〝凶〟は言った。その瞬間、妖風が向きを変え、叩きつけるように四人に向かって吹き狂った。

「貴様等は、すでに地獄門をくぐり、魔界へと足を踏み入れたのだ」

 左側――獅天の正面から、その声は聞こえた。

 樹木のそばに、死人男爵〝ファレス〟が立っているのが見えた。

「生き残りたくば、一瞬一秒気を抜くなよ。まわりに起こることから眼を離すな。さもなければ、瞬時にして魂をさらわれるぞ」

 そう言って、ファレスは自分の言葉に酔っているかのように笑った。

「その言葉、肝に銘じさせてもらうよ」

 不敵に笑って、妖が魔剣を一颯した。

 魔剣の刃が、ギラリと剣光を放つ。

 瞬間、死闘の幕開けを感じさせる殺気が満ちた。

 魔剣〝夜魅〟を右八双に構え直し、妖は凶の眼前に立った。

 その双眸は鋭い輝きを放ち、その口許は宿敵に会えた嬉しさに吊り上がっていた。

「ファレス、手を出すなよ。この男との決着は、私の役目だからな」

 凶の声もまた、歓喜に打ち震えていた。

 今、二人の魔人の心を占めるものは、一つの――同じ想いであった。

 己れの持つ魔力――技と術の全てを駆使して戦い得る相手との邂逅。そのとき、戦士は身体の芯から興奮に武者震いするのである。

 それを死人男爵も理解しているため、魔王より下された使命の一つ――魔族復活を阻止する人間どもの消滅(これには三人全員が協力して当たらねばならない)を破ったのである。しかし、この選択は魔空神王サタンとて同じ立場にあればする筈のものであったため、魔王の怒りが下ることはないだろう。

 だからファレスは、

「承知致しております」

 と答えたのである。

 そしてまた、彼もそうだったのである。

 戦うべき相手が自分の眼の前にいることを、彼は理解していた。

 力の歴然たる差を理解もせずに、魔界貴族に立ち向かおうとする愚かな戦士の数、三人。

 彼にとって、眼の前の三人はまさに愚か者でしかなかった。しかし獅天は、獅天たちの勇気――アリが巨象に抵抗するにも似た勇気に免じて、彼等を〝戦士〟と呼ぶことにした。

「さて、そこの三人。君たちの相手は私がしてやろう。死ぬ気でかかって来るのだぞ」

 そういって、ファレスは、ククと笑った。

 神経を逆撫でするような笑い方だ。

 獅天はそう思うと、不意に憤りが腹の底に芽ばえた。

 こんな奴に好き勝手言われて何も出来ぬ自分たちと、奴等の存在に対する怒りだ。

 いつの間にか、光炎と玲花が、獅天を間に挟むようにして立っていた。

 二人の思いもまた、同じなのである。

 このまま一矢も報いずに終わったならば、人間としての誇りを失ってしまう。

 何のための能力なのか。

 確かに一人では魔人の魔力の前に屈せざるを得まい。しかし、三人の能力を結集すれば、何とかなるかも知れない。いや、しなければならないのだ。

 玲花も、そう思ったからこそ、三対一の戦いに臨んだのである。

 この場合、獅天がリーダー・シップをとるのは、三人の間の暗黙の了解といったところだ。

 そして、四人が対峙した瞬間、空気がキンと凍りついた。彼等の全身から放出される妖気と殺気のせいだ。

 三対一の視線が間合いの中央で絡み合い、火花を散らして炸裂した刹那――

 ダン、と獅天が地を蹴った。

 その口からは、雄叫びにも似た咆哮が迸っている。それに続いて、光炎が玲花を抱え上げ、頭上に放り投げた。

 獅天を追って疾った光炎が、彼の脇に追いつく。二人とも、すでに魔剣を構えている。

 魔剣に秘められた神秘の能力を解放するべく、己れの能力を刃に流し込んでいるのだ。

 依然として何の構えも見せぬまま佇む死人男爵まであと数歩に迫ったとき、刃が閃光を引いた。

 振り上げ――気合いもろとも振り下ろしたのである。

 その刹那、刃から火炎竜が放たれ、また無数の真空の刃が生み出された。

 一声かん高く鳴くと火炎竜は獲物を定め、まっしぐらに空中を駆け抜ける。

 変幻自在のコースをとり、真空刃がファレスに向かう。

 しかし、このときもまだ、ファレスは嗤っていた。

 馬鹿にした嗤いである。

 風と炎、二つの能力がぶつかり合ったとき、そこには霊的エネルギーの融合による凄まじい爆発が生じる。そして、その爆発はファレスを巻き込み、その身体をいともたやすく焼き尽くし、粉々に吹き飛ばしてしまうだろう。

 だが、このときは――

「ば、馬鹿な!?」

 ファレスの脇を疾り抜け、魔人の背後でその爆発を待つ獅天は、戦慄を禁じ得なかった。

 爆発が起こらない!?

 まさか。

 だが、事実だった。

 茫然とファレスの後ろ姿を見やる獅天と光炎の身体は、このとき恐怖に震えていた。

 ファレスに、二人の能力が激突する寸前、跡形もなく霧消してしまったのである!

 もう、無駄かも知れない。

 天高く舞う玲花は、魔剣〝月影〟を振り下ろしながらそう思った。

 細身の剣の切っ先が地上のファレスに向けられた瞬間、刃から無数の蒼い閃光が放たれ、虚空を飛んだ。

 その閃光を見たとき、初めてファレスが動いた。

 ただし、右腕だけ。

 獅天と光炎はすでに横に跳び、その場にはファレスだけが残されていた。

 降り注ぐ光の矢は三本を除いて地面や木、塀などに次々に突き刺さった。その途端、まるで強酸を浴びたかのように、矢の突き刺さった箇所が、どろっと溶解する。

 ファレスの魔力は、物質全てを腐敗させ、その結果ドロドロに溶かすのだが、玲花の能力は腐らせることなく、瞬時に溶解させるのである。

 玲花が、獅天と光炎の間に降り立つ。そして見た。

 死人男爵ファレスの右手を。

 手は、確かに三本の光矢を掴み取っていた。

 先ず、最初に飛来した三本の閃光を無造作に掴み取り、それで己れ目がけて飛来する他の矢を全て薙ぎ払ったのである。

 払いのけられ進行方向の変更を余儀なくされた矢が他の矢を弾いて、自分に身には一本たりとも降りかからぬよう、そこまで計算して右腕を振るったのだ。

 その右手も、今、矢が溶解力を発揮して肘の辺りまで溶け落ちてしまっている。

「ふむ――」

 溶け落ちて、赤黒い肉と白い骨が見え隠れする腕を感慨深げに見つめていたファレスが、おもむろに溶けつつある右腕を掴み――

「ひっ!?」

 思わず、玲花が声を上げる。

 ファレスの肩の辺りで、みちっ、めりっと音が鳴った。

 二、三度ねじるように動かして、気合いとともに肩口から腕を引きちぎる。

「――!?」

 これには、玲花たちも声を失っていた。

 もはや不要と判断を下した途端、自ら腕をねじ切るとは、玲花たちには想像もつかなかったのだ。

 信じられなかった。

 ああ、これが魔人――

「ククク。どうした、虫ケラども」

 恐怖に身を震わせる獅天たちは、もはやファレスにとって、敵でも戦士でもなかったのだ。

 嗤いながら、ファレスは溶け続ける右腕を校舎の壁に向かって放り投げた。

「なっ!?」

 壁に激突して砕ける筈の腕を、まさか、校舎に突如横に疾った亀裂が口と化して、異次元の胃袋に呑み込もうとは!?

 玲花たちは、自分たちが人間界の姿を借りた魔界にいるのだと実感した瞬間だった。

 ここは、すでに人間の住まう世界ではないのだ。

「クク。言い忘れていたが、ここは、すでに魔界なのだ。――今、我々の眼に見えている光景は本物ではない。分子一つ一つが魔界にすむ蟲や魔獣どもよ。今は擬態をとっているだけに過ぎん。それに、ここは我等が結界の中。貴様等人間どもの能力など、半分以下になっているわ」

 ファレスのその告白は、そのまま獅天たちの敗北を予告しているようであった。

 能力の半減した彼等に、魔界貴族に勝てる見込みが果たしてあるのか。

 九九パーセント、いや、残りの一パーセントすらないように思われた。

 獅天は歯がみする思いで、死人男爵を睨みつけていた。


「くく。どうだ、妖。彼等に勝ち目はあると思うかね」

 おもしろそうに凶が笑っている。

「さあね。だが、希望はあると思うよ」

「ほう、希望だと? おもしろいことを言う。あの男二人がファレスに向けて能力を放ったとき、奴が何をしたか、知っているな?」

 無論だった。

 妖は、あの瞬間のことを思い出していた。

 あのとき、ファレスが何をしたか。

 何もしていない。ただ――溜め息以外は。

 それは、自分が戦う相手の不甲斐なさへの失望の溜め息であったろうか。その溜め息が、二人の放った火炎竜と真空の刃を吹き消してしまったのである。

「――所詮、人間の戦士はあの程度のものよ。あれで、我等二人を斃して侯爵様に会おうなどと思っていたとはな。――さて、妖よ。お前はどうかな?」

 凶の双眸が、キラリと金色に輝いたとき、妖は、自分がいつの間にか数十の吸血鬼に囲まれていることに気づいた。

 正直、妖は内心感嘆していた。

 この俺に、気配を悟らせずに近づくとはな。

「それを、これから確かめてやろう」

「好きにしろ」

 言い捨て、妖は何と魔人伯爵に背を向けたのである。

「おもしろいことを。――私を失望させるなよ、妖」

「へいへい」

 と手をヒラヒラさせた後、妖は魔剣を一薙ぎした。その美貌には、戦いの予感への歓喜の微笑が浮かんでいる。

 そして、妖の姿は吸血鬼の群れの向こう側に消えた。

「ふむ――。じゃ、かかって来なさい」

 妖がふざけた調子で言ったとき、それに応えるかのように、吸血鬼どもが妖に一斉に躍りかかった。

 いや、それは、妖という極上のエサに群がる喰屍鬼といった光景であった。

 魔剣を構える妖が少し腰を落とした、と見る間もなく、白い美貌は吸血鬼どもに覆い隠されて見えなくなってしまった。

「妖――!?」

 その光景を見た玲花が、思わず叫ぶように言った。

 その刹那だった。

「おおっ!?」

 驚愕の叫びは、その場にいた全員の口から発せられた。


 暗黒の中で、水晶球を見つめる魔界侯爵の爬虫類にも似た瞳が、スッと細くなる。

 吸血鬼が群がってつくった小山の至る所から光の箭が外に向かって伸び、一瞬後、猛烈な勢いをもって吸血鬼どもを吹き飛ばしたのである!

 その青い光は、まさしく、安田圭一の持つ十字架の光と同じものであった。

 やがて光がおさまったとき、全身を焼けただらせてのたうち回る吸血鬼どもの中央に、平然と佇む妖がいた。

「ぬぅ……」

 魔人伯爵の口から、思わず呻き声が出てしまう。

 吸血鬼どもの胸に大きく刻まれた十字架が眼に入ったからだ。

 あの状況で、いつ剣を振るうことが出来たのか。

 凶は、戦慄を禁じ得なかった。

 どうやら、魔人伯爵の下僕の動きを封じているのは、全身を覆う重度の火傷のせいではないようだ。そして、いつまでも受けた傷が治らないのも、あの十字架のせいだろう。

 恐るべし、妖。

 だが、その思いとともに、凶の心の中には歓喜があった。

 凶は見たのだ。

 吸血鬼に覆い尽くされる寸前に妖が浮かべた表情を。それは、妖が凶に見せようとして浮かべたものかどうかわからない。だが、彼の美貌には確かに浮かんでいたのである。

 失望の表情が。

 それは、この程度の奴等で俺を試すのか。

 そう言っていた。

「ククク。嬉しいぞ、妖。やはり、俺の相手にふさわしいのはお前だよ」

 魔人伯爵が興奮に身を震わせ、左手に魔力を集束させた。

 掌を中心にして暗黒が渦巻く。

 ほどなく暗黒が凝集し、伸び、やがて、それは一振りの両刃の剣となった。光を反射して輝くことの決してない、全き暗黒の剣。

「少し、時間をくれないか?」

 妖が言うと、凶がせせら笑いながら、

「別れの挨拶でもするのか?」

「まあ、そんな所だ」

 そう言いおいて、妖は無造作に〝伯爵〟に背を向けた。

 一瞬、背中に剣を突き立ててやろうかという衝動に駆られたが、凶はそれを何とか抑えることに成功した。

 一見無造作に見えて、妖の後ろ姿は一分の隙もなかったのである。

 妖は、ファレスと対峙する玲花たちの前に立ち、そして告げる。

「伯爵と侯爵の相手は、俺がする。――誰も手を出すなよ」

「伯爵の方はそのつもりだが、侯爵までも一人で相手できるのか? そこまで、奴にこだわる理由は何だ?」

 獅天が問い返す。

「わからん。ただ、俺のうちにある何かがしきりに言うんだ。侯爵(やつ)に会え、と」

「ふむ――。ま、いいだろう。どうせ俺たちが行っても足手まといになるだけだろうからな」

 獅天はそう言ったが、悔しい気持ちは隠しきれなかった。だが、如何な獅天といえども、もはや認めざるを得ないところまで来てしまっているのだ。

「だがな、妖」

 獅天が、ニヤッと笑って言う。

「せっかく、お前の顔を立ててやるんだ。必ず、土産をもって帰って来いよ、いいな」

「ああ」

 答えながら、妖は微笑を浮かべるのだった。

 いつも浮かべている冷笑とは異なる、暖かみを感じさせる微笑みであった。

 妖は、そっと右手を差し出した。

 少しためらった後で、獅天がその手を握り返す。

 玲花と光炎が顔を見合わせて、ふっと笑う。そして、彼等も二人の手の上に自分のそれを重ねたのであった。

 妖が背を向けた。

 短い時間であったが、それによって得られたものは大きいように思われた。

 妖の背を追って、玲花が走り出す。

「妖――必ず、生還(かえ)ってくるよね」

 不安そうな口調で玲花が言う。

「ああ。生還ってくるさ、必ずな」

 微笑んで、妖は魔人伯爵の前に戻った。

 伯爵が、冷たい笑みを閃かせて、妖を待っていた。

「――別れの挨拶は、済んだか?」

「ああ。――ただし、行って来ますの挨拶だけどな」

「ほざけ」

 二人は剣を構え、悽愴な気を放って対峙した。空気が音を立てて凍りつく。もはや、二人の間に余人の入り込む隙はない。

――

「いつまで、見とれている気だ? 貴様等の相手は、この俺だろう」

 その声に、獅天たちは妖と伯爵の凄絶な対峙から視線を引き剥がした。

 隻腕の魔人が続ける。

「さあ、死出の旅支度は出来たか? これから、貴様等を地獄へと(いざな)ってやろう」

 刹那、辺りにある気配が満ち、ぐうっとそれがうねった。

 殺気でもない。

 しかし、妖気でもない。

 おぞましい何か――そう、それは死者の気配であった。

 ファレスが死人男爵と呼ばれる理由が、ここにあった。

「けっ。片腕で何が出来る。如何な魔界貴族といえど、このハンデはきつい筈だぜ」

 獅天がうそぶく。

「くく。確かに。だが、何も私自身が貴様等と戦うとは限らんぞ」

「何っ!?」

「たとえば――そう、あの吸血鬼の死体だ」

 ファレスが差した指先には、妖によって斃された吸血鬼の死体が、累々と転がっていた。

 どうやら、声すら出せないような苦しみにのたうちまわり、死んでいったのだろう。

 どれもこれも、すさまじい形相を刻んだまま、固まっていた。それは、見たくもない死に顔であった。

「死体が、どうした?」

「まあ、見ていろ」

 ファレスが不敵に笑ったときだ。

 その死体に変化が起きたのである。

「ああ!?」

 まるで炎であぶられたロウ人形のように、ほんの今まで死後硬直を起こして凝固していた死体が、突如、地面の下から熱せられでもしたかの如く、ドロッと溶け始めたのである。

 焼け焦げた衣類を通して、皮膚であった液体が染み出してくる。

 続いて筋肉…骨…内蔵…。

 目玉が糸を引いて落ち、地面に溜まった液体に浮いた。

 程なく――

 吸血鬼の死体が横たわっていた場所に、いくつもの液溜まりが出来ていた。

 その悪臭の凄まじいことよ。

 どうやら、その臭いは妖たちには届いていないらしい。

 ほんの一瞬嗅いだだけで吐きそうになる悪臭を放ち、ドロドロの液体は地面に吸い込まれもせず、あろうことか意志あるものの如く動き始めたではないか!

 死人男爵ファレスに向かって、アメーバのように一瞬、一瞬姿形を変化させながら。

 その光景を茫然と見送りながら、玲花たちは全身の毛がそそけ立つのを感じた。

 やがて、いくつもの液体はファレスのすぐそばで一つになり、大きな水溜まりを一つつくった。

 その中心に、ファレスがいる。

「何をする気だ?」

「呼び出すのさ」

 そう問う獅天の声は、恐怖に震えていた。

 何が起こるのかわからぬ根元的な恐怖。

 ファレスが嗤いながら答える。

「呼び出す? 何をだ」

「この液体の向こう側は、魔界の我が国に通じている。そこにいる我が下僕(しもべ)をさ」

 三人は初めて気づいた。

 死体の溶けた液体の深さは一センチほどしかない筈なのに、ファレスの足首までが液中に没しているのだ。

 しかし、これだけでは終わらなかった。

 息を呑んで見守る玲花たちは、あまりの驚愕のために言葉を失っていた。

 ファレスの身体が、ずぶずぶとあっけなく液の内側へ沈んでいく。

 その顔には、冷たい笑みが張りついたままだ。

 ファレスが地面に完全に没してから数秒後、耳をふさぎたくなるようなおぞましい音を立てて、巨大な腕が二本、その液の下から突き出されたのである。

「な…んだ…」


 その瞬間――

 時満ち足りと見たか、剣を構えて二人は同時に地を蹴った。

 ぐんぐん、二人が近づいていく。

 裂帛の気合い。

 風切る魔剣の閃光。

 ぎぃん!

 二本の刃が激しく絡み合った瞬間、異常な音がして一つの銀光が弧を描いて虚空に舞った。


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